平穏【漆】《ヒラオ【シチ】》
おはようございます。
今日も頑張ります。
紳が悧羅の側にいる事を決めて四月が過ぎた頃、ようやく悧羅も床上げというものが出来た。忋抖と啝珈が一人で座れるようになったのと同じ時期であった。二人を産み落とした時は中庭の樹々は色づき始めていたのに、里にはもう雪が降り積もっている。余りにも長くなってしまった、と悧羅は申し訳なさそうに、診にきてくれた妓姣にごちたのだが、妓姣はいつもの微笑みを浮かべて、それで宜しい、と言ってくれる。
「お一人でも大変なのですぞ?お二人に奪われては、母君の疲れが大きゅうなって当たり前じゃ。旦那様は?」
笑いながら悧羅の側に紳がいない事を聞いてくる。紳が務めを休んで悧羅の側にいると決めた後、初めて宮に来た妓姣は、うんうん、と頷くばかりだった。いつもなら妓姣が来た時には紳も悧羅の側にいるのだが、その姿が見えないので不思議に思ったのだろう。
「媟雅にせがまれての。雪遊びに付き合わされておる。妾もあれのお陰でずいぶんと楽になったでの。少しばかりは離れても良いと言うた」
なるほどの、と妓姣は笑っている。四月前までは、これでもかという程に痩せ細ってしまっていた悧羅もどうにか元の姿に戻りつつあった。これであれば、もうしばらくすれば妓姣も善と言えるだろう。
「今しばらくは旦那様にお側におってもろうたが宜しかろう。床上げ出来た、とは申してもまだ無理をなさってはならぬ。よいかの?棌絲、秌絲?」
入り口に控えて忋抖と啝珈を見てくれている二人に妓姣が言う。承りまして、と二人が返した。それに、うん、と妓姣が満足そうに微笑む。と、部屋の戸が勢いよく開け放たれた。かか!、と雪まみれの媟雅が飛び込んでくる。開け放たれた戸から外の冷気が流れ込んできて、悧羅の肌を撫でた。
飛び込んで来た媟雅はそのまま悧羅に走り寄ってくる。抱きとめて頭や肩に積もった雪を払ってやると、みて!、と小さな手を悧羅の顔の前に持ってくる。そこには小さな雪の達磨が二つ握られていた。おや、と悧羅も笑う。
「とと、と作ったのかえ?」
尋ねると、うん!、と顔を破顔させる。
「こっち、かいと。こっち、わか」
「おやまあ、それは良いの。とても可愛いらしゅう出来ておるに」
うん、と笑う媟雅の頭を撫でると、媟雅、と戸の入り口から紳が呼んだ。
「中に入れるとなくなるよ?せっかくだから外に飾ってみんなに見てもらおう?」
笑って言う紳に、でも、だっきが、と媟雅が言う。どうやら雪遊びが好きな妲己が勢い余って壊してしまうと思っているらしい。
「媟雅が作ったんだから妲己は壊さないよ?心配なら一緒にお願いしておこう」
言って手招きする紳に、うん!、と媟雅がまた走っていく。媟雅を抱き上げながら、どう?、と紳は妓姣に聞いた。言葉は少なくても悧羅の体調を聞いているのは、皆に伝わった。
「もうしばらくご無理はなさらぬ方が宜しかろう、と申し上げた所じゃ。婆が善というまでは、旦那様もお離れになりますな?」
わかった、と笑って紳は媟雅を抱き上げたまま、また中庭に戻っていく。その背中を見送って、妓姣も席を立った。
「また近いうちに参りますでな。宜しいですかの?」
よいしょ、と立ち上がる妓姣に、待ち望んでおる、と悧羅が笑うと、長様は婆に褒美ばかり下さるの、と妓姣が礼を取った。それにもまた微笑んで、悧羅は棌絲、秌絲と呼ぶ。妓姣を送るように言うと二人も立ち上がった。
「忋抖と啝珈は妾がみておるに。送ってやってたも」
ですが、と棌絲が言うが、大事ない、と悧羅は自分の布団を叩いた。仕方なく二人は忋抖と啝珈を悧羅の側に座らせる。
「利口にしてくれておるに案ずることはない。何かあればすぐに呼ぶ」
かしこまりまして、と二人も礼を取って妓姣とともに部屋を辞した。
廊下を歩きながら秌絲が師匠と声をかける。歩く背中はそのままに妓姣が、うん?、と返した。
「師匠はご存知でおられたのですね。長様のお身体を労るには、旦那様がおられてこそ成せるものだ、と」
だからこそ、と棌絲が後を引き継ぐ。
「はじめに旦那様がおられぬ、と知られた時に考えておられたのでしょう?果ては私どもに、教えをいただきました事、感謝申し上げます」
ほほほ、と妓姣は笑ったが止まることはない。代わりに良き夫婦であられるであろ?、と笑いながら尋ねてくる。とても、と二人が言うと宮の出口を前にして、ようやく妓姣が二人を見た。
「お前たちはそれぞれが良い腕を持っておる。じゃがの、それが全てではない。我らは、ただ子を生み落とす、という女子達にほんの僅かばかり手を貸しておるに過ぎぬのだよ。その後にしてもそうじゃ。こうであるべき、とは思わず、自らの腕や知に慢心するでないよ」
はい、と二人は頷く。それに、うんうん、と妓姣は笑った。
「お前たちがそれに気づいてくれて何よりじゃて。もう少し遅うなっておれば、長様はまだ床から起きることもできなんだろう」
無言で頷く二人に、棌絲、秌絲、と妓姣が名をよぶ。
「長様と旦那様に感謝せよ。お前たちの曇りかけておった眼を、また開いてくださったのは、あのお二人の御姿を見れたからなのだから」
はい、と深く礼をすると、ではの、と妓姣は雪の中に去っていく。足音が聞こえなくなるまで二人が顔をあげる事はなかった。
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悧羅の部屋に二人が戻ると楽しそうに笑う悧羅と紳の声がした。他にも磐里や加嬬、妲己の声までする。失礼したします、と戸を開けると、ご苦労であったの、と悧羅が二人を手招きして近くに寄るように示してくれる。
「冷えたであろ?其方達が戻ったら茶での飲もうかと思うてな。磐里達も呼んだところであった」
「まあまあ、それはありがとうございます」
二人も微笑んで磐里と加嬬の側に座る。なにやら楽しげでございましたね、と茶を淹れながら尋ねると、それじゃ、と悧羅が媟雅を指さした。よく見ると雪で濡れた衣を着替えたのだろうが、衣の紐は垂れ下がり、帯も一応は結ばれているが崩れている。下衣からは片足の方から両足が出ていて何とも歩きにくそうだ。これは?、と笑いながら棌絲が聞く。
「媟雅が自分でするっていうから、させてみたらこうなった。これはこれで媟雅は満足みたいでね」
確かに媟雅は、どうだ、ど言わんばかりに胸を張って皆に見せている。
“さすがは姫だ!何という素晴らしき着こなしであられようか”
妲己だけが褒め讃えているが、このままでは怪我をしてしまう。
「すこし私がお手伝いいたしましよう」
秌絲が言って媟雅の衣に触れようとするが、や!、と身をよじって拒まれた。
「磐里にも加嬬にも同じだったんだ。もちろん俺も駄目。妲己は誉めてばっかりだしね」
肩を竦めて紳はまた笑っている。差し出された湯呑みを受け取ると両手で挟んで暖を取っていた。媟雅と共にかなりの刻を外で過ごしていたのだ。体が冷えて仕方なかったのだろう。
どれ、と悧羅が媟雅に向き直る。媟雅、と呼んで自分の膝を叩くと嬉しそうに媟雅が走り寄ったが、何せ足が思うように開かない。ちょこちょこと歩くような姿に悧羅は苦笑してしまう。手を伸ばして引き寄せると媟雅を膝に乗せた。
「媟雅、自分で着れたのう?」
優しい笑いと共に膝に乗る媟雅を悧羅は抱き止める。うん、じょうず?、と聞かれて、とてもよい、と悧羅は笑っている。
「なれど、かかのようにはなっておらぬ故。かかと同じにしても良いかえ?」
悧羅に頭を撫でられて、かかとおなじ?、と媟雅が顔を輝かせている。そうじゃ、と悧羅が頷くと、いいよ、と立ち上がった。苦笑しながら悧羅が媟雅の衣を直す。帯を結んで、ほれ、かかとおなじじゃ、と自分の帯をみせると嬉しそうに媟雅が悧羅に飛びついた。抱き止める悧羅の倖そうな顔に皆、笑みが溢れる。すると、媟雅を抱きとめている悧羅の膝を忋抖と啝珈が叩いた。まるで自分たちも、と言っているかのような姿に、さすがに悧羅一人じゃ無理だ、と紳が湯呑みを置いた。
悧羅の隣に移動して座ると、媟雅に自分の方にくるように紳が言う。だが、や!、と断られてしまった。
「かかがいい」
嘘だろ、と項垂れる紳が可笑しくて、皆、声を上げて笑ってしまう。笑いながら妲己も悧羅に擦り寄った。
“では姫、我ならば如何でしょうや?”
妲己に擦り寄られてくすぐったいのだろう。うわあ、と媟雅は笑って妲己の背に飛びついた。それにもまた紳は、嘘でしょ、と項垂れてしまう。
“我に勝ろうなど、片腹痛いわ”
くっくっ、と笑う妲己の足元では忋抖と啝珈が悧羅の膝に抱き上げられている。
「俺の膝も空いてんだけどなぁ」
手を伸ばして忋抖と啝珈の頭を撫でながら紳が溜息をつく。
「旦那様はお外で遊んでくださりましたからね。姫様方も若様も少しばかり母君に甘えたいのでしょう」
磐里が宥めに入るが、そうかなぁ、と紳は不服そうだ。
「これじゃ俺が務めに戻ったら、もっと構ってもらえなくなりそうだよ」
肩を落とす紳に、そんなことはございませんよ、と加嬬が笑っている。
「お務めに出られても、旦那様のお勇ましいお姿をご覧になれば姫様方も若君も誉に思われることでしょう」
「でも見れないじゃない?宮にいるのは朝議の刻だけだしさ」
では、お連れしましょう、と棌絲がいとも簡単に提案した。
「父君のお務めのお姿を見ていただければよいのですよ。とても大切な事でございますし、御子方もきっと喜ばれることでしょう」
「…いや、無理でしょ?絶対荊軻達が反対するに決まってるもん」
そんなもの、と棌絲が笑う。
「黙らせてしまえばよいのです」
自信満々に言い放つ棌絲に、また皆笑ってしまう。確かに棌絲なら重鎮達も言い返す事は出来ないだろう。その時は是非とも頼むよ、と紳が言うと、お任せ下さい、と棌絲が笑みを深くする。
「だけど、今はこれが寂しいんだよなあ」
妲己の上の媟雅と、悧羅の膝の上の忋抖と啝珈を見て紳はまた溜息をつく。では、と悧羅が紳の手を握った。
「妾で堪えてたも?」
微笑む悧羅の手を握り返して、そうだった、と紳も微笑む。
「これがあった」
「おやおや、忘れられておったようだ」
くすくすと笑い合う二人を見ながら、棌絲と秌絲は心から妓姣に感謝し、心の中で紳と悧羅に礼を言う。
本当に、このお二人のお側につくことができて良かった、と思う。
外は雪が降り続いているが、この部屋だけは穏やかで暖かい。
凍てつくような寒さの中で、縁側にぽつん、と置かれた達磨にも雪が積もる。
媟雅が作った達磨は小さな達磨が三つ、すこし大きな達磨が七つ。
それは媟雅が家族だ、と思っている数と同じだった。
日常回です。
とんとん、と日々が過ぎますが(笑)
お楽しみいただけていたら嬉しいです。
ありがとうございました。




