栄州の思い
暑いですね。ご自愛ください。
栄州は悧羅の自室を出た後、足早に宮を出ていた。
特に何か急いでいるわけでもないのだが、考え事をすると、足早になるのは栄州の若い頃からの癖だった。
まったく、長にも困ったものだ。
出てきたばかりの宮を眺めやって、一つ溜め息をつく。別段、言葉にしているよりは子を授かれないことを重く受け止めてはいなかった。悧羅が長として立ってからの里の繁栄は目覚ましかったし、近隣の人の子の国への牽制も見事だった。先代が身罷った直後は、鬼神の命運もここまでか、と諦めた。それが、今はどうだ。街に出れば子鬼らの陽気な笑い声が響き、どこの邸からも笑い声が絶えない。活気が溢れているのだ。
若くして長となった悧羅に、相談役としての役目を賜ったが、いってもそれは形式上のようなものだった。危うさを感じとる能力に長けているとでもいうのか。何かを決定する時に、栄州を含め、文官や武官の長が幾つか案を申し出るのだが、悧羅はその中から常に最善の策をとってきた。
時には、栄州らの案を全て反故にし自らの指示のみで動いたこともある。
それらのいずれもが、今の里の豊かさに繋がっている。功績だけ見れば、最良の主を得られたと天に感謝すらしたい。
だからこそ、だ。
500年という決して短くはない時間を、鬼の民を守ることに費やした悧羅だからこそ、我が子を腕に抱く権利がある。長という重圧から、少しでも癒されるように、良縁があれば契りを結んでもらって構わない。
だが、当の悧羅本人にその意思がない。
子を持つことでさえ、半ば諦めているような事を言ったりもする。
たしかに500年、毎月相手を変え夜伽の手配をしているが、子を宿す気配さえない。普通ならば、諦めても仕方ないだろう。それでも。
それでも、栄州は諦めることができない。形だけの相談役とはいえ、500年も間近で悧羅を見てきたのだ。
幸せになってもらいたい。
栄州
いつしか栄州は、悧羅を娘のように思うようになっていた。民を纏め上げる長に対し、自分の娘のようだなどとは烏滸がましいのもわかっている。しかし、鬼神の寿命は果てしなく長い。平然と1000年は生きる。今の悧羅の治世であれば、もっと長く長の地位に立つことになるかも知れなかった。どんなにが年齢の割に活気溢れていたとしても、悧羅よりも先に天に召されるのは明白だ。残された悧羅が、寂しく時を刻まないように。それだけを思って、夜伽の相手を選別していた。
どこかに、いないだろうか。
悧羅を1人の女として慈しみ、共に生きてくれるものが。
足早に歩いていた歩をとめて、栄州はまた背後の宮を眺めた。
まあ、そんなに簡単に見つかるようであれば苦労はしていないな。
自嘲気味に小さく笑って、歩を進めようとした時だった。威勢のいい声と、武器を打ち付ける音が耳に入った。音の方に視線を向けると、鍛錬場がある。
ふと、見に行ってみようと思った。特段急ぐ用事があるでもなし、相談役となってから隊士達の鍛錬を見に行く機会も少なかった。鍛錬場へ身体の向きを変え、歩を進めていく。近づくにつれて、隊士達の声も聞き取れるようになる。鍛錬場の強固な扉を押し開けると、屈強な隊士たちが1人の男に向かっていっている。
あらゆる方向から攻撃を受けている男は、まるで遊んでいるかのように、笑いながら軽々とかわしていた。
「ほらほら、どうした。打ち込んだ後が、がら空きだぞ」
言うや否や手にしていた大刀を一振りする。男に向かっていた、その他大勢は、一瞬ののちに地面に伏していた。
「おいおい、まさかもう終わりか?」
笑顔を絶やさずに伏したままの隊士たちの頭を、大刀の柄でこづいていく。
情けねぇなあ、と笑う男に、伏したままで、手加減してくださいよ、という声があちらこちらから上がる。
「十分、手加減してやってるだろうが、ほら、立て。もう一戦だ」
促されて、伏していた隊士たちは渋々と起き上がり始める。休息を希望します、と、その中の1人が手を挙げて男に乞うた。それに、仕方ねえなぁ、と持っていた大刀を肩に担ぎながら男は笑っている。
「四半刻だ。そのあと、打ち込みからやり直し」
笑いながら隊士に告げる男に、鬼め!、と声が上がる。それにも笑いながら、鬼ですが?と返されて、隊士たちも笑いながら立ち上がる。少しでも休息と水分を取らねば、やっていられなかった。水場に急ごうとして、隊士の足が止まる。そして、一様に片膝を付いた。
「なんだ?どうした?早く行かねえと刻なくなるぞ」
隊士たちを促そうとして振り向くと、鍛錬場の入り口から近づいてくる栄州がいた。
なるほど、それでか。
男が栄州に軽く会釈すると、栄州も、頷いて返す。
「珍しいところでお会いしましたね、栄州殿」
二尺ほど離れた場所に立った栄州に、男は笑みを浮かべた。
「なに、宮に寄った帰りに勇ましき声が聞こえてな。老齢であるにも関わらず立ち寄ってしまった。鍛錬の邪魔をしたのではないか?」
笑みを返す栄州に、とんでもないと男が返す。
「丁度、休みを取らせようとしていたところでしたから。ほら、お前ら行っていいぞ」
跪いていた隊士たちに、手をひらひらと振って促すと隊士たちは立ち上がり栄州に礼をとって場を離れる。
「こんな良き日に鍛錬とは。近衛隊の者たちは熱心だな。感心感心」
隊士たちが去るのを見やりながら、栄州は微笑んだ。
その姿を一緒に見やりながら、男は溜め息をつく。
「軟弱すぎて困ります。平和呆けもいいとこですよ。こんなだから、先の妖騒動なんぞに長が出向くことになったんです。徹底的に鍛えなけりゃ、近衛は務まりません」
なるほど、と栄州は頷いた。数週間前に人の治める南の国で、大蛇が5体暴れたことがあった。丁度、辺境を見廻っていた近衛の一部隊が応じたが、相手にならなかったのだ。自分の隊の事だと、長に詫び男が場に向かう前に、長が出向き一瞬の内に大蛇5体を消し去った。しかも、消し去るだけでなく、大蛇の類稀なる精気を全て小さな玉に変えて、傷ついた隊士たちに与えてくれた。それだけでなく、余った玉は全て均等に里の民に配られたのだ。
怪我や病に効く玉など、そう簡単に採れるものではない。それを、掌に乗る程度の小袋に溢れんばかりに詰めこんで、惜しげなく民に配ったのだ。民は歓喜し、応じた部隊も事なきを得たが、本来、長を守るべき近衛隊が、逆に長に守られるなど恥辱以外の何物でもない。近衛隊をまとめる者として、男は再度決起したのだろう。
しかし、見れば見るほど良い男だ、と栄州は男を眺めた。栄州も小柄な方ではないが、男を見上げなけらばならない。背丈は*五尺七寸といったところか。巨漢な方ではなく、むしろすらりとした体躯だが、どこも均整がとれている。白銀の髪は綺麗に整えられ、瞳は髪よりも僅かに灰色を宿していた。歳の頃も、長と同じくらいか、少し上か。そして、何より。
額には長と同じ、黒曜石の1本角。
近衛隊の隊長は200年ほど前に代替わりした。隊士の士気を高める武闘大会で、初めて出たにも関わらず、当時の近衛隊隊長を瞬倒したのが、この男だった。
以来、近衛隊隊長として長の側近警護を任されている。
なぜ、今まで気づかなかったのだろう。
これならば、と思った。
この若い男鬼なら…。
たわいも無い会話の後に、栄州に上から下まで眺められて、男は、えっと、と頬を掻いた。
なんなんだ、この沈黙は。
何しにきたんだ、このおっさん。
沈黙に耐えきれず、あの、と口を開きかけたが、それは栄州の言葉に上書きされた。
「紳殿」
名を呼ばれて紳も、はい、と応えるしかない。
「其方、契りを結んでいるものや恋仲の者はおるか?」
唐突な質問に、は?と首を傾げる。状況がうまく掴めないが、答えないわけにはいかない。近衛隊隊長と相談役。里の重鎮としての立場は同等だが、人生経験は栄州の方が上だ。
年長者は敬わねばならない。
「いや、恥ずかしながら独り身です」
「確か、其方は医術の心得もあったと聞いていたが?」
「ええ、だいぶ前になりますが、御殿医の咲耶殿とは旧知の仲でして。一時、弟子として学びました。邸は、近くに住むものの診療所も兼ねております」
そうか、と栄州は大きく頷いた。
決めた。
「相談役の特権を持って、其方を次の月より、長の夜伽相手と指名する。心して受けられよ」
言葉の意味を理解するまでに、数秒を要した。
ちょっと、待て。俺が?夜伽の相手だと?
「いやいやいやいや。とんでもない。お受けできませんって!」
「何故だ?名誉なことだぞ?」
「それは、そうでしょうが。荷が重すぎます。他を当たって下さい」
「ならぬ。もう決めたのだ」
全力で辞する紳に、栄州はきっぱりと言い放った。
「長には我からお伝え申し上げる。物忌みが明ける前に、一度お目通り願う。頼んだぞ」
ちょっと、と紳が引き止めようとするが、否を聞かずに栄州は、言い捨てると踵を返して鍛錬場から出て行ってしまった。
嘘だろ…。
呆然と立ち尽くす紳の背後から、突然歓声が挙がる。
「すっげえ!隊長が夜伽の相手?」
「今まで声がかからなかったのが不思議だったんだよ。やっと、隊長の凄さが伝わったんだな」
「前祝いしますか!」
いつの間に戻っていたのか、隊士たちが歓喜に震えて大騒ぎしている。
こいつら、何も知らないで…。
できるわけねえだろ…。
喧騒を背後に受けながら、紳は1人頭を抱えるしかなかった。
*五尺七寸はだいたい190㎝です。
一尺が33.333…cmなので、文中に出てくる尺の表記の目安にお願いします。