流布《ルフ》
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「…あの…、た、隊長…?」
近衛隊舎から出ようと戸を開けたひとりの隊士は、ぎょっとしてそのまま戸を閉めてしまった。んー?、と隊舎の奥から積まれた文書の陰に隠れて、気のない紳の声だけが聞こえてくる。
「…いえ、その、んー?、じゃないんですけど…」
そろり、ともう一度戸を開けて見えた状況に身震いしてまた戸を閉める。少し遅くなってしまった昼餉を摂りに行こうとしたのだが、どうもそれは難しいようだ。戸の前で頭を掻いて立ち尽くしている隊士を見て、紳が刻を確かめると針は未に差し掛かろうというところだ。
「あー…、何となく分かった」
苦笑した紳が筆を置くと席を立つ。そのまま窓からひょいっと外を覗いて見えた景色に、ふはっと吹き出した。
近衛隊舎の入口に押し寄せている民が見えたからだ。
隊舎を取り囲む民の波は出入口の周りに1番ひしめいている。何があって、何のために集まっているのかなど嬉々とした民の顔と、泣き崩れている若い女たちの姿を見れば一目瞭然といったところだろう。
「紳様!」
顔を出した紳を見留めた群衆に軽く手を挙げてから、紳は窓を閉めた。民の目的は紳ではないだろうから、こちらにまで飛び火が来ては堪らない。
くすくすと笑いながら席に戻った紳に嘆息しながら、出ようとした隊士も自分の席に戻っている。
出掛けようとした隊士が何故か戻ったことに中にいた他の隊士達も首を傾げている。何かあるのか、と戸を開けた隊士が、うわっと叫んで反射的に閉めた。
「何ですか?何かありましたっけ!?」
狼狽える姿に他の隊士達も窓を開けて外を見たものの、はあ?、と一様に慌てて開けた窓を閉めた。
「た、隊長?!」
「あー、大丈夫大丈夫。そのうちに分かるから放っとけ」
狼狽えている隊士達には、ひらひらと手を振っておくが余計に、はあ?と声をあげられてしまった。
何なんだ、と唸る隊士達に苦笑してしまうが、こうなることは分かっていた。報せを下ろす刻限を荊軻は昼頃と言っていたが、どうも少しばかり遅れたようだ。外にいる者たちは報せを受けて集まってくれたのだろう。耳にした民も驚いただろうが、覗いた時に見えた者たちの顔はどうやら喜んでくれているようだし、忋抖が案じていたような混乱は見えなかった。目に見えるところだけでも慶ばれていることが伝われば、忋抖の心持ちも如何許りか軽くなるだろう。ひとり小さく笑いを堪えていると、隊舎の戸が勢いよく開けられて数人の隊士が雪崩れ込むように入ってきた。
「副隊長!どういうことですか!?副隊長!!」
「た、た、た、た、隊長!!!」
壊れるのではないかと思うほどの勢いで飛び込んで来た数人の隊士達の姿に紳も苦笑してしまう。飛び込んできた隊士達の手には、それぞれ2枚の紙が握られている。どうやら『報せ』とはいったものの隊士達に預けて伝え廻らせるいつもの手を荊軻は使わなかったらしい。
確かにそうであれば昼頃と言っていた刻限に少しズレが起きたのにも合点がいく。
まあアレを隊士に預けて布れ廻らせるのは確かに酷だ。
「な、何ですか!この報せ!」
「聞いてないですよ!?」
飛び込んできた勢いもそのままに詰め寄ってくる隊士達の手から紙を取ると記された荊軻の優美な文字に目を細める。
1枚は灶絃と啝咖のこと。
―――そしてもう1枚は。
見慣れた流れるような優美な文字が目に入ってきて、つい小さく笑いが溢れるのを抑えきれない。
「あー、出たか?」
「出たか?、じゃないですよ!!何なんですかっ!?この報せ!?」
ばん!、と卓を叩いて迫られるが、何と言われても書いてあることが全てだ。
「何って言われても、そのまんまだよ?」
「いやいやいやいやいや!!そのまんまって!隊長どうにかしたんですか!?」
「どうにかって何だよ?俺は俺のまんまだよ?」
飄々として報せを返すが周りでも紙が廻されて、隊舎の中にどよめきが起こっている。
「どうもしてないって!いや!だってこれ!!」
「何も可笑しなことじゃないだろ?悧羅がそうしたいって思ったんだから」
笑いながら焦る隊士に返した報せには昨夜、忋抖に渡したものと同じことが記されていた。一言一句違わず、しかも悧羅の文字で書かれたソレには最後に紳と悧羅の名と紋まで押されていた。灶絃と啝咖の方にも紋は押してあるはずだが、文字は荊軻が認めたはずだ。それからすれば悧羅が自ら認め下ろした報せは、隊士達だけでなく民達のこともさぞや驚かせたことだろう。
悧羅のことだ。
忋抖の心があまり揺れ動かされないようにしたかったのだろう。紳や悧羅、加えて荊軻たちがどんなに大丈夫だと伝えていても、忋抖が心から納得した訳ではないことなど分かっている。
これからは堂々と悧羅を愛しむのを隠すな、と言われてもすぐに行動に移せる程、忋抖の想いは軽くない。300年もの長い間想いをひた隠し、受け入れられてからも紳と悧羅に迷惑をかけまいと己を律し続けることが出来る男だ。どんなに手を伸ばしてもいいと伝えても決して紳や血族の前でさえも、その姿勢を崩さなかった。もちろん民の前ともなればそれは尚更のことで、子としての立ち居振る舞いを踏み越えようとはしなかった。
その分、見せていない処ではどうであるのかなどは知りもしないが、それでもよくもまあ理性が保つものだ、と感服してしまっていたことは言わずにおいている。
そこに紳と悧羅への感謝と贖罪があることを知っていたし、当たり前のように新しい一線を引いてしまう姿が、以前の紳の姿に重なってしまったから。
だからこそそのままにしておきたくなかった。
だからこそ本当の意味で忋抖を救い上げたかった。
契りだけは渡してやることはできない分、違う方法ででも忋抖は紳と既に肩を並べているのだと教えてやりたかった。そうして見つけたのが印と血の誓約だっただけだ。
とはいえどれだけの騒ぎになるかは、正直なところ紳にも分からなかった。であれば、下りた報せが忋抖の心を蝕むことがないよう、今日だけは紳も隊舎から離れることがないようにしていたのだが、紳がそう考えていたことなど悧羅には全て見透かされていたようだ。
自ら認めた文字が、『言いたいことがあれば自分に言え』と語っているように見える。
本当に敵わないなあ。
ふふっと笑ってしまうと、壊れました?、と隊士達が心配そうに紳を取り囲んでいる。
「壊れてないって。とにかくそういうことなんだよ。呑み込め。で、あんまり忋抖を煩わせないでいてくれると有難い」
ひらひらと手を振ってみると、あー、と隊士達が頭を抱えて一斉に嘆息した。
「いや、別に副隊長がどうだって話じゃないんですよ」
「長がそうであって欲しいって願われて、副隊長も良いって言われてるんなら喜ばしいだけだしなあ」
「俺らが心配してるのは隊長の方ですよ!」
呆れたように顔を見合わせる隊士達に、紳はきょとりとしてしまう。
「俺?なんで?」
「何でって…。隊長にとって長って絶対でしょう?誰であれ、お姿を拝謁することすら嫌がるじゃないですか」
「だから長が決められたことだから、嫌だって思ってても言えて無いんじゃないかって思って…」
はあ、とますます大きく嘆息して頭を搔いている隊士達に、ははっと紳は笑ってしまう。
確かにこれまでの紳を見てきているのだから、そう思われても仕方ない。紳にとって悧羅が唯一で絶対なのは隊士達でなくても知っていることだ。それこそ里の民なら、幼子だって知っている。
紳がどれほど悧羅を慈しんでいるか。
紳がどれほど悧羅に溺れてしまっているか。
悧羅に群がろうとする考えを、纒わりつく視線を、知られないようにどれだけ密かに無かったものにしてきただろう。
それでも。
忋抖だけは別だと思えた。
「何も堪えてなんかないぞ?その証にちゃんと俺の名と紋もあるだろ?」
込み上げる笑いを堪えながら言ってみるが隊士達は、でも、となかなか納得しようとしてくれない。
どうやら自分の部下たちは報せの中身だとか、悧羅が忋抖の母だからだとか、そんなことよりも紳が無理をしていないかの方が気掛かりらしい。
「お前らがそう思ってくれてんのは隊長冥利に尽きるけどな。けど、本当に納得してんだよ。むしろ俺がそうしてくれって悧羅に頼んだんだから」
もう一度報せの紙を手に取って眺めながら、読めてしまう悧羅の思惑に紳は笑えてきてしまう。
そういえば、悧羅の思惑通りに周りが動いているのを見るのも久しく無かった。
「忋抖は俺にとっても特別なんだよ。あいつ以外だったら許してないさ」
ふふっと笑う紳に、ならいいですけど、と隊士達は呆れ返ってしまっている。案じてくれる隊士達に礼を言っていると、隊舎の入口が俄かに騒がしくなった。
「帰ってきたかな?」
苦笑しながら肩を竦めている隊士達と共に入口を見ていると、ちょっと離してって!、と転がるように忋抖が入ってきた。開け放たれた戸から雪崩れこもうとする民達から皓滓と舜啓、灶絃が戸を閉めて忋抖を守っている。床に転がった忋抖は髪も隊服も乱れてしまって、大きく嘆息していた。隊舎に戻るまでの道すがら揉みくちゃにされたのは、その姿が雄弁に語っていて紳も見守っていた隊士達も声を上げて笑ってしまう。
「父様!笑いごとじゃないんだってば!」
「紳!ほんと、冗談じゃないんだぞ!?蹴破られるから誰か衝立か何か持ってこい!!」
慌てすぎた皓滓と舜啓が隊舎内だというのに、取り繕うことも忘れて声を張り上げた。隊士達が笑いながら加勢に行くその中で灶絃だけは、外から聞こえる祝いの声に、ありがとー!、と応えているがその姿もぼろぼろだ。
「いつ報せが下りるか分かんないし、下りた時にどうなるか分かんないだろ?今日くらい兄様の側に誰かいてやんなきゃ」
紳にそう言って忋抖ひとりで昼餉に行くのを阻んだ灶絃は、自分も的になることを忘れていたらしい。
「いやー、大変だよねえ?」
「お前のせいでもあるんだからな!?」
必死に戸を抑えながら、けらけらと笑っている灶絃を舜啓と皓滓が叱り飛ばした。わはは、と声を上げて灶絃が余計に笑うと紳を囲んでいた隊士達も笑いながら戸を抑えるのを交代に行く。
「はいはい、代わりますからねー」
「ほら、忋抖副隊長、邪魔ですよー。あっちに行ってて下さいねー」
「…邪魔って…」
腕を引っ張られて少し身体を動かされた忋抖が立ち上がると、戸を抑える役割を代わってもらえた皓滓と舜啓も大きく肩を落とした。
「あー…、ほんと、どうかるかと思った…」
嘆息しながら紳の方へ寄ってくる4人が座れるようにだろう。隊士の数人が紳の卓の前に椅子を持ってくると、別の者が茶を淹れて置いてくれた。
「助かったあ」
隊士達に礼を言いながら、どかりと椅子に座った子どもたちに紳は苦笑してしまう。
「大変だった?」
茶を啜りながら声をかけると、皓滓と舜啓が自分の身形を示して睨んできた。
「これ見てそういうこと言う?大変だったなんてもんじゃない」
「報せの刻が悪いんだよ。頼んでた昼餉も食べれなかったんだからね。父様、何か持ってるでしょ?出して」
「しょうがないなあ」
当たり前のように手を出す皓滓に引き出しから袋に入った饅頭を出してやると、やった!、と喜んで口に放り込んでいる。
「昼頃って言ってたからなあ。早めに昼餉に行ってれば良かったのに」
「…見廻り終えるまで何も無かったから、今日はもう無いかと思ってたんだよ。ああは言ってくれてたけど昨日の今日だし、流石の荊軻さんでも少しは手こずるかなって。出して夕刻だろうって思ったんだけどなあ」
あー、と卓に突っ伏す忋抖の頭を小突きながら紳は、それはないな、と笑ってしまう。
「まだ分かってないのか?あの荊軻だぞ?出すって言ったんだから出すに決まってる」
「まあ、そうなんだけど…。あー、腹減ったあ」
遠慮も無しに出した袋から次々に饅頭を放りこんでいく皓滓と舜啓に忋抖が手をだすと饅頭が乗せられている。後で摂ろうと思っていた甘味が全て取り上げられる前に、と出した紳の手にも饅頭がひとつ乗せられたが、灶絃は、まだあるよね?、と紳の卓を漁って隠していた袋を探し当てた。土産にしようと思っていたのだが、腹を空かせすぎた子どもたちに、そう言ったところで我慢出来るはずもない。さっさと卓に出された饅頭に手が伸ばされて、あっという間に消えていく様に紳も呆れてしまう。
「だから今日くらい休んで良いって言っただろ?」
報せが巡れば騒ぎになることは分かっていたことだ。紳と悧羅の契りの時も媟雅を懐妊してくれていたこともあって、かなりの間騒ぎになったのだし、灶絃と啝咖の慶事に加え、忋抖のことまでとなればあれ以上の騒ぎだろう。
そう思って忋抖と灶絃には休め、と前もって言っていたのだが2人とも諾かなかったのだ。
「休んでいいってのは揺れたけど、俺が出てなきゃ啝咖が出た時に的になるじゃない。そんなん嫌だし?」
けろりとして言い切る灶絃に、同じく、と忋抖も嘆息した。
「まあ、悧羅が出てくることなんてそうそう無いけどさ。引き受けれるものなら引き受けときたいってのはあるしね」
「そんなのお前らが気にしなくて良いって言っただろ?本当に言うこと聞かないやつらだなあ」
肩を竦めて見せる忋抖と灶絃の額を小突いていると、舜啓と皓滓が笑い出している。
「だいたい、悧羅も悧羅だよ。こんな報せを自分で認めるんだもんなあ」
「それだけ兄様が大事ってことだろ?それより父様にも見せたかったよね。報せが出たときの民達の顔」
何かを含んだ物言いに紳が首を傾げる。
「騒ぎならあれで分かるけど?」
入口に堆く積まれた卓や衝立を示すと、それもだけど、と灶絃が悪戯に笑う。
「何が凄かったって、女たちが叫んで泣き崩れたの」
「灶絃の報せのときにも居たんだけどね、ちょっと遅れて忋抖のが廻ったもんだから、まあ凄い凄い」
揶揄うような舜啓と灶絃に一瞥を投げている忋抖に、ああ、と紳も納得する。隊舎の周りでも泣いている女が居たのだから、里の中ではまだ大事だったのだろう。騒ぐ民達に泣き叫んで膝を折る女たちの姿を思い描いて、紳は忋抖を、にやりと見た。
「罪作りだねえ、忋抖?」
「煩い、…放り出してあげようか?」
「やめて。押し潰されるのは勘弁だ」
はあ、と大きな嘆息を出す頭をぽんぽんと撫でると、じろりと睨まれてしまった。
「俺が契るときなんてこんなこと無かったのにさ。兄様に懸想してる女の数が凄いのは知ってたけど、ここまでとは思ってなかったなあ」
「皓滓が知らないだけで、結構泣かせてたよ?…俺の場合は半分以上が父様に向けられてるから、あれは父様の分」
くすくすと笑う皓滓の頭をぱしりと忋抖が叩いて諭す。実際、皓滓の時も舜啓の時も、今回の灶絃にしても泣く女は多かったしそれは各々の個に向けられた純粋な想いだ。けれど忋抖に向けられているものは違う。言った通り半分以上は紳に向けられたものなのだから。
「まあ側も中身もそっくりなのは認めるしかないけどね。好いた女まで一緒なんだから、同じものって言われても、もう納得しちゃうかな」
『旦那様は旦那様。若君は若君でございますよ。小生から見ればまったく別の御方たちでございますれば』
くすくすと笑う忋抖の足下から、するりと哀玥が姿を現して擦り寄りながら小さく紳に頭を下げた。いつも忋抖に侍っているのに姿が見えないと思ったら隠れていたらしい。
『群れを散らしましょうか、と申したのですが若君が為らぬと仰せでございましたので、やむなく』
心底残念そうに息を吐く哀玥の頭を忋抖が撫でると気持ちよさそうに鳴いて見せた。
「哀玥は忋抖に甘いんだって」
「母様があと3.4人眷属増やしてくれたら俺たちの味方が出来るんだけどなあ」
あーあ、と笑いながら皓滓と舜啓にも撫でられて哀玥がますます目を細めたが、尾を灶絃に掴まれて叩き落としている。
『妲己殿に小生、睚眦にとりては若君方や舜啓様は、いと尊き御方でございますよ。新しくなどと申されず、小生らで堪えていただきませぬと淋しゅうなるというもの』
ふふ、と微笑む哀玥が撫でられながら、ぴくりと耳を逆立てたのが見えて紳は首を傾げた。
「哀玥?」
また灶絃に尾を掴まれたのかとも思ったが、どうやら違うようだ。少し困ったように一度だけ尾をふるりと振ると、くすくすと笑い出している。
「え?どうしたの、哀玥?」
きょとりとする忋抖たちに礼を取って哀玥が紳に向き直ると悪戯な笑みを浮かべた。
『旦那様、皆さまもお覚悟を』
は?、と首を傾げてしまった紳の耳に隊舎の外から大きな叫びが上がった。
「何?何?なに?」
驚いて立ち上がった灶絃が舜啓の後ろに隠れたが、叫びとも歓声とも言えない声は隊舎を揺らすほどの地響きを伴って大きくなってくる。入口に立てた卓や衝立が音を立てて転がり落ちて行くのを隊士達が止めに入るが、間に合っていない。
「…えー、哀玥…?逃げた方がいい?」
『…難儀されるかと…』
みしり、と戸や窓から嫌な音がし始めて紳が尋ねると、苦笑しながら哀玥がするりと姿を消した。
「ああ!哀玥!待って!!」
「自分だけ逃げるとか狡いって!!」
皓滓と灶絃の哀願が虚しく響くと、隊舎の壁が轟音とともに崩されて柱や土が舞った。
「…嘘お…」
皓滓が唖然とした声をあげてしまうが、叫びとともに多数の群衆が雪崩れ込んでくる。
「若君!」
「紳様!」
紳と忋抖を捉えた波には隊士達や舜啓の声も聞こえていないらしい。紳が笑いながら、逃げろ、と口に出す前にあっという間に取り囲まれて彼方此方から引っ張られ始めた。手を引かれ、隊服を掴まれ、この状況で拝み倒す強者まで居ては、紳の声など届きはしない。何処からか灶絃の名を呼ぶ声や、泣き叫びながら忋抖の名を呼ぶ若い女の声もする。時折混じるように、ちょっと待って!、と焦る忋抖の声と、どうにか場を鎮めようと張り上げる隊士達の声が聞こえてくるが、これだけの阿鼻叫喚では何の役にも立っていない。
どうするかなあ。
揉みくちゃにされるのはまだ良いが、これだけ気が立っていては怪我を負う者が出ているかもしれない。いくら喜んでくれているとは言っても民が傷付けば悧羅が悲しむ。力尽くで止めることも鎮まらせることも出来るが、ちらりと見えた中には幼子や老齢の者も居たし、紳がそうしてしまえば怪我をさせてしまう。
隊舎に戻った時の忋抖たちがぼろぼろだったのも手を出さなかったからだろう。まあ、灶絃が一緒だったから、少しは面白がって煽ったかもしれないが、それは予想の範疇ではある。
いや、でもなあ。
何処からともなく手が伸びて揉みくちゃにされているというのに、何故か冷静に考えてしまっている自分に紳は笑えてきてしまう。どうやら思い描いていた以上のことが起こると、鬼といえども自分のこととは考えられなくなるようだ。けれど、ふふっと笑ってしまったその時に聞こえた声には紳も、はあ?、と声をあげてしまった。
「おやまあ、何やら賑やかしゅうあるの」
叫びや地鳴りの中にあって、その声だけは静かに穏やかに響いて届いた。
「え?悧羅、来ちゃったの?」
姿は見えないがぼそりと呟いた紳の声は悧羅に聞こえていたらしい。くすくすと鈴を転がすような笑い声に、取り囲んでいる民の熱が抑えられていく。
「哀玥が何やら愉しゅうあると伝えにきたでな」
声だけではあるが悧羅が笑っているのが見えるようだ。姿を消したと思っていた哀玥はこうなることを見越して悧羅の元に走ってくれたらしい。
「会えるのは嬉しいけど、ちょーっと危ないかな?」
「妾よりも紳らの方が、であろうに」
ふふっと笑った声に被さったのは長様、と呟いた幼子のものだった。紳たちからまだ姿は見えないが、どんっとぶつかった音と衣擦れの音で悧羅が飛びついて来た幼子を抱き上げたのが知れる。
「祝いを伝えにきてくれておったのかえ?」
「うん!でも若君たち、びゅーんって逃げちゃうんだよ?」
「おやおや、それはせんないことをした。すまなんだな」
くすくすと優しく笑う声に誘われるように紳たちを掴んでいた手が、ひとつ、またひとつと離れていく。ひとり、またひとりとその場に座りこむものや、立ち尽くす者が出てくるとようやく紳にも悧羅が見えた。思っていた通り幼子を抱えた悧羅は衣で幼子の顔に付いた泥を拭っている。走って腕に囲いたいのをぐっと堪えている前で、悧羅の足下に数人の幼子が走って抱きついた。
「なれど傷を負うては妾が哀しゅうなるに」
幼子たちの頭をそれぞれに撫でながら悧羅が言うと、皆が満面の笑みで顔を見合わせた。
「ごめんなさあい」
抱いていた幼子を降ろした悧羅が蹲んで視線を同じくしながら、幼子たちの手の中を示す。
「して、これは?」
えへへ、とはにかむ幼子たちの手には小さな花だったものが握られていて、紳と忋抖と灶絃にあげたかったのだと視線を伏せた。
騒ぎの中で花弁が落ちてしまったが、どうしても渡したかった、と残念そうに肩を落とす幼子たちに悧羅が微笑みながら紳たちのほうを見やる。その視線が忋抖の上でぴたりと止まったのが分かって、紳は小さく笑えてしまった。
あーあ、これは怒るだろうなあ。
何事にも動じないように見せている悧羅は、自分のものと定めると意外にも欲が強い。紳もそう想われていると知れるまで長くかかったから、忋抖はまだそこまでと思っているかもしれない。
とはいえ焦がれている者に妬いてもらえるのは心地好いものだ。
ふふっと笑うと悧羅からじとりと見られて紳は肩を竦めた。
熱は退いてきているとはいえ、未だ紳たちに手が掛けられているのは変わらない。それでも、紳や灶絃は引っ張られているだけだから、まだ良い方だ。忋抖など引き倒されて乗し掛かられているのだから。引き剥がそうと無理矢理に行って、怪我をさせるのが嫌だったのだろう、と考えていたことは見れば分かるが囲まれている相手が悪い。
紳を囲んでいるのは年嵩のいった者たちや子どもたちが多いのに対して、忋抖の方は妙齢の女が多いのは一目見れば分かる。悧羅の視線はもちろん紳の上でも止まりはしたが、それらの者らなら仕方ない、と疵を通して一応の許しはもらえている。
それでも紳は誰のものだと聞く想いも伝わってきたから勿論、悧羅のものだ、と伝えておいた。納得した訳ではなさそうだったが、この場で紳を囲む者たちに悋気を起こしては幼子も居るのだから怖がらせるとでも思ったのだろう。どうにか堪えてくれている。
これは後でしっかり償わないと。
紳が小さく嘆息すると悧羅が民たちに向かって、にっこりと微笑んだ。
「喜ばしゅう思うてくれるは嬉しゅうあるが、子らが祝いも手向られぬはせんなきことじゃ。…少しばかり皆も心を鎮めやし」
穏やかな、ともすれば笑っているようにも聞こえる声には否を言わせない重さを含んでいたが、それに気付いたのは悧羅に連なる者たちだけだったろう。
それ程に悧羅はいつもと変わらなかった。
いや、変わらないように見せていた。
あーあ、怒らせちゃった。
嘆息を深くしてしまう紳の前で、長様?と幼子たちが不思議そうに見ている。変わらないように見せている悧羅がいつもと違うことを気取るとは、熱狂していた大人たちよりも余程勘が良い。きょとりとしている幼子の頭を撫でながら立ち上がった悧羅が紳の方に近付いてくると、子どもたち以外の手が紳から離れた。
「あー、…悧羅?ごめんね?」
苦笑しながら詫びると腰を屈めた悧羅も小さく笑いながら紳の耳に触れてくる。
「ほんに、ちいと目を離さばこれじゃ。よほど妾で戯れとうあると見える」
「いや、そんなんじゃないんだけどね。これは仕方ないよね?」
嘆息する紳に、まあそうだの、と悧羅も嘆息すると触れられていた耳に何かがぶつりと通された感覚が走る。
「悧羅、ちょっと痛い」
ちりり、と首に当たる冷たいモノに異を唱えてしまうが、悧羅はますます嘆息を深めて見せた。
「妾をこのような心持ちにさせておるというに些末なことを気にするでない。とはいえこちらにはそう申せるものでなし」
紳の背中や膝にしがみついている子どもたちに微笑みかけてひとりの頭を悧羅が撫でると、耳から手が離れた。見えた紳の耳に、わあ!、と子どもたちが歓喜の声を上げて飛びついてくる。
「おわっ!何だ、なんだ?」
慌てて受け止めた紳を置いて、悧羅は灶絃の方に歩き始めている。
「すまぬが灶絃を離してやってはもらえぬか?囲うてもろうて愉しゅう思うておるようじゃが、叱られてしまうでの」
ふふっと笑いながら悧羅が自分の左耳をとんとんと示すと、見慣れない飾りが2つ見えた。あ!、と顔を輝かせる灶絃の左耳に悧羅が手を掛ける。
「母様と俺の?」
「そうじゃ。ちいとばかり痛むがよろしいか?」
「勿論!やったあ!」
嬉々とする灶絃の耳にも、ちくりとした痛みが走ると自由になった身体で悧羅に抱きついている。
「もうちょっと待つかと思ってたのに。流石、母様!」
「愛らしゅうある灶絃の頼みとあらば、急かねばの」
ふふっと微笑んだ悧羅が灶絃を一度ぎゅうっと抱きしめると擦りよる背中をぽんぽんと叩いてから、さて、と忋抖に向き直った。悧羅が姿を現したことに固まってしまった女たちは、まだ忋抖の上から降りれていない。そのいくつかの手は忋抖の隊服を脱がせようとでもしたのだろう。この機に乗じてよからぬことでも考えたのか紐を解いているのが見えて、悧羅がほんの僅かに眉を寄せたが、ぐるりと視線を返して別の山を見つける。
「皓滓と舜啓は…。…おやまあ」
ぼろぼろになった姿で手を上げた2人を見つけた悧羅は、ふふっと笑ってしまう。若い女も混じってはいるが乗し掛かっているのは子どもたちや男たちだ。ふむ、と小さな顎に指を当てて少し考えた悧羅がにこりと微笑んで見せた。
「媟雅と加嬬に伝えておくとしよう」
「「やめて!」」
揶揄いを含んだ言葉に舜啓と皓滓が同時に叫ぶ。
「加嬬に嫌われたら生きていけない…」
「…殺される…、媟雅に殺されちゃう…」
身を竦めた2人を囲んでいた民達も慌てたように気遣い始めた。大丈夫ですって、と慰める民達に苦笑する悧羅の奥で、まだ子どもたちの良いようにされたままの紳も苦笑している。して、と忋抖の方に歩を進めた悧羅が目の前で止まると忋抖の身動きを封じていた者たちがますます強張って固まった。
「…報せが下りたと思うておったのだが、未だ耳にしておらぬようじゃの…」
静かな声で微笑まれた女たちが弾かれたように忋抖の上から降りようとするが、固まってしまった頭と四肢では動くに動けない。あ、と呻くように出された声に微笑みを深くすると、悧羅が倒されたままで見上げている忋抖の頬をするりと撫であげる。
「これは妾のもの故。ほんにすまぬが手を離してもろうてもよろしいか?」
空いている手で忋抖に跨ったままの女たちの頬を悧羅が撫でて退くように伝えているが、今度は惚けたように動けなくなってしまっている。
里に降りるようになってからの悧羅は民達と触れ合うことも多くなったが、幼子や老齢の者でもない限り、ここまで近付けることは少ない。悧羅としては遠慮などせず様々なことを聞かせて欲しいと願っているのだろうが、嬉しそうに駆け寄る幼子たちや老齢の者たちとの刻を遮らないというのは、いつのまにか民達の間で無言内に交わされた約束事になっていた。
『他者を慮れる里になれ』と願った悧羅の思いは果たされつつあるけれど、悧羅が突如として目の前に現れたら惚けるのは当たり前なのだ。
動けない女たちに小さく嘆息した悧羅が、とんとん、と肩を叩いていくと気を取り戻した女たちが弾かれたように忋抖の上から飛び降りる。
大きな嘆息を吐きながら起き上がろうとする忋抖の右耳に悧羅が触ると、ぶつりと何かがそこを貫いた。
「え?なに?」
慌てて起き上がった忋抖の首にも、紳と同じく、ちりりと冷たいモノが触れる。
手で触れてみると耳の真ん中に植えられたナニカから繋がる糸のようなものがあった。
「…ほんにもう…、紳といい忋抖といい、其方らに触れることを許すは妾のみにせよと言うておるに、まだようと分かってはおらぬとみえる」
「いや、分かってるよ!?でもこれはどうしようもなかったっていうか!ほら!父様だって押し倒されてって、ないの!?」
悧羅に、じっと見られた忋抖が紳に助けを求めたが、見えた先には抱え切れない程の子どもたちに膝や背中をとられ、年嵩の者たちに手を握られて座っている姿だけがあった。こちらを見ながら、にやにやと笑っている紳の髪も隊服も引っ張られすぎて乱されてはいるが、脱がされそうになったようには見えない。
「…ええ?そんなことってある?」
うわあ、と頭を抱える忋抖に堪え切れず、紳がふはっと吹き出した。
「だからお前は罪作りだって言っただろ?」
必死に声を堪えながら、肩を震わせる紳の右耳で何かが光って揺れている。ん?、と目を凝らすと耳の真ん中に紫紺の玉で彫られた小さな蓮が見えた。そこから繋がった銀糸の上にいくつかの花弁が付いている。流れ落ちる蓮の花弁のように付いているソレらは、白銀と薄紫の色を纏って首筋まで伸び、弧を描くように耳の後ろに廻っていた。
「…あれ…?もしかして…?」
そろりと忋抖が自分の耳に触れると先程触れたモノが蓮の形であることが指先から伝わってくる。
「…これ…、揃い…?」
銀糸の上に散りばめられた花弁を辿りながら、なんでもないことのように聞いたはずだが上擦る声音では誤魔化せない。
「印だけではやはり足らぬようであるしの。これで妾のものじゃと知らしめられるというもの。よもやこのような処で其方らに渡すなどとは思うておらなんだが…。どうにも紳も忋抖も妾に悋気を起こさするのが上手うあるでな」
肩を落として見せる悧羅の姿が滲んできて思わず顔を伏せた忋抖を、ふわりと悧羅が包んだ。
「これこれ、そのような表情を見せてしもうては、また女子衆に手を引かれてしまうえ?他に見せてはならぬとこれほど言うておるに、ほんに悩ましゅうさせること」
「…見せないよ、見せれるわけない…」
「どうであろうのう?女子衆に手籠にされかかっておったように見えたえ?」
ふう、と悩ましげな嘆息が降ってきて忋抖も、すりっと悧羅に擦り寄りながら抱きしめると、ふわりと芳る悧羅の匂いに、ほうっと安堵してしまう。
「…それはごめん…」
「よもやこのような姿を見せらるるとは思わなんだ。紳にも見せられたことはなかったのだが…、これは妾のまかり知らぬところでそのようなことがあると思うておらねばならぬかのう?」
「ないっ!そんなこと無いし!!無いからね!」
ちらりと視線を流された紳が千切れるかと思うほどに首を振ると、急いで悧羅の側まで這って行く。立ち上がりたいが子どもたちがしがみついたままでは為されず、かといって振り落とすこともできずに動いた紳に、きゃあ!としがみついたままの子どもたちから楽しそうな声が上がった。
「ほんとに無いから!あっても全力で逃げるし!」
「はて?どうであろうのう?」
「ああ、信じてない!?おい、忋抖!お前のせいだぞ!?だいたい、俺が悧羅以外とそういうこと出来ないのは悧羅が1番良く知ってるだろ!?」
悧羅に抱きついたままの忋抖を引き剥がしながら訴える紳に、悧羅は首を傾げて見せる。それに何かを感じた舜啓と皓滓が、あ、と声を掛けて止めようとしたが一呼吸分、間に合わない。
「俺は悧羅にしか欲が湧かないの!でなきゃあんなに欲しがるもんか!」
叫んだ紳に、あーあ、と舜啓と皓滓は頭を抱え、灶絃が声も立て切れずに笑い転げた。引き剥がされたままの忋抖が嘆息しながら呆れたように紳の肩を叩く。
「父様って、やっぱり最高!」
げらげらと笑い転げる灶絃に、ん?、と紳が首を傾げると隣の忋抖まで笑いを堪えている。
「父様がそうだって俺たちは知ってるんだけどね?何もここで言わなくても」
は?、ときょとりとした紳も、満足そうに微笑む悧羅が手を伸ばして頬に触れたことで、はた、と気付く。そういえば民達に囲まれていたままだった。
「…ん?あれ?あ、あー…あー、そういうことかあ…。…やられたあ…」
がっくりと肩を落とした紳から、民達に視線を移した悧羅が、ぱん、と手を叩いた。
「このようなことであるに。せんないが紳も忋抖も妾のもの故、邪な想いを抱くは堪忍してたも。祝であればこれらも有難く受け取るであろ」
微笑む悧羅に彼方此方からちらほらと、申し訳ございません、と声が上がって少しずつその場から離れていく。それを頷いて見ながら悧羅が待たせていた幼子たちを手招きすると走って寄ってはきたものの、でも、と握ったままの花だったものを背に隠してしまう。
「其方らの想いであるに、そのままでも嬉しゅうあると思うがの。なれど気に病むと申すなら、ちいと妾に見せておくれやし」
うん、とおずおずと出された小さな手の上でひらりと白い掌が舞うと、幼子たちの花が咲き誇った。わあ!、と喜ぶ幼子たちを受け止めた悧羅が、ほれ、と促すと紳と灶絃と忋抖に、祝と感謝を述べながら渡している。ついでに、と舜啓と皓滓も渡されて受け取っているが、ついでって、と苦笑してしまう。
「さっきのでも充分嬉しかったけどな」
くすくすと笑いながら紳が幼子たちの頭を撫でると、うふふ、と笑っている。
「でも灶絃になら分かるけど、何で父様と俺にまで?」
もらった花をくるくると廻しながら聞いた忋抖の頭を紳が突いた。
どうやらまだ分かっていないらしい。
やれやれ、と思っていると、だって、と幼子たちが忋抖にしがみつき始めた。
「そうげん若君はおめでとうでしょ?」
「こうさい若君やしゅん様は、おさ様を嬉しいってしてくれてるでしょ?」
「おさ様が嬉しいって、いっぱい笑えるようになったのは、しん様がいるからなんでしょ?」
「でも、これからはかいと若君も、おさ様にいっぱい嬉しいをあげるんだよね?ぼくの父さんと母さんが言ってたもん。まだまだ、いーっぱいおさ様が笑ってくれるといいなって」
うーん、と考えながら紡がれていく幼子たちの言葉に忋抖は花を持っている手に力を入れてしまう。
「だからね、ありがとうなの。ぼくたちの大好きなおさ様に、たくさん嬉しいをくれてありがとうなんだ」
礼を言わなければいけないのは忋抖の方であるはずなのに、樂采よりも小さな子たちに諭されるなど思ってもみなかった。報せの中身も任が何であるのかも分かってはいないだろうに、ただ当たり前に受け入れて喜んでくれている姿に、ははっと笑えてしまうと、忋抖の手に幼子たちの手が重ねられる。
「だからかいと若君にお願いがあるの」
「俺に?何だろう?出来ることかな?」
しがみついてくる幼子たちに擦り寄られて擽ったいが、したいようにさせながら尋ねると、あのねー、と互いに顔を見合わせている。
「おさ様はたくさんがんばっちゃうから、いなくならないように、お手てつないでてね」
「いなくなるとぼくたち悲しいから、抱っこして、とんでいかないようにしてね。どこでもだよ?」
言われた言葉に忋抖は目を丸くするしかない。幼子たちが分かっていることなど、ただ悧羅の身に喜ばしいことが起きた、くらいのものだろう。それでも出された言葉は忋抖に紳のように悧羅を慈しめ、と里の皆が伝えてくれているように聞こえてしまう。忋抖が重く考えすぎて心をまた押し込めることがないように、と願うように出されたそれは、これまでもらったどんな言葉よりも忋抖の心を軽くした。
まるで免罪符のようだ。
「そうだね、悧羅は頑張りすぎちゃうもんね。父様と俺でちゃんと捕まえとくよ。父様ひとりだと飛んで行っちゃってたかもしれないしね」
ついちらりと紳を見て笑ってしまうと、そらみろ、と肩を竦めている。
「だから気にすんなって言っただろ?」
「そうみたい」
膝に乗った子の頭を撫でると、あとね、と足をぶらつかせている。まだあるの?、と忋抖も苦笑してしまうが、里の大事な子どもたちの願いだ。聞かないわけにはいかないだろう。
「赤ちゃんは女の子がいいな。およめさんにするの」
「…うん?」
「だからあ、赤ちゃん!おさ様いっぱい生んでくれたけど男の子が多いんだもん。がっくんも男の子だし、ずいくんも、ういくんも、ぎょうくんも。女の子が見たいのー!」
「…それは、父様に言っといて…。それかあっち」
頭を抱えて舜啓、皓滓、灶絃を指差す忋抖に、えーっ?、と不満そうな声が降りかかった。
「やだよ!かいと若君の赤ちゃんと遊ぶんだから」
「そこは樂采で我慢しといて」
「もう!女の子がいいの!かいと若君のばかあ!およめさんが出来ないじゃん」
「ええ?そう言われても…。こればっかりは…」
言葉を濁してしまう忋抖の身体を、ぽかぽかと小さな手が叩く。ふはっと笑いだす紳をじろりと睨むと舜啓たちまで笑い出している。出来ることなら叶えてやりたいし、忋抖とてそれが起きれば嬉しいことこの上ないが、それだけは無理だ。悧羅が子を授かることが出来たのは紳だからであって、他の者では為されないから。そう言ってしまえれば楽なのだが、まだどのようにすれば子を授かれるかも知らない幼子たちにいうわけにもいかない。やれやれ、と大きく息を吐くしかなくなってしまうが、紳も悧羅も愉しそうに顔を見合わせているばかりで助けはもらえそうにない。
「まあそこは天に任せような?それに俺は父様そっくりだから、父様の子でも同じようなもんだよ?」
仕方なく自分が幼子の頃に聞かされていた話で、どうにか場を宥めようとした忋抖を、幼子たちはきょとりとして見た。
「え?ぜんぜんちがうよ?」
「いや、どこが?」
「いっぱいあるけど。あ、でもお外は一緒ね」
生まれた時から瓜二つと言われてきたのに、と頭を傾げる忋抖の前で、教えようとする幼子たちに悧羅がしいっと指を立てて見せた。
「えー?おさ様ないしょにするの?」
「そうじゃ。其方らと妾のみにしておかねば。何事も秘め事がある方が愉しゅうあるものじゃ」
悪戯に微笑む悧羅に、ええ?、と嘆息した忋抖が幼子たちに教えてくれるように頼むが、いやー、とあしらわれた。
「おさ様がないしょってしたもーん」
「あ!かいと若君のお耳におはな咲いてるー。みせてー」
きゃはは、と笑いながら印のある耳を引っ張られて忋抖が、痛い!、と嘆くのを見やりながら紳がひらひらと手を振ると囲んでいた者たちが去った場に隊士達が大きく肩を落としながら座りこんだ。
あれだけの騒ぎであったのに民達に傷が無かったのは、隊士達が幼子や老齢の者たちを率先して護ってくれたからだろう。
「さすがは俺の隊でしょ?」
自慢気に悧羅を引き寄せて口付けると、ほんに、と笑顔が返される。
「ようと務めてくれておる。近衛ではのうて枉駕が武官に望むのも無理からぬものよ」
「やんないけどね」
笑い合っていると忋抖でひとしきり遊んだ幼子たちが、ばいばーい、と手を振って帰っていった。はあ、と皆が嘆息して見上げると壊れた隊舎に既に傾むいた陽が差し込んでくる。
「どうにかなりましたけど、隊長。これ、どうするんですか?」
「俺たち荊軻様にお報せするの嫌ですからね?やるなら隊長か忋抖副隊長がやってくださいよ?」
「そうですよ。絶対怒られるの分かってるんですから最初から元凶が行って、潔く首を差し出してきてもらったらまだ幾分かは良いでしょうからね」
あーあ、と大袈裟に両手を上げてみせる隊士達に、ええ?と紳と忋抖が身震いした。
「俺だって嫌だぞ?荊軻に逆らえるのなんて、この里にいないんだから!ああ、忋抖。丁度良い、お前行ってしっかり絞られてこい!」
「え?何で!?嫌だよ!荊軻さんの怖さなんて悧羅を叱るの見てきてんだから知ってるし!父様の方が叱られ慣れてるんだから行って来てよ」
「馬鹿!慣れるわけないだろ、あんなもん!」
不毛な争いを始めた紳と忋抖の間を縫って皓滓が悧羅を奪い取った。皓滓の隣に座らされた悧羅を、汚れる、と舜啓が膝に乗せると、灶絃が抱きついている。
「あ!こら!取んなって!」
「ちょっと舜啓!それは俺たちの!」
2人して悧羅に向かって伸ばした手を皓滓が叩き落とすと、舜啓と灶絃が悧羅に擦り寄ってしまう。
「もう!父様も兄様も馬鹿なことばっかり言ってるなら母様貸さないからね!」
「そうそう、紳と忋抖だけの悧羅じゃないんだから」
「みんなの母様だもんね?母様の中で優劣ないって父様が言ったんだし。ね?母様?」
にこにこと笑いながら抱きつく灶絃と擦り寄る舜啓に、右手は皓滓と繋がれて、悧羅が声をあげて笑い出した。
「そうじゃの、妾の子らを比ぶることなどあるものか。子の膝に抱えてもらえるなど里の母たちから羨ましゅう見られるであろうなあ」
「え?膝に乗せるくらい悧羅だったら、いつでも何処でも喜んでやるけど?」
「俺も!俺もしたい!」
「みんなしたいんだって。父様が離さないから出来なかっただけ。兄様が加ったから遠慮しなくてよくなったよ。あ、母様。馬鹿な争いが終わらないから戻しといてね?」
ついでのように皓滓に言われて、ふふふ、と笑い続ける悧羅がふわりと手を振ると崩れた壁や柱、散らかった卓や衝立までも揺らめきながら元の姿を取り戻していく。その中で勝手に『悧羅を膝に乗せれる日』を決められつつあって、ええ?と紳と忋抖が目を見合わせた。
「それは俺と忋抖だけだって!」
「お前ら姉様と啝咖と加嬬に言うぞ!?知らないからな?」
焦る紳と忋抖に悧羅の側から離れようとしない3人が、どうぞ、と言い放つ。
「悧羅は特別だって媟雅は知ってるし?」
「母様だったら誰だって膝に乗せたいに決まってるでしょ」
「母様じゃなかったら分かんないけど。もうせっかくだから皓の兄様。俺らも名前で呼ばせてもらおっか?」
「それは駄目!!」
けらけらと笑う灶絃に、紳と忋抖が声を揃えた。
「えー?心が狭いよねえ。まあ、いいや。母様、後始末は父様と忋の兄様に任せて俺らと一緒に帰ろ?」
「お!灶絃、いい考えだな。よし、みんなも疲れただろうから今日はもう戻っていいぞー」
悧羅を抱きしめたまま舜啓が手を上げると、お疲れさまでしたー、と隊士達も立ち上がり始めてしまう。おいおい、と苦笑する紳の肩を隊士達がぽんぽんと叩く。
「長でしたらいつでも皆の膝はあいてますよ?」
「うーん、俺もあんな母だったらずっと離れなかったでしょうけど。たまには顔くらい見にいきましょうかね」
「まあ長を手元に置けて愛しんでいいんですから、多少のことは大目に見ないと。でしょう?」
あはは、と笑われながら、とんとん、と耳と左の手首を示されて紳も忋抖も笑うしかない。
笑うしかないのだが。
「できるか!」
「返せって!」
紳と忋抖が3人に詰め寄った先から楽しそうな声があがるのを聞きながら、隊士達もそれぞれに帰っていった。
お楽しみいただけましたか?
読んでくださってありがとうございました。