第十九話
私が異変に気がついたのは、翌日である。
私は、どうにも昨日の興奮が冷めやらず、夕刻になった頃、彼女に逢いにゆこうと思い立った。
そうして、勤める商家を訪ねた時だった。
店主の親父さんに挨拶をし、彼女のことを伝えると、今日は店に来ていないと言われる。
どうやら店主は、彼女が仕事を辞めることもまだ知らない様子であった。
不思議に思った私は、次に彼女の家を尋ねた。
既に夕刻だというのに、軒下には、洗濯物がすっかりと乾いたまま干されていた。
嫌な予感に、胸の奥が騒つく。
玄関先には、小皿の上に残飯が置かれている。
そういえば、彼女が野良犬に餌をあげていると言っていたことを、ふと思い出した。
家の中へ足を踏み入れると、やはり誰もいない。
物が少ない部屋の中で、私が贈った一輪の花が、ちゃぶ台の上に飾られていた。
翌日、翌々日も訪ねたが、事態は変わらなかった。
相変わらず彼女が出勤しないと嘆く店主。
軒下に干されたままの洗濯物。
玄関先の減ることのない残飯。
少し萎れてきた、一輪の花。
一週間が過ぎても、それらは変わらなかった。
彼女を探しもしない店主。
軒下に干されたままの汚れ始めた洗濯物。
玄関先の虫が湧き始めた残飯。
枯れ果てた、一輪の花。
私は、町中を探して歩いた。
同僚にも頼み込み、彼女に関する情報が少しでも入ってこないか血眼になって探し続けた。
それでも、彼女の行方はわからなかった。
その内に、馬鹿な噂を耳にする。
『犬神様が、女人を連れ去った。』
気がつけば、商家のすぐ近くに、真新しい朱塗の祠ができていた。そうして、人々は口々に語る。
『天涯孤独の憐れな女人が、この地の守り神である犬神様に連れて行かれた。』
『彼女はこの祠を大切にしていた。』
『犬神様は商売繁盛の神様。』
『命と引き換えに、私達に富をもたらす。』
人々は、嬉々としてその怪談を語り広げた。
誰もが、代わり映えのない日常に突如訪れた刺激に、酷く興奮していた。
実在する女性が一人行方不明になっているにも関わらず、その噂は瞬く間に広まってゆく。
私は、馬鹿みたいな怪談話に嫌気がさした。
奉行人として守るべき人々が、私の愛する女性の不幸を面白可笑しく囁き合う。
気が、狂いそうになった。
ほどなくして、夜は眠れなくなった。
食事は喉を通らなくなり、水すら飲めなくなった。
月日だけが通り過ぎてゆく。
けれど、いつか彼女が帰ってくるのではないかと、仕事の合間をぬって町中や家を往復する日々が続いた。
そんなある日、仕事に暇を言い渡される。
『お前の今の姿は目も当てられない…。』
そう、上司や同僚から休む様に諭された。
何を言われているのか理解できなかったが、彼女を探す時間が増えたことに、ただ喜びを感じた。
これで、彼女が見つかるかも知れない…。
追い出されるようにして奉行所を後にし、私はいつものように町を見回る。
その道中、一軒の茶屋の前で見覚えのある後ろ姿を見かけた。
それは、彼女が務めていた商家の店主だった。
その隣に、もう一人男性が座っている。
彼女に関する新しい情報が少しでもあればと思い、彼らが座る茶屋の椅子ににそっと近づいた。
声をかける前に、店主達の会話が耳に入る。
「…の通りにしたら、本当に…したんだ。まさに、神のお導きだ。」
よく聞き取れなかったが、店主は何やら興奮しているようだった。
「こんな話してていいのかい?誰かに聞かれたら…」
もう一人の男が、小声で嗜める。
「構いやしないさ。皆、俺が流した噂話に夢中さ。」
「おぉ、怖い怖い…。」
俺が流した噂ー…?
足を止めて、そのまま会話に聞き入った。
「もう一押ししようと思うんだ。お前に、作って欲しい文楽人形がある。」
「なんだい?」
「ガブだよ!ガブ!この櫛を使ってくれるかい?」
「こりゃあ…?」
「あの娘の物だよ。」
「お前!本当に噂の娘に何かしたのか!?」
「まさか!でも、その櫛が本物ってことにして、その文楽人形でこの夏は一儲けしようや。噂の女が取り憑いた文楽人形で語る怪談物語…。こりゃあいい商売になりそうだろう?」
「違いねぇが…、大丈夫なんだよな?」
「あの娘は天涯孤独だろ。騒ぎ立てる様な家族もいない。ちょうどいいじゃねぇか!」
「…そうだなぁ。じゃあ、この櫛は預かるよ。また、連絡する。」
そう話し終えると、隣の男が立ち上がった。
茶代を置き、店を後にする。
店主は、気分が良さそうに茶を啜っていた。
「今の話、どういうことだろうか。」
私は、我慢ならなかった。
突然話しかけられた店主が驚いて振り返る。
「こりゃあ、町奉行様。ただの怪談話に色をつけた商売の打ち合わせですよ。」
はは…と笑う顔に、思わず刀の鞘をぐっと握った。
全身が震える程、頭に熱く血が上る。
間違いなくあの櫛は、彼女に贈った物だった。
「今し方目にした櫛は、確かに行方知れずの娘の物であったように見えた。そなた、それをなんと心得るか。」
私が問いただすと、店主は舌打ちした。
「どうせ見つからない孤独な女の物を金儲けに使ったって、誰にも迷惑をかけとらんでしょうが!」
「馬鹿を言うな。彼女は私の…!」
「私の何ですかい?あ!もしかして妾でしたか!」
「違うっ!」
狼狽える私に、店主は笑いかけた。
「あの娘は忘れた方が良いですぜ。なんせ…。」
"もう、生きていませんからー…。"
高らかに笑う男の声が響き渡った。
「なんてね!あんな女、俺は知りませんけど!」
そう言った男の表情は『知らない』なんて言葉こそが嘘だと、ありありと物語っていた。
私は、この瞬間わかってしまった。
もう、おたまさんが生きていないことを。
そして、この目の前の男が殺したということを。
唐突にそう理解した時、もう己を止めることはできなかった。
素早く刀を抜き、大きく振りかぶる。
店主は大きく目を見開き、後ろに慄いた。
「ひっ…、あんた!なにすっ…!!!」
その後に続く言葉は、もう聞こえなかった。
男の喉元を真っ直ぐに切り裂き、その首を飛ばす。
次の瞬間、体だけになった男の首元から鮮血が吹き出し、目の前を真っ赤に染め上げた。
飛んだ男の首は、ちょうど茶を下げにきた女人の足元に、薄汚く転がり落ちる。
「ぃやぁぁぁああああっっ!!!!」
女人の叫び声が響き渡った。
その叫び声により事態に気がついた周囲の人々は、叫び出す者、驚きで腰を抜かす者、走って逃げていく者と様々だった。
震え上がる人々を後目に、私はゆっくりと歩き出す。
血が滴る刀はそのままに、鼻をつく生臭い鉄の香りを撒き散らしながら、ある場所へ向かった。
辿り着いたのは、犬神の祠であった。
その前に座り込み、着物をはだけさせる。
「神よ。もしも本当にいるのならば、どうかもう一度彼女に逢わせてくれ。」
おたまさん…。
貴女を守れなかった不甲斐ない男を、どうか許してほしい。願わくば、どうか来世こそー…。
最期に瞼の裏に映ったのは、太陽の様な笑顔だった。




