休息《キュウソク》
悧羅が降り立った途端、邸の戸が開け放たれた。悧羅だ!、と勢いよく男児が走り寄り半ばぶつかるように抱きついた。それを抱き上げて、悧羅も微笑む。
「久方ぶりじゃな、舜啓。変わりはなかったか?」
「うん、でも悧羅と遊べなかったから淋しかった」
愛らしい応えに悧羅は顔を綻ばせて、土産がある、と懐から甘味の入った小袋を取り出し舜啓にもたせた。
「ありがとう!」
ますます顔を綻ばせて、舜啓は悧羅に抱きついてくる。それを抱き返しながら、今日は何がしたい?と問うと、散歩と応える。
「そんな事で良いのか?」
舜啓を降ろしながら尋ねると、うん、と元気な声が返ってくる。
「悧羅とね、お手手つないでお散歩するの。母様にもつたえてくるね」
言うなり走り出し、母様ぁ、と咲耶を呼ぶ。その声に戸から咲耶が顔を出す。悧羅を見つけると、瞬時に察したのか笑顔になった。悧羅は舜啓の後を追うように、ゆっくりと歩いてきている。
「母様、悧羅とお散歩してくる。あとね、お土産もらったの」
小さな手で大事そうに小袋を差し出す舜啓の頭を咲耶は撫でた。良かったねえ、と言うと、うん、と大きく舜啓は頷く。
「悧羅と遊びたかったもんね。でも、無理させちゃ駄目だよ?悧羅も忙しいのを無理して来てくれてるんだから」
諭すように伝えると、そうなの?、と後ろに立っていた悧羅を見上げる。残念そうでもあり、不安気でもある舜啓が愛らしくて、悧羅は笑って首を横に振った。
「妾が舜啓に会いたいから来ておるのだ。無理などしておらぬよ」
悧羅の言葉に舜啓の表情も明るくなる。ほらね、と自信満々に言われて咲耶も笑って、わかった、と言うしか無かった。もう一度舜啓の頭を撫でてから立ち上がり、夕餉は食べていく?、と悧羅に尋ねた。それには、残念だが、と悧羅が断りを入れる。
「ご飯一緒に食べれないの?」
悧羅の衣の裾を引っ張って、淋しそうに舜啓が悧羅を見上げた。すまぬ、と言うと、傍目から見ても分かるほどに舜啓は肩を落とした。こんなに悲しまれては、なんとも申し訳ない気持ちになる。舜啓、と咲耶が嗜めているが、舜啓は今にも泣き出しそうだ。
なんとも、愛らしい。
舜啓が産まれた時、この子はあんたの子でもある、と咲耶が言ってくれた。それどころか、産まれたばかりの舜啓を夫である白詠よりも先に、悧羅の腕にいだかせた。
「私とあんたは姉妹みたいなもんだから。私が産む子は、あんたの子も同じよ」
子を成せない悧羅にとって、涙が出るほど嬉しかった。赤子を腕にする事などないと思っていたのに、小さい舜啓の重みを今でも鮮明に思い出せる。
腰を落として舜啓、と声を掛けると漆黒の眼に涙が浮かんでいる。必死に泣くのを堪えているのが、たまらなく愛おしかった。
「では、こうしよう。夕餉は共に出来ぬが、久方ぶりに妾と湯浴みをせぬか?」
こぼれ落ちそうな涙を拭きながら、悧羅が言うと舜啓の表情は一気に明るくなった。いいの?、と聞く舜啓に微笑んで頷く。
「じゃあ、我慢する!早くお散歩行こう!母様、お風呂入れててね。急いで帰ってくるから!」
悧羅の手を引っ張りながら、歩き出そうとする舜啓に、咲耶と悧羅は笑ってしまった。散歩が主体ではなかったか。いつのまにか、湯浴みが主になってしまっている。
「分かった。ちゃんと入れておくから」
咲耶が笑いながら言うと、お願いね、と念押しして舜啓と悧羅は歩き出した。
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悧羅は舜啓の願い通り小さな手を繋いで歩いた。
散歩をするには、少し暑かったが舜啓は活発そのものだ。時折、道端の花を摘んで悧羅に渡したり、珍しい形の石を取ってみたり、飛んでいる蝶や蜻蛉などに目を輝かせる。突然、走ったりもするので怪我でもしないか、と胆を冷やした。幸いにも、咲耶の邸は里の南、民が集まる集落とは少し離れた場所にあるため、道すがら民とすれ違う事もなく、悧羅も気が楽だった。随分な距離を歩いて、走って、悧羅は、少し休もう、と舜啓に伝えた。どうして?、と聞き返す舜啓の額にも首すじにも玉のような汗が滲んでいる。頬も紅潮しているし、水分を取らせねばと思ったのだ。
道の脇に大樹があった。河も流れている。休息するには丁度良い場所だった。舜啓の手を取って、河の縁まで連れて行き、水を飲むように促した。小さな両手に水を汲んで、飲もうとするが手が小さすぎてうまく行かない。代わりに悧羅が汲んで口元まで運ぶと、あっという間に二杯、三杯と飲んでしまった。冷たいねぇ、と喜ぶ姿が可愛いかった。持っていた手拭いを河で濡らして絞ってから、大樹の木陰に移動する。日が遮られただけだか、それでも幾分涼しかった。二人で木陰に腰をおろして、濡らした手拭いで、舜啓の顔や首筋の汗を拭いてやる。大分暑かった筈だ。扇子を取り出して、舜啓を扇ぐと、気持ちよさそうに目を細めていた。
「疲れたか?」
「ううん。平気」
舜啓はずっと笑顔だ。そうか、と微笑むと、ねぇ、と舜啓が言う。
「悧羅は、ぼくの父様と母様みたいにならないの?」
舜啓にとっては、素朴な疑問だったのだろう。要するに、誰かと契らないのか、と言いたいのだ。そうさなぁ、と悧羅も苦笑するしかない。
「大好きな人とかいないの?」
純粋な目で見られて、ますます悧羅は苦笑するしかない。
「おらぬ、と言えば嘘になるな」
悧羅の返事に舜啓の顔が明るくなる。ほんと?、と嬉しそうだ。
「舜啓に嘘はつかぬよ」
「じゃあ、大好きって言えば良いのに。そしたら、ぼくも一緒に遊べるのに」
ようは、舜啓は新しい遊び相手が欲しいのだ。くすくすと笑いながら、それはできぬ、と伝えると、だめなの?と小首を傾げている。頷いて応えると、そっかぁ、と溜め息をついてみせた。
「だったら、ぼくが大きくなったら悧羅のお婿さんになろうっと」
気を取り直したように悧羅を見て、舜啓が笑う。
「そしたら、いっつも一緒に遊べるもんね」
無垢な言葉に、我慢ができず悧羅は大笑いしてしまった。なんで、笑うの?と唇を突き出している舜啓の頭を撫でる。
「それは、嬉しいが。舜啓が大きゅうなる頃、妾は年老いておるぞ?」
「大丈夫だよ。ぼく、急いで大きくなるから。悧羅は、おばあちゃんになっても可愛いよ」
一体どこで、こんな言葉を覚えてくるのか。
しばらく会わないうちに、おませな事を言うようになったものだ。
「では、楽しみにしておこう」
微笑んだ悧羅に、舜啓は満足そうだった。
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咲耶の邸に戻った舜啓と、約束通りに湯浴みを共にして悧羅は宮へと戻っていた。帰ってきた白詠の、申しわけなさそうな顔といったらなかった。
「ご迷惑だったのではないですか?」
さすがにもう、伏して礼をとることはしなくなってくれていたが、それでも我が子と長が共に湯浴みするなど、と恐縮している。
「妾が共にしたかったのだ、赦してたも」
悧羅が微笑むと、座卓で冷たい水を飲んでいた湯上がりの舜啓に、お礼を、と白詠が促す。舜啓は、きょとんとした顔で、どうして?、と白詠に聞き返す。白詠が説明しようとするのを、悧羅が、良い、と制した。
「今日ね、悧羅といっぱいお散歩したの。楽しかったよ。お風呂もね、悧羅、ざぶぅんってぼくにかけるんだよ。でね、でね、悧羅のお肩にお花咲いてるの。紫色の…、なんだっけ?」
ますます、青くなる白詠を他所に舜啓が陽気に語る。蓮だ、と悧羅が教えると、そうだったと舜啓は笑った。
「お水のところに咲くんだよね。ぼく、今度見つけたらおうちに持って帰るんだ。そしたら、いっつも悧羅がいるみたいだもんね。悧羅のお婿さんになるまでは、それで我慢するんだ」
ぎょっとして悧羅を見る白詠に、嫁にしてくれるらしい、と悧羅が笑うと舜啓が、またきてね、と送り出してくれた。
出来れば、そのまま過ごしていたかったが。
思い起こしても笑いが出る。だが、どうしても、今夜は宮に居なければならなかった。
今夜は、次の夜伽の相手_____紳が来るのだから。
ありがとうございました。
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