驚喜【漆】~契り~《キョウキ【シチ】~チギリ~》
暗闇の中にたった一つ、丸い月が浮かぶ夜だった。空を仰ギ見て、良い夜だ、と悧羅は小さく笑う。どうやら易者の言っていたことは間違っていなかったようだ。昼間は暑かったが、今は涼しい風が悧羅の身体を撫でていく。
朝から宮の中は慌ただしかった。加嬬や磐里の指示のもと、日頃から宮に出入りしない者たちも、支度のために入っていたからだ。一通りの支度を終えて、やっと宮には静けさが戻り、悧羅も加嬬と磐里に促されて湯浴みを終えた。湯浴み、というよりは身を清められた、と言う方が正しいかもしれない。
500年前にも同じように清めてくれた、と身体を二人に預けて悧羅は思い出していた。だが、今日の二人はともすれば泣き出しそうであったので、声をかけるのも憚られた。それだけ近くで悧羅に仕えてきてくれたのだ。
ありがたいものだ、と二人に心の中で礼を言う。
身体を清められて真っ白な衣に袖を通し、契りの支度を整える。あまり豪奢にするな、という悧羅の思いも二人はしっかりと分かってくれていた。里の民達と変わらないような支度に整えてくれる。髪を結えられて飾りをつけようとする加嬬に悧羅は小さな木箱を手渡した。渡された加嬬にも中に何が入っているのか分かったのか、長、と声をかけてくる。それに笑って、これがいい、と伝えると静かに頷いて結えてくれた。
本当に色々なことがあった、としばらく懐かしむように思い出を辿る。沢山の思いが交錯して、気を抜けば涙が溢れそうになる。
ここで泣いてしまっては、せっかく整えてくれた加嬬と磐里に申し訳が立たなくなってしまう。
大きく息をついて気持ちを整え、自分の下腹に手を当てた。まだ目立って膨らんではいないが、ここに確かに紳の子がいる。腹の疵は消えることはないだろうが、紳が精気を分けてくれているお陰なのか以前よりも痛んだり、引き攣れることは少なくなってきていた。
これもまた、今日を迎えることが出来るために通る道だったのかもしれない。
そう思えば悲痛でしかなかった疵も愛おしく思えるから不思議なものだ。
風に当たっていると背後から、長、と声をかけられる。振り向くと磐里と加嬬が立っている。
「紳殿のお支度も整いましてございます」
少しばかり頭を下げて付いてくるように促される。頷いて二人の後を着いていくと、一つの広い部屋に通された。こんな所があったのか、と悧羅は苦笑する。基本的には自分の部屋と湯殿、朝議の部屋しか行き来していなかったので、悧羅自身、宮の中にどれだけの部屋があるかは知らなかった。然程、興味もなかったという方が正しいけれど。
真っ白な壁の部屋の中心に真っ赤な膳が一つ。その上には白い絹の布がかけられていた。その奥に御簾がかけられ寝所が整えられているのがわかる。中に入るように促されるが、ふと足をとめる。今悧羅たちが来た方向とは反対のほうから、愛しい声が聞こえたからだ。待っていると、廊下の先から紳が歩いてくる姿が見えた。その周りには別の女官が侍り、歩く紳の衣を整えている。
「もういいって」
うんざりとしたような紳の声に思わず笑いが溢れた。紳も悧羅と同じように清められてしまったのだろう。紳にしてみれば、誰かに身体を清められることなど無かっただろうから、気が疲れるのも仕方のないことだ。歩きながら視線を返して悧羅を見つけたのだろう。悧羅、と笑いながら声をかけてくれた。女官達は悧羅を見るなり伏して控えた。紳だけが歩を進めて悧羅の側までくる。
「大変だったようじゃの」
笑っていうと、困ったもんだ、と紳も笑う。紳の背後では伏したままの女官達に磐里が宮を下がるように伝えている。紳の支度まで手伝ってもらうつもりだったのだろう。磐里の言葉で女官達は下がっていった。それを見て、やっと自由になれた、と紳が息をつく。その姿が可笑しくて悧羅はまた笑ってしまった。そんな悧羅を紳は、じっと見つめている。どうした?、と尋ねるが、いや、と少しばかり戸惑うような顔をする。首を傾げている悧羅の額に紳は軽く口付けた。
「……本当に綺麗だなって、見惚れてた」
そうか?、と笑う悧羅の髪で白銀の組紐が揺れるのを見て、それ、と紳が小さく呟いた。
「…捨ててなかったんだ…」
組紐には赤黒い染みもある。あの時の血だ、と紳は悧羅の頬に触れた。
「捨てられるわけがなかろう?其方が妾にくれた、とても大切なものだ。…これまで、妾を支えてくれたものでもあるでな…。本来であれば其方に返さねばならぬところだったのであろうが、汚してしまっておるし、手放せなんだ。許してたも」
頬に当てられた手を包んで悧羅は言う。紳の胸の中が熱いもので溢れた。あの時以来見ることはなかったから、とっくの昔に捨てていたのだと思っていた。組紐を付けない悧羅の中では、紳との事はもう終わったのだと、立式の姿を見て感じたのを覚えている。だが、違ったのだ。
「…少しでも…支えになれてた…?」
視線を悧羅に落とすと、とても、と美しい笑顔が向けられる。それが本当なら、どれほど報われるだろう。見つめ合う二人に、お二人とも、と磐里が声をかける。
「そろそろ皆様お集まりになります。中へ」
促されて二人は共に中に入る。赤い膳を挟むようにお互いが座した。それを見やって磐里は膳の布を取る。
そこに置かれていたのは、小さな小刀だ。優美な掘りが施されたそれを紳も悧羅も見たことがある。500年前に悧羅の腹に突き立っていたものだった。そういえば、荊軻が契りに用いるものだと言っていた。咲耶が取り除いた後に、丁寧に磨き直して、今まで保管していてくれていたのだろう。
これもまた、500年前からの繋がりなのかもしれんな。
小刀を見つめていると、加嬬が部屋の戸を開いた。紳と二人で入り口へ視線を移す。厳かに荊軻、咲耶、妲己が入り二人の前に座す。加嬬も中に入り戸を閉めて磐里と共に三人の後ろに座した。
それを見やって悧羅は紳を見る。小さく笑って紳は小刀を手にして自分の手首に軽く傷をつける。次に悧羅の手を取って同じように傷をつけた。つけられた傷から僅かばかりの血が滲む。
つけられた傷に紳が自分の傷を重ねた。契りの義とは、ただこれだけだ。逑となる者と自分の血を混ぜる。それだけで身体に互いが唯一無二の存在であることが刻まれる。混ざり合う血に思わず涙が溢れるのを、悧羅は堪えることができない。
これまでの500年が浮かんでは消え浮かんでは消えていく。
それは紳も同じだった。
混ざり合う血から悧羅の500年が流れ込んできて、自分の想像を遥かに凌駕する思いに胸を締め付けられるようだった。重ねた手に悧羅が空いた手を重ねて血を止める。引いた手に血と疵は残っていたけれど、新たに湧き出す血はない。
その姿を見守っていた荊軻が恭しく伏す。後の四人もそれに従った。僭越ながら、と荊軻が口を開いた。
「契りの儀、しかと見届けさせていただきました。長、並びに紳様におかれましては心よりお慶びを申し上げます。これより先、良き倖がお二人にありますよう祈念申し上げます」
荊軻の言葉が終わると皆一斉に頭をあげる。それぞれの目には涙が浮かんでいた。それは、この場に立ち会った者達が500年待ち望んだものであったから。
「では、私共はこれにて」
もう一度全員が伏して部屋を辞していく。残された紳と悧羅はしばらく何も言うことができなかった。ただ、お互いの手に着いた傷と血を見つめるだけだ。
しばらく見つめていると、紳が動いた。何も言わずに悧羅を抱き上げて寝所へ運ぶ。そのまま布団の上に座り悧羅を膝の上に置いた。やっとだ、と絞りだすような紳の声がした。
「…やっと…。500年、辛い思いさせてごめんな」
悧羅は首を振る。
全てがこの時に繋がっているのだとしたら、辛くなどない。
「…俺がいるから…。悧羅が泣きたい時も、苦しい時も、いつも側にいるから。なにがあっても、絶対に護ってみせるよ。…だから、俺の前でだけは気を抜いて。誰にも見せない悧羅を俺だけに見せて」
紳の言葉に悧羅は涙が溢れる。もう、一人で泣く夜は来ないのだ。望まない夜伽を繰り返す必要もない。手を伸ばせばすぐそこに、焦がれてやむことのなかった者がいる。いつも腕に包んでもらえるのだ。
紳、と悧羅は名を呼んだ。ようやく、と思うのは悧羅も同じだ。
妾は、と言いかけて口を紡ぐ。紳の前でだけは以前の自分を取り戻したかった。
「…ようやく、は私も同じ。紳に焦がれて焦がれて、でも言えなくて…。自分だけが苦しんでると思ってた。私の方こそ、苦しめてごめんなさい…」
口調の変わった悧羅に、紳は微笑んだ。それでいい、と笑う。
「…苦しくなんかなかったよ。悧羅の苦しみを思えばなんて事はなかった。焦がれて身を焼かれそうになっていたのは俺も同じ。諦めようって、届かないんだって何度も言い聞かせたけど、どうしても無理だった。思えば最初から俺は遠慮なんてしてなかったけどな」
うん、と悧羅は笑う。流れ落ちる涙を唇で受け止めて、あの頃には戻れないだろうけど、と紳は言う。
「それでも、あの時以上に悧羅を倖にしてみせるから。だから、ずっと俺だけの悧羅でいてくれるか?」
悧羅は静かに頷く。元より悧羅は紳だけのものなのだから。
「私はずっと紳だけの者よ。お願いだから二度と離さないで」
うん、と紳が頷く。そのままどちらともなく深く口付けた。膝の上に置かれていた悧羅がまたふわりと浮く。ゆっくりと静かに紳は悧羅を布団に横たえた。子を宿しているとはいえ、今日ばかりは我慢が効きそうにない。
「何度も言ってるだろ?俺は悧羅だけのものだから何処にも行かない。悧羅が誰かに目移りしそうになっても引き戻す。絶対に離さない」
腕の中から悧羅が紳の首に腕を回した。
「じゃあ、もう一度約束して。私の全てを紳にあげるから、紳の全部を私に頂戴。他の女なんて目にもいれずに私だけを見てて。そうでないと、紳が他の女のと情を交わすのば耐えられないから」
悧羅の言葉に紳が深く口付ける。
「里一番の女を手に入れたんだ。他の女なんて興味もない。信じて、俺が惚れてるのは悧羅だけ。抱きたいと思うのも悧羅だけだから」
いいね?、と聞かれて悧羅は頷いた。
静かな契りの場所に、互いの想いを確かめ合う音が響いた。
今日はここまでしか更新出来そうにありません。
ありがとうございました。




