憩い【玖】《イコイ【ク】》
気をつけてルビをふる様にはしておりますが、読みにくい部分があれば、教えてくださいませ。
夕餉を共にした後、紳は少し用がある、と出かけて行った。悧羅も夕涼みはしたものの、湯当たり加減であったので、しっとりと汗をかいてしまっていたので、もう一度湯浴みを終えた。湯殿から上がると、夜風も涼しく思えた。宮に戻ったのは夕刻であったけれど、大分、陽が落ちるのが早くなってきていた。すでに宮の周囲は宵闇に包まれていて、そよぐ風と、小さな虫の音しか聞こえない。
湯浴みから戻って卓を見ると、小さな華が綺麗に生けられている。昼間、童達からもらった花だ。磐里にかかれば、まるで豪奢な花束にみえるから不思議に思える。
加嬬と磐里の二人には出来ないことなどないようだ。
飾られた花を見ながら、昼の童たちに思いを寄せる。あの子らが大きくなる頃まで悧羅は里を支えることが出来るだろうか。出来ることなら、あの子らが何の不安も抱えずに過ごせるよう、里の管理は怠らないようにしなければならない。基本的には荊軻に任せているから問題にはならないが。
本当にこれから先は少しばかり民の様子を見に里に降りても良いかもしれないな。
だが、悧羅が里に降りるといえば、大事になるのもわかっている。悧羅としては妲己と二人で散策しながら里の状態をみれればそれでいいのだけれど。そう伝えたとしても、荊軻はともかく、栄州と枉駕が、反対するのは想像できた。もしかしたら紳までも付いてくると言い出すかもしれない。それではあまりにも仰々しくて、民たちと話すことも叶わないかもしれなかった。
一人考えて悧羅は苦笑するしかない。
ほんの四人しかいない重鎮たる官吏は皆、悧羅に甘すぎるのだ。一人で出かけようとすると、何かあってからでは遅い、といつも嗜められてきた。この日は出る、と伝えるのも随分と前から伝えておいて、一人一人説き伏せなければならない。
本当に過保護過ぎる。
悧羅の実力は皆が知っているのだから、無用な心遣いだ、とは思っていても口には出していない。本当に悧羅の事を案じていることは分かっているから。
花から視線を落として、卓の引き出しを開ける。そこに収めている小さな木箱を手に取った。木箱の中には、白銀の組紐が一本、綺麗に束ねられて収まっている。白銀であった組紐の一部には赤暗い色が付いてしまっていた。
悧羅が自分で子袋を潰した時の血だ。加嬬が丹念に何度も洗い流してくれたらしいが、染みこんで、乾いてしまった血は取れずに残ってしまったということだった。
悧羅が大切にしていたものだと知っていたから何度も洗い清めてくれていたのだろう。加嬬に礼を述べ、乾いた組紐は目に入らないように木箱に収めた。
それでも、時々はこうして眺めてはいたけれど、それも磐里と加嬬に気づかれないように夜中に行っていた。
組紐を眺めるのはただ懐かしむためではなく、悧羅自身を戒めるためだ。
まだ、大丈夫だと、まだ耐えられるはずだと、組紐を見ては自分に言い聞かせてきた。
それほどに、望まぬ男と情を交わすことは嫌悪でしかなかった。
当初は夜伽が済めばすぐさま湯殿へ入り、身体中が赤くなるほど清めていた。いつしか、それ程には清めることはしなくなっていたが、それでも夜伽が終われば湯殿を使う。知らぬ男の匂いに包まれて眠るなど考えられなかった。
けれど、今の悧羅は毎夜、紳の腕の中でその香りに包まれて眠っている。心地よいとさえ思えていた。湖での紳を思い出して、悧羅も契りたいと言えたら、どんなに楽だったろう、と思う。
叶うはずのない願いだ。けれど、今だけは。
小さく溜息をついた時だった。部屋の入り口から、悧羅、と呼ばれて振り向く。呼んだのは紳だ。木箱をそっとしまいながら、戻ったのか、と笑う。
「少し前にね。暑くて汗かいたから湯をもらってきた」
言う紳の髪は確かに濡れている。手拭いで髪を拭きながら紳は悧羅の側に座した。
「何処に行っておったのじゃ?」
「休んでるから隊舎の様子見と、ちょっと野暮な用事をすませてきた」
そうか、と悧羅は笑う。休んでいるとはいっても、まだ一日目だ。それでも、自分のいない近衛のことが気になったのだろう。
「ほんに其方はしっかりと務めてくれておるの」
悧羅は言うが、紳は、そんなことはない、と笑った。
「見てないとこで鍛錬なんてしやしないからさ。見てるぞって示しとかないと、すぐに甘えるんだよ」
呆れたような物言いに、悧羅もそうか、と応える。逆を返せば鍛錬などしなくても、里は守られているし安心なのだと言うことだろうが、紳は納得していないのだろう。くすくす、と小さく笑っていると紳が、懐から木箱を取り出した。差し出されて受け取ると、中には白銀と紅で編み込んだ組紐が入っていた。
「何じゃ、唐突じゃの」
悧羅は小首を傾げる。贈り物などもらう理由がない。何事かあったか、と聞くと紳は髪を拭く手を止めた。
「いや、別に何にもないんだけど。思うところがあってな。受け取ってもらえると嬉しい」
そうか、と悧羅は笑って木箱を閉じた。
「では、ありがたく頂戴することにしよう」
閉じた木箱を卓に置いて、もらってばかりだ、と苦笑する。何か返せるものがあれば、と考えていると、どうした?、と紳が聞いてきた。
「…気にいらなかったか?」
不安気な顔で見られて、悧羅は、そうではない、と手を振った。それに安堵したような紳に悧羅は、とても良いものをもらった、と伝える。
「ただ、もらってばかりだ、と思うてな。何か、其方に返せるものがあればと考えておったのだ。しかし、何も思い浮かばぬもので…。其方、何か欲っするものはないか?」
悧羅が尋ねると、紳は笑った。そのまま、手を伸ばして悧羅の手を取り、あるよ、と笑う。
「妾がやれるものかえ?」
悧羅は小首を傾げた。それにも紳は、うん、と笑う。何か紳が欲しがるものを自分は持っていただろうか、と考えるが悧羅には思い浮かばない。困っていると、悧羅にしか出来ないことだ、と言われた。その言葉で悧羅は余計にわからなくなってしまう。
「何じゃ、言うてみい」
考えても分からないので諦めて悧羅は紳に尋ねた。紳は笑ったまま、悧羅の手を強く握る。
「俺の夜伽の任を解かないで」
「何じゃ、そんな事……、」
言いかけて悧羅は、は?、と声を上げてしまった。よほど驚いた顔をしていたのだろう。目の前の紳が可笑しそうに笑っている。だが、握られた手はより強く悧羅を包んでいる。どうやら、冗談を言っているようではないようだ。
「いやいや、待て待て」
それでは、これから先、紳の長い時間を悧羅が縛ることになる。夜伽の任を解かない、ということは紳が良い者を見つけても契りを結べなくなってしまう。そう言うと、紳は、それでいい、と笑うばかりだ。
「本音は契って欲しい、だけどな。でも契りが難しいなら、俺が悧羅の側にいることを許して欲しい。これから先、情を交わすのを俺だけにして」
「いや、それでは其方が報われぬ。其方に訪れるであろう倖を、妾が奪うわけにはいかぬ」
慌てて、悧羅がいうが、紳は静かに首を振った。
「俺の倖せは、悧羅の側にいれることだ。今までも、これからも。悧羅が泣く時に側にいれないのは嫌だ。今まで悧羅が一人で耐えてきた分、これから先は俺にもその辛さを半分分けて」
「いや、しかし…」
言い淀む悧羅に紳は続ける。
「他の女と倖せになろうなんて考えてもないよ。思ってたなら、とっくにそうしてる」
「それは、そうかもしれぬが…」
「うん。だから、俺だけが悧羅に触れる事を許してほしい。悧羅は俺を縛るって言うけど、俺はそれがいい。もう、離れたくないから」
真摯に紡がれる紳の言葉に、悧羅は胸の奥が熱くなるのが分かった。そこまで、想ってくれているのならば、悧羅も真摯に応えなければならない。大きく、一つ息をはいて、悧羅は居住まいを正す。繋がれた手は、そのままに、紳、と呼ぶ。真っ直ぐに紳を見て
悧羅は続ける。
「妾は、其方に倖でおってもらいたい」
うん、と紳は頷いた。
「其方が倖でおってくれると信じれば、如何様な事でも耐えてこれた」
紳は応える代わりに握る手を少し緩めた。
「其方はほんに良い男じゃ。優しくて、強い。このような妾を想うてくれてありがたいと思う。なれど、妾では其方を倖にする事ができぬ」
緩められていた手にまた力が込められるのが分かった。空いている手で悧羅は重ねられた紳の手を包む。
「契りを結んだとして、妾は其方に望むものをやれぬ。民が当たり前のように契り、子を成す。…それが妾には出来ぬ…」
昼間、紳の邸で見た光景が蘇る。童たちに囲まれた紳は幸せそうだった。いつも童たちと戯れているからこそ、あの様に懐かれているのだろう。
「其方は、きっと良い父になれる。なれど、妾とおってはそれは望めぬのだ。皆が享受出来ておることを、諦めてほしゅうない。妾のことは気に病むことなど何もない。里に戻り良き者を見つけ、いつか、其方の子を抱かせてたも」
ちくり、と下腹が痛むのが分かった。悧羅はそれを押し殺して、紳の手を包んで諭すように言う。どうか、聞き分けてくれるようにと願いながら。
けれど、目の前の紳は頷かない。代わりに見えたのは、知ってるよ、という優しい笑顔だった。
秋雨のようです。
今日は一日雨ですね。
ありがとうございました。




