追憶【拾参】《ツイオク【ジュウサン】》
残酷描写が少しあります。
お気をつけください。
大樹に囲まれ昼間でも光を遮るそこは、夜明け前の時刻では、未だ宵闇のようだった。湖から立ち上る白い靄で視界も悪い。ここですか、と荊軻に問われて、紳は、ああ、とだけ応えた。おいでると良いのですが、と溜め息混じりに荊軻は言う。
「私はこちらから廻ります。紳殿と妲己は別方面から」
言い置いて、右の方へと足を進めていく。妲己は背後の森の中を探すのだろう。樹々の中に消えていった。残された紳は左廻りに見て廻ろうとして、ふいに思い出した。最初に悧羅を見つけて声をかけた場所はどこだったか。靄の中で、記憶を思い起こしながら自分が最初に降り立った場所を探す。六月の間に樹々も大きくなっていたが、葉が生い茂る前なので樹々の形はなんとなく分かった。この辺りだったはずだが、と一本の大樹の前で脚を止めた。そこから真っ直ぐに湖に向かって歩く。あの暑い日、妲己は水辺りで寝転び悧羅は水の中に戻ろうしていた。焼きつくほどに鮮やかな蓮の華が、悧羅の肩に咲いていたのが思い出される。立ち上る靄で視界は相変わらず悪いが、つん、とした匂いが紳の鼻を突いた。独特の鉄混じりの匂い______。血の匂いだ。
何でこんなところで…。獣でも死んでるのか?
水辺りに近づくにつれ血の匂いは濃く、強くなっていく。引き寄せられるようにして進むと、靄の中で小さく丸まるものが見えた。
やっぱり、獣か。
丸まったものに近づいて、紳は足元がぬかるんでいることに気付く。夜露で濡れたにしても、これだけぬかるむ事はあり得ない。鬼火を一つ出すと、白銀の光が足元を照らす。その場の光景に紳は息を呑んだ。
足元には、どこまでも広がり流れる血の池があった。どんな獣の喧嘩だよ、と思いながら鬼火を丸まった小さいものに向ける。そこで、紳は呼吸が止まったと思った。心の臓が早鐘を打ち始める。うそだろ、と少しずつ近づいて辺りを照らすと、小さな丸みを帯びたものは人の背中だった。蹲るように折畳まっている。衣は紅色、湖に流れ込んでいく血と同じ色だ。そして。地に揺蕩うようにして紫色の髪が見えた。身体が震え出すのが、自分でもわかる。慌てて駆け寄り抱き起こした。悧羅!、と呼ぶが返事はない。顔も髪も手も全て真っ赤な血で染まっている。もう一度、悧羅!と呼ぶが、やはり返事は無かった。夜露にも濡れて冷えて凍ったような悧羅を抱きしめる。下腹に小刀が突き立っていた。思わず引き抜こうとして、思い留まる。衣は血染めになりどこから血が出ているのかも分からないが、まだ新しいものもある。出血し続けているのだ。小刀を抜く事で、さらなる出血をおこすこともある。暗く靄がかかる中にいても悧羅の顔は青白さを通り越して真っ白だ。抱きしめる腕に力を込めながら、荊軻と妲己を呼ぶ。すぐに2人が駆けつけたが、目の前に広がる現状に言葉を失う。紳も悧羅を呼び続けるが、依然として反応は無かった。とにかく、と自分を取り戻した荊軻が声をあげる。
「とにかく、診療所へ。どなたか信用できるお方に心当たりはないですか」
それに紳と妲己が、ある、と即答する。では、そこへ、と言う荊軻の前で妲己が身体を大きくした。
“ぬしらの足では遅すぎる。我に乗れ”
2人が背に飛び乗ると、妲己は勢いよく駆け出した。その速さたるや、周囲の景色が一瞬の内に変わるほどだ。
“決して我が主を、手放すな”
言うや否や、妲己の速度は段違いに上がった。空に足場でもあるように、妲己は駆けた。悧羅の側で妖魔となった妲己は、色濃く悧羅の能力を継いでいる。悧羅程ではないにしても、並の鬼神たちの脚力は遥かに凌ぐ。湖から咲耶の診療所に着くまで、四半刻とかからなかった。
到着するや否や、2人は妲己の背から飛び降りた。荊軻が扉を叩く。街はまだ目覚めておらず閑散としている。その中で扉を叩く音だけが響いた。すみませぬ、と繰り返しながら扉を叩き続けると、眠そうな咲耶が出てきた。
「うるさいなぁ、何時だと思って…」
咲耶の言葉はそこで切れた。荊軻の後ろで紳に抱かれている悧羅の姿を見たからだ。悧羅!と叫んで悧羅に駆け寄る。その顔は生気がない。とにかく中へ、と促され指示されるままに悧羅を寝台に寝せる。
「やるだけやるから、そっちで待ってて!」
“我はお側を離れぬ!”
言う妲己の毛並みも血だらけだ。わかった、と咲耶は頷いて荊軻と紳を隣の部屋へ追いやった。悧羅の寝衣を破って傷口を確認するが、夥しい血の量で判別がつかない。隣の部屋にむかって、湯を大量に沸かせ!と指示を出す。すかさず、2人で湯を沸かし、沸いたそばから妲己の背中に乗せて咲耶に届ける。湯に浸けた手拭いを何枚も使って、ようやく傷口が見えた。
「何よ、これ…」
一緒に見た妲己も言葉が出ない。小刀はまた突き刺さったままだったが、その周囲には夥しい数の傷がある。なかには横に、縦にと切り裂かれているものもあった。これは、まずい、と咲耶は思う。新しい手拭いを湯で絞ってあてがってから、小刀を一気に引き抜いた。血が噴き出す前に押さえ込む。
「妲己!そこの棚の瓶全部とって!」
言われて妲己が指示された瓶を取る。受け取るたびに傷口に振りかける。あるだけの血止め薬を使って、ようやく血が止まった。一息ついて、今度は傷口に手を置く。やっぱり、と咲耶は苦虫を噛んだ。子袋まで引き裂かれている。だが、何とかなりそうだ。治癒の術式を開始しようとした時、妲己が、主!と叫んだ。見ると、悧羅がうっすらと目を開けている。
「悧羅!分かる?すぐに治すから、大丈夫だから!」
「…咲耶…?」
任せときなさい、と術式を行使しようとする咲耶の手を悧羅が掴む。だめ、と言いながら、悧羅は掴む力を強くする。それどころか起きあがろうとして、妲己に止められている。それも、振り切って悧羅は咲耶の両腕を掴んだ。治さないで、と弱々しい声がする。何言ってんの!、と咲耶がいうが、お願いと腕を掴む手に力が込められた。
「何で…。子袋まで傷ついてんのよ!子どもが望めなくなる!」
「それでいい!!」
咲耶の言葉に悧羅は泣き出した。それを望んだ。
「あの人の…、紳の子を産めないで、他の誰とも知らない男たちと子を成すくらいなら、これでいい!!!私が望んだの!私の最後の頼みだから…!」
泣きじゃくって叫ぶ声は悲痛だ。咲耶も妲己も言葉が紡げない。それは、隣の部屋の荊軻と紳も同じだった。紳は呆然とし、その場に座り込んでしまう。
自分が追い込んだ…。
隣の部屋からは、悧羅の鳴き声に混じって、自分でやったの、と咲耶の声がする。悧羅の声は聞こえなかったが、肯定したのだろう。分かった、と咲耶が応えるのは聞こえた。
子袋を治さないと言われて、やっと悧羅は咲耶の腕を離す。途端にぐらりと傾く身体を妲己が支えた。
「妲己…。血がつくよ…」
身体を起こそうとする悧羅を妲己の尾が留める。悧羅は大人しく従って、妲己に身体を預けた。妲己が見つけてくれたの、と聞かれて妲己は咄嗟に、荊軻殿です、と応えた。紳が見つけて一緒にここまで来ていることを気取られてはいけないと思ったのだ。そう、と力なく言って、悧羅は、荊軻と呼ぶ。扉の向こうから、ここに、と言う声が聞こえた。来て、というが、ですが、と荊軻は戸惑う。いいから、と促されて仕方なく中に入る。床も、寝台も血だらけだ。血を拭き取った手拭いと、空になった薬瓶が大量に投げ捨てられていた。長、と声をかけるが何と言っていいかわからない。すると、ごめん、と悧羅が謝った。
「みんなが、待っててくれたのに…。紳と帰ってくるって、待っててくれたのに…」
「何を仰いますか、長がご無事であっただけで十分でございます」
うん、と言う悧羅は、はらはらと泣いている。我儘を聞いてくれる?、と聞かれて荊軻は頷く。
「この事は誰にも言わないで…。ここと宮だけの秘密にして…。子を成せなくても、ちゃんと役目は果たすから。今までのどんな長よりも強い長になってみせるから…。絶対に民を守ってみせるから…」
言葉は弱々しく、今にも意識を手放しそうだ。
「承りました。この荊軻、何があろうとも口は割りませぬ。ご安心なされませ。身命を賭して、長の手足となりますゆえ」
その言葉に安堵したのか、悧羅はゆっくりと目を閉じた。
暗い話が続いてしまい、申し訳ありません。
現在に戻るまで、もう少し思い出話にお付き合いください。
ありがとうございました。




