追憶【拾】《ツイオク【ジュウ】》
紳は、待っていた。悧羅と過ごした家で、いつもと変わりなく、日々を過ごしている。ふとした時に、悧羅を思い出すが、少しの淋しさが残る程度だ。なぜなら、必ず迎えに来ると言ってくれたから。離れていても想いは通じていると確信している。だからこそ、1人で待つ時間も苦ではない。時折、咲耶が訪ねてきて、都での悧羅の活躍を話してくれる。自分の勤めを果たそうと奮闘している姿が目に浮かんで、誇らしかった。ちょっとでも会いにいけば?、と咲耶は言うが見てしまったら、離れがたくなってかき抱いて離したくなくなるのが分かっている。今は、悧羅の邪魔をしたくなかった。身体を壊していないなら、それでいい。
「まあ、あんたがそれでいいならいいけどさ」
そう言うと咲耶は呆れたように肩を落とす。言うほど、咲耶自身も悧羅と会えているわけではない。そういえばさ、と話題を変えた。
「悧羅の立式が近いって噂だよ。先代の官吏は腐敗しきってたから全部解任したってさ」
「そんなことして、大丈夫なのかよ?普通に考えて反感買うだろ」
うん、とは咲耶もうなずく。そのせいなのかは分からないが里では悧羅の為人を貶めるような噂話が聞こえ始めていた。もちろん、出どころも分からないし民たちも悧羅の噂話など気にも留めていない。悧羅の行ってくれた事は、そんな噂に左右される程のものでもなかった。こんな辺境までは噂も届いては来ないだろうから、紳が話を聞いた時に戸惑うことも考えられた。
「だからなのか分からないんだけど、変な話があるんだよね」
「変な話?」
うん、と頷く咲耶に紳は促す。言いにくいんだけど、と前置きして咲耶は切り出した。
「悧羅の夜伽がさ、始まってるって話があるのよ」
は?、と紳が訝しげに眉を上げる。
「そんなはずねぇだろう」
そうだ、そんなはずはない。紳は待っていると伝えたし、悧羅も必ず迎えに来ると言ってくれた。それに、華の印も、紳以外に触らせないと約束してくれている。
「私だって信じてないわよ。だけど、最近は悧羅に会えてないし確認する術もない。火のないところに煙は立たないっていうし。ただ、悧羅に解任された誰かが悧羅への民の信頼を崩したいだけなのかも」
それだろうな、と紳は咲耶の最後の案に頷いた。あの悧羅が、自分と約束を簡単に違えるはずがない。
まあ、そんなとこでしょうね、と言って咲耶が立ち上がる。
「会う事があったら、ちゃんと聞いとくわ」
聞かなくても分かっている、と紳が言うと、はいはい、と手を振って咲耶は帰っていく。残された湯呑みを洗い場に置こうとして、紳は湯呑みごと両の拳を洗い場に叩きつけた。湯呑みが音を立てて割れたが気にもならない。
悧羅が、夜伽を始めている、だと?
そんなことはない、そんなことがあるはずも無い。
自分に言い聞かせるように何度も心の中で繰り返す。だが、一度燻り始めた不安の種は徐々に大きくなる。
信じろ、信じろ、信じろ、…信じろ。
不安を拭い去ろうと頭を振ったが、胸の奥に靄がかかってしまう。どれくらいそうしていただろう。大きく息をついて紳は外に出た。割れた湯呑みもそのままに、翔け始める。その足は都へと向かっていた。
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都に降り立った紳は、ただ驚くしかない。雪深い日に悧羅と見た景色はどこにもないのだ。紳が覚えている都の賑やかさはまだ無かったけれど、民達は一様に穏やかだった。それぞれに、手を貸し合いながら過ごしている姿を見て悧羅がどれだけ力を注いだかが分かる。
本当に、頑張ったんだな。
民を見ていると、自然と顔が綻んだ。周りを見渡しながら歩を進める。悧羅は先代の宮にいるはずだ。進んでいる間、至る所から、長さまのおかげで、と声が聞こえる。誰もが皆、悧羅を慕っているのが感じ取れた。その声を聞いているだけで、胸にかかった靄が薄くなるような気がした。
やっぱり、不安になる必要なんてないんだ。
紳は自分に言い聞かせる。先代の宮の前に着くと、以前は固く閉じられていた門扉は大きく開け放たれていた。まるで、誰でも入っていいとでも言っている様に、門番さえいない。門を潜ろうとして、ふと思い留まる。会ってもいいものか、と迷う。わずか六月の間にこれだけ都を立て直したのだ。まだ、後処理やこれからの事などを考えて忙わしくしているかもしれない。そうだとすれば、邪魔をしたくはなかった。けれど、もう手の届くところにいる悧羅の姿を、一目見たいのも事実だ。
声をかけずに、遠くから姿だけ見るならば邪魔にはならないだろう。
意を決して、門を潜ろうとすると、長に用かぁい、と背後から声をかけられた。振り向くと、老齢の男が立っている。顔は紅潮し眼は虚ろ、両手には酒瓶を抱えている。随分と呑んでいるのだろう。男との距離は三尺ほどあるが、強い酒の匂いがして紳は眉をひそめた。
「今は、やめときなぁ」
酒に溺れて吃逆しながら男が言う。ご都合でもお悪いのか、と尋ねると男は、悪いも何もと侮蔑的に笑った。
「都が落ち着いたってんでぇ、夜伽が始まってんだよぉ。契りの相手も連れてこなかったからなぁ」
男の言葉に紳の身体が固まった。そんな事は気にも留めず、男は、ひっひっと笑いながら酒を煽る。
「夜伽とは名ばかりでぇ、昼も夜も休みなしなんだぁ」
にやけた男は、すきものだなぁ、と大声をあげて笑う。そんなわけがあるか!、と紳が叫ぶと疑うのかい、と空になった酒瓶を投げ捨てて男は紳の背後を指さした。宮の中庭から隊士らしい男が出てきている。それと入れ替わる様に、別の男が門を潜っていった。ほらな、と新しい酒瓶を開けて男はまた大声で笑った。
そんなわけが、と言った言葉が声になっていたかはわからない。だが、目の前の男が悧羅に対して嫌悪を抱いているのだけは分かる。消えかけていたはずの胸の靄が黒々として大きさを増すのを、紳は感じていた。
違う、違う!
信じろ、信じろ!!
疑うなら直接聞けばいい。手を伸ばせば悧羅に届くところに自分はいるのだ。動けない紳に、ほらまた来たぜぇ、と男が言う。視線だけを右手に向けると、また別の隊士が宮の中へ入っていくところだった。背中を冷たい汗が流れていくのが分かる。指先も冷たくなり、感覚がない。
「子が出来ればぁ、まずは、安泰って事だろうよぉ」
嘲笑が止まらない男の言葉に、紳は耐えきれなかった。胸の中の靄はもう、紳の全身を包み込んで汚泥の中に沈ませた。堪らず全力で地を蹴り、翔けはじめる。真下から男の高笑いが聞こえて、耳を塞いだが男の笑い声がいつまでも頭の中に木霊していた。
たくさんの方に読んでいただけている様で、とても嬉しいです。本当にありがとうごさいます。




