安らう【伍】《ヤスラウ【ゴ】》
お昼すぎてしまいました。
更新します。
荊軻の予想に反してその日の昼前には紳は務めに戻っていた。しばらくは寝所から出てこないと思っていた、と報せを持ってきた紳に言うと、そうしたかったんだけどね、と苦笑する。
「子どもが四人もいたんじゃそうもいかなくてね」
肩を竦めて見せる紳の顔は笑っている。なるほど、と荊軻も苦笑した。腕白な子が三人いるのだ。どんなに女官達や妲己がみてくれていても、父母が宮にいるなら側にいたいのだろう。
「どうしたって子ども達も寄ってくるからね。ある程度で収めるしかないよ」
「まあ、そうなりますよね。長はお疲れではありませんか?」
笑う荊軻に、悧羅のせいだもん、と紳は手を挙げてみせた。
「近頃は子ども達と一緒になって意地悪するんだから。責任取ってもらわないと、俺が可哀想でしょ」
「悪戯に紳様を惑わせて、面白がっておいでなのですね。良いではないですか。そのようなお姿など500年お側におりますが見たことなどございませんよ」
だろうね、と紳はまた笑う。500年前だって見たことなかった、と嬉しそうに言って、妲己は懐かしそうだよ?、と付け足した。妲己が言うには悧羅と妲己で過ごしていた時は、何かにつけ悪戯されていたという。一緒に過ごしていた刻は短いものだったけれど、紳もそんな悧羅を見たことはなかった。
“濡れるから嫌だと申しても水をかけたり、濡れた手で触られたりなどはいつものことだったぞ。まあ、お若かった、ということもあるだろうがな”
昔を思い出したのか小さく笑いながら言う妲己に紳も、へえ、と驚いたが、少しばかり昔に戻っておられるようだ、とも言われて嬉しくもあった。それだけ気持ちを許してくれている、ということだろうから。
「まあ、まだまだ刻はあるし。ゆっくりいくよ」
小さく笑う紳に、そうですね、と荊軻も頷いた。紳が精気を分けているので、近頃の悧羅は体調を崩す事も無くなっている。長として大きな能力を使うことは無くても、里全体を強固な結界で覆っているのだから少しずつ生命を削っているのは分かっていた。時折伏せっていたのも、その体力を回復させるためだったことも荊軻は知っている。
けれど、紳が側にいるようになってから顔色も良く結界を維持していても疲労も見えない。それは王母から玉を賜る前からの事だ。玉を賜って甘んじて受け入れた悧羅の中には余剰の精気もあるだろう。何より紳が悧羅の精気を枯渇させることはしないはずだ。
そう考えれば、あと数百年だと思っていた悧羅の御世も、つつがなく定命までは続くと思われた。確かに刻はまだまだある、と言えるようになったのだ。
「ああ、そうだ。悧羅がそろそろ荊軻が報せを出したがるんじゃないかって言ってたよ?」
思い出したように言う紳に、おや、と荊軻は笑う。
「よくお分かりになられましたね。本来であれば今日の朝議で長に確かめていただいてから、と思っておりましたよ」
荊軻の言葉に、それは悧羅が悪いから、と紳が念を押す。
「俺のせいじゃないからね?叱るなら悧羅を叱ってよ?じゃあ、明日の朝議で荊軻が話すって伝えておくよ」
手を振って部屋を出て行く紳に、お願いいたしますね、と荊軻が声をかけた。入れ違いに枉駕が報せを持って入ってくる。入り口でかち合って、収まりましたか?、と笑われた紳は、だから悧羅のせいだってば!、と笑って去っていく。長のせいだそうだ、と笑いながら入ってきた枉駕から報せを受け取って荊軻は目を通し始める。
「…なんでも長に意地悪ばかりされると惚気ておられましたよ。全く紳様は長以外には目もくれておられないのですから」
「ほう?長の意地悪な姿など見てみたいものだな」
笑う枉駕に、それは無理でしょう、と荊軻は報せを読み終えて巻き取り始める。
「紳様だからこそ、でございましょうから」
「確かにそうだな。我らが知る長のお姿などほんの断片に過ぎないのであろうよ。でなければ、四人も御子を授かるなど誰が考えておっただろうな」
「そうですね。媟雅姫だけでも驚かされたのに、まさか四人とは…。ありがたいものです。ですが、あの様子ではまだまだ御子は増えるやもしれませんね」
笑いながら報せに不備はない、と荊軻は枉駕に伝えた。
「良いではないか。睦まじいということだ。お二人の御子は見目麗しいのでな。引く手も数多であろうよ」
そうですね、と荊軻も微笑んだ。一人くらい自分の子の伴侶として迎えたいくらいたが、紳と悧羅くらいの強さを持っていなければ御子らは、うん、とは言ってくれないだろう。姫君方は紳でないと契らないと言っているらしいし、媟雅を嫁にもらう気でいる舜啓も必死になっていると聞いた。
「どちらにせよ、まだまだ先の話でしょうから。それまでは私たちと遊んで頂かねば。待ち望んでいたのは民達だけではないですからね」
特に栄州殿だな、と笑う枉駕とともに荊軻は務めの部屋を出た。
明日には報せが里を巡る。
大きな混乱が起きるとは思っていない。それだけ民達は悧羅に信を置いているし、それだけのことを500年、悧羅が耐えてきたのだから。
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朝議はつつがなく進んでいった。今朝は子ども達もついて来なかったので、郷里に戻るといった話も行う事ができた。ただ。どこにあるのかは悧羅しか知らない。
「…どこ、と言われてもの。どうにも言葉にするは難しゅうてな。まずは地上ではない、と、だけ言えるか。恐らくだが、あれは違う場にあると思う。王母は妾達がいつ戻っても良いように女仙に手入れをさせておる、と言うておった。見せてもらうた場は穏やかで広大な緑の土地であったでの」
「では、入るのは如何なさるのですか?里ごと移すとは、簡単に仰せですが」
大事ない、と悧羅は笑う。
「その為に玉を甘んじて受け入れたのだ。入る場の呼び出しも王母が教えてくれておるに。入れば王母も顔を見せるやも知れぬが、なにぶん自由なお方だからの。その時になってみらねば分かるまいて」
王母がお姿を?、と栄州は目を見開いている。それに苦笑して、まあわからぬよ、とだけ悧羅は応えておく。何しろ悧羅の時でさえ唐突に現れて唐突に消えたのだから、出まして来るかも分からない。里を移せばまたひょっこりと出ますかもしれないが。
「里を移すは案じずともよい。妾でどうにかなることだ。…後は残る者がおればその時には里の外に出ておってもらわねばならぬの」
荊軻の報せに目を落としながら悧羅がその一文だけを付け足すように、と命じる。御意に、と荊軻が頭を下げた。
「ですが、長のお側を離れたい、などと思う者がおりますかの?我が思うに皆ついてゆくと申しそうですがの」
笑いながら栄州が言うが、それは分からぬよ、と悧羅は苦笑する。
「晴明が聞き及べば、ともに行きたいなどといいだすかもしれませんな」
枉駕も少しばかり心配そうに言う。確かに晴明であれば、一度見たいだの行ってみたいだの言い出しそうではあった。
「さすがに連れては行けないでしょ?王母がいるような所に人の子を入り込ませるわけにはいかないよ。迷いこんだ、とかならありそうだけど悧羅が一緒に入れるってのは悧羅の立場も危うくなるだろ?」
確かに、と枉駕も頷く。人の子の関与できない場に自分たちは戻るのだ。そこに何があるかは分からないけれど、人の子を簡単に招きいれるべき場ではないのは分かる。
「…であればこそ晴明の定命までは待とうとは思うておるのだがの。何かあればすぐにでも動くが、妾らが移ったからといえ地に降り立てぬわけではあるまいて。会いたければ降りればよい。枉駕や荊軻などは懇意にしておるに、離れがたくもあろうでな」
二人を見やる悧羅に荊軻も枉駕も苦笑する。気の合う友と離れがたいのは確かだが、それほど気にするつもりもない。晴明が京にいようと、里の外にいようと会う時は会うが会えない時は会えないのだ。それで里を移す企てが狂う方が好ましくはなかった。
「とはいえ、そう長いことでもあるまい。近隣の人の子の国にしても京にしても代替わりは近うございましょうな」
栄州の言葉に皆が頷く。事実この数年で北の平賀永之介は病に罹り、京の帝も老齢によって伏せっている。同じく東西と南の人の子の里の主も老齢だ。あと、数年と待たずに全ての国が代替わりすると思われた。
荊軻にとれば帝が伏せった事で、悧羅への文がこなくなったことが一番心を穏やかにした。あの恥知らずな文を読まずに済んでいるからだ。
「代替わりの頃が良い刻であろうとは思うておる。人が変わればまたその思いも変わろう。今は妾らに従順してはおるが、新たに荒泉新條頼政のような痴れ者がでるやもしれぬでの。…一度にぱたぱたと逝ってもろうたがよろしいのう」
少しばかり嘆息して悧羅は苦笑する。一人が逝って次がまだ生きていれば時期を待たなければならない。待っている間にまた人の子の国に関われば、また時期を逸してしまう。
「じゃあ、代替わりしたら、人の子の国には関わらないつもりなの?」
紳の問いに、そのつもりだ、と悧羅は頷いた。
「諍いを起こしてくるようであれば容赦はせぬよ?なれどその後の恩恵までは与えようとは思うておらぬ。そろそろ人の子も自分の足で立つのも宜しかろう」
「そうでございますね。長の定命まで私共が人の子を守らねばならぬ道理もございません。この国にも妖は数多におるのですから、それらにおもねるのも宜しいでしょう。人の子は人の子。私共は私共でございましたか?」
微笑んだ荊軻に、そういうことだの、と悧羅も笑った。
「では、そのように。何でしたら皆の精気を喰らい尽くしてくるように命じましょうか?」
「それは容易いな。で、あれば時期を待たずともよくなる。我が行こうか?」
逸る枉駕を、まあ待ちや、と悧羅が止めた。
「まずは報せ里に下ろしや。残りたいものがおらぬかようと聞いて回るのじゃ。そうしている間に、皆終わりを迎えようて」
笑う悧羅に、皆が、御意のままに、と小さく頭を下げた。
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報せを持って廻るのは枉駕の武官隊隊士達と紳の近衛隊隊士達だ。まずは隊士達に報せの内容を伝えるのだが、ここで少しばかり騒動が起こった。
「郷里を見つけたから帰るって…。里ごと移すなんて事がほんとうに出来るんですか?」
疑心暗鬼になるのも無理はない、と紳は苦笑する。どこにあるかもよく分からない場に移るだけでも不安だろうに、悧羅は里ごと移すと言うのだ。悧羅が500年前に里をこの場に置いた時よりも民達の数はあるし、里自体も大きくなっている。どうやって?、と聞きたくなる気持ちはよく分かった。
「お前らの気持ちもわかるよ。俺だってそんな事出来るのかって聞いたくらいだ。だけどな、悧羅がそう言うんだ。何だかいとも簡単に出来るってな。だったら信じるしかないだろ?」
「それはそうですけど…。でも、長のお身体に障るんじゃ…」
悧羅の身体の事を心配してくれていたのか、と紳は嬉しくなる。それにも大丈夫だ、と笑って応えた。
「俺がいるんだから大丈夫だ。何かあったとしても治してやれるだけの精気は持っておくつもしだしな」
悧羅の身体に増えた華の事を言えばすぐにでも呑みこんでくれそうだが、悧羅が善としなかった。その時がくればわかるものだし、示してくれ、と言われるのも面倒なのだそうだ。紳としてもそう何度も悧羅の肌を自分以外に見せたいものではない。
「別に無理してついてこいって言ってるわけじゃない。納得できないならそれはそれでいいってさ。考える刻もいるだろうからって、早めに報せることにしたんだよ。お前たちにだって色々思うところがあるだろうけど、まずは民達にも報せてやってくれないか?」
苦笑し続ける紳に隊士達は、分かりました、と考え込みながら翔け出していった。後ろ姿を見送りながら、混乱が大きくならなければいいけれど、と紳は苦笑を深めるしかない。けれどそれは余計な心配だった。
夕刻間際に戻ってきた隊士達の顔は皆晴れやかだったからだ。何かあったのか?、と尋ねる紳に隊士達は笑って教えてくれた。
「どこの里に行っても長がお決めになったのなら、と皆笑ってました。報せを読み上げた俺たちに民達が諭すんですよ?迷ってるのが分かったんでしょうけど。『長は500年前に自分たちに生きろと言って下さった。長が何処に行こうと共に行くし、死ねと言われればいつでも命を差し出す覚悟は出来ている。長がなさる事に間違いなどない。例え間違えたとしても、それはそれでいい。それだけの事を500年、自分たちに与えて下さっているのだから』ですって」
嬉々として話す隊士達の声を聞きながら紳は、そうか、とそっと自分の手に付いた契りの疵に触れた。悧羅が一人で耐えた500年は、やはり無駄ではなかった。
「確かにそうだなって。長がおられなかったら、俺たちだってこうしてないんですし。ただ、信じればよかったんですよね」
本当に何を不安になったんだか、と笑い合う隊士達に、感謝する、と紳は頭を下げた。やめてくださいよ!、と慌てたような声が彼方此方から上がった。熱くなる契りの疵を押さえながら頭を上げた紳に、隊長にも伝言がありますよ、と隊士達が笑う。
「俺に?なに?」
「我らの長に倖をありがとうございます、だそうです」
「なんだよ、それ」
笑いながら、ありがたく受け取るよ、と言うのが紳には精一杯だ。疵も熱いし胸も熱い。
この話を悧羅なら聞かせたらどんな顔をするだろう。
もしかしたら泣いてしまうかも知れないな。
泣いても良いように抱きしめてから話してやろう。
心の中で悧羅に、頑張ったな、と話しかけながら紳は荊軻への報せをしたためるために卓に向かった。
短縮授業でそろそろ子どもが帰ってきます。
皮膚科に連れていかなければ。
夜にはもう一話更新できると良いのですが。
ありがとうございました。




