安寧【肆】《アンネイ【シ】》
おはようございます。
今日も嵐のような雨です。
少しばかり長い休暇を終えて紳は近衛の務めに戻っていた。紳が夜伽の任で宮に留められていることは、知られているので朝議には、悧羅と共に入る。気を抜くと、皆の前で名で呼ぼうとしてしまうので、気を引き締めて側に侍った。朝議が終わって部屋を出れば、必ずと言っていいほど栄州に、子は成せそうかと聞かれ、笑っていなす。
その後、近衛隊舎に顔を出し、見廻りにだす者を割り振り、残った者には鍛錬をつける。時間が空けば自分の邸に戻り簡単に掃除をしていると、診療希望の者が来るので対応し、いつも通り庭先で遊んでいる童達と戯れた。童達は、今日は長さまいないの?、といつも聞いてくる。その内連れてくる、と言うと嬉しそうだった。
一通り童達と戯れて隊舎に戻ると、見廻りに出していた者を交代させて、また鍛錬をつける。そうして、一日の流れを荊軻と枉駕に報せて、ようやくその日の務めを終える頃には夜も更けていた。
疲れきって宮に戻ると、磐里と加嬬が出迎えてくれる。簡単に夕餉を取り、湯浴みを終えてから悧羅の部屋に行く。
「戻ったのかえ。疲れたであろ」
卓に向かって何かを読んでいた悧羅が笑顔で迎えてくれた。それだけで、一日の疲れなど、何処かに行ってしまう。迅る心を抑えて悧羅の側に行き、背中から抱きしめて膝の上に座らせた。仕事か?、と尋ねると、荊軻からの報せを読んでいた、と言う。
「邪魔したかな?」
急ぎの報せであったなら申し訳ないと思い聞く紳に、大事ない、と悧羅が笑ってくれた。
「急ぎではない故。案ずることなどない。里に降りる段取りをいうてきておるだけじゃ」
その言葉に安堵して、紳は膝の上の悧羅を自分の方に向ける。そのまま軽く口付けて、力強く悧羅を抱きしめた。どうした?、と笑う悧羅の腕が紳の背中に回される。
「いや、もう、無理。離れてんのが無理」
紳が言うと、何を童のような事を、と悧羅は可笑しそうに言う。長って言うのも気を遣う、と紳が言うと、名を呼べばよい、と悧羅は簡単に言ってくれる。
「さすがに、重鎮や、隊士達の前じゃ憚れるよ」
契りを結んでいるわけでなし、という言葉は飲み込んだ。
「別段、構わぬのではないか?」
「いや、示しがね、つかなくなるから」
そうか、と言う悧羅の声は少し淋しそうだ。そうだよ、と紳も言い、ふわりと悧羅を抱き上げて寝所に運ぶ。疲れておるのではないか?、と心配そうに紳の頬に悧羅が触れた。うん、と紳は頷く。
「疲れた。悧羅の側にいれなかったから、すごく疲れた。だから癒してよ」
紳の言葉に悧羅は、いくらでも、と笑った。
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荊軻から里に降りても良い、と良い返事を貰えたのは、宮の樹々が葉を落とし始めた頃だった。里に降りてみたいと悧羅が言ってから、ゆうに二月になろうかとしていた。何をすれば、こんなに刻を要するのだ、と半ば呆れ気味に悧羅が聞くと、いろいろと手筈があるのです、と嗜められた。
「よろしいですか、まず長のお身体の具合がよろしい時でないとお出しできません。物忌みや、少しでもいつもと異なるような時などもっての外です。次に、付き添っていただく紳殿の御役目もございます。近衛をまとめておられるのですから、おいそれと副官に任す、ということはできかねます。
最後に、里の状態ですね。流行病がないことと、民へ長が降りられる、ということを報せておかねばなりません。この日だけは伏したりすることはせず、長だと騒がず、いつもどおりの生活をするように、と。これが一番大変だったのですが…」
荊軻の言葉に悧羅は手を挙げた。
「よう、分かった。すまなんだ」
「分かってくだされたのであればよろしいです。そのようなことを踏まえまして、病が流行り出す前がよかろうということになりました。7日後とお伝えしておきます」
ふむ、と悧羅は頷いた。確かに7日後であれば物忌みにもかからないだろう。良い陽であればよいがの、と里に降りる日を思う。少しどころではなく、楽しみにしている自分に悧羅は少しばかり驚いた。それと、と荊軻は続ける。
「もしも、何某かあれば、速やかにお戻りください。絶対に無理などなさらぬ事」
ほんにもう、と悧羅は荊軻に笑う。
「何もないと、言うておるではないか。ただ、民の暮らしを見たいというておるに」
呆れたように悧羅が言うと、そうではございません、と荊軻は言う。
「久方ぶりに外にお出になられるのですから、物珍しいものもございましょう。羽目を外しすぎることのないように、と申し上げておるのです」
なるほど、と悧羅も笑う。確かに言われてみればそうだ。500年、外に出るなど咲耶の邸に行くぐらいだった。里が再建されてから降りたことはない。悧羅が思っているよりも、里は賑やかなのかもしれなかった。
「重々、胆に命じておくことにしようて」
そうなさってください、と荊軻が念を押す。ところで、と荊軻は悧羅に向き直る。周りを見渡して誰も居ないことを確認してから、どうお考えなのですか?、と悧羅に尋ねた。何のことだ、とは聞くまでもない。紳のことを言っているのだろう。荊軻は悧羅の過去を知る数少ない者の一人だ。朝議の場では、栄州や枉駕を嗜める側に回ってくれていたが、やはり心配していたのだろう。
「私としましては、たいへん喜ばしいことと存じておりますが。夜伽の任を解かぬ、とは仰せになられると思うておりませんでした」
そうさの、と悧羅も自嘲する。
「妾としても、そこまではと思うておったが、あれが望むのでな。あれが良い者を見つけて降りるというまでは、というところかの」
そうは言ってみたものの、悧羅もすでに紳と離れるとは考えていない。あの様子では紳も悧羅の生命が尽きるまで、降りるとは言わない気がしている。むしろ、そうであって欲しいと悧羅はいつのまにか願うようになってしまった。
「それは、また…。ですが、紳殿は…」
「ああ、妾の腹のことも知っておったようじゃの。其方にも心労をかけておったようで、すまなんだ」
そうですか、と荊軻は少しばかり安堵したようだ。なにも伝えずに悧羅の側に居続けることはしない男だとは思っていたが、伝えた上で側にいることを望んでいるのであれば荊軻が言うことは何もない。
「であれば、よろしゅうございました。しばらくは栄州殿たちがうるさく言ってくることとは思いますが、長が倖であれば、その内おさまるでしょう」
笑って言う荊軻に、そうであれば良いがの、と悧羅が笑う。悧羅には言わないかもしれないが、紳には聞くに違いない。
「栄州も我の強い所があるでな。500年、妾に子はまだか、と言い続けてきたに。黙したとしても、諦めはせんだろうて」
くすくす、と笑うと、確かに、と荊軻も同意する。
「ですが、それを言うならば紳殿も同じでしょう。500年、長を想い続けてこられたのですから。ああ、ですが、朝議に出られない時は前もって報せて下さいませ。私も、その場凌ぎはなかなかに苦しいものがございますよ」
「…それは、時々は紳とおってもよい、ということかえ?」
「何かあれば寝所に飛び込みますので、ご心配には及びませんよ。紳殿のお休みの時くらい、でございましょうから」
笑って言われて悧羅は苦笑するしかない。
寝所に飛び込まれる方が困るのだが。
「では、時々は荊軻に甘えるとしようかの。紳の休みは其方も知っておるのであろ?その日は、出ないと思うておってくりゃるかえ」
笑いながら言う悧羅に、良い酒で手を打ちましょう、と荊軻も笑った。荊軻にとっても悧羅があれほど想い続けていた紳と共にいてくれることが嬉しかったのだ。
長として立つ前に、哀れな姿で泣いていた悧羅を今も鮮明に思い出せる。立式を終えた後は、日々感情を表に出さなくなり、只々役割として全てを受け入れてきたのも間近で見てきた。
その悧羅が近頃はよく笑い、里に降りたいと言い出し、冷たく刺すような雰囲気も心なしか柔かさを持つようになった。これが、紳との関わりの結果であれば何より喜ばしい。
長い刻を紳も悧羅も無駄にしてきた。であればこそ、共におれる時くらいは、普通の民達と同じような恋慕の刻を過ごして欲しいと思うのだ。
夢を買う最終日なので、行きたいのですが雨で出れません…。とはいえ、まだ開いてもいない時間ですね。後で行きます!例え嵐でも!
ありがとうございました。




