第二十一話
「私の、指輪ぁあああ!!!」
悲痛な叫び声が大地を揺らす。
女の体から、禍々しい黒い渦が噴き出した。
「返して!返してぇえええ!!」
女が叫びながら、こちらへ駆け出して来た。
逃げなければ!
そう思うのに、女の気迫に当てられた僕の足は震えて動けなかった。このままでは、今度こそ殺される。本能が、そう告げていた。
せめて、先生だけでもー…。
僕は、出来る限りの力で叫んだ。
「せ、先生…!逃げて!!」
そう言って、先生を見上げた時だった。
突如何もない地面から、風が舞い上がる。
「臨 兵 闘 者 皆 陣 列 在 前」
僕には分からない言葉が、透き通るような穏やかな声によって紡がれた。
先生は、肩に背負っていた大きな漆黒の弓を下ろし、右手の人差し指と中指を自身の唇にあてる。
「六根清浄 急急如律令」
息を吹きかけるかのようにそう唱えると、その指先で矢の背をゆっくりと撫で上げた。その瞬間、赫く火が灯ったように矢が煌めいた。
その矢を弓にあてがう。
大きく弦を引き、ためらいもなく矢を放った。
鋭い閃光が常闇の中を駆け抜ける。
一瞬の出来事に、僕は息を止めてただ魅入った。
こんな状況下にも関わらず、馬鹿みたいに、その閃光がひたすらに美しいと思った。
「ギャァアアアアアッッ…!!! 」
耳を劈くような叫び声に我に帰り、聞こえた方を見やる。すると、女の胸に矢が刺さっていた。
「ふむ。久方ぶりのせいか、頭を狙ったつもりが失敗したな。」
その場に倒れて蠢く女を見ながら、先生が首を傾げて呟いた。女の苦しそうな呻き声が、尚続いている。
「ゆ…びわ。わたし…の、ゅびわ。」
苦しそうな声に混じり、言葉が聞こえた。
「あんな仕打ちを受けても尚、こんな指輪に執着するのか。」
先生が、眉を顰めて指輪に視線を落とした。
月光に、真珠が美しく輝いている。
「先生…。彼女は、どうなりますか?」
気がつくと、僕の口は言葉を紡いでいた。
先生はこちらを振り返り、静かに言った。
「あのまま、消えてなくなる。」
その言葉通り、彼女は足からボロボロと崩れ始めていた。
『求婚もね、ここでしてくれたの。こうして、夕焼けをみながら指輪を渡してくれた…。』
彼女の言葉が頭をよぎった。
夕日に左手を掲げた姿は、どうしようもない愛おしさを滲ませていた。その横顔は、切なくも一心に誰かに心を寄せる、ただの乙女だったではないかー…。
僕は、たまらなくなって、震える足に力を入れて立ち上がった。
「先生!指輪を貸してください!」
僕が手を出すと、先生は驚いて目を見開く。
真っ直ぐに見つめ返すと、その瞳を細めて、溜息を一つしてから指輪を渡してくれた。
僕は、急いで彼女の元へ駆け寄った。
彼女の体は、もう胸まで消えていた。うつ伏せになって、低い呻き声をあげている。
「かえして、かえして、かえして、」
その手は、必死に何かを掴もうとしていた。
「返すよ。」
僕の声に、彼女は顔を上げた。
その顔からはもう禍々しい気迫はない。顔に垂れ落ちた長い髪の隙間で、大粒の涙が長いまつ毛をつたって零れ落ちた。
「…返して、くれるの?」
その声は、僕に恋を教えてくれた彼女の声だった。
「うん、返すよ。」
僕はそう言うと、彼女の左手をとり、薬指に指輪をゆっくりと嵌めてあげた。
彼女は、ボロボロと崩れていく手を月に掲げて、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう…。」
それが、彼女の最後の言葉だった。
次の瞬間、その体は完全に崩れ落ちる。
塵のような残像が、夜風に揺られてやがて消えた。
静寂の中、美しい指輪だけが、冷たい地面に輝いていた。




