堕ちる《オチル》
残酷描写が少しあります。
お気をつけください。
背後に聞こえた小さな音に晴明は心が踊りだしそうになるのを、どうにか堪えた。あくまで、自分は背後の者を知らない、という立場に立たなければならない。一つの音の後に続くように、とんとんとん、と三つの音が晴明の耳を擽る。衣にしがみついている帝には晴明が影になって見えないのだろう。まだ、どうにかせよ!、と泣きついている。やれやれ、と嘆息して周りを見廻すと部下の陰陽師達は、既に構えている。場に転がったままの頭を御子に見えないように抱きとめていたはずだが、晴明の背後に立つものを見て優先すべきものを切り替えたようだ。
視線をまた帝に落として、晴明はその背に触れた。帝と呼ぶと、どうにかせよ!、と叫んでいた声が止む。それに微笑んで晴明は自分の背後を見るように示す。
「…神のおなりにございますよ」
は?、と目を見開いて帝は晴明にしがみついたまま覗き込むように顔だけで晴明の後ろを見やり、動かなくなった。小さく溜息をついて晴明も振り向く。身体ごと振り向いたので帝の身体も引き摺るようになったが、誰も気にしていないようだ。当の帝でさえ気づいていないのだから、気にしても仕方ないだろう。
視線の先には見慣れた友の姿があった。荊軻と枉駕。そして長の伴侶である紳。枉駕の肩には四尺ほどの木箱が担がれている。ご丁寧に持ってきてくれたらしい、と晴明は小さく笑んだ。よいしょ、と枉駕が動くと同時に、術者達が一斉に緊縛の呪を唱える。だが、全く気にもしないように枉駕は歩いている。
そんな、と何処からか聞こえたが、それでも呪を唱え続けているのは、まがりなりにも陰陽師なのだという気概からだろう。暗い外から部屋に近づいてくるとその容姿がはっきりと見える。二人とも耳は天に向かって尖り額には真珠色の一本の角がある。その姿、立居振る舞いに至るまで優美で、二人とも眉目秀麗なのは遠目からでもわかる。
枉駕に続いて荊軻までも歩き出し部屋の中に二人が足を踏み入れる。場の全ての視線を注がれて、おやまあ、といつもの穏やかな荊軻の声が唱えられる呪に混じって聞こえた。にっこりと笑って荊軻は小さく立礼する。良い夜ですね、と場にいる者に語りかけた。一度周りを見渡して、晴明にしがみつく帝に目を止める。
「あなたが帝、とやらでございますか?」
少しばかり身を屈めて柔和に荊軻は微笑む。そんな荊軻に僅かばかり緊張が和らいだのか、帝の目が、はっと見開かれる。そうじゃ、とあるだけの威厳を込めた声が聞こえたが、晴明にしがみついたままなのは変わりがない。
これでは威厳も何もないだろう、と笑い出したい気持ちを晴明は必死に堪えた。
「朕が帝、人の国の全てを治める者である。頭が高い!控えよ!妖!」
帝の怒声も荊軻と枉駕には何処吹く風のようだ。おやおや、と一笑に付されている。
「では帝とやらの貴方に、私共の主よりの土産を差し上げましょう。枉駕」
はいよ、と枉駕は肩に担いでいた木箱を軽々と掌に乗せた。
「少しばかり散らかりますが、宜しいですね。どうぞ、御納めください」
笑って荊軻がいうと、ほれ、と枉駕が木箱を投げた。程良く晴明の頭の上を通って場の中心に木箱が転がり、衝撃で蓋が開いた。
ごとん、と転がり落ちた音は一つではない。頭の上を通って行った木箱を追っていた帝とその場にいた者達から悲鳴にも似た声が上がる。箱の中から出てきたのは、腕や足。それを見やって晴明は数名の術者に箱を返すように命じる。ですが、という声を、いいから、と制した。青ざめたような顔をして命じられた術者達が箱を返し、そのまま腰を抜かして座りこんだ。
返された箱からは無数の人の身体であったであろうものが転がり出てくる。ひいっ、と息を呑む帝も目の前に広がる肉片から目が逸らせないでいる。
「かさばりましたので、持ちやすいようにして参りました。先にお届けした贈り物は、お気に召しましたでしょうか」
笑う荊軻と枉駕に向かって、幾人かの術者が攻撃を開始する。唱えられた呪は二つは雷、もう二つは焔に姿を変えて二人に迫っていく。だが荊軻と枉駕は共に小さく首を傾げるとそれらを手で振り払った。まるで埃でも払うかのような仕草に術者が硬直する。
一体、何物なのだ!、と聞こえた声は官吏であったのか術者であったのか。緊縛の呪は続けられているのに、平然と動く二人を前にナニモノだ、と聞きたくなる気持ちは晴明にも分かる。だが、そのナニモノかを招いたのは自分にしがみついている愚帝なのだ。
「おや?帝とやらが私共を探しておると聞き及びましたので、こうして参りましたのですが…。違いましたか?」
「我もそう聞いたのだがな。その箱の中身のものから。さて、逸ったか?」
首を傾げる荊軻に枉駕が同意している。術者や奥方達の目が帝に注がれた。当の帝は歯が鳴るほどに震えあがっている。それでも、どうにか声を絞りだしたのはまがりなりにも帝としての威厳を保ちたかったからだろう。
「…鬼…?…其方たちが世にも美しい鬼の神なのか…?」
震えた声で尋ねられて、二人は手を振って見せた。
「我らなど一介の鬼に過ぎぬ。我らが主の足元にも及ばぬ」
笑う枉駕に縋るような帝の声をが響いた。
「ど、何処に行けば会えるのだ?朕は一目会うてみたいだけだ!」
「おや、どうして会いたいのですか?」
「お…鬼の主は大層美しいのであろう?会うてみて話が分かるものならば、朕の側女としてやっても良いのだ!妖風情には光栄なことであろう?!人の世を統べる朕の寵をうけられるのだぞ!」
帝の精一杯の言葉に荊軻と枉駕が高らかに笑い始めた。だが、その奥でまだ部屋に入ってない紳が、ああ?、と苛立つ声を発した。何が可笑しい!と笑い続ける二人に帝が叫んだが、その顔は片手で覆われた。おい、おっさん、と低く唸るような声に帝の身体がまた冷え切って震え出す。鷲掴みにされた指の間から僅かに見えるのは白銀の髪と黒曜石のような一本の角。かすかに見える顔立ちも、先の二人とは別次元の美しさだ。
「誰が誰を側女にするって?身の程知らずが」
がたがたと震え出す身体から、其方が鬼の主か、と必死に帝は声を絞りだした。それにもまた、はあ?、と声があがる。
「俺なんかが主なわけあるか」
捨ておくように紳は手を振り払う。勢い余って帝がその場に転がってしまい、しがみつかれていた晴明までもふらついてしまう。
本当にこの方は奥方のことになると自制が効かないようだ。
つい小さく笑ってしまうと、荊軻に目で嗜められた。すまぬ、と視線で侘びて、大事ございませんか、と帝を起こす。晴明に助け起こされた帝は全身震えてはいるものの、その顔は真っ赤に紅潮させている。
「この朕に!この朕に何という無礼を働くか!」
叫ぶ帝に紳は一瞥を投げる。鷲掴んだ手を、汚物でも触ったように手拭いて拭いて捨てた。あ?、とまた威嚇されるが帝は帝で自分の身に起こったことが信じられない。今までこんな辱めを受けたことなどない。必死に紳を睨みつける。苛立つ紳が一歩足を進めた時だった。これ、と声がして紳を止める。
いつのまにか部屋の入り口に悧羅が立っている。久しぶりの悧羅の声に晴明は急いで振り向いた。だが、そこで止まる。確実にあの時の悧羅ではない、と思った。
いや、悧羅は悧羅なのだ。だが、何だ?この感覚は…。
微酔いの時にも似ているが…。
「余り虐めてやるでない」
紳に向かって言うその声音さえ、頭を痺れさせる。だって、と言う紳の頬に悧羅が手を伸ばして触れた。
「分かっておる」
艶やかに微笑えむその姿に、場が静まり返る。さて、と衣を返して悧羅は部屋を眺める。歩を進める悧羅に荊軻と枉駕が軽く頭を下げていた。
これが、主だ、とその場の誰もが瞬時に理解する。質素な薄紅の衣が歩くたびに衣擦れの音を立てた。その音でさえ、魅惑へ誘う雅楽のようだ。痩身の身体つきとは裏腹に腰に巻いている帯に豊かな胸が乗っている。
紫の長い髪はさらりと落ちて歩くたびに揺れる。その顔は他の三人とは比べ物にならないほど整い、額には黒曜石の一本の角が輝いていた。
美しい、という言葉では表せない。艶やか、妖艶。どの言葉をもってしても言い表すことのできない美しさに一瞬で心が奪われた。いつのまにか、呪を唱えることも忘れた術者たちは、ただあんぐりと口を開けている。守られていたはずの女、子供、官吏達に至るまでそれは同じだった。
場をぐるりと見回して、悧羅は一つ小さく溜め息をついた。途端、立ち上がっていた術者達は膝を降り、座っていた者たちの身体からは力が抜ける。ぱたり、と倒れ込む者達を見やって小さく微笑む悧羅に術者達もまた崩れて落ちた。
「おやまあ」
笑いを含んだ声は崩れ落ちた者達を官能の世界に誘っていく。それを見やって悧羅は晴明の足元で固まる帝に向き直った。
「其方が帝かえ?」
声をかけられて帝は先程までとは違う震えが立ち昇ってくるのが分かった。
何という存在感。
何という美しさ。
欲しい!
これこそ珍が持つに相応しいモノだ。
「そうだ。其方が鬼の神か?」
応える代わりに悧羅はにっこりと微笑んでみせた。がくり、と身体から力が抜けるのを必死に耐える。
「真に美しい…。朕が持つに相応しい。朕のものとなれ、さすれば金でも銀でも、人でさえも思い通りじゃ!」
訴える帝に悧羅は首を傾げてみせる。途端に、しがみついていたはずの晴明の身体が崩れ落ちた。一緒に帝の身体も崩れたが、どうにか体勢を戻す。けれど、四つん這いになるのが精一杯だ。気を抜けば腕も足も崩れ落ちそうになる。つまらぬな、と悧羅が笑う。迫りくる官能を頭を振って振り払い、何がつまらぬのだ、と帝は問う。
「金も銀も人の支配も、其方がいうものに妾は興を持てぬ」
何故?、と帝が声を張り上げた。
「朕の持つ全ての物を其方にやろうと言うのだぞ?それを手に入れて朕の側女として裕福に暮らせるのだぞ!いや、側女が不満なら正室としてもよい!」
この、と紳の声が聞こえたが悧羅は手を上げてそれを止める。
「…人は其方のものではない」
「いや!この国の全ては朕のものだ!朕あっての民だ!」
訴える帝に悧羅はゆっくりと首を振る。
「違うの。民あっての主だ。そのようなことも分からぬのか?」
手を伸ばして帝の顎に悧羅の指が触れる。そこから全身に痺れが走った。少しばかり顔を近づけてられて、美しい顔が目の前に迫る。
「…痴れ者よの…」
囁くような声と嘲るような笑いを向けられて、帝はぱたりと崩れ落ちた。そしてそれは帝だけではない。帝の横にいた晴明も、背後で見守っていた荊軻も枉駕も、そして紳も。崩れ落ちることはなかったが膝を折ってしまった。
「帝とやら、妾の声は聞こえておるであろ。妾に牙を剥かず従順するならば命は取らぬ。ただし、それを善とせずまだ妾を手に入れたいなどと世迷言を申すならば、この場で国を滅ぼすが良いか?」
選ぶが良い、と聞こえる声もまた帝の身体を痺れさせる。もう一生この甘美な声に包まれていたい。この声を聞けるのならば何もいらないとさえ思う。
「朕を…いえ、私を貴方様の下僕として下さいませ。貴方様のお声を拝聴出来るだけで光栄でございます」
おや、と鈴を転がすように悧羅が笑う。
「愚帝だと思うておったが、少しばかりは賢さも残っておったようだの」
くすくすと笑われて、それでも尚帝は、どうにでもしてくれ、と願ってしまう。
「他のものたちも、それで良いのかえ?」
崩れ落ちていた術者や官吏、女、子どもに声をかけると、御意のままに、と絞り出すような声が彼方此方から聞こえた。
そうか、と又鈴が転がるような笑い声が静かな部屋に響く。荊軻、と不意に名を呼ばれて荊軻は、はっと目を見開いた。顔を叩きつけると、隣で枉駕も紳も同じようにしている。知らぬ間に膝を折ってしまっていたらしい。どうにか立ち上がって、悧羅に軽く礼をするが、悧羅から立ち昇る妖艶さは消え去ってはいない。
また、持っていかれる、と必死に自分を保つ。
「どうやら妾の下僕になりたいようじゃ。後始末は任せてよいかえ?」
「承りました」
恭しく礼を取って悧羅から視線を外す。そうでもしないと自分が何をしでかすか分からない。では我も、と枉駕が名乗りを上げた。枉駕もまたこのまま悧羅と共に帰っては、自分が自分でなくなると恐ろしくなったのだ。
「荊軻だけでは刻がかかりましょう。我も手を貸して参ります」
そうか?、と首を傾げる悧羅から枉駕も視線を外した。
「では、枉駕をお借りいたします。長は紳様と一足先にお戻りになってくださいませ。朝までには片付けて戻りますが、報せは夕刻で宜しいですか?」
「それは構わぬよ。余り気を張るでない。ああ、途中痴れ者がおれば殺すなり喰らうなり好きにするがよろしかろう」
御意、と二人が頭を下げる。できれば一刻も早く悧羅の姿を隠してほしかった。では、と悧羅は紳に手を伸ばす。
「戻るとするかえ?紳」
伸ばされた手を掴んで立ち上がると、紳は無言のまま悧羅を抱き上げた。では頼む、と悧羅の言葉を合図に紳は翔けだした。遠くなる背中を見送りながら荊軻と枉駕はこれは宮まで持たれるだろうか、と心配したがとりあえずこの場から悧羅が去ってくれたことに胸を撫でおろした。
…どう考えても次のお話は18禁を入れないとお話にならないような…。
過激な描写はしませんが、一部どうしても必要かもしれません。
表現って難しいですね。
ありがとうございました。




