懺悔《ザンゲ》
一日空いてしまいました。
一日の務めを終えて隊舎を出た紳は大きく伸びをした。少しばかり今日は遅くなってしまった。暗くなった景色を見渡しながら、山の中腹にある宮に目を留める。ほんのりとした灯りが照らし出す宮は、早く戻れと言ってくれているような気持ちになる。
さて、戻るか。
足を二、三度曲げ伸ばししてから宮に向かって翔けだそうと、もう一度宮を見た時だった。宮の天辺から紳に向かって翔け降りてくる姿がある。
今日もお迎えかな?、と紳は小さく笑いながら翔け降りてくる姿を待つ事にする。紳の務めを目の当たりにして以来、終わる頃になると媟雅が妲己の背に乗って迎えにきてくれる様になっていた。さすがにまだ四つの媟雅を一人で出すのは危ないと、最初は反対したのだが、妲己がいるから大丈夫!、と聞き分けなかった。確かに妲己と共に紳を迎えにくるだけであれば安心は安心なのだが。
言い出したら聞かないところは誰に似たのやら、と苦笑してしまう。どちらにせよ、紳が隊舎を出るのを妲己が報せてから来るので、見ている先で何かあってもどうにかしてやることはできる。何か、といっても妲己の背の上ではしゃぐ媟雅が落ちないかどうかだけなのだけれど。
待っていると目の前に妲己が降り立った。いつもなら飛び降りる様にして紳に向かって駆け出してくる媟雅が今日はその背に乗っていなかった。あれ?、と紳は首を傾げる。
「妲己、一人なの?」
珍しい、と紳は笑いながら妲己の側に寄り、その頭を撫でた。媟雅は?、と尋ねると、もう寝た、と言う。
“先刻までヌシを迎えに行くと言うておられたがな。昼間、我と遠乗りされた故、包んでおったら休まれておった”
それならますます意外になる。妲己一人で紳を迎えに来るなど、今までなかった。何かあったのか?、と聞くが妲己は応えない。代わりについてこいと、尾で紳を叩いた。出来れば早く帰って悧羅に会いたいのだが、と笑う紳に、いいからついてこい、と妲己は有無を言わせずに翔け出した。
仕方なく紳も続く。どこに行くのかと思っていたが、妲己が連れてきたのは紳の邸だった。今は宮に住んではいる紳だが、診療所も兼ねているので、数日に一度は顔を出す様にしている。何より、人が出入りしないと邸などすぐに廃れてしまう。時々は手入れをする必要があるのだ。
誰かに貸し出しても良いのだが、やはり500年ここで宮を見ながら過ごしたのだ。愛着もあるし手放すのも何となく憚られる。何よりこの一帯が紳の土地だ。近衛隊長に任じられたときに賜ったものだし、近くに住む童達の遊び場にもなっている。誰かに譲ってそれが出来なくなるのも、その姿を見れなくなるのも嫌なのだ。
考えている紳の前で妲己は振り返りもせずに歩を進めている。声をかけたところで今は何も応えないだろう。とりあえず後について歩く。妲己は庭に周り縁側に上ってようやく腰を下ろした。紳もそれに続く。腰を下ろして前を見ると、今は自分の邸にもなった宮が見えた。
何百年と見てきた景色に、つい目を細める。
よくここを知ってたな、と言う紳に主が連れてきてくれた、と返ってくる。たまには子ども達を連れてきて、庭で遊ぶ童達と遊ばせているそうだ。それは知らなかった、と笑う紳に妲己が鼻を鳴らす。
「で、どうしたの?」
宮を見ながら紳が聞く。こんなところまで来ると言うことは宮では話せない事があると言う事だろう。それは分かった。妲己は宮を見ながら小さく息をついた。我は、と静かに口を開く。
“我はまだ、ヌシに礼をいっておらなんだのでな…”
「礼?」
何の?、と紳は妲己を見る。少しばかり項垂れた様な妲己の姿が目に入った。
“ヌシが我の主に倖をくれたことに、だ”
うん?、と紳は首を傾げる。忋抖と啝珈が産まれた時に磐里と加嬬もそんなことを言っていた。その時も自分は何もしていないし、今があるのは悧羅と女官達のお陰だ、と言ったはずなのだが…。
「…いや、だからさ…。俺が倖にしてもらってるんだって言ったじゃないか?」
“そうかも知れぬがな…。だが、今の主があられるのは、間違いなくヌシの力があってのことだろう?”
「それも違うと思うけど?妲己達が近くで悧羅を支えてくれてたからだろう?俺がどうこうできてた訳でもあるまいし…」
500年、紳が悧羅の役に立ったことなどない。200年前に近衛として側に侍ることは許されても、それ以上は踏み込めなかった。踏み込んではならない、と思っていたからだ。それがたまたま夜伽の任に就かされ、たまたま悧羅に想いを告げる機会を与えられたに過ぎない。あの時悧羅が頑なに拒んでいたら、今の自分はないのだ。
悧羅が受け入れてくれたからこその倖だと思っている。
そう伝える紳に妲己は小さく息をついた。
“…我はこの500年、幾度ヌシを噛み殺してやろうかと思ったか知れぬ。あの日の事を思い出す度にも、主が望まぬ夜伽を耐え忍んだ後に、ヌシからもらった組紐を見ておられるのを見る度にもな”
うん、と紳は言う。
“…ヌシが近衛に入ったと咲耶から聞いた時も、近衛隊隊長として主の側に侍る、と分かった時も、だ。あの様な思いを主にさせたというのに、何を考えておるのか、と”
それにも、紳は、うん、と応える。だが、と妲己は視線を宮に移した。僅かばかりに目を細めている。
“ヌシがあの時、夜伽の相手としてあの場に現れなければ我の主はあと数百年も待たずに儚く散っておられただろう…。…それが主の望みであった故、我も何も申し上げることはできはせんだった…”
紳は何も言わず、ただ妲己を見る。精気を獲っていない、と知った時を思い出したからだ。疲れ果て、何の倖も望むことすらしていなかった悧羅の手は細く冷たかった。ただひたすらにその時が来るのを待ち望んでいた様だった。
“ヌシがまた主の前に現れて、身の程しらずな願いを言うた時も、今更どの口で言うのか、とな”
くっくっ、と妲己は笑う。我の頭の中ではヌシは何十回、何百回と死んでおるわ、と小さく笑い続けている。まあ、そうだろうな、と紳も苦笑する。それだけの事を紳は悧羅にしてしまったのだ。妲己がそう思うのも当たり前だった。
“…なれど、今の主はほんに倖に満ちておられる…。500年耐え忍んだ思いもこの時に繋がっておるならそれで良い、と申される。ヌシの手をもう一度取ることを決められ、望めぬようにした御子たちにも恵まれた。ヌシが精気を流し込む故、もうしばらくはお側に侍ることもできそうだ”
そうか、と紳は少し笑った。それが本当なら紳にとってこれ以上の倖はない。だから、と妲己は紳を見た。
“我もヌシを赦そうと思うておる。主がヌシを赦されておるのであれば、我が何を言うことでもないでな。気に食わぬことにヌシがおることで、主は少しばかり500年前のように柔らかなお顔をされるようになったでな”
礼を言う、と妲己が紳に頭を下げる。それに苦笑して紳は妲己の頭を撫でた。妲己、と名を呼ぶと顔を上げてくれる。妲己の視線を受け止めて、赦すな、と願った。
「…俺が悧羅にした事は消えない。それは忋抖と啝珈を産んでくれた時にも言っただろ?だから、あの時以上に悧羅を護って、慈しんでいくって誓ってる」
契りの日にお互いの血が混ざり合ったことで、悧羅の500年は紳にも流れ込んだ。逆に紳の500年も悧羅に流れ込んだはずだ。紳が想像していたよりも遥かに凌ぐその想いに胸を締め付けられたことを思い出す。
500年前のあの時に悧羅を傷つけてさえいなければ、あんな思いをさせずに済んだのに、と後悔が残った。
「だけど、時々忘れそうになるんだ。あんまりにも満たされて倖で。あの時のことが夢だったんじゃないかって思う時がある」
だからこそ、悧羅に腹の疵を自分には隠すな、と願った。情を交わす度に目にし、少なくはなっているのだろうが時折引き攣れる痛みでほんの少し顔を歪める悧羅を見て、やはり夢では無かったのだと自分に言い聞かせている。これは紳がこれからの生涯をかけて背負っていく業だ。
「悧羅は確かに俺を赦して受け入れてくれた。それどころか悧羅だけで十分すぎるのに、こんな俺の子を産んでくれた。どれだけ感謝してもしきれないし、どれだけ慈しんでも足りないくらいの倖を、あんな思いをさせてしまった俺なんかに与えてくれてる」
この縁側に座って宮を眺めていた頃には想像もできなかった事だ。届かない想いを抱えて、ひたすらに自分を責めて想いを伝える日など来ないと思っていた。
「だから悧羅が赦してくれていても、妲己だけは俺を赦すな。今の倖に俺が慢心して、また悧羅を傷つけてしまう事がない様に、妲己には俺を見張っていて欲しい」
“また、主を傷つける事があるかもしれん、とヌシは思うておるのか?”
低く唸るような声で妲己は紳を見る。いいや、と紳は首を振る。
「そんなことはしない、したくないって思ってる。だけど、あの時の事を知ってる奴が全部俺を赦したら、何もかもが無くなったように思うかもしれないだろ?どれだけの想いで悧羅を手に入れる事ができたのか、その時の想いまで忘れてしまうかもしれない。悧羅が俺の腕の中にいてくれている事を、当たり前だって思いたくないんだよ」
当たり前なんかじゃないんだから、と紳は妲己の頭を撫でた。
「だから妲己だけは俺を赦さないでいてくれ。俺が当たり前だと思い始めたら、あの時みたいに殴り飛ばしてもらえると嬉しい」
目を覚まさせる為に頼むよ、と紳が笑うと妲己もくっくっと笑い出す。あの時よりは強くなろうて、と笑う妲己に、それでいい、と紳も小さく笑う。
「媟雅と忋抖、啝珈の分もあるからな」
そうだな、と妲己も笑っている。
“その時は噛み殺してやるで、安心しておくが良かろうて”
「うん、頼むよ」
任されよう、と妲己が立ち上がる。そのまま振り向きもせずに宮に向かって翔け出していく。遠くなる背中を見ながら、ほんとに頼むよ、と紳はごちた。
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妲己が戻った後もしばらくは縁側で宮を眺めていた紳だったが、無性に悧羅に会いたくなってしまい急いで宮に戻った。迎えてくれた磐里と加嬬に子ども達は?と聞くと、もう皆休んでいる、と言われてしまった。妲己とそれなりの刻を話していたし、隊舎を出る時にはまだ低かった月も真上に差し掛かっている。二人に食餌はいらない、とだけ告げると、承知いたしました、と下がっていった。
子ども達に会いたかったけれど、と少し肩を落として湯を使い疲れと汗を流してから自室に入った。戸を開けると悧羅は床に座って書に目を落としている。紳を見留めると、にっこりと笑って書をおいた。
「戻りやし、少し遅かったかえ?」
床から立ち上がり、卓の前に座った紳の前に流れる様に座る。卓には、よく冷やされた酒が置いてあった。
「紳が食餌は要らぬと言うたらしいが、良い酒を栄州に貰うたでな。支度させた」
盃を紳に渡して注ぎながら悧羅は教えてくれる。注がれた酒に礼を言って一気に煽ると、少しばかり辛口だが喉越しの良い酒だった。
「確かに良い酒だね」
「其方が気に入ったのであれば何よりじゃて」
空になった盃に再び酒を注ぎながら悧羅は微笑んでいる。それも煽ると、また注ごうとする悧羅を紳は手で制した。おや、と悧羅が首を傾げる。
「…食餌も摂らず、酒も進まぬなど、余程疲れたのかえ?」
心配そうな悧羅にいいや、と紳は笑って見せた。酒瓶を卓に戻す悧羅を見やって、悧羅さ、と口を開いた。うん?、と悧羅も紳を向く。
「…悧羅ってさ…、俺のこと赦しちゃってる?」
は?、と悧羅が目を丸くする。あまりにも唐突であまりにも何故今更と思ってしまう。
「赦すも赦さぬも、紳がおらねば妾はこうまで満たされてはおらぬであろ?紳がおってくれておるから、妾もこうしておるのだ。何故そのようなことを聞くのじゃ?」
首を傾げてきょとり、としながら、何ぞあったのかえ?、と聞く。いや、とだけ紳は答えた。代わりに苦笑が漏れる。やはり悧羅は自分のしたことを赦してくれているのだ、と思った。
「…たまにね、あまりに倖で俺が悧羅にした事が全部なかったかの様に思える時があるんだ。忘れちゃいけないのにね」
そのようなこと、と悧羅が嘆息する。
「妾とて同じじゃ。…だが、その程度の事であったと思うは、今、其方が妾の側におってくれておるからじゃて。紳がおらねば妾は笑うことさえ忘れておったであろう」
「そう?」
苦笑する紳に悧羅はゆっくりと頷いて見せる。
「其方は妾に赦し難い事をしてしもうた、と悔いてくれておるが、妾とて其方が赦し難いことをしておるに。紳のみが背負うてゆく業ではないえ?」
手を伸ばして紳の頬に悧羅が触れる。何かあったっけ?、とつい聞いてしまう。悧羅が自分に赦しを貰わねばならないことなど紳には思いつかない。困ったように悧羅は小さく笑って紳の頬を撫でた。
「妾は其方が全てを知っておるということを知らなんだ。知らなんだ故に紳の500年を無為に奪ってしもうた」
「それは俺が勝手にしたことだって言ったじゃないか。悧羅が気に病む必要なんてないじゃない?」
頬に触れていた手を離して、いいや、と悧羅は小さく笑う。
「そうであれば、妾が子袋を潰したのも妾の勝手でしたことじゃ。紳が気に病む必要などないであろ?」
「それとこれとは話が違うよ」
子袋を悧羅が潰したのは自分の言葉が元凶だ。それだけは変えることができない。それだけは間違えても自分の責ではないなどと思ってはならない、と言う紳に、悧羅はますます困った様に、同じじゃよ?、と言ってくれる。
「何より妾は紳との約束を反故にしてしもうておる。其方以外には華に触れさせぬ、と言うたに守れなんだしの」
自分の左肩に触れながら悧羅は、すまぬ、と詫びた。
紳は何も言えずにただ首を振るしかできない。覚えていてくれていた事にも驚いたが、悧羅がそれを悔いているとは思わなかった。だがそれも全ては自分が悧羅を信じなかったからだ。目の前で淋しげな微笑みを浮かべる悧羅を、堪らずに紳は引き寄せた。
「…あまり、気に病むでないよ?妾は今、とても満たされておるに。紳ばかりが、そのように思うておってしもうては妾も淋しゅうなるでの」
背中に回された腕が優しく紳を叩いてくれる。うん、と頷きながら紳は、自分で良かったのか?、と呟いた。おやおや、と小さな笑いが腕の中から聞こえた。
「まだ、そのような事を言うのかえ?」
「…だって…」
言葉に詰まる紳に悧羅の笑い声が聞こえる。500年前の紳は何処へ行った?、と可笑しそうに笑う。
「紳以外はいらぬ、と幾度もゆうておるであろ?いらぬ気を遣うでない。それとも、毎夜言わねば分からぬか?」
小さく笑い続ける悧羅に、できればそうして欲しい、と紳は願った。それにも悧羅は笑っている。腕の中から身体を離して立ち上がると悧羅は紳の手をとった。
「ならばいくらでも言うとしようか」
あちらでの、と寝所を示されて紳も苦笑しながら立ち上がって悧羅を抱き上げた。
今日から雨の様なので、昨日やらなければならない事をしていたら一日空いてしまいました。
昨日の分も取り返します。
ありがとうございました。




