安寧【漆】《アンネイ【シチ】》
里に降りた翌日、結局紳と悧羅は二人での刻を堪能した。朝議にも出なくて良いと言われていたので何も気にすることなど無く、次の陽が明けるまで部屋から出ることはなかった。だが紳の務めがあれば籠っているわけにもいかず、渋々ながらも準備する紳を悧羅は笑って見ていた。紳が目覚めた時にはすでに支度を終えている悧羅に、何で先に起きるんだよ、と嗜められたが童のような言い方に悧羅は笑ってしまった。
「俺が起きるまでは腕の中にいてよ」
そう紳は言うが、それまで待っていたら又離れ難くなるのだ。けれど、それを正直に紳に伝えてしまえば、再びかき抱かれてしまうのは分かっているので、悧羅も、まあ良いではないか、と宥めるしかなかった。
もう、と不服そうに紳が支度を終えると朝餉が運ばれてくる。磐里と加嬬が準備を整えている間に妲己も部屋に戻ってきた。準備されたは良いが余り空腹というわけでも無かったので、注がれた茶にのみ手を付ける。それを見咎めた全員から、食べろ、と言われてしまうが腹が空いていないのだ、と笑って伝える。
「空いたら食す故、すまぬが取り置いてくりゃれ」
「またそのようなことを申されて…。後で、と食されたことなどないではありませんか」
呆れたように磐里に叱られたが、悧羅にもこればかりはどうしようもない。
「せめて、果物くらいは、お召しあがりくださいませ」
加嬬もとりあえずは膳を引きながら桃の入った皿だけを悧羅の前に据えてくれる。その内に、と言おうとすると、紳が桃を一切れ悧羅の口元に持ってくる。仕方なく一口かじると甘い匂いと味が口内に流れ込んでくる。だが紳の手は引かれない。どうやら一切れ食べ切るまでは見逃してもらえそうになかった。
本当に余り空いていないのだが…、困ったものだ。
どうにか差し出された一切れを食べ終えると、次を当てがおうとする紳に、もういい、と断りを入れる。
「ちゃんと食べないと、これから寒くなるんだから体調崩すぞ?そしたら里に降りるどころじゃなくなるよ」
心配そうに紳は言うが、悧羅にとってみれば食餌をしっかり食べる方が珍しいことなのだ。紳と共に過ごすようになってから、朝餉はもちろん刻があれば夕餉も共に摂っている。
紳が休みとなれば、ともすれば三食摂っていた。元々、余り食さない方なので、それが続くと辛いものがあるのだ。
磐里と加嬬は悧羅の食が細い事を心配しているが、そうそう動くこともないのだから空腹になることの方が少ない。
「あんまりお召し上がりにならなければ、毎度、紳殿にお手伝いいただきますからね」
磐里にまた叱られて、悧羅は笑うしかない。
「俺が手伝って食べてくれるなら、どれだけでも手伝うけどね」
笑って言いながら紳は悧羅の皿に残った桃を頬張り妲己にも桃を差し出して食べさせていた。この数ヶ月で妲己の紳に対する態度も少しばかりではあるが軟化しつつある。言動は変わらないが、紳の手から食餌を取るようになり、時には傍らで寛いでいる姿も見れるようになった。
昔、三人で一緒に暮らしていたころのようには戻っていないけれど、それでも妲己にしては気を許し始めているようだった。
良いことだ、と悧羅は思う。紳の願いどおり、このままずっと紳が悧羅の側にいてくれるのであれば妲己も少しばかり気を緩めることができる。何より、妲己は悧羅が500年、紳を想い続けていたことも知っているだろう。決して口には出さなかったけれど、紳と離れてからというもの悧羅の命以外で妲己は一度たりとも悧羅の側を離れたことがなかった。それほどに、気遣ってくれていたのだ。悧羅が一人にならないように、昼夜を通して。
“主よ、この桃、甘いですぞ”
桃が余程美味しかったようで、紳の手から二切れ目をもらって妲己は喜んでいる。その背中を撫でながら、其方が喜ぶなら良かったの、と悧羅は湯呑みを置いた。そろそろ朝議の刻になろうとしていたからだ。
「じゃあ、ちょっと顔を洗ってくるよ」
空になった膳に手を合わせて紳が部屋を出て行く。それを横目で見て妲己が顔を上げた。
“主よ、少しばかりお疲れではないのですか?”
どうした、と尋ねると言いにくそうに言葉を澱ませながら妲己が擦り寄る。
“いえ、その…。寝所へのお籠りが、その…。彼奴に任が充てがわれてから長いようですので…。ご無理をなさっておいでではないかと…”
妲己の心配は尤もだ。今までは夜一度、しかも情が済めば宮を降ろしていたのだから、これまでとあまりにも違うことに妲己も戸惑っているのだろう。悧羅は妲己の頭を撫で、大事ない、と伝える。
「500年、遠回りした分を取り戻しておるだけじゃ。妾もそうしたいからしておるだけ。望まぬものとの事に比べれば、辛さもない。唯一の悩みといえば、物忌みの時くらいしか妲己と共に眠ることが出来ぬことかの」
“それならばよろしいのですが…。彼奴が無理をさせておるようであれば我が噛み砕いてやろうかと”
真剣な妲己の言葉に悧羅は声を上げて笑う。それは困る、と妲己を撫でた。
「紳がおらねば、また望まぬ夜伽をせねばならなくなるではないか。噛み砕くのは堪えてたも」
はあ、と妲己はそれでも心配そうだ。
「大事ないと言うておるに。妾の腹の疵もいとうてくれておる。それにの、妾が無理をすれば紳は好かぬのだ。まあ、無理をしていれば気取られてしまうでの。そのあたりの勘は鋭い故、偽ることもできぬ」
“左様でございますか。ならば我も任せることにいたしましょう”
「そうしてたも」
撫でられながら妲己もようやく納得したようだ。悧羅が妲己に伝えたことに偽りはない。だが、多少の無理はしてでも紳と情を交わしたい、というほうが本音ではある。500年の想いを伝え合うには、どれだけ肌を重ねても足りないのだ。
「本当に、紳殿は長を慈しんでおられますものね。ともすれば、長が歩くことすら許されないおつもりかもしれませんわ」
紳の膳を片付けながら磐里が笑って言う。ほんに、と加嬬も笑っている。
「長も居心地がよろしいのでしょう。それが何よりでございます。最近では湯浴みまで紳殿がなさっておしまいになるので、私共の務めが少なくなって困っておりますよ」
二人に笑われて、悧羅も苦笑する。
「妾に甘すぎるのだ、それもまあ…」
仕方のないことだ、と言うと、そうでございますわね、と二人は頷いた。
「じゃが、紳の務めがある時は、磐里と加嬬に甘えねばならぬ。手間をかけるがの」
悧羅が言うと、手間だなど、と磐里に嗜められた。
「私共は長のお世話をするためにおるのでございますよ?手間だなどと思ったこともございません。どちらかと言えば、もう少し甘えていただきたいものです」
「そうでございますよ。長は私共の手が空いていないとお思いになると、ご自分で動かれようとしておしまいになられるのですから。そちらの方が困ります」
磐里だけでなく加嬬にまで嗜められてしまっては、悧羅にはどうすることもできない。あいわかった、と言うしか無かった。
「ならば、もう少し甘えることにしようかの」
「是非、そうしてくださいませ」
“ならば、主よ。我にも甘えていただきたい”
尾を振りながら身を乗り出して妲己も言う。
「妲己には、妾は甘えすぎておるではないかえ?」
悧羅が首を傾げると、いいえ、と妲己が首を振った。まだまだでございます、と言いながら頭を悧羅の膝に預けた。
「あらまあ、妲己。それではどちらが甘えているかわかりませんよ」
加嬬に笑われているが妲己は気にしていない。我は主を癒しておるのだ、と小さく喉を鳴らしている。妲己の姿に悧羅達が笑っていると、楽しそうだな、と紳が戻ってきた。何の話?、と妲己に聞いているが顔を背けられている。
“主には教えぬ”
我らだけの密談だ、と言われて紳は、何だよ、と不満そうに呟いている。
「俺だけ仲間はずれかよ?酷いなあ」
言いながら紳は妲己の頭を撫でた。嫌がるかと思って見ていた悧羅だったが、妲己は動かない。触ることは許しているのだろう、と微笑ましくなる。その姿を見ていると、じゃあそろそろ、と紳は悧羅の頬に口付けた。
「朝議に参りましょうか、長」
笑って手を取られて悧羅も立ち上がる。参ろうかの、と笑うと取ったままの手の甲に紳が口付けて言った。
「どこまでも、お供いたしましょう」
雨風が降ったり止んだりです。
お隣の子ども用プールが風に飛ばされてました。
台風並みですね。
ありがとうございました。




