憩い【参】《イコイ【サン】》
紳が悧羅の宮に留まる支度を整えて入ったのは、亥の刻を過ぎていた。悧羅には速やかに、とは言われていたもののこれでも近衛隊を任されている。日々の務めもあるし、北の国の一件の後始末もあった。一日の務めを終えて、邸に戻ったころには辺りはとうに暗くなっていた。
強くはならないが昨日から雨は降り続いている。曇天の空は暗くなるのも早い。一息つく間も惜しんで、支度を整えて宮に入ったのだ。宮に着くと磐里と加嬬が出迎えてくれる。
「お待ち申し上げておりました」
深く一礼されて、紳は遅くなってしまったことを詫びた。いいえ、と二人は笑って紳の荷を預かる。こちらへ、と案内されるままに着いていくと、紳にあてがわれたのは悧羅の部屋の隣だった。
広い部屋には卓と箪笥が一竿。すでに布団も敷かれている。
こんなに近くに…。
良いのだろうか、と呟く声は二人に聞こえていたらしい。二人とも小さく笑っている。
「長が出来るだけ近くに、と仰せでございましたので。宮に留めるなど無理を言ってしまったから、と大層気にしておいででした」
紳の荷を解いて手際よく片付けながら加嬬が教えてくれた。そうか、と悧羅の心遣いに嬉しくなる。壁一枚隔てているとはいえ、すぐ側に悧羅がいる。それだけで、舞いあがりそうな心地になってしまう気持ちを抑え込んだ。長は?、と尋ねると、休んでいる、と返事がある。
「先刻までは起きておられたのですが、いつのまにか」
「そうか。まだお疲れが残っているのだな。何かお召しにはなられたか?」
紳の問いに磐里が首を振る。
「薬膳湯を少し。伏せってしまわれると、いつもにも増して食が細くおなりになりますので」
それにも、そうか、と紳は頷く。出来れば何か食べてもらった方がいいのだが、疲れた身体では受け付けないのだろう。考え込む紳に、お食餌は如何なさいますか、と加嬬が聞く。宮に来る前に、軽く隊士達と摂っていたので、大丈夫だ、と断りを入れた。では湯殿へ、と案内しようとする加嬬に、場所は分かる、と笑ってみせた。
「湯を頂いたら、長のお身体を拝見したいのだが、お休みになっておられるならば遠慮したほうがよいかもしれんな」
言った紳に、まあ、と驚いたように磐里が声を上げる。
「何を仰っておいでですか。それもお役目の一つでございましょう。遠慮することなど、どこにありましょうか。長のお身体を診て頂かねば、私共も安心できません」
諭すように言われて、紳は叱られたようだ、と苦笑するしかない。分かった、と笑うと満足そうに磐里は頷いた。
「では、湯殿に寝間着はご用意してございますので」
あとは自由に過ごせ、ということだろう。礼を述べると二人は静かに部屋を出て行った。さてと、と一人ごちて湯殿に向かう。紳が来るまで何度も沸かしなおしてくれていたのだろう。遅い刻にも関わらず、湯は温かった。身体を洗って湯に浸かると、一日の疲れがどっと襲ってくる。ゆっくりと湯に浸かるなどいつぶりだろうか。ついうとうととしてしまいそうになる。そのまま寝入りそうになり、慌てて湯から上がった。
きちんと畳まれた寝間着に袖を通す。さらりとした衣が心地よかった。濡れた髪を拭きながら悧羅の自室へ向かい、静かに戸を開けると、妲己が顔をあげた。紳を見ると、立ち上がり部屋を出て行こうとする。
「妲己?」
声をかけると紳を見ることのないまま、廊下を歩いていく。もう一度、妲己、と呼ぶと仕方なさそうに歩を止めた。
“夜伽の間は、我はお側に侍らぬ”
言い置いて、また歩を進める背中に、大丈夫だ、と伝えるが今度は妲己は止まることをせず宮の奥に消えて行った。その背中を見送って、紳は部屋に入る。戸を閉めて悧羅の側まで歩くと静かに座した。穏やかな顔をしているが、顔色は青白いままだ。額に手を当てて精気を探るが、やはり触れることが出来ない。それどころか、昨夜よりも枯渇し始めている。
自分の生命を削って体力の回復を行なっているのだろう。
本当に無茶をする。
呆れて嘆息してしまったが、それは自分の責なのだ、と胸が痛くなった。当てがった掌から、ゆっくりと少しずつ、けれど悧羅が気取らない程度、僅かな精気を流し込む。悧羅と違い紳は、人の子から精気を狩っていた。けれど、それを誰かに渡したことはない。能力を使うたびに狩っていたから、500年の内に蓄えが出来ている。全て使えば悧羅一人くらい余裕で賄えるほどには余剰があった。送り込むのをやめると悧羅の頬に少しばかり紅みがさした。昨夜と同様に拒まれることなく、紳の精気を受け入れてくれたのだ。その様を顔を覗きこんで確かめて、ほっと安堵した。
欲を言えば、一気に流し込んで治したいところだが精気を喰らうことを善しとしていない悧羅に気づかれてはならない。出来るだけ自然に、日が経つにつれて回復しているように思わせなければならなかった。
今日はこれくらいだな。
手を離して自室に戻る前に、もう一度悧羅を覗き込む。柔らかな布団に包まれて、穏やかな寝息が聞こえた。顔をみていると、自然と自分の顔も綻んでしまう。
寝顔だけは、あの頃のままだ。
眠っている悧羅の額を撫でていると、愛おしさが込み上げてきた。気持ちが緩んでしまったのか、つい悧羅の額に口づけてしまい、紳は焦ってしまった。
起きないでくれよ。
願ったが、それは届かなかったようだ。額に口付けた時に、紳の濡れたままの髪が悧羅の顔に雫を落としてしまった。冷たかったのだろう。悧羅が静かに目を開けた。ほんの数寸のところに紳の顔があるのだ。責められるか、と覚悟した紳に返されたのは柔らかな微笑みだ。紳、と名前を呼ばれてますます焦る。
どうやら、口付けた事は気付かれていないようだが、この距離は何とも弁解の仕様がない。どうしたものか、と動けないでいると悧羅の手が紳の頬に触れた。
「来てくれておったのか…。待てずに済まなんだ」
朝議の時とは違う、優しい声音だった。驚いていると、悧羅は気づいたように紳の頬から手を退こうとする。自分が触れる事を紳が嫌がるとでも思ったのだろう。慌てて、その手を掴むと、どこかほっとした様な溜め息が聞こえた。
「すまない、起こしてしまった」
掴んだ手を包み返して、紳は居住いを正した。それに悧羅は優しく笑う。
「なんの。一日寝ておったようなものじゃ。何と言うこともない。どちらかといえば、横になり過ぎておった故、ちと身体が痛むの」
そうか、と紳が笑うと悧羅は身体を起こそうとする。だが、上手く力が入らない様だ。手を貸してどうにか半身を起こすが、気を抜くと悧羅の身体は傾いてしまう。紳もそれなりに迷いはしたが、身体を支えるためだと自分に言い聞かせて悧羅の横に座り直した。そのまま、悧羅の身体を引き寄せる。本当なら妲己の方が気が休まるだろうが、部屋を出て行ってしまっている。妲己を呼ぼうか、と言ってみたが悧羅は首を振った。代わりに紳の胸にぽすり、と身体を預けた。
「其方が嫌でないなら、これがよい」
嫌であるわけがない、と思いながらつい顔を背ける。
このままだと本当にかき抱いてしまいそうだ。
ふいに、すまぬな、と胸の中から悧羅が謝る。何が?、と尋ねると、いろいろな、と苦笑した様な悧羅の声がした。
「其方の願いも、まだ叶えてやれなんだというに、妾は我を通しすぎておるようじゃ」
そんな事はない、と紳は言うが悧羅は静かに首を振る。艶やかな髪が胸を擦り、くすぐったかった。
「もうしばし、辛抱してたもれ。急ぎ身体を治すでの。さすれば、其方が嫌でなければ……」
最後の言葉は聞き取れなかった。代わりに小さな寝息が聞こえる。まだ、ほんの少し起き上がるだけでも辛いのだろうに、紳が来ていたので無理をして起きたのだ。
「……嫌な訳があるかよ……」
無防備に預けられた身体を一瞬だけ強く抱きしめて、紳は悧羅を布団に戻して自室に帰って行った。
台風一過で空が真っ青です。
蒸し暑い日が続きます。皆様、お身体大事にしてくださいね。
ありがとうございました。




