憩い【捌】《イコイ【ハチ】》
腕の中で泣く悧羅を紳はただただ抱きしめた。どうして悧羅が泣いているのかなど聞かなくても分かっている。幼な子のように泣き続ける悧羅にかける言葉も見つけられず、紳は抱きしめる腕に力を込める。
長い刻を泣き続けて、悧羅はようやく声を鎮めた。
「すまなんだ」
紳の腕の中で、まだ震える声がする。いいから、ともう一度抱きしめるが、もう、大事ない、と悧羅が離れた。見るとまだ、目は涙で濡れて輝いている。残った涙を指で拭き取りながら、本当に大丈夫か?、と紳は尋ねた。それに、悧羅は頷きながら笑ってみせる。その笑顔さえも痛々しくて、紳も苦しくなった。
「みっともないところを見せてしもうた。恥ずかしゅうて堪ぬわ」
両手で自分の頬を包みながら悧羅は少し顔を赤らめている。そんなことはない、と伝えるが悧羅は首を振る。
「長たるものが、これでは務まらん。民に示しがつかんの」
幾度か大きく息を繰り返して、悧羅は居住まいを正して紳を見た。
「ほんに、すまなんだ」
詫びを込めて悧羅は紳に頭を下げた。慌てて、紳が悧羅の頭を上げさせようとする。やめろって、と言うがなかなか悧羅は顔を上げなかった。長である悧羅に頭を下げさせるなど、とんでもないことだ。ただでさえ、夜伽の期間、礼を取らないことを受け入れてもらっているのだ。それだけでも、本来なら許されないことなのに、その上頭を下げさせたなど誰かに知られたら大きな問題になることは分かりきっている。だが、悧羅は顔を上げてくれない。
仕方なく紳は、あのな、と悧羅に語りかけた。
「…俺は嬉しかったんだよ…」
驚いたのか、悧羅がゆっくりと顔を上げた。嬉しかった、とはどういうことだろう。
「だって、悧羅はあんまり感情を表に出すことがないだろう?泣いてる悧羅を抱きしめられるなんて役得だ」
紳の言葉に悧羅は、きょとん、としてしまう。だが、目の前の紳は優しい微笑みで悧羅を見るばかりだ。嬉しい、ということ自体は嘘ではないのだろう。腕を伸ばして紳が悧羅の頬に触れる。
「せめて、俺が側にいられる時くらいは気を抜いてくれ」
頬に当てられた手から温もりが伝わって、思わず悧羅もその手を包み返した。その姿も優しく紳は見守って、じゃあ、そろそろ帰るか、と立ち上がった。
「夕刻過ぎたからな。妲己に怒られるだろうな」
笑いながら、悧羅を抱き上げて宮まで翔ける。眼下に見える里は、通りにいる者もまばらで、家々に仄かな灯りがともっている。
あの、一つ一つに妾の守って来た民がいるのだ。
花を摘んで渡してくれた幼子のような童がたくさんいてくれている。それだけでも、悧羅が長として立った意味はあったのかもしれない。
里の民の事を考えていると、すぐに宮に着いてしまった。待ち構えていたような妲己が二人の姿をみて紳に吠える。
“主は、我が主をどこへ誘ったのだ!”
妲己の声に磐里と加嬬も宮の奥からでてくる。妲己と同じように二人の姿に目を丸くしている。
「いや、里の童に懐かれただけじゃ」
悧羅が言うと、懐かれた、と三人が呆気に取られているのが分かる。
「たいそう、良い子らであった。あの様な子らがおってくれるのなら、里も安泰じゃろうて」
そうでございましたか、と笑顔で応えたのは磐里だった。
「それは、大変にようございました。ですが、お二人ともまずは湯殿をお使いくださいまし。お疲れでお戻りになるやもと思い、二箇所でご用意してございます」
紳と悧羅が分かった、と言うと磐里は悧羅の湯浴みの手伝いをするように、と加嬬に伝えている。自分は夕餉の準備でも続けるのだろう。はい、と加嬬が頷くと去ろうとする磐里に悧羅が声をかけた。大切に持ってきた花を磐里にわたす。
「すまぬが生けてくれるかの。童達にもろうたのじゃ」
「まあまあ、それはそれは。かしこまりました」
悧羅の手から花を大切に受け取って磐里は去っていく。加嬬は紳にいつもの湯殿を使う様に言い、悧羅と共に別の湯殿へ向かった。湯殿に入った悧羅の髪と身体を丁寧に加嬬が洗ってくれる。湯に浸かると、自然と縁に悧羅は頭を預けて、大きな息をついた。
「ずいぶんとお疲れになられたようでございますね。楽しゅうございましたか?」
悧羅の髪に香油を塗り込んで首や肩まで揉んでくれながら加嬬が尋ねた。そうさの、と悧羅は小さく笑う。加嬬の手が気持ちよくて、つい身体を預けてしまう。
「宮の中におっては、童たちたとも触れ合えぬでなぁ。妾が長と知っても物怖じせぬ良い子らであった。時には、里に降りて民の暮らしぶりを見るのも良いやもしれんな」
悧羅が言うと、そうでございますね、と加嬬も嬉しそうだ。本当のところは泣き疲れただけなのだか、それは言えない。
「長が里に降りられるなど立たれてから殆どございませんでしたし。お姿を拝謁できれば、喜ばれると存じますよ」
「そういうものかの…」
「そういうものでございます。私共民にとりましては、長は里を救い、守っておってくださる尊いお方でございますから。ですが、お身体の良いときになさってくださいまし。妲己はお側を離れぬと思いますけれど、宮で待つ磐里も私もお帰りになるまで気を抜くことが叶いませんから」
香油を塗り終わって手拭いで水気を十分にとってから、加嬬が悧羅の長い髪を結えあげてくれると、悧羅は肩まで湯に浸かった。
「では、ごゆるりと」
言い残して加嬬は湯殿から出て行った。一人になると、やはり紳の前で子どものように泣いてしまったことが思い出される。
泣くつもりなどなかった。
だが、幼子のいたいけな姿を見て、小さな手で摘んできてくれた花を受け取った途端、自分には決して望めないことが目の前にあり、堪えることが出来なかった。
それもまた紳の前で号泣するなど、あってはならない事であったのに。
悔やんでも、戻らないのならばせめて忘れてほしいものだ、と悧羅は願う。
突然泣き叫んだのだ。紳も不可思議に思ったに違いない。
もう一度、大きく息をはいて悧羅は湯から上がる。考え事をしていたので、いつもより長く浸かってしまっている。ほんの少し湯当たりしてしまったのか、呆っとする頭を振って冷たい水で顔を洗ってから湯殿を出た。
用意されていた手拭いで身体を拭いて寝間着に袖を通す。外に出ると、温まりすぎた身体に夜風が心地よかった。控えていた加嬬と共に自室に戻り鏡台の前に座すと、まだ濡れたままの悧羅の髪をほどいて、加嬬がまた丁寧に水気をとりはじめる。
「少し湯当たりなさったようですね。冷たいものをお持ちいたしましょう」
髪を櫛削って軽く結えてから加嬬が言う。甘えることにして、頼む、というと、はい、と部屋を出て行った。火照った身体を冷やしたくて、悧羅は縁側に出る。そこでは、妲己が寝そべっていた。妲己など、全身毛に覆われているのだから、悧羅よりも暑さに弱い。冷たい場所に、出来るだけ広い範囲で体躯が着く様にしている。悧羅に気づいて、体躯を上げようとしたが、そのままでいい、と伝えるとまた冷たい床に体躯を伸ばした。その横に悧羅も腰掛けると膝に妲己の頭が置かれた。
“主よ、どこに誘われたのですか?”
妲己に聞かれてその頭を撫でやりながら、あの湖だ、と応える。なんと、驚いた声は低く唸りも伴っている。
「なんでも、紳も時々は訪れておったらしい。今まで会わなんだは良かったの」
“会うておったら我が噛み殺しておるところ”
唸り続ける妲己を撫でながら悧羅は笑った。そのまま、妲己、と声をかける。
「妾は、今日この日まで苦しんでおるのは妾だけじゃと思うておった。…そうであって欲しかったと言うのが本当かの。なれど、紳も苦しんでおったようでな…。あれが倖であれば、と思い耐えてきたことも要らぬことであったのやもしれんと思うた」
妲己は声を発しない。ただ、悧羅の腹にその頭を擦り寄せた。
「帰り際に紳の邸は何処か、と尋ねたら連れて行ってくれた。昔、其方と三人で暮らしていたような質素なものであったよ」
近衛隊隊長の邸であるのにの、と悧羅は笑う。それにもまた妲己は応えなかった。
「そこで童たちに会うてな。小さな手で花を摘んできてくれて、妾に礼をいうのだ。驚いたのもあるが、なんとも切のうなって、恥ずかしいことに泣いてしもうた。童が泣くように…」
主、と慰めるような妲己の声がする。うん、とその頭をまた撫でで、悧羅は笑った。
「妾が望んだこと故、悔やんでなどはおらぬよ…。じゃが、少しばかり、の…」
悧羅の膝の上から小さな鳴き声がした。大事無い、と悧羅がまた笑う。
「紳の前で童のように泣き叫ぶなど、戸惑わせてしもうた。情けないことじゃ。ほんに、少しばかり淋しかっただけなのじゃよ。なれど、妾には其方がおってくれる。妲己にはすまなんだか、今しばらく妾の側に居てたもれ」
優しく背中を撫でられて妲己は顔をあげた。
“我はお側を離れませぬ、と前にも申し上げましたでありましょう。主なくして、何のための我でありましょうか”
すまぬな、と抱きしめられて妲己も目を細めた。だが、妲己は分かっている。己の主はこの500年で追い詰められるほどに疲れ切っていることを。
そして、ずっと紳を想い続けていることも。
遥か昔に紳から譲り受けた白銀の組紐は今も悧羅の卓の中にしまわれている。あの時の血が未だ染みこんだままのそれを身につけることはなかったけれど、時折だして見つめていた。
戻らない刻を偲ぶかのように。
そして、それはいつも望まない夜伽の後であることも。
知っているからこそ、妲己は紳を赦すことが出来ないでいるのだ。
雨が降ったり晴れたり変な天気の一日でした。
何故か筆者は首を寝違えております…。
どんな寝方をしてたんでしょう。
次話から少し進展があると良いのですが…。
ありがとうございました。




