長の役割《オサノヤクワリ》
説明が長くなりそうな予感です。
出来るだけ、サクサク読んでもらえるよう努めます。
ふぁ、と小さく欠伸をして悧羅はころりと身体を横たえた。真っ白な絹であつらえられた枕に半身を預ける。寝間着一つという姿だが、宮にいるのは自分と女官のみだ。特段うるさく言われようもない。
眼前には大きな戸があるが、今は開け放たれている。
目を向ければ、空は青く高く、一日が暑くなるのが見てとれた。悧羅の宮は、山の中腹にあるため、今日のように戸を開け放てば、冷たい風も入って来る。過ごしにくさは感じなかったが、どうにも身体が気怠かった。
いつも、こうだ。
物忌みの時期は、気怠さが増す。女である以上致し方ないのは分かっていたが、何回経験しても慣れることはない。世話をする女官も、毎回の事なので慣れたもので、出来るだけ悧羅が休めるように気を配ってくれていた。
まあ、悪いことばかりでもないが。
物忌みの時期は、夜伽をしなくていい。それは、何よりも悧羅の心を軽くするものだ。
3万の鬼の長となって、500年。最優先で求められたのは、子を成すことだった。もちろん、子ができたとして、その子が次の長になれるわけではない。だが、宮に出入りする年寄りは、より優秀な血を残すのだと、それが慣習だと、顔を合わせれば言ってくる。
言いたくなるのは、分かる。
正直にいえば、もう、聞き飽きた。毎月の物忌みが来れば、次の候補は…と部隊や、里の民の中から年寄りが選んでくる。長として立った直後は、嫌悪さえ覚えたが、今となればどうでもよかった。
【汚い】
ふと、頭の奥で声がした。振り払おうと、何もない空中で手を扇ぐ。だが、一度木霊した声はそう消えるものでもない。
そうだな。その通りだ。
考えを振り払うのをやめて手を降ろすと、ふわりとしたモノに触れた。柔らかい毛並みの大柄な狐が、悧羅に身体を擦り寄せるようにして眠っている。
長として立ってもいなかった頃に、森で拾った狐だ。痩せ細り、脚に怪我をしていたため、邸に連れ帰った。何の気はないことだったのだが、悧羅の側にいた事で狐も妖魔と化してしまった。日に日に身体は大きくなり、尾の数も増えていく。どうしたものか、と思い悩んだが、狐が側にいる事を望んだ。悧羅も、断りはしなかった。長い生を生きるのに、少し寂しさを感じていたからかもしれない。
大陸の大妖に九尾の狐がいたことを思い出し、そこから名をもらった。
柔らかな毛並みを撫でると、狐は顔を上げる。
“何某かございましたか、主よ”
何でもないよ、と言うと安心したように目を細める。
また、目を閉じようとして、狐は半身を起こした。
戸の方を見つめながら、3本の尾で悧羅を包む、と同時にぱたぱたと廊下を歩く音が遠くから聞こえてきた。
お待ちください、と制しているのは女官の声だ。それを意にも介さず、足音は悧羅の部屋へと近づいてくる。
ああ、また来たか。
深いため息をつくと狐の尾が身体を優しく叩いた。
「大事ない、妲己」
背中の毛並みを撫でていると、足音の主は既に戸の前まで到着していた。
「長!またもや、物忌みとは、どうしたものか」
現れたのは、老齢の男だ。見た目は人の年で言えば、70前半といったところ。白髪、白髭ではあるが立居振る舞いは矍鑠としたものだ。
「そろそろ、くる頃だと思うておったよ、栄州。加嬬大事ない。下がりゃ」
男を止めることの出来なかった女官が、廊下で伏しているのに対し声をかけると、一つ礼をとって加嬬はさがる。その間にも、栄州はずかずかと室内に入り、悧羅の三尺手前で腰を降ろした。そして、わざとらしく大きく息を吐き、肩を落として見せる。
「一体どういうことか。500年ですぞ、500年」
「そうは言うてもせんない事ではないか。妾にもこればかりはどうすることもできぬ。とは言え、そろそろぬしらも諦めぬか?」
落胆の色を浮かべる栄州に対し、悧羅はころころと笑ってみせる。
諦めるなど、と声を荒げるが、悧羅にとってはどこ吹く風だ。両手を耳に当てて、聞こえない素振りまでしてみせた。
「真剣に考えていただきたい!」
どん、と床を拳でたたくと、妲己がやや腰を上げた。それを手で撫でて制し、悧羅もまた溜め息をつく。
それを見やって栄州は、お忘れですか、と続けた。
「先代の暴挙から、ここまで。やっと、ここまで豊かになったのですぞ。これを維持して行くためには、優秀な鬼神が1人でも多く必要なのです」
目の前の栄州が必死になるのも分かる。
悧羅の前の代の長は、男の鬼神だった。その姿は《イサ》勇ましく、民としては喜ばしかったが、一つ難点があった。
加減がないのだ。
鬼神としての力を行使すれば、補填するために人の精気を喰らわねばならない。通常の生活を営んでいる限りは、別段精気を必要とはしないが、それでも数百年に一度は力が枯渇する。その都度、人の里へ降りて誑かし、魅惑し、精気を獲る。人の子に負担が掛からぬよう、少しずつ、数人から奪うだけで良いのだ。
だが、先代はそれをしなかった。
自身の力が脆弱になるのを恐れ、一度に数十人の人の子から全ての精気を奪い尽くした。先代自身にも子はいたが、数えきれないほどの子の誰にも次たる長の印はなく、自身も老いて行く中で、その行動は、苛烈さを増した。
悧羅が長として立った時、周辺には人の里は無く、土地さえも枯れてしまっていた。やれやれ、と肩を落とす悧羅に、先代の子らは伏して詫びた。
枯れた土地では、民は潤わない。だから、居を移すことにしたのだ。
それが、今から500年前の事だ。鬼の生の中ではほんの短い一瞬だが、民が潤い新たな子らを迎え入れようと思うまでには、長い時間を要した。先代の子らも、自ら新しい土地を切り開く事に力を惜しまなかった。
栄州も、それを思えばこそ優秀な鬼神を、と言うのだ。
けれど、悧羅はそれが叶わない事を知っている。
「栄州の思いは、最も。なれど、こればかりは妾にもどうすることもできぬのじゃ。子は授かりもの。それに、妾の子だとて、長足りるにならぬやもしれぬ。それも、存じておるのであろ?」
諭すように、悧羅は言葉を紡ぐ。
嘘偽りではない。子は授かりものだ。普通であれば、とうに授かってもおかしくない数の夜伽もこなしてきた。
それでも懐妊に至らない。それは何故か。
「天が許せば子も授かれよう。栄州らには心労をかけるが、しばしゆるりと待つのもよかろうて」
宥めるような悧羅の言葉に、栄州は肩を落とす。
「せめて、我が生を終えるまでには抱かせて欲しいものですな」
務めるよ、と笑ったが、同時に無理だと思った。
悧羅は、懐妊しないのではない。
懐妊できないのだから。
ありがとうございました。