憩い【漆】《イコイ【シチ】》
湖の辺りで祈るように悧羅に思いを伝えた紳へ何も言うことが出来ず、悧羅はただその背を撫でることしか出来ない。しばらくそのままでいると、ふいに、ごめん、と紳が呟いた。名を呼ぶと、身体を離して穏やかに笑う。忘れてくれ、と言われ悧羅は何も言うことが出来ない。その手を引いて紳は、湖の周りを歩きながら思い出話をする。そこには先程見た紳の姿はなかった。いつも通りに笑いながら話す紳の姿に悧羅の心が痛んだ。ぐるりと、湖を廻り、腰を降ろそうとすると、紳が引き寄せて悧羅を膝の上に乗せる。最近では当たり前のようになっていたので、悧羅も身体を預けて休む。紳がいつも通りに振る舞うのであれば、悧羅もそうしなければならない。これ以上、紳を傷つけてはならないのだ。
「悧羅はここに来たのは初めてか?」
膝の上の悧羅の身体に腕を回して紳が聞く。時々は妲己と来ていた、と伝えると、そうか、と紳は笑った。けれど、回された腕にほんの少し力が込められたのが伝わって、悧羅は切なくなる。
この500年、傷ついているのは自分だけだと悧羅は思っていた。紳も新しく良い者を見つけ倖せに暮らしていてくれていると思っていた。
以前、一度言葉を交わしたときに悧羅は、倖いか、と紳に尋ねた。紳の応えは是、であったからそれでいいと思えた。紳が倖せでいてくれているのなら、望まぬ夜伽も、長としての重圧も耐えていける、と。
けれど、紳は誰とも契りを結んでおらず、悧羅の夜伽の相手として現れた。
何故、倖いでおってくれなんだか…。
痛いほどの思いをぶつけられて、悧羅は大きく溜息をつくしかない。それに、疲れたか?、と紳が尋ねてくる。上から覗きこむように見られて、悧羅は苦笑した。
「大事ない。懐かしんでおっただけのことよ」
笑って言うと、そうか、と紳も笑う。しばらくの刻をそうして過ごす。こんなに穏やかな刻は久しぶりだった。この穏やかさを手放したくないのは悧羅も同じだ。けれど、と悧羅はそっと自分の下腹に手を当てた。悧羅では駄目なのだ。
「風がでてきたな」
当てていた手に紳の手が重ねられて、悧羅は、はっとする。確かに少し陽も陰り、身体を撫でていく風が冷たく感じた。そうさな、と応えると紳がそのまま悧羅を抱き上げる。
「そろそろ、戻るか。刻に遅れると妲己に噛み殺される」
遅れなくともでもないか、と言うと、確かに、と笑って紳は翔けだした。紳の腕の中から、自分が引こうか、と悧羅は言ったが拒まれた。
「妲己より先に、俺を殺す気か?」
真面目な顔をして紳が言うので、悧羅は可笑しくて笑ってしまう。確かに殺しはしないまでも疲れさせてしまうかもしれない。小さく笑い続けていると、紳が眠ってろ、と言ってくれる。けれど、それは遠慮した。行きに眠ってしまったのもあるが、紳の体温を感じておきたかったのだ。懐かしい山は、すでに後方に小さな影としてしか見えなくなっている。
苦しいばかりの場所だと思っていたが、これからはそうでもなさそうだ。
これから先、妲己と来た時にはこの日の穏やかさも思い出すだろう。
山が見えなくなるまで見送って、悧羅は紳に視線を戻す。重くはないか、と尋ねたが、全然、と紳は応える。
「軽すぎるくらいだ。もう少し何でも食え」
速度を上げて紳は休むことなく翔け続けた。その甲斐あってか、一刻半ほどで里が見えた。そのまま宮に帰るのかと思うと、悧羅は少し淋しい気持ちになる。約束の夕刻までは、まだありそうだ。紳、と声をかけると紳の視線が悧羅に落ちる。
「其方の邸はどのあたりじゃ?」
「俺の家?」
驚いたような紳の声がしたが、こっから見えるかなぁ、とすぐに教えてくれようとする。
「悧羅の宮から見たら…、って難しいな。ちょっと寄っていくか」
説明しようとしたが上手くいかなかったのだろう。翔ける足の方向を変えて、紳は里の中に入った。悧羅は里の中心に行くのかと思っていたが、どうも違うようだ。降り立ったのは里の中心から外れた静かな場所だった。少し歩けば集落があるのは上から見て分かったが、そこの周りには家がない。開けた場所に簡素な邸があるだけだった。けれど、降り立った途端に童の声が聞こえた。声のする方を見ると、数人の童が遊んでいる。紳を見つけると、医師!、と言いながら駆け寄って来て紳にぶつかりながら抱きついて来た。足下に数人の童がくっついて、紳も思わず、悧羅を落としそうになり抱き上げる腕に力を込めた。こら、待て、と童たちに紳が言っているが余程、紳に会えたのが嬉しいのだろう。紳の言葉など聞く様子でもない。
「分かったから、ちょっと待てって!」
幾度目かの紳の声で、ようやく童達が悧羅に気づいたようだ。落としちゃうだろう、と童達に優しく言いながら紳は悧羅を降ろした。
同時に童達が紳に飛びついている。背中や首や足や、身動きがとれないほどだ。その姿に悧羅は笑ってしまう。
「悪いな、悧羅。この近くの童なんだけど、庭でよく遊んでるんだよ」
謝る紳に、いや、と悧羅は言うが余りに可笑しくて笑いが止まらない。
これが、近衛の隊長など、誰が思うだろう。そういえば、と悧羅は思った。
近衛隊長に就いた時に褒美はもらわなかったのだろうか。
そう思うほどに、紳の邸は質素だった。聞いてみると、貰ったよ、と言う。
「この辺一帯の土地をもらったんだ。家は一人だし大きくなくていい。診療所も兼ねてるから、その分だけ大きくしてもらったけどな」
「何故、土地なのだ?他にも望めば叶わぬことなどなかろうに」
尋ねる悧羅に、紳は、来て、と手招きする。本当なら手を引きたかったが、童達にしがみつかれたままでは無理だった。招かれるままに悧羅が付いていくと、紳が邸の周りを通って庭先に連れて行ってくれた。庭先には縁側がある。
「そこ座ってみて」
促されるままに縁側に腰を降ろす。紳もどうにか童達を降ろして、悧羅の隣に腰掛けた。見て、と指し示されたほうを見やると、そこに見えたのは悧羅の宮だった。
「ここが一番綺麗に見えるんだ。だから、一帯の土地をもらった。金とか財とかよりも俺には価値があるから」
そうか、と悧羅は応えたが、ちくり、と又、胸が痛んだ。けれど、紳にとっては本当に何よりの褒美なのだ。一日の務めを終えて、床に着く前にここで宮を眺める。隔たるものが何もなく宮を見ながら、悧羅を想う。
たとえ、それが届かなくとも。
隣に座る悧羅を見ると、少し淋しそうな笑顔を返してくれた。ただ、想うだけだった悧羅が隣にいることも紳にとっては褒美の一つだ。そう思って悧羅の手を取ろうとすると、悧羅の膝に童達が集まり始める。
「あ!こら!」
紳が童達を嗜めようとしたが、悧羅が笑って制した。良い、と悧羅は笑っているが童達が触れた衣は泥で汚れ始めている。童達は、じっと悧羅の顔を見つめていたが、あっ!と一人が声を上げた。
「長さまだ!」
続くように、童達が騒ぎ始める。
「すごぉい、長さまだ!」
「きれいだねぇ」
長だと分かって尚、童達は悧羅の周りではしゃいでいる。膝だけでなく、抱きついたり、背中に乗ったりとやりたい放題の童達に、紳がまた、こら!、と嗜めるが効きはしない。悧羅も、特に嫌ではないようで笑って童達の頭を撫でてやっている。すでに髪も、衣も泥だらけだが童達の好きなようにさせていた。
「悧羅、大丈夫か?」
さすがに焦った紳が尋ねたが、悧羅は笑うばかりだ。
「元気で何よりじゃ。この子らが笑うてくれておるなら、それでよい」
抱きつかれた童を抱き返しながら悧羅は笑った。一人を抱き返すと、ぼくも、わたしも、と童達は次々に悧羅に抱きついている。それらを優しく抱き返している悧羅を紳も見守るしかない。
一通り悧羅に触れ終わると、童達はまた庭で遊び始める。やっと離れた、と紳は呟いて悧羅の顔や衣に付いた泥を払う。その手を握って悧羅は、大事ない、と伝えて笑う。
その笑顔が本当に楽しそうで、紳も、そうか、と笑った。何より、紳も童達にしがみつかれて泥だらけなのだから、笑うしかない。
二人で小さく笑っていると、童達がとことこと悧羅の前に寄ってきた。
「どうしたのじゃ?」
問う悧羅の前に小さな花が差し出された。小さな童それぞれの手に、小さな花が一輪ずつ握られている。
「妾にくりゃるのか?」
笑って悧羅が受け取ると童達は大声で、長さま、いつもありがとう!、と叫んだ。余りの大きな声に悧羅は驚いたが弾けんばかりの笑顔で童達は悧羅を見ている。
「何の、妾の方こそ礼を言わねばならぬ。良き子でおってくれて…」
最後の方は言葉にならなかった。小さな手で摘んできてくれた花を推し抱く。俯きかけた悧羅の身体を、紳が優しく引き寄せた。
「ほら、お前ら。もう暗くなるから家に帰れ。親が心配するぞ」
引き寄せられた悧羅を気にすることもなく、童達は、医師、長さま、またねぇ、と言いながら駆けていく。童達の姿が見えなくなってから、紳は、悧羅、と名を呼んだ。すまぬ、と言う声が震えている。いいよ、とだけ伝えて紳は優しく悧羅を抱きしめた。
_______________途端____________。
悧羅の泣き声が響いた。
書いてて切なくなります…。
もう少しお付き合いください。
ありがとうございました。




