限界《ゲンカイ》
ギリギリラインでしょうか?
京の後始末を荊軻と枉駕に任せて紳は悧羅を抱えて一心不乱に宮までの道を翔けた。腕の中の悧羅が時折、紳、と名を呼ぶが視線を落とす事が出来ない。
…やばい、やばい、やばい、やばい!
自分を必死に律するが何処まで保てるか自信は皆無だ。荊軻と枉駕も同じ思いだったのだろう。どうにか悧羅が去ってくれるのを祈っているようだった。
まさかあそこまでだとは思わなかった。
悧羅がいつも人を惑わすための能力を抑えているのは分かっていた。精気を獲りに行かない悧羅には不必要なものだと無意識の内に自制していたのだろう。それでも十分過ぎたのに、今回ばかりは訳が違う。悧羅が人を惑わす、ということを抑えることをしなくなると、こうも容易く人は堕ちるのだ。そしてそれは同じ鬼の紳達でさえ堕とした。守るために共に行ったのに、妖艶過ぎる悧羅の前に膝を折られてしまった。
これが長が長たる所以か、と紳は後悔してしまう。悧羅がそうである、ということは分かっていたはずだった。共にいる中で何度も全てを持っていかれそうになった。それを耐えられたのは悧羅が自覚していなかったからだ。そのままにしておけば良かった、と思う。紳自身が寝た子を起こしてしまったのだ。
くそ、と紳は小さく舌打ちをしてしまう。自覚させなければ時折見せる悧羅は自分だけのものであったのに…。
とにかく急いで宮に帰らなければ、と紳は翔ける速度を上げる。何度も腕の中から悧羅に呼ばれるが視線を返して自分を保てる自信がない。抱き上げているだけでも悧羅からは妖艶な雰囲気が立ち昇っているのだ。見てしまったら最後だろう。
急げ、とにかく急いで宮につけ!
自分を鼓舞しながら翔け続ける紳の頬に悧羅の手が触れた。ただそれだけなのに紳は足を止めてしまう。宮の姿はあと半刻は翔けなければ見えないだろう。紳?、と呼ばれて空を仰ぐ。ここまでか、と苦虫を噛む思いでいると、悧羅が両の頬を包んだ。そのまま紳の顔を自分に向けさせる。
「どうした?大事ないか?何処か痛めたのではあるまいな?」
全力で翔け続けた紳は肩で息をしている。腕の中から心配そうに見つめる悧羅の目は潤んでいる。その表情さえもあらゆるものを堕落させるには十分だろう。
そして、それは紳も例外ではなかった。
もう駄目だ、と紳は大きく息をついた。そのまま高度を下げて森の中に降り立った。悧羅を降ろすと、疲れたのか?、と覗きこまれる。妖艶さを残したままで、もう一度頬に触れられて紳は、ごめん、と小さく呟いた。
「何を謝っておるのじゃ?」
不思議そうに悧羅は紳の頬に触れて笑っている。その手を掴んで勢いのまま紳は悧羅に深く口付けた。余りの勢いに悧羅を押しやって木にぶつけてしまう。けれど、気遣う余裕が今の紳にはない。長い口付けたを終えると悧羅の息が上がっていた。
「…ごめん、悧羅」
もう一度謝ると、だから何に、と聞く悧羅の声が途切れた。代わりに甘美な声が紳の耳に届く。悧羅の中に無理矢理紳が入り込んだからだ。
「…何じゃ?…どうし…っ!」
突然の事に驚いている悧羅にもう一度深く紳は口付ける。口を塞がれた悧羅のくぐもった声がますます紳を痺れさせた。唇を離すと、とにかく宮に戻ろう、と悧羅が乱れた息の中から紳に訴える。それにもう一度、紳はごめん、と謝るしかない。
「…本当にごめんな…、でも、限界…」
一回だけ許して、と哀願されて悧羅は紳の首に腕を回した。
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哀願した通り、とにかく一度で自分を律して紳は宮へ辿りついた。本当なら、もうあのままで良かったが悧羅に負担がかかる。今でさえ紳の腕の中で微睡んでいるのだ。中庭に降り立つと磐里と加嬬が迎えてくれた。
「おかえりなさいまし、長、旦那様」
礼を取る二人に歩きながら紳は、媟雅は?、と尋ねる。つつがなく、という声は加嬬のものだ。
「今は妲己と共にお休みになっておられます」
「そうか、ありがとう」
礼を言うと、とんでもございません、と加嬬の笑い声が小さく聞こえた。
「湯殿もご準備できておりますよ。お疲れでございましょう」
磐里が言いながら紳の腕の中を見やる。と、磐里が止まった。
「今は見ない方が良いよ。持ってかれるから」
紳が笑いながら言うと、磐里ははっとしたように我に返ったようだ。な?、と苦笑されて、そのようでございますね、と磐里は全てを理解してくれたようだ。
「しばらく姫君はお預かりいたしますので。ご心配なく」
その場に留まって頭を下げる磐里に加嬬はきょとり、としている。後で話します、と磐里に言われて加嬬も飲み込んだようだ。同じように紳に頭を下げる。
「明日、いやもう今日だね。荊軻が報せを持ってくると思うけど、無理だって言っといて」
自室の戸を開けながら紳が笑って言うと、承知いたしました、と返された。頼む、と言い置いて中に入るとそのまま寝所へ滑り込んだ。半ば乱暴に自分の衣も悧羅の衣も剥ぎ取ると悧羅の目も覚めたようだ。
ふかりとした布団に自分が寝ている事に気づいたのだろう。宮?、と小さく悧羅は呟いている。うん、と応えて紳は自分の腕の中に収まった悧羅の額に口付けた。
「ごめん、辛かっただろう?」
「…いや…、それは良いのだが…。一体何がどうしたというのだ?」
状況がよく飲み込めない、というように悧羅は首を傾げる。その様からまた妖艶さが立ち昇ってくる。やばい、と紳は悧羅の顔の横に付いていた手で拳を握った。
「…悧羅、それ鎮めて?」
それ?と悧羅はきょとりとしている。
「何の事を言うておるのじゃ?妾の何を鎮めよというのじゃ?」
「いや…、だからそれだって…」
がっくりと項垂れる紳は又全てを持っていかれてしまう。どれじゃ?、と聞く悧羅の中に再び無理矢理に入り込む。息を呑んで悧羅が紳の腕を掴んだ。
「悧羅、今すっごい人を惑わす雰囲気でてるから。お願いだから鎮めてもらわないと、俺が自分を保てないし、悧羅に優しくしてやれない」
「…っ、鎮めると言うても、どのようにすればよいのじゃ?」
腕の中から見上げられるだけでも、紳は自分が沸るのが分かった。どうすればいいのかなど、紳にだって分からない。
「俺も分からないよ?でも責任はとって?」
何の責任だ?、と悧羅が尋ねてくる。紳が入り込んだ事で悧羅の目はますます潤んでいる。そんなの、と紳は笑う。
「俺をこんなにした責任に決まってるじゃないか」
笑う紳の頬に悧羅が触れるとそこからまた熱が沸る。紳、と呼ぶ声を最後に紳の耳には悧羅の甘い声しか聞こえなくなった。
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荊軻と枉駕が里に戻ったのは荊軻の読みどおり朝になってからだった。悧羅に惑わされた帝や陰陽師達はいつまでも夢現で荊軻達の言う事にも否と言うものは一人としていなかった。それはそれで楽なものだったのだが、晴明まで同じような状態であったのには少しばかり難儀したのは事実だ。
「だから忠告したのに。持っていかれるな、と」
枉駕は嘆息していたが、それは無理な話だったろうと荊軻が嗜めた。
「私共でさえ、膝を折ったのですよ?陰陽師とはいえ人の子があれを目にして耐えられようはずもないでしょう」
「…それはそうだな。だがしかし、凄まじいほどの妖艶さだったな。我を失うところであったぞ?」
そうですね、と荊軻も苦笑する。紳が居なければ自分も同じだっただろう。人の子の精気を必要としていなかった分、抑えられていたものが急に花開いた、という感じだった。
「あのままでおられたら、里の民は務めどころじゃなくなるでしょうね」
「そのまま皆堕落してしまうだろうよ。…紳様は大丈夫だったのだろうか?」
いえ、と荊軻は苦笑するのを深めた。あの様子では自分を保てていたとは思えない。無事に宮には着いているそうだが、帰ってきた荊軻に磐里が、しばらくはお出にならないかと存じます、と伝えてくれた。それに一安心したのは荊軻だけでなく枉駕もだろう。
「とりあえず抑えこまれるまで出て来られない方が、こちらとしても都合が良いのは確かですね。…問題はどれくらいの刻を要するか、ですが。長も任せる、と仰せでしたし私共は長と紳様が出て来られた時に粛々と京を差し出せるように整えておきましょうか」
それしかあるまいな、と枉駕も同意するが、少し困ったように先を続けた。すまないが、と言われて荊軻は頷く。荊軻も同じことを考えていたので言いたいことはわかる。
「とりあえず、私共も一旦邸に引き上げましょう。お互いの逑に、このどうにもならない熱を冷ましてもらわなければ落ち着いて務めも出来ませんしね」
「さすが、話が分かるな。実は我も限界なんだ」
笑う枉駕に、私も同じですよ、と荊軻は笑った。だが、あの悧羅に当てられたのだ。しばらくは自分も枉駕も務めどころではないかもしれない。
まあ、同じくらい紳も苦労しそうだから数日ほど場を空けても問題はないだろう。栄州にだけはそれとなく事情を説明する必要があるかも知れないが、どうにかするしかない。小さく息をついて荊軻と枉駕は荊軻の務めの場を出て、それぞれの逑の待つ邸に戻って行った。
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悧羅と紳はなかなか寝所から出てくることはなかった。夜中に湯を使った後はあるので休息は取れているようだ。部屋の前に食餌を置いておくと、いつのまにか空になった膳が置かれている。とりあえず水だけは欠かさないように磐里は寝所の戸の前に水差しを置くことを気に留めていた。
あの日の長は500年側で見守っていた磐里でさえ心を奪われた。紳が持っていかれる、と言った意味はすぐに理解できた。今まで抑えていたものが放たれてしまったのだ。
旦那様が居てくださって本当に良かった、と磐里は胸を撫で降ろす。そうでなけれは、あの悧羅を見たもの全てが宮に押し入り、望まぬ情を交わし続けなければならなかっただろう。もしくは共に行った荊軻や枉駕も例外ではなかったかもしれない。勿論近衛隊隊長の紳も同席しただろうから、もしも契りを交わしていなかったら、お互いに傷を付け合うことになったかもしれなかった。
そう思えば寝所に籠っておられてもさして心配ではない。以前籠った時は食餌も取られていなかったが、今回は食餌も湯も使っている。
だが二人が出て来るにはもうしばらくかかりそうだった。
倖なことに媟雅は磐里と加嬬、そして妲己がいればにこにこと過ごしてくれるし、夜は妲己が守ってくれている。姫君とはいえ本当に手のかからない御子だ。
季節が変わる前に出てきて下されば良いのだけれど、と少しばかり苦笑して磐里は務めに戻る。寒さはまだ強いが珍しく青空が広がっている。雪が溶けてしまうと滑りやすくもなる。今日手伝いに来てくれる隊士達には、その辺りも手伝ってもらった方が良さそうだ。
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腕の中の悧羅が動いて紳は目を開けた。見るとただ寝返りをうっただけのようで、ほっと息をつく。京から戻って以来、寝所に籠ってはいるがなかなか悧羅の雰囲気が戻らず苦労した。何せその度に紳も自分が沸るのを抑えられないのだ。少し休ませろ、と言う悧羅に嫌だと言い何度組み敷いたか分からない。
ようやく悧羅が惑わす妖艶さを自覚してくれたのは昨夜になってからだ。
「これか?」
聞かれて、それだと笑う紳に、ようやく分かった、と悧羅も安堵したようだった。だが、押さえ込んだら押さえ込んだで、いつもの愛しさと可愛いらしさが戻ってきて、結局紳は沸らされてしまう。
「どちらにしても同じではないか」
悧羅は笑ったけれど、そこは悧羅が悪い、と言っておいた。
本当に悧羅が自分と契ってくれていて良かった、と情を重ねながら紳は思った。あんなの耐えられるわけがない。思い出してしまいそうになり、紳は頭を振って妖艶な悧羅の姿を追い出した。その動きで起こしてしまったのか、悧羅がむくりと起き上がる。疲れと微睡みで呆っとしている悧羅に声をかけると、喉が渇いた、と目を擦りながら呟く。はいはい、と笑って水を差し出すと一気に飲み干して、ほうっと息を着いている。
「…消えたかえ?紳を惑わすものは…?」
「うん、消えた」
それはよかった、と悧羅が笑う。その顔に、紳は苦笑する。
「やっぱり消えてないかもしれない」
笑いながら悧羅の頬に軽く口付けると、まだか?、と首を傾げられた。それに、うん、と頷くと、ではもう一度だの、と悧羅が紳にすり寄って来る。それを抱きとめて、紳は声を上げて笑ってしまう。
「何ぞ?」
見上げる悧羅の髪を梳いて紳は言う。
「どんなんでも、悧羅は俺を惑わすんだよ。それが分かった」
「そうなのか?ではそれは妾と同じじゃな。妾も紳にはいつも惑わされておるに」
笑って言う悧羅に、ほらそういうとこだよ?、と紳が言う。
「とりあえずあの悧羅はしばらく封印してくれ。本当に困ったからね?」
「分かった、出さぬようにする」
頷く悧羅に、だけど、と紳は続けた。
「俺にだけは、ほんとにたまに見せて?ほんとにたまにでいいから。でないと持たないからね」
「あい分かった。紳にだけ見せる妾じゃな?」
「そういうことだね」
お互いに額を寄せてつけると、どちらともなく、くすくすと笑い出した。
思いっきり振り切って18禁にするか迷いましたが、多分ギリギリラインでいけたかと…。
引っ掛かったら18禁にしますが、多分…大丈夫?ではないでしょうか?
お楽しみいただけましたか?
ありがとうございました。




