第十二話
「お腹にね、彼の稚児がいたの。」
河川敷に静かな声が響く。
道行く人もおらず、僕と彼女の二人きりだった。
いつの間にか、眩しいくらいの夕日は山の向こうの影に隠れ始め、あたりは夕闇に染まろうとしている。
彼女は大事そうに自分のお腹に手を当てて言った。
「あの日、彼にこの河川敷に呼ばれたの。きっと、祝言の話だと思ったわ。彼に、稚児のことも教えてあげようと思って、楽しみに会いにいったのよ。…でも違ったの。」
「…え?」
「やっぱり、この結婚は無かったことにして欲しいと、そう言われたわ。」
「そんなっ!」
僕は、驚いて声をあげた。
彼女は、苦しそうに顔を歪ませる。
「働きにでていた先の呉服屋の娘との縁談話が持ち上がって、断れないと言われたわ。嫌だと言ったら、自分の店を持つチャンスだから分かって欲しいと頼み込まれたの。…でも、私は許せなかった。」
そして、自分の左手の薬指を右手でさすった。
「彼、私に言ったの。指輪を返してくれないかって。無理矢理、指から外されそうになって揉み合いになったわ。私、嫌だったの。どうしてもこれだけは渡したくなくて…。揉み合っているうちに、指輪は河川敷のどこかへ投げ出されてしまった。拾いに行こうとした彼の足に縋って、引き留めたの。私のこと、愛していなかったの?って。そうしたら彼ね、私の髪を掴んで、そのまま川の水へ私の顔を押し付けたのよ。」
ヒュッと息をのむ音は、彼女と僕、どちらのものだったのか。
「そして、私は死んだの。」
夕日は、その姿を消した。
辺りは完全に夕闇にのまれて、水面は輝きを失いどこまでも仄暗く姿を変えた。僕の足は、その場に縫い付けられたかのように、動けない。
目の前には、もう先程までの優しい目をしてお茶目に微笑む彼女は、いなかった。そこにいるのは、哀しみと怨念に飲み込まれた女だった。
女の唇が艶かしく紡いだ。
「ねぇ、貴方は優しいでしょう?だから、私と一緒に来て欲しいの。」
ゆっくりとその歩みが、僕に迫る。
動け!逃げるんだ!
そう強く思うのに、頭の片隅でもう一人の僕は、諦めて呆れて僕自身を嘲笑っていた。
どうせ逃げられない!諦めろ!
お前は、もう、ひとりぼっちだ!!
そうだ。僕は一人だ。
僕を、守ってくれようとしていたじいちゃんは、もういない。
彼女の冷たい指先が、僕の頬に触れる。
「ねぇ、いいでしょう?」
そう声が聞こえた瞬間、その指先と同じ冷たさの川の中へ、僕の体は引き摺り込まれた。
冷たい水が、耳や口に一気に流れ込む。
でも、僕は息苦しさよりも、胸が苦しかった。
冷たい水からは、彼女の怒り憎しみと同じくらい哀しみの気持ちが、僕の心へ流れ込んでくる。どんなに辛かったことか。苦しかったことか。
僕の心も、壊れそうだった。
そして、僕の頭の中で誰かが言った。
『どうせ、お前は普通には暮らせない。』
それもまた、女の声だった。
あぁ、また僕はやってしまったんだな。
どうせ僕は、僕は、僕はー…
僕の体は、川の深くへゆっくりと沈んでいった。




