追憶【拾壹】《ツイオク【ジュウイチ】》
湯浴みを終えた悧羅は、用意されていた白い寝間着に腕を通した。その上から、紅い衣を羽織る。悧羅が纏ったのは何の装飾もされていない質素なものだ。国庫に残されていたものと、官吏から返納された豪奢な物は全て民へと分け与えたからだ。悧羅が宮に入ったのはまだ寒い時期だったので、創りの頑丈な衣であれば寒さも凌げると思ったからだ。残されたものは、どれも質素で一介の鬼神が着るような物だったが、悧羅にはそれで十分だった。病にも罹っていなかったし、体力もあったから衣が薄かろうが構わない。民達の世話をするのにも豪奢な衣は邪魔になるだけだ。
湯殿から出ると、戸の両脇に女官が1人ずつ座している。悧羅が療養所で目に留めた鬼女だ。1人は加嬬、もう1人は磐里という。隊士達が宮で療養している間の世話役として任を任せた。2人とも手際良く、誰に対しても真摯に接していた。隊士達は回復し2人も一旦療養所の手伝いに戻ったが、悧羅の願いで宮付きの女官として召し上げられていた。
長、こちらに、と促されて自室に戻る。元々あった豪奢な設も全て解いて飾りの金銀も民達に配ったので、部屋には小さな鏡台と、布団があるだけだ。部屋の中で寝そべっていた妲己が身を起こして、悧羅にすり寄ってくる。その背中を撫でながら鏡台の前に座ると、磐里が丁寧に髪を櫛削ってくれる。長い髪を束ねて加嬬が差し出した組紐で結えてくれた。
紳がくれた白銀の組紐だ。
端をそっと触って、この六月、どれだけ救われただろうと思う。どんなに淋しくても、どんなに辛くても組紐に触れれば紳が待ってくれている、と思い起こさせてくれた。側にはいなくとも支えられていると信じられた。整いました、と磐里の声がして礼を言う。お美しゅうございます、と加嬬が微笑む。それにも礼を言って、さて、と悧羅は立ち上がった。縁側に出ると荊軻が待っている。軽く立礼する荊軻に、あとは任せると言うと、万事整えておきます、と返ってきた。
「明朝、お迎えにあがります」
「うん。場所は妲己が知ってるから」
擦り寄る妲己に、お願いね、と伝えて柔らかな毛並みを抱きしめる。お任せを、と妲己も穏やかに応えた。
“主よ、つつがなく”
悧羅の顔に頭を寄せて妲己が言う。うん、と応えて行ってくる、と伝えると4人は頭を下げた。それを頷いて見やると、悧羅は縁側を蹴った。4人が頭を上げると、すでに悧羅の姿は見えなくなっていた。
悧羅は、一心に空を翔ける。能力を抑えなければ、悧羅の足に追いつけるものなど、この世に居ない。夕闇が辺りを包むと、悧羅は周囲に鬼火を出して場を照らす。逸る心を抑えきれず、翔ける速度はあがるばかりだ。
もうすぐ、会える。
悧羅は約束の通り、紳を迎えに行く。
契りの応えを胸にして。
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悧羅が懐かしい邸の前に着いた時、辺りは闇に包まれていた。目の前の家から仄かな灯りが漏れている。紳が居る、と思うと胸が高鳴った。
やはり、待ってくれていた。
嬉しくて駆け出したくなる気持ちを抑えて、一歩一歩進む。戸の前に立って大きく一つ息を吐いてから、悧羅は戸を叩いた。一度では返事がない。もう、休んでいるのだろうか、ともう一度叩くと、はいよ、と中から声がした。
紳の声だ。
ただ、声を聞いただけなのに涙が溢れそうになる。待っていると、どちらさん、とトが開けられた。部屋の中の灯りが戸から漏れ出て、悧羅を映す。戸を開けた紳が目を丸くしていた。悧羅、と名を呼ばれて堪えきれずに手を伸ばした。けれど。
「触るな!」
怒号のような声に悧羅の手が止まる。紳?、と名前を呼ぶが返事がない。代わりに、何しにきた、と冷たい視線が悧羅を刺した。
「…迎えに…」
伸ばした手を下げることもできず、ただそれだけを口にする。迎え?、とまた冷たい声がした。これ程に冷たい紳を悧羅は知らない。共に過ごしていた頃の穏やかな紳は、そこには居なかった。今更、とまた声がして、悧羅は紳を見やる。わずかに酒の匂いがした。
「今更…!」
いつもの暖かい紳の眼差しではない。怒りのこもった、軽蔑ともとれる眼差しを受けて、全身が凍る。
「俺との約定を違えて、他の男に身体を許したくせに!今更、迎えだと?笑わせるな!」
怒声を浴びせられても、悧羅には理解ができない。他の男に身体を許したとは何のことだ。紳が何を言っているのかも分からない。
「何言って…。そんなこと、あるわけないでしょう」
絞り出した声が震えてしまう。身に覚えがないことで責められても、悧羅にはどうすることもできない。
「俺以外には華の印に触れさせないって言ったのに…!昼も夜もご苦労なこった。それも、長の役割なんだろ、大したもんだよ」
「だから、何のことを言ってるの?そんなことしてない」
「なら、何で宮にあれだけ男が出入りしてんだよ?何でその辺の翁いが、夜伽のことなんて知ってんだよ!お前がそうしてるからだろ!」
来たの、と悧羅は呟いた。伸ばしていた手が力なく落ちていく。だったら、どうして会いに来てくれなかったのか。翁とは誰のことなのか。宮に出入りする鬼たちは、ただ里の現状を報告し、新たな指示をもらうために来ているだけだ。
「たしかに男鬼の出入りはあるわ。でも、それは…」
「ほら、認めた!そういうことなんだろ?分かってたよ。騙しとおせるとでも思ってたのかよ!」
悧羅の声を遮って、紳が叫ぶ。悧羅の言葉を聞くつもりはないのだ。聞いて、と言うが紳は冷たい視線を浴びせるのをやめない。ああ、と悧羅は嘆息した。紳は、迎えに来た悧羅よりも、どこの誰とも分からない翁の言うことを信じたのだ。
__________届かない_________。
自然と涙が溢れた。声もなく涙を流す悧羅に、ぽつりと紳が呟いた。聞き取れず、かと言って聞き返すこともできず首を傾げる。
「……い。………汚い!!」
信じたくない言葉に、悧羅は大きく目を見開く。ますます涙が溢れて、紳の姿が滲んだ。
「二度と俺の前に顔を出すな!」
ぴしゃり!、と戸が閉ざされて悧羅は力なく座り込んだ。どうして、と言葉が出た。
「どうして…」
戸を見上げるが閉ざされたままだ。
もう、開く事はない…。
闇夜に、悧羅の泣き叫ぶ声が響いていった。
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