苦悩《クノウ》
何やってんだか…。
咲耶は邸の座敷で頭を抱えている紳を見て、溜め息を落とした。悧羅の宮を辞した後、邸に戻ると紳は来ていた。白詠と話していたが、目的は分かっていたので、とりあえず白詠に二人にして欲しいと頼み、舜啓と出かけてもらった。
二人になった途端、これだ。
落ち込んでいるのか、戸惑っているのか、紳の周囲にだけ暗雲が立ち込めているかのように空気が重い。耐えきれずに、ねぇ、と咲耶は切り出した。
「…どうすんの、あんた」
悧羅の宮で栄州の嬉々とした報せを聞いていたので、とりあえず核心を突く。
「何かもう、三者承認されちゃったみたいよ?悧羅も了承してたし、逃げられないんじゃないの?…ていうか、最初に断れなかったわけ?」
紳からの返答はない。別段、咲耶も応えを期待してはいなかった。
「でも、まあ良い機会なんじゃないの?あんたたち、あれからまともに話せてもないんでしょ。いつまでも同じ所でぐるぐるやってないで、ちゃんと謝るなり、伝えるなり、やってみたら?」
淡々と語ると、いや、無理だろ、とようやく紳が口を開いた。
「あれだけのことしてんだぞ?簡単に、はいそうですかって水に流せる事じゃないし…。俺と顔合わせんのも、嫌なはずなんだって」
紳は抱えていた頭を解いて、今度は上を見上げた。自然と溜め息を吐いてしまう。
「じゃあ、何で近衛隊隊長なんてしてんのよ?嫌でも顔合わせんじゃん。直属側近護衛なんだから、いつでも悧羅の側に侍ってるわけでしょ?」
聞かれて、ああ、それな、と紳は咲耶と視線を合わせた。
「…赦されなくても、側で護りたかったんだよ。自分の罪滅ぼしにもなんねぇけどな」
自己満足だ、と紳は自嘲した。あの時から、どうにか悧羅に近づきたくて近衛隊に入隊した。咲耶に弟子入りし医術も学んだ。自分で悧羅を治せるように。一隊士として、それなりに名を挙げたが、長たる悧羅の顔さえ見ることは叶わなかった。そんな紳に、200年前の武闘大会は僥倖だった。大会で当時の近衛隊隊長を瞬倒した紳に次の隊長の指名が来るのは明らかだったし、何より悧羅と話す機会が与えられたからだ。
優勝した紳に、悧羅は一言、見事であった、と言い残して踵を返した。去っていく背中に、つい声を掛けてしまったが、足を止めてくれた悧羅に何を言っていいか分からなかった。やっと、一言、あの時…、と言いかけたが、悧羅が振り向いたため、それ以上が紡げなかった。
「…其方…、今、倖か?」
まさか、話しかけてもらえるとは思っていなかったが、悧羅の視線を何百年ぶりに受け止められて、倖かと言えば、倖だ。それなりに、と応えると悧羅は美しすぎる微笑を浮かべた。
「ならば良い。倖でいてくれ。そうでなければ、妾が長になった意味をなくしてしまうでな」
それだけを言い残して悧羅は去っていった。追いかけることも出来ず、近衛隊隊長の任を賜っても、務めの事以外に悧羅と会話することは無かったし、あれ以来視線を合わせた事もない。側にいるのに、紳には、ますます悧羅が遠い者になっている。知らず知らずのうちに、また溜め息が出る。それを、ふぅん、と見やって咲耶は茶を勧めた。
「でもさ、悪いけど、あんたの罪は消えないわよ」
「…分かってるよ。赦してもらおうなんざ、虫のいい話だ」
勧められた茶を啜りながら、紳も同意する。夜伽の相手など、紳に務められるはずもなかった。
「とりあえず、夜伽の時期は宮に行くしかねぇだろうな。俺は部屋の隅にいて刻を過ごすことにすれば、一応は夜を共にしたってことで、納得するだろ。なんにせよ一度、会いに行かなきゃなんないみたいだし、その時に悧…長にもそう伝えるつもりだ」
「そう。悧羅が、それで納得するなら話してみる価値はあるかもね」
「それ以外、誤魔化す術が考えつかねぇ。長は同じ部屋で過ごすこと自体、嫌悪するかもしれないけど」
そっか、と咲耶も茶を啜る。全くどこまでも拗らせる。紳の罪は赦されないとは言ったが、実際、十分に償っていると思っている。これだけの男だ。縁談の話もこと切れないだろうし、医師として里の民からの信頼も厚い。それでも、あの事から数百年、契りの相手も見つけず、浮いた噂も聞こえてこない。女を絶っている事も知っていた。
想っているのだ。痛いほどに…。
だが、自分の罪を知っている紳には、想いを伝えることが出来ないのだろう。また悧羅を傷つけることになるのではないかと、恐れているのかもしれない。もしくは、伝える権利が自分にはないと思っているのか。
「とりあえず、私があんたに言いたいのは一つだけ。これ以上、あの子を泣かさないで」
咲耶の真摯な言葉に、紳は、分かってるとだけ伝えた。
悧羅が咲耶の邸を訪れたのは、その三日後だった。
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