追憶【拾貳】《ツイオク【ジュウニ】》
少しだけ残酷な描写があります。
ご注意ください。
どんなに泣き叫んでも開くことの無い扉を後にして、悧羅は力なく歩いていた。漆黒の闇の中、木にぶつかりながらも、ただ歩く。寝間着の裾が乱れて、白い肌が木々や草で切り取られても痛みさえ感じない。鬼火を出すことさえ出来ず、暗闇の中を彷徨うように歩いて辿り着いたのは湖だった。紳と初めて会った場所だ。水辺りまで歩いて、力なく座り込む。泣き叫びすぎて、全身が気怠かった。どうして、と誰に言うでも無く呟いて、また涙が頬を伝う。
どこで間違ったのだろう…。
契りを断り続けたのが始まりか、床を共にするのを後回しにし過ぎたのが始まりか、華の印を隠し続けたのが始まりか。それとも、一緒に都に入っていればよかったのか…。どれが要因かも分からない。もしくは、その全てであったのか。
契りを結ぶつもりだった。一生を共にしたいと伝えるために来た。会いたくて会いたくて翔けてきたのに、紳には悧羅の言葉は何一つ届かなかった。
戻れないのだ、もう。
宮では、荊軻たちが紳と悧羅を迎え入れる準備を整えているはずだ。明日、共に宮に入ると喜んで。
悧羅が悲しむ時には、常に側で温めてくれる妲己も居ない。夜露だけが、少しずつ悧羅を包んでいく。
紳と共に宮に入らないとなれば、悧羅に残されたのは誰とも分からない者と情を交わし、子を成し続けることだけだ。紳に言われた様に、汚れていく。
耐えられない…。
いつのまにか小さく丸まるように自分を抱きしめている。ふと、衣の中で冷たい物が抱きしめる腕に触れた。身体を起こして取り出すと、優美な彫りが施された小刀だった。先代の部屋で見つけたもので、民に配ろうとした悧羅を荊軻が、これだけは、と止めた。契りのために用いるものです、と言われては悧羅も留まるしかなかった。加嬬か磐里か、どちらかが忍ばせておいてくれたのだろう。それだけ、悧羅が倖せに戻ってくると信じて。
小刀を見つめていると、紳と過ごした日々が思い出される。紳の子を産むのだと、信じて疑わなかった。
それが、絶たれたのであれば…。
いらない…。
紳の子を産むことさえ許されず、どこの誰とも分からない男の子を孕むくらいなら。
小刀を鞘から抜いて、そのまま勢いよく自らの下腹に突き立てる。不思議と痛みは無かった。
足りない、こんなものでは。
引き抜いては刺し、引き抜いては刺す。都度、周囲に鮮血が流れるがどうでもよかった。何十回と刺したころ、悧羅の座している場所は血溜まりができ、湖に血が流れ込んでいく。それでも刺し続けて、ばたりと悧羅の身体が蹲った。刀を刺す音も、肉を切り裂く音も聞こえなくなり、静寂が周囲を包む。血の気のなくなる悧羅の身体を、夜露は容赦なく冷やして行った。
________________________
扉が叩かれて紳は虚ろに目を開けた。小窓から差し込む光はまだ薄暗くしらみ始めたばかりのようで、夜明け前だと言うことがわかる。起き上ろうにも、昨夜悧羅を追い返した後、ますます酒を煽ってしまったので身体が気怠くて仕方なかった。呆っとしていると、何度も扉が叩かれる。仕方なく立ち上がって、ちょっと待ってくれ、と扉越しに声をかける。そのまま冷たい水瓶に頭を突っ込んで、半ば強引に目を覚ました。濡れた頭を手拭いで拭きながら扉を開ける。そこには見たこともない一本角の男鬼と、妲己の姿があった。妲己!、と名前を呼ぶと妲己も嬉しそうに駆け寄って擦り寄ってきた。元気だったか、と柔らかな毛並みを撫でながら自然に笑顔が溢れた。笑うなど、都に行った7日前以来だった。
で、そちらさんは、と男鬼に向き直る。
男は立礼し、荊軻と名乗った。
「文官長を拝命することとなっております。以後、お見知り置きください」
はあ、と紳は返事をして、自分も名を告げる。それには、存じております、と穏やかな声がかかった。
「で、ご用件は?」
紳に聞かれて妲己も荊軻の横に座る。荊軻は恭しく頭を下げた。
「紳殿におかれましては、昨夜の破瓜、および契りの儀、心よりお慶び申し上げます。長の伴侶として宮にお迎えするために参じました。長は、まだお休みでございますか」
は?、と紳は呆気に取られた声を出した。目の前の荊軻はこれだけの会話の中でも真摯で穏やかな性格だとわかる。人格者としての雰囲気が漂っているのだ。
それよりも、今、荊軻は何と言った?
「ちょっと待ってくれ。破瓜?、契り?どういうことだ?」
混乱する紳に、言葉通りの意味ですが、と荊軻は穏やかに言う。
「昨夜、参られましたでしょう。長様は契りの相手として、紳殿をお迎えに来られたはずです。つつがなければ、破瓜の儀もお済みかと思います」
「いやいや、破瓜って。悧羅は都で夜伽を始めてるんだろ?急いで子を成すために休みなしって話だったろ?」
紳の言葉に荊軻が眉根をよせた。そのような事は一切ございません、と言い切る。
「長はまず国庫を開き、民を最低限の暮らしができるように導かれました。宮内の汚点を払拭し、自ら負傷者の手当てを行い、事切れてしまった者たちへも敬意をもって葬送して下さいました。宮の中も負傷者や家のない者たちへ開け放っておりましたが、ようやく、宮に住んでいたものも都に下がりましたので、紳殿をお迎えにこられた次第です」
夜伽など、行なっている暇もなければ、望んでもいなかった、と諭すように言われて、紳は言葉に詰まった。いや、でも、とどうにか言葉を絞り出す。
「でも、都の爺いが…。それに、男の出入りも…」
これには、荊軻は小首を傾げる。
「ああ、宮の前で酒に浸る翁のことですか。あれは長に解任された、先代の官吏の1人です。宮の中までは入ってくる事はないのですが、長を貶める事を言いふらしているようですね。長は、捨て置いて良いと言われておりますので、そのままにしております。出入りの鬼神たちは、各里の状況報告や、あらたな指示を受けにきておるだけですよ」
急速に紳の身体が冷える。残っていた酒の名残も消え去った。じゃあ、と聞く紳に、悧羅は純血だ、と荊軻が後押しした。ますます、青くなる紳に、大丈夫ですか、と荊軻は座るように促す。それに大丈夫だ、と応えると、して、長は、とまた尋ねられた。身体が冷えて汗が出てくる。いない、と応えると荊軻は訝しんでいる。咄嗟に妲己が家に入った。すぐに出てくると、おられぬ、と首を振って紳に居直った。
“我が主は、どこぞ!”
噛み付かんばかりの妲己を荊軻が宥める。
「どういうことか、ご説明願えますか」
荊軻の言葉に、紳は昨夜の出来事を話すよりなかった。後悔だけが残って、握る拳に力が入る。
「宮に帰ったと思ってた。月が高くなる頃に覗いたけど、もういなかったし」
言い終わるや否や、左半身に衝撃が走り、気づいた時には地面に叩きつけられていた。瞬時に身体を起こすと、妲己が威嚇している。その姿は見たことがないほどに巨大だ。その尾で紳をはたいたのだろう。
“貴様、何ということを!踏み潰してくれる!”
突進しようとする妲己を、また荊軻が嗜める。まずは長をお探ししなければ、と言われて、妲己も威嚇することを一旦やめた。
「闇雲に探してもまず見つからないでしょうね。長が本気になれば万里も翔けます。何か、思い当たる場所はありませんか」
聞かれて紳は考えを巡らせる。悧羅が行きそうな場所。一緒に行った場所は多くあるが、どれも日常的だ。しばらく考えて、もしかしたら、と思う。
「本当にもしかしたらだけど、最初に会った湖がある」
「では、まずはそこに行ってみましょう。居られると良いのですが」
促されて立ち上がり、3人は湖に向かって駆け出した。
悧羅の下腹の傷の意味、やっと書くことができました。ありがとうございました。




