第二十三話
瞼の向こうに柔らかな灯りを感じて、僕の意識は浮上した。
瞼を上げると、二度目となる天井が見えた。
部屋は夜闇の中だったが、行灯の灯りが柔らかく部屋を灯している。自分の体を触ってみると、ずぶ濡れになった着物は新しいものに着替えられており、冷え切った筈の体は温かい布団に包まれていた。
僕は、どうしたんだっけー…。
天井を見ながら、ぼんやりとあの河川敷でのことを思い出す。
僕は、あの後これでもかという程泣いた。
先生は、僕が泣き止むまで黙って傍にいてくれた。
ひとしきり泣いて…、それから?
ぼんやりとした記憶が、少しずつはっきりしてくる。
そうだ。疲れと眠気が一気に押し寄せて、瞼が重くなるのに抗えなくてー…。
僕は、自分が寝てしまったことを思い出した。
泣き疲れて眠るなど、まるで幼な子ではないか。
顔が火を吹くように熱くなり、僕は慌てて布団から起き上がった。
途端に、くらりと軽い目眩をおこす。
部屋を見渡すと、布団を背に机に向かう先生の後ろ姿が見えた。薄く開けられた窓から吹く隙間風に、煙草盆に置かれた煙管の煙がゆらゆらと舞っていた。
「…せんせい?」
僕が呼びかけると、先生は振り返る。机に置かれた行灯の灯りは揺めきながら、彼の顔を照らしていた。
「おや、起きたのかい?」
そう言って、先生は手にしていた万年筆を机に置き、僕の布団の傍へとやってきた。
「全く、君は世話が焼けるね。」
「…すみません。」
あまりの恥ずかしさに顔をあげられない僕の額に、先生が掌をおいた。やはり熱があるね…と呟く。
「何か食べられそうかい?」
そう訊かれて自身の腹に手をおいてみたが、どうにも食欲は湧いて来ない。ふるふると首を振ると、先生は溜息を一つ吐いた。
「それなら気付けになる飲み物を用意しよう。台所へ行ってくるから、君は横になっていなさい。」
そう言って、先生は部屋を出て行く。階段を降る音を遠くで聞きながら、僕は言われた通り横になろうとした。
その時、窓から風が吹き込んだ拍子に、机にあった原稿用紙が舞い落ちそうになった。
僕は慌てて布団から出て、机の傍へ駆け寄る。先生の万年筆を手にとり、重しに置こうとすると、原稿用紙の一文が目に入った。
『彼女は、幼い頃より彼への恋心を胸に秘めていた…』
どうやら、執筆していたものは恋愛小説のようだ。
僕は、気恥ずかしくなり目を逸らした。
さっさと万年筆を置いて、横になってしまおう。
そう思った時、『真珠の指輪』という単語が目に飛び込んできて、ついつい続きを目で追った。
それは、少女が幼馴染の少年に恋をする話だった。
やがて、少女は大人の女性へと成長し、青年となった彼と結ばれる。だが、その矢先、彼に断れない縁談が舞い込んだ。それは、彼にとっても、彼の家にとっても、とても条件も待遇も良い縁談だった。青年は、悩んだ末に女性との結婚を諦めて、家族のために縁談を受け入れることを選ぼうとする。やがて、思い出の河川敷へ、女性を誘う。そうして、彼女には受け入れ難い申し出を突きつけた。
僕は、読み進めながら指先が震えた。
これは、まさかー…、と僕は想像し得る結末を恐れながらながら、原稿を捲ってゆく。
しかし、最悪の結末は訪れなかった。
彼女は、彼と押し問答になった時に告げた。己の腹に二人の稚児がいることを。その瞬間、彼は自分が間違った選択を選ぼうとしていたことを知る。そうして、心から後悔して彼女に謝罪した。その後、青年の家族を説得して、三人で生きていくことを選んだー…。
二人が夕日の中で微笑み合い、物語が終わった。
原稿の最後に、小さなサインがあった。
『神宮寺 皐月』
その名前を指先でなぞった時、背後から肩にぬくもりが伝わる。視界の端に入った生地を見て、先生の羽織を肩に掛けられたのだと分かった。
振り返ると、彼は困ったような顔をしていた。
「秋の夜長は、読書には良いが体が冷える。」
そう言うと、僕の手から原稿をゆっくりと抜き取った。そうして、こちらに湯呑みを渡す。
「卵酒だ。飲むといい。」
そっと受け取ると、器からじんわりと温かさが指先に伝わった。湯気で、視界が揺らぐ。
「左手を、出しなさい。」
そう言われて、物語に想いを馳せたまま、ぼんやりと左手を差し出す。
先生は、原稿用紙を一度畳へ置くと、湯呑みと一緒に盆に乗せてきていた鋏を取り上げて、こちらへ向き直った。
パチン…。
静かな部屋に、病院で付けられたタグバンドが切れる音が小さく響き渡った。
「脳病院なんて、ヤブ医者ばかりさ。」
そう言われて、蕎麦屋の男達の会話が頭によぎる。
『何でも脳病院の患者だったっていうじゃないか。』
タグバンドは、あっさりと切り離されて畳へ落ちた。
「あの時、聞こえていたんですか?」
先生は、何も答えなかった。
ハサミを盆へ置き、原稿用紙を持ち直す。
「先生が、神宮寺皐月先生なんですか?」
そう尋ねると、先生は原稿用紙を持ち直す手を止めた。そっと、瞼を伏せる。
「その答えは、'はい'であり、"いいえ"かな。」
長いまつ毛が頬に影を落とし、微かに震えていた。
「神宮寺皐月はね、妹の名前なんだ。」
そう言って、先生はこちらを見る。まるで、泣いているかのように見えた瞳は乾いていた。
「君は、黎明の意味が分かるかい?」
唐突に、そう投げ掛けられた。
「…夜明けのことですよね?」
一作目のことを思い出しながら答える。
「そうだね。…だが正確には、日の出とは意味合いが違う。黎明は、朝方に変化してゆく夜空をさすが、そこに日の出はまだ差し込まない。」
僕は説明を聞きながら夜空を思い浮かべた。
夜空が暗から明へ変化していく。きっと色が混じり合ったそんな空だろうかー…。
先生は、ゆっくりと口を開いた。
「妹はね、日の出を見ることが叶わなかったんだ。」
その言葉に、僕は息を呑んだ。
「私は、たった一人の妹に、何もしてあげることが出来なかった。好いた男と結婚させてやることも、朝日を見せてやることも。…あの子はね、黎明の時を越えることが出来なかったんだよ。」
静かな先生の声が、部屋に響く。
「弓で射ると、魂の走馬灯が私にも見えるんだ。この世は、どうしても辛いことが多すぎる。…だから、私は筆をとった。」
彼の視線は、己の掌に向けられていた。
「例え、つまらない結末だったとしても…。物語の中でくらい、ご都合主義だっていいじゃないか。」
憧れの皐月先生がこんなで、がっかりしたろう?
先生は、重い空気をふっと吹き消すかのように、そう呟いて微笑んだ。
「いいえ…っ、いいえ…っ。」
僕は、湯呑みを強く握り締めて首を振った。
「僕は、ご都合主義な神宮寺皐月先生の物語だから、好きなんです。」
もう乾いていた筈の涙が、一筋、僕の頬を伝った。
先生は、原稿をバサリと音を立てて机に置き、振り返らずに僕に言った。
「ほら、もう飲んで寝なさい。」
子供のように諭されて、僕は卵酒を一口含む。
それは、どこまでも優しい味がした。
こうして、僕の長い一日は幕を下ろしたのだった。




