初耳【弐】《ハツミミ【ニ】》
少し甘くなりました。
磐里の言葉に紳は言葉を失った。だが、すぐに思い直す。
「精気を喰らわないとは、どう言う事だ」
「言葉通りの意味にございます」
問う紳に磐里の答えは落ち着いたものだ。私などがお話しすべきではないとは存じますが、と言い置いて磐里は続ける。
「長として立たれて500年あまり。一度たりとも食しておられません」
そんな事が可能なのか、と紳は戸惑いを隠せない。普通に過ごしている分には困ることはないだろうが悧羅は長だ。度々その能力で里を守ってきている。鬼としての能力を行使すれば精気が減る。自分の持つ精気が枯渇しないように定期的に僅かばかりの精気は採らないと生命を削ることになるのだ。先代はそれを恐れ、人を狩り尽くした。
「それは、人の精気を喰らわないということか?」
紳の言葉に磐里は首を振る。
「何者からにおいても、でございます」
「いや…しかし……。長は夜伽をなさっておいでだろう?そこで幾らかは…」
尋ねる紳に磐里は深く頷いてみせる。人から取らずとも、情を交わせば、幾ばくかの精気は流れ込むはずだ。確かに、と磐里が言葉を紡ぐ。
「夜伽で情は交わされます。ですが、流れ込もうとする精気は全て拒んでおいでです。能力をお使いになられては、ご自身の生命を少しずつ削って当てごうておいでなのです」
では、本当に、と問う紳に、再び磐里が頷く。どうして、と呟くと磐里は困った様に小さく笑った。
「長は、長くこの世におられることを望んでおられないのです」
それに、は?、と紳が目を見開く。ますます困った様な笑顔を浮かべて磐里は床に横になっている悧羅を見る。
「ただの女官の独り言とお聞き流し下さいませ。長となられて500年。荒廃した里を捨て、新たに里を築き栄えさせ、民を守る。その裏で女として息つく暇もなく望まぬ夜伽をくりかえさせられて、長は心の底からお疲れになっておられるのです。最初は私どもも、少しはお採りになるように申し上げておりましたけれど、日々疲れ、お淋しそうなお顔を見ておりましたら、何も申し上げることが出来なくなりました。せめて、女としての倖せが、長に望めましたなら、幾ばくかは変わっておったやも知れませぬけれど」
静かな磐里の声に紳は、そうか、としか言えない。磐里と加嬬は悧羅が長として立ったときからの宮付きの女官だ。紳との間にあったことも知っていて当然だった。あの哀れな悧羅を看病し支えてきたのだろうから。責められているわけではないと分かってはいたが、すまない、と言うしかできない。いえ、と磐里は首を振る。国一つ滅ぼしたからの疲れで、倒れ込んだと思っていたがそういうことだったのか。だが、このままだとすれば、悧羅はまた生命を削って腕を治すと言うことだろう。
「そういうことになると思っております」
磐里も同意する。すぐには無理でも体力が回復すれば、と。そうか、と紳は溜め息をつく。悧羅がそう決めているのであれば、とも思うが納得するのは難しい。
悧羅が全て捨てたのなら自分も捨てると決めた。
何かあれば悧羅の盾になることも自分で選んだ。だが、それは悧羅が生きていてくれていることが大前提だ。
精気を全て拒むというがやるだけは、と思い額に当てたままの掌から僅かばかりの精気を送り込んでみる。拒まれるかと思ったが、驚くことに、紳の精気はするり、と悧羅の中に流れ込んだ。しばらく見守っていたが、拒否して放出されることもない。まあ、と磐里の驚いた声が聞こえた。
「お怒りをかうかもしれないな」
苦笑して腕を治せるだけの精気を送り込む。傷口が仄かに光り始めるのを確認して、もう一度磐里と共に腕をあてがい、治癒の術式を行使する。仄かな光が徐々に薄くなり、完全に消え去った後、見えたのはしっかりと繋がれた白く細い腕だった。ほっと、安堵の息をついたが眼の前の悧羅には精気が足りていない。磐里、と声をかけると治った腕を嬉しそうに布団にしまいながら、はい、と返事が聞こえた。
「俺が、お側にいては長はお怒りになるだろうか」
磐里は首を傾げ、いいえ、と笑った。
「もともとは、今宵から夜伽のお務めの予定でしたし、長も気にしておいででした。お側におられることには差し支えはないかと」
そうか、と紳も笑う。
「では、お側におらせていただくことにする。妲己が戻ってきたら清めてから長のお側にくるようにしてくれるか?」
承りました、と磐里は応え部屋を辞した。悧羅と二人になって、改めて紳はその寝顔を見る。長として立ってからの悧羅は感情を表にだすことはなかった。咲耶や舜啓と共にいる時は違ったのかも知れないが、少なくとも紳は一昨晩まで、悧羅が感情を出すところを見たことがなかった。長として能力を抑えることをしなくなってから、その美しさは日を重ねるごとに増していたが、同時に儚くて消え入りそうだとも思っていた。そして、それは気のせいでは無かったのだ。
…本当に、消えそうだったんだな…。
磐里は、悧羅はとにかく疲れたのだ、と言っていた。誰にも頼らず、弱いところも見せられず。ただただ、500年耐え忍んできたのだ、と。
布団に入れた手を出して、両手で包む。美しいけれど、細すぎる指は冷たかった。抱きかかえた悧羅は羽の様に軽かったのを思い出す。
…500年…。たった一人で。
この細すぎる身体で里を支えるためだけに、長としての役割を受け入れてきたのだ。紳の脳裏にあの日の悧羅が蘇る。
紳に蔑まれ罵られて泣いていた。湖の辺りで血溜まりの中に伏して倒れていた。自ら子袋を潰し我が子を望めなくした。そして目の当たりにした腹の傷。
今でも鮮明に思い出せる。
どうして手を離してしまったのだろう。
どうして信じ抜くことができなかったのだろう。
あの時、手を離してさえいなければ、僅かばかりの悧羅の安らぎにはなれていたのかもしれないのに…。
包んだ手に力を込めると、ごめん、と声がでた。包んだ手を額に当てて繰り返し謝り続ける。
「悧羅、ごめん…、ごめんな…」
もし、もう一度悧羅が手を取ってくれたなら何があっても離さない。込み上げる涙を必死に堪える。泣きたいのは自分ではない。謝り続けていると、ふと、包んでいた手が動いた。弾かれたように顔をあげると、悧羅がうっすらと眼を開けた。悧羅、と名を呼ぼうとして思い留まる。長、と声をかけると視線が動いた。
「起こしてしまいましたか、申し訳ございません」
謝ると悧羅が笑う。いや、と起きあがろうとする悧羅を紳は留めた。どうぞ、そのままで、と言い包んでいた手を離そうとすると、そのままでよい、といい悧羅は紳の手を握り返した。とまた、悧羅が笑う。何か可笑しな事でもあったのか、と戸惑ってしまう。
くすくす、と小さく笑い続ける悧羅に、長?、と声をかけると悧羅は床の中で寝返りを打つ。身体ごと紳を見ると、話し方、と笑った。
「今宵から夜伽の夜であろ?」
優しく微笑まれて、紳も思い出す。一つ目の願いは夜伽の期間は礼を取らず、名を呼ぶことを許されていた。良いのですか、と改めて聞くと、悧羅は笑顔をたたえたままで頷いてくれた。
紳は、大きく息をついてその名を呼ぶ。
「………悧羅………」
「何じゃ?」
笑いを含んだ返事に胸が熱くなる。
「………悧羅………」
もう一度呼ぶと、ますます悧羅は笑う。
「何じゃ、というておるに」
その笑顔に耐えきれず紳は包んでいたままの手に額を当てた。そのまま、何度も何度も名前を呼ぶ。その都度笑われて、まるで童のようだ、と悧羅は優しく紳に笑いかけていた。
台風が近づいている様です。
用心なさってください。
ありがとうございました。




