小噺① 〜蕎麦屋の店主の独り言〜
読まなくても本編に影響はありません。
作者の筆休めなので、深く考えずにお読み下さい。
ここは、東京下町の外れにある蕎麦屋だ。店は小さくパッとしないが、蕎麦の味だけは自信がある。
この通りは町中に比べると人通りも寂しい。だが、有難いことに、昔馴染みの常連やご近所さんに贔屓にしてもらっているので客足に困ったことはない。
ただし、二組の客を除いては…の話である。
一組目は、爽やかにスーツを着こなす好青年だった。
短髪だが、少し長めの前髪から甘い面を覗かせる。
一見、人畜無害そうなこの青年は、何故か必ず泣きっ面の人間を連れ立って来店するのだ。それは大体が若い女性であり、蕎麦を啜りながら号泣している。
そうして、皆、口を揃えてこう言うのだ。
「せっ、せんせいが…、あんな人だなんて思わなかった!」
どうやら彼女達は、この青年ではなく『先生』と呼ばれる人に泣かされているらしい。青年は、ハンカチを差し出しながらいつも謝っている。
「代わりのアシスタント先を探しますから。どうか、穏便に。先生だって悪気がある訳ではなくてですね…。」
青年の言葉を彼女達は般若の如く両断した。
「悪気がなくてあんなこと言うなんて、もっと悪いわよ!」
察するに、その『先生』とやらは、相当に口が悪いらしい。また、ある女性はこう言った。
「せっかく夕餉を用意したのに、一口も食べてもらえなかったの!君の作る料理は食べる気がしないですって!」
そう言ってわんわんと泣く彼女は、美しく施された化粧を涙でぐちゃぐちゃにしていた。
なんと『先生』は、口だけでなく根性まで悪いらしい。
こんな美人の作る夕餉に手もつけないとは如何なものか。
あまりにも悲惨なテーブルの状況に耐えかねて、いつもサービスでだし巻き卵を出してやる。
すると、大体の女性は食べた途端にコロッと泣き止んで、今度はその『先生』の美しさについてしんみりと語り出すのだ。最後の台詞は決まってこうである。
「あぁ…、もっとお近づきになりたかったわ。」
なんて罪作りな『先生』だろうか。
もう一組は、時折一人で来店する美丈夫だった。
いつも着流し姿に長い髪を後ろで束ねた彼は、虫も殺さぬ様な清廉な雰囲気を醸し出している。優雅な所作で蕎麦を食べ「お勘定を。」と発する声は、とても耳心地が良い。
そんな彼が、近所の看板も出さない風変わりな骨董品店の旦那だと知ったのは、つい最近のことである。
こちらは静かに蕎麦を食べるだけなので、彼自体は困らない。けれど、あのスーツの青年以上にやっかいだったのは、彼が来店すると他の客が浮き足立ってしまうことだった。
常連の御婦人は、一目彼の姿を見ると目眩を起こして倒れそうになり、近所の女学生は頭に血が上り鼻血を出す始末だった。どうにも彼の容姿は、女性客の目に良すぎて毒な様だ。
俺の女房も生きていれば、きっと騒ぎ立てたに違いない。
そんな二組以外は、至って平凡な客層の俺の蕎麦屋だったが、ある日を境にそれは変わった。
木の葉が燃える様に紅葉し、秋が深まり始めたある日。俺は蕎麦を作っていると、意外な客に驚かされた。
例の美丈夫が、初めて連れと来店したのだ。
幸い早い時間のため、いつもはこっそりと騒ぐ御婦人や女学生はおらず、これから仕事の大工が二人、新聞を広げながら談笑しているだけだった。
さりげなく連れを見やると、どうやらまだ子供の様だった。濡羽色の髪に、体に合っていない着流しを身に付けた少年は、どこか不安そうに大きな黒い瞳を揺らしている。血色のない顔色に、痩せた指先が、時折左袖を掴んで震えていた。
もしや、具合でも悪いのでは無いか…。
そう心配したが、蕎麦はとても美味しそうに平らげてくれて安心する。美丈夫も、少年に合わせていつもよりゆっくりと食べているようだった。
彼は、店を出る前に「ごちそうさまでした!」と元気な声で、丁寧に頭を下げてくれた。
きっと良い子だ。そう心の中で思った。
次に彼らが来店したのは、それから四日後のことだった。それも、また早い時間帯で、店の中は空いていた。いつもは静かに食事をする美丈夫も、少年と時折穏やかに談笑している。二人とも歳の割に落ち着いた口調で、少し意外な気持ちになった。
あんな風に、話すひとだったのか…。
片肘をついて掌に顎を乗せ、少年が食べ終わるのを待つ彼の横顔を、ちらりと見ながら考えた。
そういえば、最近は例のもう一組は来ないな…と頭を過ぎる。すっかり注文の減っただし巻き卵を手早く作ると、彼らのテーブルへ持っていった。
「サービスだよ。」
そう言って、机に置く。
少年は目を丸くして驚いていたが、美丈夫が「ありがとう。」と微笑んで返してくれた。それに片手をあげて応えて、離れようとした時だった。
「よろしいのでしょうか…、"先生"。」
少年の口から聞き慣れた言葉が飛び出して、思わず振り返りそうになるのを全力で耐えた。
『先生』と、今あの少年は言わなかっただろうか。
悶々としつつも、黙ったままカウンターへ戻ろうとする背後で、少年が卵焼きを一口頬張ったようだ。
「わっ…、美味しい!"先生"もどうぞっ!」
軽く振り返ると、少年は目を輝かせて頬を高揚させていた。そして、だし巻き卵の乗った皿を目の前の美丈夫に勧めている。
やはり、『先生』と言ったではないか…。
幾多の女性を泣かせ、蕎麦屋に不穏な空気を運んできていた元凶はお前だったのか!
叫び出したくなる気持ちを、プロ根性で耐え忍んだ。俺は寡黙な蕎麦屋の店主。客の事情に口出しするなんて、野暮以外の何者でもない。
目を瞑り、瞑想していると「お勘定を。」といつもの心地よい声が店に響いた。
それからしばらくして、俺は蕎麦粉の買い出しに街を歩いていた。いつもは店まで届けてくれる馴染みの店主が、腰を痛めて配達できなかったのだ。
蕎麦粉を受け取り、大袋を両手に引き下げて歩いて帰る。ようやく店の近くまで来る頃には、すっかりと日が傾いて、空が夕焼けに染まり始めていた。
あと、少し…、と手に力を込めて重い袋を持ち直すと、後ろから声を掛けられた。
「あの…、大丈夫ですか?」
若い声に振り返ると、眼鏡をかけた書生のような少年が立っていた。仕立てのよさそうな袴や着物に、濡羽色の髪が柔らかく夕日に透けている。見覚えのある顔だが、下町でこんな品の良さそうな少年には会ったことがなかった。少し考え込んでいると、少年が先に声を上げた。
「あっ!蕎麦屋の親父さん!」
その声に、聞き覚えがあった。服装が変わっていて気がつかなかったが、あの子じゃないか。
「ああ、『先生』と蕎麦を食べに来る…」
ようやく合点がいき、そう答えると少年はニッコリと人懐っこい笑顔で笑った。
「店まで運ぶんですか?手伝います!」
そう言って、こちらに手を差し出す。
俺は、慌てて首を振った。
「いいや、客にこんなことはさせられない。気持ちだけで十分だ。」
すると、少年は更に手を伸ばす。
「いいんですよ!どうせ行く方向が同じですから。それに、この前のだし巻き卵のお礼です!」
胸を張ってそう答える彼は、存外頑固な様だ。
渋々片方を差し出すと、嬉しそうに受け取った。
それから二人で並んで歩く。
俺からは何も話さないが、少年がぽつりぽつりと煩くない程度に話を振ってくれ、退屈しなかった。
「…それで、僕もだし巻き卵に挑戦したんですけど、なかなか上手くいかなくて。」
両手で袋を抱えながら、彼はしょんぼりとそう言った。早く作れる様になりたい…と言うので、興味本位で尋ねてみる。
「誰かに作ってあげたいのか?」
少年はこちらを驚いたように見上げた後、少し寂しそうに言った。
「えっと、お世話になっている人の妹さんが、好きだったそうなんです。だし巻き卵…。」
だから、お供えしてあげたくて…。
そう言って、彼は曖昧に笑った。
"お世話に…"と濁したが、十中八九『先生』の事だろう。
なんて、健気な良い子なんだ!
思わず片手で顔を覆い、立ち止まってしまう。
俺の様子に遅れて気がついた少年は、少し先で振り返った。
「どうしましたか?」
何でもない、そう言おうとして顔を上げた時だった。
「もうすぐ、逢魔が時です…。早く、帰らないと。」
その瞬間、こちらを見つめる彼の瞳が、夕日に照らされて紫色に染まった。
突如、俺の背筋に悪寒が走る。
眼鏡の奥で輝いた瞳は、まるでこの世のものとは思えない美しさで、強烈に惹きつけられた。
思わず自分の目を擦ってもう一度向き直ると、彼の瞳は普通の黒色だった。俺の様子に、首を傾げて佇んでいる。
可笑しな見間違いをした自分に苦笑いしつつ、背中に冷や汗が流れるのを感じた。
なんだろうか、仕事のしすぎで疲れたか?
思考を振り払い、慌てて歩き出した。
その後は、あっという間に店に着いた。
二人でカウンターに荷物を下ろす。
「いつも美味しいお蕎麦をありがとうございます!また来ますね!」
丁寧にお辞儀する彼に、思わず言った。
「俺が教えてやろうか。…だし巻き卵。」
すると、少年は驚きで目を丸くした後破顔した。
「約束ですよ!」
そう言って手を振りながら、彼は帰っていった。
やっぱり、良い子じゃないか。
その後ろ姿を見送りながら、自分も久しぶりに女房の仏壇にだし巻き卵を供えようかと思い立つ。そうだ、遠くに住む息子にも手紙を出してみようか。
何となく、そう思えた。
不意に、頭の中に美丈夫の顔が浮かぶ。
『先生』よ!あんな良い子を泣かせたら、俺が蕎麦粉と一緒にこねてやるからな!!
なんだか、息子がもう一人できた様な気分になって、美丈夫に良からぬ念を送ってしまったのは…、ここだけの話である。
「はっ…、くしゅん!」
「あれ?先生、風邪ですか?今夜は、生姜入りの味噌汁を作りますね!」




