第一話
僕の一日は、日の出が見える前から始まる。
朝目覚めると、隣の部屋で寝ている先生を起こさないように、そっと身支度を始める。着替えを済ませて鏡を覗き込むと、すっかりと馴染んだ眼鏡姿の僕がいた。
季節は秋から冬へと移り変わり、冷え込みはますます厳しくなる一方だ。
障子を引き、冷たい廊下へ出るのは勇気がいる。
僕は、えいや!と一歩足を踏み出し、床の冷たさを踏みしめながら静かに階段を降りた。
まず始めは、台所へ行く。鉄釜の蓋を開けて、昨晩から水につけておいた米を確認してから火にかける。先生の家の台所は"コンロ"が置かれており、朝の支度は大変助かっていた。米が炊けるまでは時間がかかる為、火加減に気をつけつつ、次の仕事へと取り掛かる。
次は、店先の扉を開けて空気の入れ替えと、外の掃き掃除だ。手早く掃いていると、朝刊紙を配達するおじさんに声をかけられた。
「おはよう猫吉くん!今日も早いねぇ。」
「おはようございます!シゲさんも、朝早くからお疲れ様です!」
朝刊紙を手渡しで受け取りながら、こうして挨拶をするのがここ最近の日課だ。
「いってきます!」と元気に自転車を漕ぎ出す彼を見送ると、僕は台所へと戻った。
台所は、お米が炊ける良い香りが満たされていた。
鉄釜の様子に気をつけつつ、お供の魚を焼き始める。
副菜はぬか漬けの大根を出そうか…。
そう考えながら味噌汁を作り終える頃になると、階段が軋む音が聞こえて来る。ようやく先生が起きてくる時間だ。
先生は、朝が非常に弱い。
いつもは飄々としている彼は、朝ばかりは眉間に皺を寄せながら眠さと闘っている。
けれど、ダイニングテーブルに座る彼の前に、炊き立てのご飯と味噌汁を置いてあげると、その皺が和らぐことを僕は密かに知っていた。
部屋の片隅にある棚には、皐月さんの写真が置かれている。その前にも供え終えると、僕も席に着いた。
「「いただきます。」」
二人で手を合わせて挨拶すると、いつもの静かな食卓の始まりだ。
日中は、先生の作家活動のお手伝いをする。
資料の整理から、時には収集にまで駆り出される。
この前は『妖怪デモクラシー』に特集する『巷で話題☆怪奇・犬神様騒動!』の取材に無理矢理行かされ、巡回中の警察官を呼ばれてしまった始末である。
また、左近時さんとの攻防戦もしばしばである。
締め切り前は、時間稼ぎの為に店先で彼を食い止めるのが僕の役割だ。左近時さんは、いつも僕におやつをくれる良い人だが、一度怒らせると大変だ。先生が締め切りから逃げる為に、無駄に高い身体能力で窓から脱走した時には、般若の如く町を疾走していた。
僕は、決して彼を怒らせまいと心に決めている。
そうして、日が暮れると夕餉の支度だ。
今のところ、献立に対して特段褒められたこともないが、ケチをつけられたこともないので一安心している。
夜は順番に風呂に入り、湯たんぽを持って布団へ潜る。隣の部屋で、先生がゆっくりと本を捲る音を聞いていると、僕はあっという間に眠りに落ちてしまう。
一日しっかりと働いて、夜は泥のように眠る。
毎日がその繰り返しだった。
ほんの数ヶ月前までは、想像できなかった穏やかで賑やかな暮らしがここにある。僕を取り巻く環境は、劇的に変わった。
それでも、決して変わらないこともあった。




