第十二話
「あなたは…?」
僕は、声を振り絞る。
先程鼻をついた悪臭は、一瞬で消えてしまい、もう何も感じられなかった。
額に残った汗だけが、先程まで確かにあった異様な雰囲気を残していた。
僕の問いに、老女が微笑む。
「商店街会長の妻です。黒髪の眼鏡をかけた少年の手伝いをしてるって聞いていたんだけど…。貴方じゃなかったかしら?」
そう言われて、僕は慌てて眼鏡をかけた。
「ぼ…、僕が猫吉です!すみません。いつも会長さんにはお世話になっております。」
硝子越しでも、奥さんの姿に変化はない。
「あぁ、やっぱり!一度会ってみたかったのよ。」
奥さんは、笑って言った。
それから、僕と少し雑談をしながら、手にしていた榊を祠へ飾った。
「あの人ったら、昨日掃除に来たくせに、大事な榊を忘れちゃうんだから…。」
困った人でしょう?と言われ、苦笑いを返すしかなった。けれど、少し怒った様な口調だが、その目は慈愛に満ちており、夫婦仲の良さが伺えた。
榊を飾ると、奥さんは目を伏せて、祠に向かってしばらく手を合わせる。
僕は、その後ろ姿を黙って見つめた。
「犬神様のこと、何か分かった?」
不意に、静寂の中に穏やかな声が響いた。
「それが…、何も分からなくて。」
頬をかきながら、僕は答えた。その言葉に、奥さんはゆっくりとこちらを振り返った。
「それなら、早くここから立ち去りなさい。」
「えっ…?」
突如、先程までの穏やかな雰囲気が一変して、張り詰めた声で言われる。
「どういうことですか?」
「これ以上は関わらない方が身のためよ。」
決して穏やかではない忠告めいた言葉に、僕は首を傾げるしかなかった。
「貴女は、何か知っているんですか?」
思わず、疑問が口を滑る。
奥さんは、もう何も答えなかった。ただ首を振り、悲しげに瞳を揺らしながら、僕を見つめ返す。
「どうか、これ以上調べないで。」
それは、懇願する声だった。
一言だけ言い残すと、じゃあね…、と踵を返して去ってしまった。
僕は、その言葉の真意を掴めずに、奥さんを追いかけることすらできない。
ただ、そこに立ち尽くすしかなかった。




