第二十八話
目の前の町からは、人々が消えていた。
先程までの雑踏が嘘のように、辺りは静けさに包まれている。
茜色の空には、鴉の鳴く声が響く。
道の遠くに、帰路を急ぐ子供達の笑い声と駆け足が聞こえた。
「これが、生きている人間だけの世界だよ。」
見えたかい?と、背後から先生が言った。
「君の目は見えすぎるんだ。たまには、こんな景色も良いだろう?」
その言葉に、僕は振り返ることができなかった。
目頭が熱くなるのを耐えながら、精一杯にただ頷き返す。声を出そうとすると、喉が震えた。
「夕方の町は、こんなに静かだったんですね…。」
そんな感想しか、言うことができなかった。
微かに先生の笑う気配が、空気から伝わった。
「それはね、妹が使っていた眼鏡なんだ。」
その言葉に、僕は勢いよく振り返る。
夕日の逆光で、先生の顔はよく見えなかった。
「そんなっ、そんな大切な物お借りできません!」
慌てて眼鏡を外そうとした僕の手を、先生はそっと止めた。
「あの日、河川敷の彼女と君の心は、川に連れ込まれた際に一度繋がっていただろう。彼女に矢を射った時に、私は君の走馬灯も見た。」
まるで、内緒話でもするかのように囁かれた。
僕は自分の過去を知られてしまったことに、驚きと絶望感に苛まれた。緊張で体が固まってしまい、喉は張り付いた様に声がでなくなる。
そんな僕に、先生が言った。
「どうやら、君の目は些か良すぎる様だ。」
穏やかな声が、鼓膜に響く。
予想していなかった言葉に、僕はようやく声が出せた。
「…良すぎる?」
言われたことの無い表現に、戸惑いが隠せなかった。
先生は、静かに頷いた。
「だから、あの子の眼鏡を貸した。その硝子には浄化した水晶を溶かし込んである。また、護符程の効力はないが、魔除けの術もかけておいた。多少の悪いものからは、君が見つかり難いようになっている筈だよ。」
物は使わないと勿体無いだろう?
そう言った先生の表情は朗らかだった。
僕は、湧き出した疑問を彼にぶつけた。
「どうして…、どうしてそんなに良くしてくださるのですか?」
その言葉に、先生は首を傾げた。そして、顎に手を当てて考える様な素振りをする。
やがて、その唇から言葉が紡がれた。
「あの子と同じ瞳だからかな。」
伸ばされた指先が、眼鏡の縁に一瞬触れかと思うと、すぐに離れた。
「深い黒の奥に、紫炎が宿っている。あの子もね、こんな良い瞳を持ったせいで苦労したんだ。」
そう語った先生の瞳は、僕の瞳を見ながら、どこか遠くを見ている様だった。何と言ったら良いか分からずに、僕の口は言い淀む。
すると、先生が突然手を叩いた。
パンッ!と響く音に驚いて、思わず肩を跳ねさせる。
先生は、そんな僕を見てニヤリと笑った。
「まぁ、うちの妹の方が百倍美人さ。君みたいに、童顔でチンチクリンじゃなかったしね。」
「…っ!チンチクリン!?」
何やら聞き捨てならない言葉が飛び出してきた。
「もう十五なんだろう?可哀想に、まだこんなに身長が伸び悩んでいるなんて…。」
そう言いながら、先生は手と手を合わせて南無南無と唱えた。それは陰陽ではなく仏教では!?
歩きながら密かに気にしていたことを揶揄われて、僕の怒りはあっという間に沸点に達した。
「もう!今に先生の身長なんて、あっという間に抜かしますから!僕は大器晩成型なんです!!」
もう、何の話をしていたのか曖昧になる。先程までの空気は、すっかりどこかへ消えてしまった。
「未来に期待しているよ…、ぶぶっ。」
笑いを堪えながら先生は歩き出す。
僕は腹を立てながらも、追いかけようと一歩踏み出した時だった。
その後ろ姿は、一瞬誰かに重なった。
それが、誰か分からずに僕は目を擦る。
『ぼくは、ここにいてもいいの?』
不意に頭に響いたのは、幼い日の自分の声だった。
途端に、足が動かなくなり、その場に立ちすくむ。先生の背中が、どんどんと離れていくのを目で追った。
『お前が死ねば良かったのに!!』
そうだ、僕はー…。
僕はー…。
「猫吉くん。」
気がつくと、先生が振り返っていた。
夕日に照らされた赫灼の瞳が僕を射抜く。
「早くおいで。」
その瞬間、頭の中の声は消えた。
先生はその場に佇み、僕が歩き出すのを待っている。
「僕は、いてもいいですか?」
どこに、とは言えなかった。
すると、先生は大きな溜息を一つした。
「もちろん。早く、うちへ帰ろう。」
気がつくと僕は、真っ直ぐに駆け出していた。
頬が濡れていても、少しサイズの合わない草履が脱げそうになっても、もう足は止めなかった。
頭の中の声は、今はもう聞こえない。
やっと、見つけた。
僕の帰る場所をー…。




