報せ《シラセ》
昨日書けなかった分、取り戻します!
長くなりますが、お付き合いください。
「ちょっと、聞いてんの?」
心ここにあらずな悧羅の額を咲耶は小突いた。はっとしたように悧羅の眼が見開かれ、咲耶と視線が合う。
「何、呆けてんのよ」
話を十分に聞いてもらえていないと思ったのか、咲耶は少し不機嫌だ。すまん、と悧羅は笑い、白詠との出会いを思い出していた、と伝えた。
「びっくりしてたもんね。面白かった。あんたが帰った後も呆けてるし、私にまで長に対しての態度じゃないって説教始めてさ。めんどくさかったぁ」
「それは、お主がしっかりと伝えておらなんだからであろ。妾は白詠が不憫でならなんだえ」
「だって面白いかなって思ったんだもん」
悪びれずに肩を竦めて見せて、咲耶は豪快に笑った。釣られて悧羅も笑ってしまう。白詠の態度は当初に比べれば、随分と軟化した。咲耶の言う通り、突然報せもなく、悧羅が邸にくるのだ。気を張り詰めていては身が持たないと自覚したのだろう。今では、同じ座卓で食餌もするし、他愛もない話もする。言葉遣いだけは、咲耶のように砕けないが、それを求めるのは、拷問に近いかもしれない。
「ああ、そうだった。舜啓がさ、あんたに会いたがってるから、また出てきてくれる?」
舜啓は、齢4つになる白詠と咲耶の子だ。黒髪に、漆黒の眼、真珠色の一本角を持つ、愛らしい男児。
白詠から、悧羅の事は聞いているらしいが、よく理解出来ておらず、何となく偉い人という認識だ。その上、咲耶が万事この調子なので、たまに来る仲のいい友人感覚で悧羅にも接する。なので、舜啓からも、【悧羅】と呼ばれている。焦った白詠が正そうとしていたが、悧羅が構わないと言ったことで落ち着いていた。
まこと、白詠は心労が絶えぬな。
「しばらく会うておらなんだな。近い内に顔を出すと伝えてくれ」
悧羅の返事に咲耶は、わかったと頷き、広げたままだった診療道具を片付け始めた。咲耶と話していると刻を忘れるが、他にも咲耶を待っている者は大勢いる。あまり引き止めるのも気が引けた。手際良く道具をしまっている咲耶を見やっていると、失礼いたします、と戸から声がした。見やると加嬬が伏している。何じゃ、と尋ねると、英州がまた来ているとのことだった。
先刻、分かれたばかりなのに一体なんだというのだ。
考えても分からない。咲耶も不思議そうな表情をしている。通すように命じると、加嬬は案内のために立ち去っていく。
「何だろうね?さっき帰ったばっかりだよ?でも、あんまり良い事じゃないんだろうなぁ、おじいが戻ってくるくらいだもん」
眉根を寄せて咲耶が疑問を口にする。
確かに…。
だが、先刻といっても咲耶と過ごしていた刻は、悠に一刻を過ぎていた。考え込んでいると、廊下から足音が聞こえ始める。悧羅の宮は広い。ただ、歩いて移動していては思うように身動きが取れないほどだ。なので、至る所に呪を施し順序よく辿れば直ぐに目的の場所に辿り着けるようになっていた。聞こえてくる足音は勇ましいもので、一つしか聞こえない。女官たちは、静かに歩くが、気配からして栄州一人だろうと思われた。加嬬に案内不要とでも言ったのだろう。栄州にとっても勝手知ったる宮の中だ。どんどんと足音は近づき、戸の陰で止まった。
「長、栄州にございまする」
先刻、咲耶とは会っているため診療中であっては、さすがに不躾だと分かっているのだろう。突然、部屋に入ることはせず、一旦声を掛けてきた。咲耶は、ほぼ片付け終わっていた筈の診療道具を、いつの間にかまた広げている。どうやら、栄州の話に興味があるようだ。広げられた診療道具と咲耶を交互に見ると、悪戯っ子のように小さく舌を出してみせる。呆れながらも苦笑するしかない。入りゃ、と言うや否や満面の笑みで顔を綻ばせた栄州が、弾かれたように入ってきた。
「長、我としたことが盲点でしたぞ!いやはや、見逃しておった!なんとも情けなや!」
喜びに満ち溢れているのだろう。咲耶の一礼にも気づかずに、栄州は座することもせず話し始める。
「次の夜伽の相手なのですがな、良い相手を見つけましたのじゃ。ほんに、何故今まで忘れておったのか、己を叱責したいほどですぞ」
悧羅は首を傾げ、咲耶は訝しげな表情だが一応は診療道具を仕舞う素振りをしている。
「其方が、そこまで慌てるとは珍しいことよの。じゃが、栄州。先刻、ゆるりとしようと言うたではないかえ」
「そうですとも、そうですとも。我も驚きです。急いで見つけるつもりもなかったのですが、宮を出ようとして出会いましてな。これはもう、天啓というしかござらん。すぐにでも馳せ参じたかったのですが、診療中であろうから、取り敢えずの手筈を整えて参った」
夜伽の相手を見つけるのは栄州だが、万が一、何かあった場合に速やかに対処できるよう、決定には文官、武官それぞれの長の承認がいる。手筈が整ったということは、それぞれの長も承認したということだった。近衛の長が関与していないのは、長の側近護衛という何よりも優先すべき役割があるからだ。
して、と悧羅が先を促す。別段相手が誰でも、栄州が選んだのなら問題はないだろう。
「その天啓の相手とやらは、何者ぞ?」
悧羅の言葉に栄州はますます顔を綻ばせた。
「近衛隊隊長、紳殿にございまする!」
その名に、場の空気が一瞬止まった。悧羅だけでなく、咲耶もまた凍りついたように動かない。しかし、興奮している栄州は、そんな空気など気づいていないらしく両手を大きく開いて嬉々として話し続ける。
「いやぁ、この栄州、これまで気づかなんだことが悔やまれまする。近衛隊隊長に夜伽を命じたことはありましたが、考えてみればあれは代替わり前のこと。それを思い違いしており、紳殿にも任せたと思うておりました。情けなし、情けなし」
…紳、だと?
悧羅は身体が急速に冷えるのを感じた。鼓動が早鐘を刻む。眼前の栄州は、よほど嬉しいのだろう。血の気の引いた悧羅に気付くこともなく、どうやって見つけるに至ったのか語っているが、遥か遠くで話されている気がする。同時に、下腹に鈍く引き攣るような痛みが走った。栄州に気取られぬように、ごく自然に下腹に手を当てると、談笑中は少し離れていた妲己がゆっくりと立ち上がり悧羅の側に侍った。そのまま、頭を膝に乗せ、栄州からの視線が行かぬようにしてくれる。温かな体温を感じて、悧羅はやや冷静を取り戻した。同じように固まっていた咲耶も、妲己に尾で叩かれ何もなかったかのように振る舞い始めた。
未だ、嬉々として話し続けている栄州の名を呼ぶと、栄州も我に帰ったようだった。あいすまん、と詫びてようやく座した。
「…聞くが、近衛隊隊長の紳なのだな?」
「左様にございます」
「手筈が整っている、と言うておったが文官、武官の長の承認も得てあるのじゃな?」
是、と栄州は応え、ただ、と続けた。
「文官の長…荊軻殿が、しばらくは長をゆるりとさせたいと申しておった。なんとか説き伏せましたがな」
言って豪胆に笑う栄州を見やり、悧羅は肩の力を落とした。荊軻は悧羅が長となった時に文官長に任じた。栄州からすれば重鎮たして悧羅に仕える者の中では歳若く、悧羅と変わらぬ程度だ。説き伏せた、というよりは脅し込まれたと言う方があっているだろう。今頃、頭を抱えている筈だ。
「委細、承知した」
短く悧羅は栄州に応えた。全ての長の承認が得られた後では、何を言っても通じない。長という立場で否と言うことは容易いが、それでは不信感を与えてしまうだけだ。兎にも角にも、早くこの場を去ってほしかった。悧羅の応えに、おお、と益々顔を綻ばせ、夜伽の前には一度お目通り願う、と言い残して栄州は辞していく。
足音が聞こえなくなってから、悧羅は咲耶を見た。
「…あんた、顔真っ青よ…」
膝の上に頭を垂れていた妲己も起き上がり、悧羅に身体を擦り寄せてくる。
“主よ、少しお休みになられては…”
小さく震えながら悧羅は妲己の毛並みを撫でた。
…して、どうするべきか…。
ありがとうございました。
楽しんでいただけたでしょうか。