驚喜【捌】《キョウキ【ハチ】》
里長悧羅と近衛隊隊長紳の契りの儀がつつがなく行われた、という報せが民に下ったのは翌日の陽が高くなる頃だった。文官長荊軻の名で報が各里を巡る。慣例であれば、二人で姿を見せるところだが悧羅の身体には子が宿っている。姿を見せるのは、いましばらく待って欲しいとも報されたが民の誰も不満を口にすることはない。
「今が一番大切な時なのだから」
口々に民は悧羅の身を案じて喜びに顔を綻ばせた。長のことだ。子が産まれたら紳とともに里に降り見せてくれるだろう。それを思えば今姿を見れなくとも、つつがなく過ごしていてくれていればよい。
同時に紳への民達の心遣いにも感謝する、と報せを読み上げる隊士はどの里においても頭を下げた。それにもまた、民達は笑みを深くする。あれ程似合いの二人はいない。元々、民達が隊士達に預けた玉も悧羅が配らせたものだ。それが少しでも二人の役に立つのであればこれ以上の喜ばしいことはなかった。悧羅が受け取る事を拒むのではないか、と一抹の不安を抱えてもいたので無事に紳に渡ったと聞いて安堵する。
「これで、長様も少しばかりは安らげようて」
民達は笑い、それぞれの務めに戻る。以前のように酒に溺れ悧羅を不安にさせてはならない。長が自分たちを守ってくれているのだから、自分たちは長を支えていかなければならないのだ。それでも、ふつふつと湧き上がる喜びは抑えきれるものではない。所々で鼻唄が聞こえ始める。それは次第に重なり大きくなり、悧羅の宮へ届けと言わんばかりに里にこだましていった。
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何かしら聴こえてくる音で悧羅は目を覚ました。御簾の中は薄暗く今、里に陽が昇っているのかまだ宵闇なのかも分からない。少しばかり身体を起こすといつもよりも気怠い感じがした。それでも身体を起こして御簾の外を見ようと手を伸ばして、自分の手に付いた疵が目に止まる。
そうだった、と悧羅は御簾を開ける手を止めた。昨夜、紳と契りを結び倖に包まれたまま、幾度となく情を交わしたのだ。この所は、悧羅が子を宿しているためだろうが、紳も情を交わすことを余り善としていない。交わさない、ということではないのだが悧羅の身体を慮ってくれていることは何も言葉はなくとも伝わっている。
だが、昨夜ばかりは違った。お互いに求め合いすぎて交わした数さえ分からない。疲れに沈むようにお互い眠ってしまったのだろう。
気怠くて当然だ、と悧羅は小さく笑って再び御簾を開けようと手を伸ばす。だが、それは成されなかった。
手が御簾に届く前に起こしていた半身がふわり、と浮いた。驚いている間もなく悧羅は紳の腕の中に取り込まれる。
「何処いこうとしてんの?」
抱きしめられた頭の上から紳の声がする。どうやら、起こしてしまったらしい。どこにも、と悧羅は紳の胸に顔を擦り寄せた。さらりとした紳の肌が頬に触れて心地が良い。
「里に陽が昇ってるのか、まだ暗いのか確かめようとしただけ。何だか音も聞こえるし…」
応える悧羅の身体に抱きしめられた腕から紳の精気が流れ込んでくる。
「そんなの気にしなくていいよ。きっとまだ外は暗いはずだ」
そう?、と悧羅が笑って聞き返すと、そうだよ、と笑いを含んだ声が返ってくる。身体は?、と聞かれて、少しだけ気怠い、と応える。
「大丈夫。これくらい何ともないから、あんまり無理して送り込まないで」
正直に言えば精気はありがたかったけれど、紳も疲れているはずだ。余り一度に多く貰っては紳の負担になるかもしれない。悧羅はそれが嫌だった。だが、紳は精気を送り込むのを止めようとしない。紳、と名を呼んで止めようとするが、駄目と一蹴された。
「少し無理させちゃったからな。疲れただろ?」
「そんなに気にしないで。本当に大丈夫。紳こそ疲れてるんじゃない?」
悧羅の問いに紳は、俺?、と笑っている。
「疲れるわけない。ようやく本当に悧羅が俺のものになったのに、疲れなんてあるわけないでしょ。まだ、足りないくらいだよ」
笑い続ける紳に悧羅は胸が熱くなる。それは自分と同じだ。小さく笑って悧羅も紳を抱きしめると、悧羅、と名を呼ばれた。紳の胸から顔を離して仰ぎ見ると軽く口付けられる。
「手、見せて」
言われて悧羅はきょとり、としてしまう。早く、と促されて両手を紳に差し出すと契りの疵が付いた手を紳の手が包んだ。
「…綺麗な手なのに、疵が残っちゃうな」
包んだ悧羅の手の疵に口付けて紳が言う。
契りの疵は消える事はない。何事かで受けた疵は消すことも薄くすることも出来るが、これだけは不思議なことにそのまま残る。互いの存在を自らの魂に刻みこんだ証だからなのか。いつまでも、そこに在り続けるのだ。
余り深く疵をつけたつもりはなかったけれど、悧羅の手には赤い疵がくっきりと浮かんでいる。
「痛かったろう?ごめんな」
謝る紳の顔に包んでいた手が動いて触れた。どうして?、と腕の中の悧羅が言う。視線を返すと艶やかな笑みを讃えた悧羅が紳を見ていた。
「どうして謝るの?…これは私が紳のものだっていう証でしょう?痛くなんてない。例え痛くてもいい。紳につけてもらえる疵だったら、どんなに痛くても構わない」
両手で紳の頬を包んで引き寄せると、悧羅は深く口付けた。だから、と唇を離して悧羅は紳をまっすぐに見つめた。
「だから、謝らないで。謝られると、紳が私と契ったのを後悔してるみたいに思える」
笑って悧羅が言うと、紳も笑う。後悔?、と悪戯に紳は笑顔を深くした。
「それって何?今まで、もう十分過ぎるくらいに後悔したのに、ここでまた俺が悧羅を手に入れたのを後悔しなきゃなんないの?」
冗談でしょ、と紳も又悧羅に口付けた。
「じゃあ、紳を私にもっと頂戴。私だって足りてないわ」
笑って言う悧羅に紳も笑う。これはまたしばらく、この部屋から出れそうにない。
「また、荊軻に叱られるぞ?」
「聞き流すからいい。今は紳さえいればそれでいいの」
「じゃあ又しばらく、部屋から出ないつもり?」
「……そうなるかしら……?」
籠るのが決まったね、と紳が言い二人は可笑しそうに笑った。
二人が部屋から共に出てきたのは、これから七日目のことだ。
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実に七日ぶりに朝議の場に出た悧羅に待っていたのは、やはり荊軻の小言だった。契りの儀がつつがなく執り行われたことは、皆が知っているので、祝いの言葉は述べられたがそれが終わると同時に小言が始まった。紳には聞き流す、と言ったもののなかなか終わらない荊軻の小言に、扇子で隠して小さな欠伸をしてしまう。終いには栄州と枉駕まで加わっての小言が始まり、この場に慣れていない近衛隊副官の達楊が不憫に思えてきた。
しばらくは黙って聞いていたが、これでは本当に終わりそうにない。小さく嘆息して、もう良いではないか、と悧羅は苦笑するしかなかった。何が良いですか、と嗜める荊軻を悧羅は手で制した。
「長く朝議を欠かしたことは、すまぬと言う。なれど、ようやっと契りの儀を済ませたのじゃ。しばらくは、紳と在りたいのはやむをえんであろ?」
「それはわかりますが、限度がございましょう。これが余りにも目につくようであれば早々に紳様には近衛隊に戻って頂きますよ」
全く、と嘆息する荊軻に、それは困る、と悧羅が笑う。
「そう早うに妾から紳を取り上げるでない」
「でしたら、少しばかり自重なさってください」
お気持ちは分かりますけどね、と枉駕に小さく笑われて荊軻も肩を落とした。ほれ、と悧羅も笑っている。
「枉駕もこう言うてくれておるに。そろそろ終いにしてたも」
笑って言う悧羅の顔は倖に満ちている。それを見れば自分の小言は全く耳に入れていないだろう、と荊軻はまた肩を落とした。仕方なく座すと、して、と悧羅が言う。
「里は安泰かえ?」
つつがなく、と枉駕が言う。ただ、と少しばかり考え込むようにしている枉駕に悧羅は眉をひそめた。
「何ぞ、気になることでもあるのかえ?」
悧羅の言葉に、是、と枉駕が姿勢を正す。
「北に貸している手の者たちが、見慣れぬ術者を見かけておるようです。この近隣の者ではないようですが、それなりに長けている者たちだと見受ける、と申しておりました」
ほう、と悧羅は続けるように促す。
「隊士達が退いた後には平賀永之介殿にも接したようです。何故人為らざるものが出入りしておるのか、と。永之介殿は恩恵を受けているだけだ、と応えたそうですが腑に落ちないようであった、と申しておりました」
「何処ぞの者たちかは分かっておるのかえ?」
「京の者であった、と申しておりました」
京、と悧羅はひそめる眉根を深くした。特段何もなければ良いが、この里は京から随分と離れているはずだ。わざわざ術者が来る理がわからない。
だが、京の術者となれば…。
「……陰陽師か……」
呟くように言うと、その場の者が一斉に悧羅を見る。まさか、と栄州がごちたが京の術者といえば間違いはないだろう。里の近隣の術者とは比較にならず妖を滅する術に長け、京に住まう帝を護衛しているはずだ。
だが、ここに来ているのは何故だ?
「…京から来た術者というのであれば間違いはなかろう。何故訪れているのかは分からぬが、何やら意図があるのであろうの」
開いていた扇子を閉じて悧羅は、荊軻、と呼ぶ。は、と荊軻が頭を下げた。
「気取られぬよう、陰陽師たちの動きを見や。まずは何故この里の周りで見るのかを確かめねばの」
承りました、と荊軻が頷く。
「良いか、決して気取られるな。こちらから諍いを起こす事はない。…枉駕、達楊」
視線を返すと枉駕と達楊が頭を下げる。
「隊士達に命じ里の警備を固めや。里の民にも重々気をつけるように伝えよ。妾の結界がある故、里に入られれば分かるが妾が場に着くまでは刻もかかろう。各々に身を守るように、と」
御意、と深く二人が頭を下げた。
まずは、この程度しか出来ないだろう。頼む、という悧羅の言葉で朝議は締まる。場の全員が辞したのを見やって悧羅も部屋を出た。
ようやく近隣の人の子が鬼の里との共存共栄を望んだというのに、まとまりかけたものを狂されるのは避けたい。けれど、どう考えてみても陰陽師の意図が分からない。悧羅が京に手をだしていたのなら分かるのだが…。
「……よう分からぬな」
ごちるように呟いて、なるようにしかならない、と悧羅は嘆息するよりなかった。
じっとりとした天気ですね。
また雨が降るのでしょうか。
悧羅と紳は甘くなってますが、また問題が起こりそうです。
ありがとうございました。




