兆候《チョウコウ》
おはようございます。
今日も雨です。
戸から流れ込む生温い風で悧羅は目を開けた。雪の時期を里はどうにか乗り切り、いつのまにか空は高く青くなりつつある。流行病も今までに比べれば拗らせる者も少なかったと聞いていた。心配していた冬の備えも民達で助け合い、分け合いながら過ごし折を見ては少しずつ蓄えたそうだ。結果として悧羅が国庫を開けることはなかった。
良いことではあるな。
まだ微睡んだままの目を擦りながら開け放たれた戸の外をみると、青い空が見えた。
また、暑い時期になりそうだの。
ふと気づくと手に親書を握りしめていた。そうだった、と悧羅はようやく思い出す。人の国である北の平賀永之介から、冬の間の鬼の里からの支援について礼を述べるものだった。荊軻から受け取って読んでいる間に眠ってしまったらしい。
身体を起こそうとすると、ふわりとした毛並みに包まれていた。
“お目覚めですか?”
どうやら妲己に寄りかかって眠っていたようだった。
「すまぬ、重かったであろ?」
身体を起こして妲己を撫でると、全く、と笑うように妲己は応えた。
“我の主は羽よりも軽うございます。舜啓や佟悧に越されてしまいまするよ”
そこまではなかろう、と悧羅も笑う。お疲れでございますか、と問われるが、そうではない、と悧羅は応えた。
別段疲れているわけではない。ただ、この所気づけば微睡んでいることが多くなったのは確かだ。季節が移ろう時には食も細くなるが、それもいつもより酷いような気はしている。けれど、どれも大したことはない。多少の気怠さはいつものことだ。
「暖かくなってきた故、つい気が緩んでおるのであろう。妲己に触れると心地よいでな」
笑って妲己に再び、ぽすりと身体を埋めた。柔らかな毛並みと暖かい妲己の体温で、また微睡みそうになる。
“もう少しお休みになられては?何某かございましたら、お起こししますので大事ございませんよ”
長い三本の尾で身体を包まれて、悧羅も小さく息をついた。ほんとうに眠ってしまいそうになるが親書の返事も認めなければならない。そうそう休んでばかりもいられないのだが、尾で優しく身体を叩かれると抵抗できなかった。
そのまま、悧羅は再び眠りに落ちて行く。それを認めて妲己も頭を垂れ、悧羅と共に休むことにした。
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次に悧羅が目を覚めを覚ましたのは、もう夕暮れだった。流石に眠りすぎている、と自分に苦笑するしかない。
これでは、童のようだ、と悧羅は自嘲した。今日一日をただ眠って過ごしてしまった。親書の返事も認めていない。
明日には荊軻に渡さなくてはならないのに、さて、どうするか。
考えてはみたものの認めるしかない。妲己から身を起こして卓に向かおうとすると、灯を灯すための油を持って磐里と加嬬が来た。
「あらまあ、お目覚めでございましたか」
油を注ぎながら磐里が笑っている。
「大分眠っておったようじゃの。すまなんだ、変わりはなかったかえ?」
悧羅が詫びると、特段なにも、と磐里が応える。
「あまりに心地良さそうに妲己と共に眠っておられましたので、少しばかり心配いたしました。お加減でもお悪いのではないかと」
「妲己にもそう言われたがの、そうではないのだ。何となくこう眠うなるというか、物忌み前の気怠さかのう」
「そうであれば安心いたしますよ。湯浴みはどうされますか?」
そうじゃの、と悧羅も少しばかり考える。紳とばかり入っていたが、今日は少し遅くなると言っていた。先に済ませていても問題は無さそうだ。
「紳も遅うなるというておったに。もらうとしようかの」
親書を認めるのは後でも良いだろう。悧羅の言葉に、はい、と加嬬が応える。手早く支度を済ませると、悧羅を湯殿に案内した。身体を丁寧に清められて湯船に浸かると広く感じてしまった。いつも、二人で入っていたから一人で入る湯殿はこんなにも広かったのかと、改めて思う。だが、少しばかりの淋しさも感じている。紳が側にいることが本当に当たり前になってしまった。
「本当にお疲れなのではないのですか?」
髪から首、肩にかけて香油を塗り込みながら加嬬が聞いてくる。大事ない、と伝えるがやはり心配そうだ。
「この所、食もますます細くおなりでございますし…。里に降りられることも多なっておられます。長は大事無いと仰せにございますが、気付かぬところで疲れというものは溜まってゆくものですよ」
そうさのぅ、と悧羅も応えたが加嬬の手が心地良すぎてまた眠くなりそうだった。
「夕餉は少しばかりお召しになってくださいまし。長が召し上がらないので紳殿もご心配なさって、いろいろと買てきてくださっているのですから」
「わかったわかった。果実くらいなら入るであろ」
笑いながら加嬬に伝えると、はい、と嬉しそうに笑っている。悧羅の髪を結えあげて、ごゆるりと、と湯殿を出て行った。今のうちに磐里に果物を用意するように伝えるのだろう。
ぱたぱたと走る後が聴こえている。
そういえば、と悧羅は思う。紳が共にいるようになってから三度目の季節を迎えようとしている。夜伽の任が紳に下ったのは暑い日だった。あの時には、こんなにも穏やかな日々が過ごせるとは考えてもいなかった。咲耶の出産に立ち会った時、握られた手はいつまでも痺れていたのを思い出す。佟悧を抱いて出てきた悧羅を見て紳は本当に嬉しそうにしていた。
できれば、と思う。
やはり出来ることなら紳にも子を授かる機会を与えたい。悧羅とでは望めぬものを諦めては欲しくない、というのは悧羅の本音だ。だが、紳は承諾しないだろうし、悧羅も今はまだ紳の手を離すことができない。紳は悧羅と共にいれればいい、と言ってくれてはいるが、そうであれば契りを結んだほうが良いのかとさえ時折考えてしまう。
とはいえ、まだ焦る時ではないのかもしれない。
ただ、悧羅がそう思いたいだけなのかもしれないけれど。
広すぎる湯殿の中に淋しさだけが募って、悧羅は湯を上がった。脱衣場では加嬬が待っていた。
「ごゆるりとおできになりましたか?」
笑顔で迎えられて悧羅も頷く。
「広すぎてなにやら淋しゅうなってしもうた」
身体を拭いて衣を着せてくれながら加嬬が笑う。濡れた髪もまた丁寧に拭き取って櫛削ってくれた。
「紳殿がおられぬと、お淋しゅうございますか」
「そうじゃの。これだけ共におれば、おらぬことの方が何やら不可思議に思えるの」
そうでございますか、と加嬬は湯殿を出るように促す。加嬬の後に着いて歩き自室に戻る。卓の前に座るといつものように又、髪を丁寧に結えてくれた。
「私共も、紳殿とおられる長を見れますことは大変嬉しゅうございます。ほんに、良い方であらせられますもの」
そういうものか、と悧羅が聞くと、はい、と笑顔のまま加嬬はいう。
「では、冷たいものと果物を持って参りますね」
結え終わった悧羅の髪を流すように梳かして加嬬は出て行った。仄かに灯る灯の中で、悧羅は筆をとった。先延ばしにしていた北の国への親書を認めるために。
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悧羅の身体を本格的な気怠さが襲ったのは、中庭の樹々が青々とした葉を繁らせる頃だった。
何かがいつもとは違う、とは思ったが身体を動かせないほどではない。朝議の支度を済ませて紳とともに場に入る。荊軻の報せを受けながらも座っていると眠けが押し寄せてくる。込み上げる欠伸を必死に堪えてはいるが、座っていることさえ気怠くて肘掛けに身体を預けた。悧羅が身じろぎするのが分かったのだろう。紳が振り返って、長、と声をかけてきた。
「少しばかり気怠いだけじゃ。すまぬが、しばしこうさせてたも」
「それは構いませぬが…」
だが、紳の目に映る悧羅の顔色は青白い。昨日まではこうではなかった。食はおちていたが、いつものことだと言われていたし、紳が買ってきた果物だけは食べてくれていたので安心していたのだけれど。
おかしい、と紳は直感的に思った。昨夜みた蓮の華はまだ美しいままで悧羅の肩に咲いていた。情を交わす度と、悧羅が眠った後は紳の精気は少しばかり送り込めている。だが、どう見ても今、目の前にいる悧羅は弱って見えるのだ。そういえば、紳が務めでいない間はよく眠っていると磐里と加嬬は言っていた。夜伽の疲れかと思っていたが、それもどうやら違うようだ。
悧羅にたずねたところで、物忌み前だ、いつものことだ、と言われることはわかってはいるが、どうにも気になってしまう。荊軻に声をかけると、静かに頷いている。
「長もお疲れのようですし、今日はここまでに致しましょう」
恭しく、礼をとって心配する栄州と枉駕を伴って部屋を出て行く。
二人で部屋に残されて紳は悧羅の側による。
「悧羅、どうしたの?しんどいでしょ?」
紳は聞くが悧羅は大事ない、と立ちあがろうとする。けれと、ぐらりとその身体が傾いて、紳は慌ててその身体を受け止めた。
「すまぬ、衣の裾を踏んでしまったようじゃ。もう大事無い故、務めに戻りゃ」
悧羅は笑ってそう言うが悧羅が衣の裾など踏んでいないことは、すぐ近くにいたのだから分かる。
「ちょっと、ごめんな」
悧羅の額に紳は手を当てて精気を探る。元々、余剰などなかったが、それでも紳が送り込んだ精気はそれなりにあったはすだ。だが、それを触れることが紳にはできない。それどころか、微量ではあるが生命が削られ始めている。
どういうことだ?
紳が側にいる以上、精気が枯渇することも、ましてや生命を削るなどということはないはずなのに。
「大事無いと言うに。ほんに其方は妾に甘すぎるのじゃ」
悧羅は笑って紳の手を額から外す。確かに悧羅はそこにいる。
だが、紳は目の前の悧羅が消えそうな気がして身体の芯が冷えるのを感じた。
………失うかもしれない………。
考えたくもない思いが一瞬で紳の頭を支配する。震え上がりそうになる身体を必死に抑えて紳は悧羅を抱き上げた。どうした?、と悧羅は紳の頬に触れる。紳の顔色が真っ青になっているからだ。悧羅を抱き上げたまま、紳は朝議の場を出る。そのまま悧羅の自室に向かいながら磐里と加嬬を呼んだ。何事か、と二人が出てくる。
「悧羅の具合があまり良くない。寝所を整えてもらえるか」
なんとまあ、と二人も青ざめて急いで寝所を整えている。紳、と悧羅が呼ぶが紳は黙って首を振るだけだ。主よ、と擦り寄ってきた妲己にも頼みがある、と言っている。
「咲耶を連れてきてくれ。今なら里の診療所にいるはずだ。頼めるか?」
いつもなら紳に言われると毒づくのだが、妲己も悧羅を見て毛を逆立てている。承知した、と妲己はすぐに翔けだした。寝所の用意が整った、と磐里に言われ紳は布団の上に悧羅を座らせる。すぐに、磐里と加嬬が悧羅の衣を取り寝間着に着替えさせ、横になるように促した。大事無い、とここでも言うがなかなか聞き入れてもらえず悧羅は困ったように笑うしかない。仕方がないので、温かい茶をもらえるか、と頼むと、すぐに、と二人は急ぎ足で部屋を出て行く。それを見送って紳は悧羅の前に座った。いつから?、と悧羅は尋ねられたが何のことかよくわからない。
「いつから具合悪かったの?」
悧羅の手を取って紳がもう一度聞く。
「悪い、というわけではない。いつもの気怠さがあるだけじゃ」
「そんなわけないだろう?確かに昨日までとは違うんだよ」
祈るような紳に、悧羅はもう一度、大事無い、と伝える。
「加嬬も申しておったが、この所いつもとは異なることばかりであったからの。妾の気付かぬところで疲れておっただけであろう。少しばかり休めばすぐに戻る。案ずることなどないぞ」
でも、と心配する紳に悧羅が軽く口付ける。
「大事無い。何かあればすぐに其方に伝えるように致す故。咲耶もくるのであれば、それを待つこととしようぞ。紳も務めに戻りゃ。隊士達が待っておるであろ」
「務めどころじゃないんだけど…」
本当に務めどころではない。今、悧羅の側を離れることの方が紳には不安でしかない。だが悧羅は首を振る。
「そう言うてくれるは嬉しゅうなるが、紳を待つ者がおるのじゃ。行ってやらねば不安になろう。妾は其方が帰るまで床についておると約束するでな」
もう一度、紳に口付けて悧羅は笑う。諦めたように紳が溜め息をついた。わかった、と仕方なく頷いて悧羅を抱きしめる。
「何かあったら、すぐに報せて。それも約束してくれたら仕方ないから務めに行くよ」
承知した、と微笑む悧羅に紳が深く口付けて身体を離す。じゃあ、行ってくるから、と紳が立ち上がると加嬬と磐里が茶を持って入ってきた。二人に頼む、と言い置いて紳は中庭から翔けだして、瞬く間に姿が見えなくなった。
それを見届けると悧羅の身体から、すとん、と力が抜けた。
長!、と呼ぶのは磐里だったか、加嬬であったのか。
それも分からないまま悧羅は意識を手放してしまった。
災害も起こっているようです。
皆様がご無事でありますように。
ありがとうございました。




