憂い《ウレイ》
昨日書かなかった分も、今日頑張って更新していきます。
ふと不穏な気配を感じた気がして、悧羅は目を開けた。見慣れた天井が見える。主、と声をかけられて視線を向けると、心配そうに自分の顔を覗き込む妲己の姿があった。
何が、どうしたのだったか……。
少し考えて、身体を起こそうとして、下腹が引き攣った。思わず顔を顰めると、妲己が身体を支えてくれた。ああ、そうだ、と思い出す。始まる夜伽の前に紳と会い思いがけない願いを伝えられて、痛みに襲われたのだ。
それにしても、痛みで意識を飛ばすなど初めてのことだ。悧羅の身体はいつのまにか柔らかい布団に寝かせられている。妲己に寄りかかって部屋を見廻すが、紳の姿はない。紳は、と尋ねると、隣の部屋にいる、と妲己は応えた。
“勝手なこととは思いましたが、お目覚めになられたときに、彼奴がお側におらぬほうが良かろうと思いましたので”
そうか、と悧羅は息をついた。安堵なのか何なのかはわからなかったが。落ち着いてみれば、身体中、汗をかいていて不快だった。どれくらい意識を手放していたのか。妲己から二刻ほど、と教えられ、そんなにか、と悧羅は苦笑した。突然、倒れた悧羅を紳は不審に思った事だろう。二刻も待っているのであれば、そのままにするわけにはいかない。それでも、この不快な身体のままでは会いたくはなかった。妲己、と声をかけると察したのか体躯をわずかに大きくし悧羅を背にのせて湯殿へ向った。
“加嬬か磐里を呼びましょうか”
悧羅を降ろして心配そうに言う妲己に、大事ないと言い置いて、汗で濡れた衣を脱ぐ。下腹を見やると、くっきりと傷が浮かんでいた。これでは痛むはずだ、と苦笑して湯殿に入る。本音ではゆっくりと浸かりたかったが、紳が待っている。とりあえず汗だけ流して上がると、寝間着を羽織った。お運び致しましょうか、と言う妲己に断りを入れて紳の待つ部屋まで歩く。下腹の痛みはあったが、歩けないほどではなかった。部屋の前に立って、入っても良いか、と声をかける。眠ってはいなかったようで、すぐに中から扉が開けられた。悧羅と妲己が中に入ると、静かに扉が閉められる。悧羅が座すと、紳は扉の前から動かず、そのまま伏した。よい、と声をかけるが頭を上げない。その姿に、すまぬ、と伝えてようやく紳は顔を上げた。
「いらぬ心労をかけてしもうた。赦してたも」
悧羅の言葉に紳は、いえ、としか応えない。何を言えば良いのか分からないのだ。何を言っても悧羅をさらに傷つけてしまいそうで紳は言葉を出すことが出来ない。悧羅も、何を言えばいいのか分からなかった。つい、下を向いて考え込んでしまう。
さて、どうしたものか。
考えていると、あの、と紳から声がかかる。何じゃ、と視線を向けると紳は真っ青な顔をしたままだった。
「お身体は、もうよろしいのですか?…その…、あまりにも苦しがっておいででしたので…」
大事ない、と伝えるが紳の表情は優れないままだ。
「ちと、古傷が痛んでの。其方が気に病むことでもない。暫くすれば、消えてゆくでな。忘れてくれて構わぬよ」
左様でございますか、と、紳は応えたが今も痛んでいるだろうことは感じていた。あれだけの傷を負ったのだ。そうそう痛みは消えることは無いだろうし、痛みのたびに思い出させている事が、悔しかった。して、と今度は悧羅が口を開いた。
「明日の夜…、いや、もう今宵になるの。ヨトギの時刻まで、まだあるが其方も疲れたであろ。寝所を急ぎ用意させる、今宵は宮にてゆるりとするがよろしかろう」
ですが、と紳は言いかけたが悧羅が手で制する。
「其方の邸が、都のどこに構えられてあるか、妾は知らぬ。じゃがとうに丑の刻は過ぎておるであろ。朝になれば、近衛として役を遂行してもらわねばならぬ故。このままやすむ方がよかろうて」
はい、と紳は頷いた。そのまま再度伏して、お心遣いありがたく頂戴いたします、と礼を述べる。よい、と返して悧羅は立ち上がっった。紳はすぐに扉を開ける。
「妲己、磐里に急ぎ寝所を整えるよう言うてきてくれるかえ」
悧羅の言葉に妲己が、御意と言い残し先に部屋を出る。続くように歩を進めて、扉から出ようとしたところで悧羅はふと足を止めた。其方の、と左側に座して軽く頭を下げている紳に向かって言葉を投げる。
「其方の、三つめの願いのことだが…」
紳が驚いて悧羅を見るが、悧羅の視線はまっすぐ部屋の外に向けられている。
「身のほども弁えず、大変なことを申し上げました。お許しください」
慌てたように謝る紳に、そうではない、と悧羅は言う。
「暫し妾に考える時間をくれぬか」
弾かれたように紳がもう一度悧羅を見るが、やはり視線は合わない。悧羅はただ真っ直ぐに部屋の外を見ている。
「…お考え…いただける…、と仰せになられますのか…?」
そうさな、と笑いを含んだ悧羅の声が響く。
「思いがけないことではあるが、想いを伝えられてしまっては、妾も考えねばならぬであろ?否と言うは容易いが、其方の為人は存じておる。なればこそ、妾もよくよく考えてものを言わなばならぬ」
思いがけないのは自分の方だ、と紳は拳を握った。あんな思いをさせた自分に悧羅は、為人は知っている、と言ってくれた。
……500年……。
紳の姿を見ることさえ嫌だったろうに…。
「故に、時間が欲しい。其方が良いと言うのであれば、であるが…」
「勿論…、勿論でございます!何年でも、何百年でもお待ち申し上げます!」
伏して半ば叫ぶように紳は応えた。それに小さく笑って、そんなには待たせぬよ、と言い残し悧羅は部屋を出た。悧羅の部屋の扉が閉じる音がして、ようやく紳は頭を上げる。まさか、考えたいなどと言われるとは思っていなかった。倒れた悧羅を布団まで運んだのは紳だったが、抱き上げたその身体は驚くほどに軽く、まるで羽でも抱えているかと思ったほどだ。この細い身体で、どれだけの痛みに耐え、どれだけの民を救ってきたのか。
たった、一人で。
あの時、手を離さなければ悧羅が一瞬でも安らげる場所に自分がなれていたかもしれないのに。どんなに悔やんでも時間は戻らない。
だからこそ、もう一度その手を取れるのであれば…。
今度こそ、どれだけでも待つ。決して疑うことなどしない。だから、と願うように紳は息をついた。
ルビを振るようにはしておりますが、読みにくい事などがあれば教えていただけると、すぐに訂正したします。
ありがとうございました。




