唯一《拾弐》【ユイイツ《ジュウニ》】
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突如として名を出された忋抖は固まりながらも紳と荊軻に向かって首を傾げた。
「どういうこと?何で俺の名がここで出るの?」
見つめる先で紳は頭を抱え荊軻までも、さてどうしたものか、と思案しているのが伝わってくる。
「…父様?まさかと思うけど何か企んだりしてた?」
頭を抱えたままの紳から、いやあ、と歯切れの悪い声が聴こえて、まさか、と忋抖が悧羅を見ると穏やかに微笑んでいるばかりだ。
「父様、まさかだよね?馬鹿なこと考えてないよね?」
悧羅から紳に視線を移して、何でもないことのように聞こえるように忋抖は尋ねた。
忋抖が唯一と決めた相手が悧羅であることを知っている者は少ない。忋抖自身が、そうだと公言することを拒んでいるから、紳も悧羅もその気持ちを慮ってくれていた。
「知られて困ることでもないし、忋抖もその方が楽になれるのに」
事ある毎に紳が勧めてくれてはいたが、どうしても是と言えなかった。別に恥じることでもないのだから隠しておかずとも良いのは分かっている。気付いている者、それとなく忋抖が匂わせた者もいるし、それで何が変わるということでもないことも分かってはいる。けれど、それでも紳と悧羅にこれ以上の要らぬ心労をかけたくはないのだ。
「父様?」
応えを求める声が震えそうになるのを周りに気取られないように、忋抖は必死にいつものように問いかける。それには大きな嘆息が返ってきた。
「…あー、樂采?1個だけ教えてくれるか?今じゃないと駄目なんだよね?あとで俺と忋抖の2人だけってのも駄目なのかな?」
頭を抱えるのをやめた紳が膝の上の樂采に尋ねると、樂采が、だめだよ、と言い切っている。
「今、お話ししないと父さまもだけど紳くんが悲しくなるよ?出来なくなってずっと考えて、ずっと父さまに謝っちゃうから」
「…なるほどね、今が本当に頃合いだってことか」
ぽん、と樂采の頭に手を置いた紳が小さく何かを諦めたように嘆息すると場の皆を見廻している。
「ちょっと吃驚させるけど、まあ大丈夫かな?」
見廻した先に灶絃と啝咖を見留めて頷いてから、最後に視線を忋抖にしっかりと定める。見廻した中には気付いているような者もちらほらと居るようだし、灶絃が良い糸口を作ってくれた。ここで紳が1つや2つ、事実を伝えたとしてもしっかりと呑み込んで受け入れてくれる筈だ。え?、と身構えた忋抖に悪戯に微笑んで見せると何を口に出すのか既に勘付いているようだ。やめてくれと言わんばかりに小さく首を振り続ける忋抖に、ふふっと笑いが出てしまう。
「荊軻」
忋抖を見つめたままの紳に呼ばれた荊軻から、その日1番の嘆息が飛び出した。
「…まったく…、紳様も長も私を何だと思っていらっしゃるのでしょうね。そうならそうと、やはり身支度くらい整えさせていただきたかったものです」
小言を言いながら浮かんだ荊軻の鬼火が、ゆらりと揺れると一通の書状に変わった。真っ白なそれを手にすると荊軻が忋抖を呼ぶ。
「忋抖若君、お検め下さいますか?」
「…は…?」
差し出された書状の表には何も書かれていないが、隅に小さく、大刀に留まった蝶と蓮の紋が押されていた。
蓮は言わずもがな悧羅の象徴。
大刀に留まる蝶は紳の花押。
それら2つが合わさったこの紋の意味を知らない者など、里の中には居ない。
紳と悧羅が名を連ねて出す時にのみ使われる紋だ。使われたのはほんの数える程、忋抖がしっかりと記憶しているのは玳絃と灶絃が生まれた以降、血族に慶事があった時だけだ。
それが記されているということは。
身震いした忋抖の様子がおかしいことに気付いた皆が、わらわらと忋抖を取り囲むと、荊軻が差し出している書状を見て一様に息を呑んでいる。
「…父様…」
蒼白く血の気の退いた顔で忋抖が紳を見ると、にっと苦笑されてしまう。
「いい加減に腹括れ」
かたかたと震えながら忋抖が書状を受け取ると、荊軻がにっこりと微笑んだ。御無礼を、と一言述べながら忋抖の肩に優しく触れた荊軻がゆっくりと呼吸をするように促してくる。
「忋抖若君、大事ございません。心穏やかに、よくよく検めてくださいますよう」
穏やかな声に忋抖も大きく息を吐いて、自分を落ち着けにかかった。
そうだ、落ち着かなければならない。
ここに書いてあることが忋抖が思っていることとは違う可能性だってある。
動揺していたら中身が異なった時、皆に不審がられてしまう。
『腹を括れ』とは言われたが、忋抖が公にしたがらない理を紳も悧羅も分かってくれているのだし、忋抖は今のままで充分に充たされている。
妙なことなど書かれている筈がない。
もう一度大きく嘆息して忋抖がゆっくりと書状を開くと、飛び込んできた文字を覗き込んでいた皆から、は?、と声が上がった。
命、と書き始められたその文は忋抖から思考と呼吸を奪った。ざわつき始める声の中で忋抖はただひたすらに、その文を見つめていることしかできない。
《命
近衛隊副隊長、忋抖を
里長、悧羅の思人に任ずる
心身を賭し
命尽くるまで
悧羅の傍をかるることなく
慈しみつづくること
血の誓約により結ばるるため破ることあたわず》
末尾に紳と悧羅の名が連ねられたそれは、忋抖の手の中でくしゃりと歪んでしまう。
「…なんだよ…、…これ…、なんでっ…」
ぐしゃり、と書状を握り締めた忋抖が勢いよく紳に詰め寄った。
「何のつもりなんだよ!何考えてんだよっつ!!こんなっつ!!」
勢いの余り忋抖が紳の胸倉を掴むと、紳の膝から樂采が、わっと滑り落ちた。これまで見せたことのない忋抖の剣幕に場の皆も言葉を失う。滑り落ちた樂釆を荊軻が引き寄せて庇った。
「忋抖っ!!」
「「兄様っ!!」」
今にも紳に殴りかかりそうな忋抖を舜啓と灶絃、玳絃が後ろから羽交締めにして止める。
「こんなこと俺は望んでないっ!!知ってただろっ!?…なんでっ!なんでだよっつ!!」
抑えつけられても忋抖は紳を離さずに、揺さぶろうとする。
「「忋兄、待って!待ってって!!」」
抑えつけていた3人に瑞雨と憂玘も加わって止めるが、それでも忋抖を制することが出来ない。それはその場の者たちがこれまで見たことのない初めて目にする忋抖の姿だった。
優しく穏やかで、自分のことよりも他者のことを慮り、誰よりも先に他者の傷に気付き寄り沿ってくれる。
それがいつも見てきた忋抖の姿だ。
自分を律する術を知り、いつ如何なる時でも他者の前で声を荒げることをしない。
姿形だけでなく、その在り様まで紳に生写しだと言われる所以もそこにある。
その忋抖が形振り構わず喰らいついているというのに紳は、ふふっと笑うと、ぽん、と忋抖の頭に手を乗せて撫で始めた。
「…っざけんなっつ!!」
堪え切れずに振り上げた忋抖の拳が紳に届く間際、おやおや、と栄州の声がした。
「何ぞ騒がれておるようですな。長と紳様からのお呼びなどとは、かくも珍しきことと参じましたが。はてさて」
「睚眦が迎えに来たと思ったら…、何の騒ぎだ?」
体躯を部屋の中に滑り込ませている睚眦の背に乗ったままの栄州に手を貸しながら、枉駕が眉を寄せたが、栄州の目は床に捨てられている書状を捉えた。降りると同時に片脚を引き摺りながら進んで座すと、丁寧に開きながら検めている。何だ?、と覗き込む枉駕も、一瞬だけ目を開いたが、すぐに状況を把握した。
「すまぬの、栄州、枉駕」
「すまぬと申していただく道理がございませぬな」
ふふっと笑う2人に悧羅がほんの少し肩を竦めてみせた。枉駕はともかく栄州は、ここ数年で随分と老いた。定命が近い、と顔を合わせる度に言う程に目に見えて老いが進んでいる。それでも、このことがあるから、相談役の任の返上を受けてやれなかった。
「ほんに、長はこの老骨に最後まで喜びをくださるな」
書状を畳みながら栄州が微笑むと、よいしょ、と立ち上がる。手を貸そうとする枉駕を丁寧に辞すと、紳と忋抖の隣に座してから、男5人に抑えられた忋抖の顔を見た栄州は皺の寄った顔でくしゃりと笑った。
「何というお顔をなされておられる、忋抖若君」
栄州の目に映ったのは、蒼白く血の気を無くした今にも泣き出しそうな忋抖の顔だ。自分のまかり知らぬところで話を進められ、この様な形で知らされて怒りで頭に血が昇っても仕方がないというのに、忋抖の頭の中には紳と悧羅への心咎めだけが渦巻いているのだろう。
皮と骨に皺の乗った手を伸ばして、栄州が忋抖の顔に触れる。
「…爺…」
「そうですとも、爺が参じましたぞ。うんうん、驚かれたのですなあ、恐ろしかったのですなあ。ほれほれ、爺の腕が落ちる前に、若君も座ってはくださらんか?」
よしよし、と幼子をあやすような栄州の声に忋抖が、ぐっと息を呑む。
「久方ぶりに孫の顔を見れたというのにそのようなお顔をなされて。爺が参じましたのでな、もうご案じなされよ」
かさついた手で頬を撫でられて、忋抖から少しずつ怒気が退いていく。ふう、と大きく嘆息した忋抖が紳から手を離すと、かくん、とその場に座り込んだ。忋抖を抑えていた男たちにも手を離すように伝えてから、栄州が忋抖の頭を撫でる。
「ほんに紳様も長にも困ったものですな。爺の可愛い孫にこのような顔をさせるなど。爺がしっかと叱りますでの」
ちらり、と栄州に見られた紳が、悪い、と嘆息しているのを見てから、栄州が畳んだ書状を忋抖の前に置いた。
「若君が心咎められたのはこれですかな」
置かれた書状をまた握り潰そうとする忋抖の手を栄州がそっと止めて、うんうん、と何度も首肯いて見せる。
「他者に知られることが恐ろしゅうあるか?」
「…違うよ…」
苦々しく吐き出された忋抖の声は枯れていた。
「他者から非難されるのが恐ろしゅうあるか?」
栄州の声に忋抖が首を振る。
そんなものは最初から覚悟が出来ていた。
「ならば紳様と長に心労をかけず、お護りしたかった、といったところかの」
静かに言い当てられて忋抖は言葉に詰まってしまう。紳と悧羅が忋抖に降りかかる業も非難も全て共に背負うと言ってくれた時、本当に素直に嬉しかった。そのままで良いのだ、と認めてくれた時も心から感謝した。だからこそ、決して2人の足を引っ張ることがあってはならない、と自分に課した。何があっても公にせず、ほんの一時だけの悧羅との蜜月さえあれば、それだけで充されていたし、何より忋抖は紳から悧羅を奪おうなどとは考えもしていなかった。
忋抖の在り様は、灶絃や啝咖とは違う。どんなに紳と悧羅が大丈夫だと言ってくれていても、必ず2人に対する心無い声が出てくる。
他でもない忋抖が忋抖として在り続ける限り。
忋抖が悧羅を愛しく想うことを諦らめない限り。
だからこそ秘め事のままにしておきたかった。忋抖の想いが知られなければ2人に対する非難の声だけは避けられる。忋抖が想いを公言しないことで2人を護れるならそうしておきたかった。
ありのままでいい、と言い救い上げてくれた紳と悧羅に忋抖が返せるものなど、ほかに無かったから。
言葉に詰まったまま俯いてしまった忋抖の頭が、栄州によって優しく撫でられ続けている。
「ほんに爺は幸福者ですな。このような心優しき孫を7人も持てた上、曽孫までおる。しかしながら、孫の憂いを晴らさねば天に還っても、おちおち休んでなどはおられぬの。どれ、長」
ふむ、と髭を撫でながら立ちあがろうとした栄州を止めると、悧羅が栄州の側に動いた。
「あいすまぬ、長を動かしてしもうた」
ふわり、と悧羅の芳がして忋抖の身体が、びくりと震えたが顔を上げることはできない。今、悧羅の顔を見てしまったら紳にぶつけてしまったように、悧羅にまで暴言を吐いてしまうかもしれなかった。俯いたままの忋抖の肩を、ぽんぽん、と叩いてから栄州が悧羅に微笑みかける。
「長、すまなんだが、この老骨の短い生命を預かっていただけますかの?」
穏やかな声音で出された言葉に忋抖だけでなく、その場の子どもたち皆が驚愕してしまう。
「「「「「爺!?」」」」」
「…何、言ってんだよ爺…」
震える声音で呼びながら、ようやく顔を上げた忋抖が栄州の腕を掴むが、老いた顔はただ柔和に微笑んでいる。
「おやおや、何もおかしなことではございませんぞ。爺は長に仕えることができ申したことを、今生の誉と思うておる。かような善き主であれば、生命尽きるまで側におりたいと願うは至極当然。悔やまれるは、もう少し早う縛ってもろうておくべきであった」
のう、と目を細める栄州に悧羅も、ほんに、と苦笑した。もう少し早く、誓約の縛りを結んでおけば栄州の老いも幾許かは緩やかだったろう。けれど、天からの迎えが足を絡め取っている今の栄州では、悧羅と誓約を結んでも恩恵を受けることはできない。理の上で粛々と生命が終わるのを待たねばならない。それを分かっているのに、忋抖のために身を差し出せと言う悧羅に異を唱えない姿に、有難いというしかない。
「若君方、姫君方、よく覚えておりなされ。誓約の縛りは誉。臣から望もうと本来は是などもらえぬもの。1000年前など欲する者ばかりでございましたぞ?ましてや忋抖若君は、長からの任まで受けられておる。それも紳様のお許しの元でですぞ?これが何を意味するかお分かりか?」
腕に置かれた忋抖の腕を優しく撫でながら、栄州は微笑んだ。未だ泣きそうな顔をしたままの忋抖が、ふるっと首を振ると、やれやれ、と栄州が紳を見る。見られた紳が苦笑しながら頭を掻いていた。
「特別だって言っただろうが…、何でいつまでも我慢するんだよ」
はあ、と大きく嘆息して紳が忋抖を真っ直ぐに見据える。
「何度も言ったろ?我慢するな、欲しいならちゃんと言えって。お前にとっての俺や悧羅は周りの声如きで潰されそうか?そんなことくらいで、お前を手放すと思うか?他でも無い俺が良いって言ってんのに、お前を責める奴が一体何処に居るんだよ」
あーもう!、と立ち上がった紳が今度は忋抖の胸倉を掴んだ。
「お前ばっかり我慢すんな!そんなんで俺と悧羅と一緒に倖になんてなれるわけがないだろ!お前が本当に心から倖になれないと何の意味もないんだぞ?これまで俺たちがお前に言ってきたことを、もう一回よく考えろ!お前の目で、ちゃんと見ろ!」
掴んでいた胸倉を離されて呆ける忋抖の前で、悧羅の鬼火がひとつ揺らめいている。さて、と呟やいた栄州が居住まいを正して座り直すと、ふふっと荊軻と枉駕が横に並んだ。
「よもや栄州殿だけではございませんでしょうな?」
「そうでございますよねえ、枉駕。ともに800年御側におりましたのに、よもや置いて行こうなどとは。私どもの長が、かように情の薄い御方でしたなど、まだまだ私のまかり知らぬことがありそうです」
ねえ?、と見られた悧羅が苦笑を深くすると2人の前にも鬼火が揺らめいた。
「…ほんに良いのか?妾が天に還るまで、其方らも共におらねばならぬのだえ?」
僅かに歪んだ微笑みに3人が声をあげて笑い始めた。
「ではあと1000年は固うございますね。まだまだ叱らせていただけそうです」
「離そうなどと思っておられるなら、さっさと離しておられただろうに。何を今更」
「爺は先にお暇いたしますよ」
「「「ほんに強欲な御方だ」」」
笑い合った3人が指先に傷を付けると、落ちた血がぽたりぽたりと鬼火に吸い込まれて、高く高く燃え上がる。
「血の誓約、血の縛において妾よりかるることまかりならず。妾の定命尽きし刻のみ誓約破りてあたわず」
「「「否」」」
口上を述べる悧羅に、3人が微笑んで否を唱えた。
「長の定命が尽きました刻は私どもも共に、と」
「それ以上こき使われてはかなわんからな」
燃え上がる焔の向こうで悧羅が、物好きだの、と微笑んだ。
「許す」
その一言とともに燃え上がった焔が、3人を一瞬だけ包むとかき消えた。ほんの僅かの間に起きたことに場が静まり返る。
「またお付き合いが長うなりましたね、長」
満足そうな荊軻に、悧羅が微笑むと、ふわりとまだ呆けている忋抖に向き直ってからそっと手を取った。
「すまぬの忋抖。なれど妾が其方を手放しとうのうなってしもうた。忋抖が良いと申してくりゃるなら、妾の定命尽きるまで傍におってはくれまいか?」
冷え切った手を取って願う悧羅を見る目が一度大きく見開かれると、嘘だ、とぽつりと忋抖が呟く。それに静かにゆっくりと悧羅が首を振って否を示す。
「…嘘だよ、こんなの…」
「妾が忋抖に偽りを申したことがあったかえ?」
「…なに、…考えてんだよ…っ、ほんっ…とに…」
悧羅が包む忋抖の手が小さく震えだすと灰色の眼が潤み始めた。
「…な、んでっ!…父様も悧羅も本当に馬鹿じゃないの?なんで俺なんかのためにこんな…っ。…このままで良いって、ずっと言ってたのに…。何で聞かないんだよ…っ」
込み上げてくる涙を堪え切れずに溢し始めた忋抖の身体を、悧羅がするりと抱きしめた。
「紳が申しておったであろ?特別じゃ、と。妾も唯一に等しゅうある、と申したはず。何より妾は欲が深うある、と重鎮達にも申されてしもうた。忋抖は妾の者であると教えておかねば、いらぬ虫がついてしもうて払い切れぬし、そろそろ妾も悋気を堪え切れぬようになってしもうての。…すまぬが堪忍してたも」
「…許すもなにも…、俺が何より望んでたものだ。…望んじゃいけなかったものなのに…」
ぎゅうっと悧羅を抱きしめて泣きじゃくる忋抖の背を叩きながら、悧羅が鬼火を浮かべると、荊軻が書状を焚べた。燃え上がる書状が口上のように文字を吐き出すのを見やりながら悧羅が忋抖の耳を噛む。たらりと流れ出した血が吸いこまれるように鬼火に絡み取られると、焔に変わって高く昇った。
「…悧羅、俺も悧羅が還る刻には連れていって。置いていかないで、傍にいさせて、絶対離さないで」
「妾が忋抖を離せると思うてか?置いてゆけと願われようとも連れてゆく」
ふふっと笑った悧羅と共に忋抖が焔に包まれると、身体の奥底で何かが強く結ばれたのを忋抖は感じた。
「ちゃんと為った?」
すぐ間近で紳の声がして、忋抖の耳を引っ張って何やら検めているようだが、今この時だけは忋抖は悧羅の側から動きたくない。
「分かってるからそのままでいいぞ。うん、ちゃんとあるね」
検めた忋抖の耳には、悧羅が噛んだ処に、小さな蓮が3つ浮かび上がっている。よし、と忋抖の頭を撫でながら重鎮達の指を見ると、そこにも小さな蓮の華がある。ほっと安堵する紳に、父様は?、と忋抖が尋ねた。
「俺は契りを結んでるし、元から一緒だから大丈夫なんだよ。…だけど悧羅?何もこんなすぐ見えるとこに付けなくても良かったんじゃないの?」
呆れたような紳に、悧羅は、おや?、と微笑みながら忋抖をより抱きしめた。
「灶絃も申しておったであろ?見ゆる処に付けねば妾の者じゃと知らしめられぬ。しかと分からせねばならぬ故、揃いの物でも創ろうかとも思うておる」
「それはもちろん俺の分もあるんだよね?」
「紳も欲が深うあるものよ」
当然、と笑う紳が忋抖を撫でていると、狡い、と彼方此方から声が上がり始めた。
「俺たちだってずっと一緒にいたい!」
「私たちもよ!父様と忋抖と、重鎮の3人だけだなんてあり得ない!」
予想していた言葉に紳も荊軻も苦笑してしまう。とはいえ、本当に長い刻を生きることになってしまうのだ。今の悧羅であれば荊軻が言う通り、あと1000年は揺るがないだろうし、誓約で血の縛りを結べば少なからず悧羅からの恩恵が流れ込む。忋抖に関しては紳と悧羅がそうであって欲しくて、強引に引き込んでしまったが、支えがなくては長い生を生きることは逆に苦しむことが増えることにもなる。そんなに長い刻を過ごしていく覚悟があるのかを尋ねる紳に、子どもたちは喜々としている。
「ほんの少しの辛いことより母様や父様といれる刻が増えるほうが嬉しいに決まってる」
「それに皆で一緒にいれば、何かあったって盾になってやれるでしょ?あと1000年延びるくらい定命とさして何も変わらないし」
一片の曇も無い答えに、だって、と紳が悧羅を見ると、少しばかり困ったように苦笑している。子どもたちだけならいざ知らず、系譜に連なる舜啓や加嬬のことが気になるのだろう。そっと契りの疵を重ねると色濃くその思いが流れ込んできた。
「まあ、そうだよねえ」
肩を竦めた紳が磐里と加嬬を呼ぷ。ぱたぱたと走ってきた2人に事のあらましを話して聞かせると、まあ!、と2人が呆れたような声を出した。
「まさか、加嬬と私のみ残されるおつもりでございましたか?何とまあ淋しゅうありますことでしょう」
「本当でございます。磐里と私がおらずして、どのようにしてお過ごしになられるおつもりでしたのやら」
まったく!、と嘆息する磐里と加嬬の剣幕に紳もたじろいだ。元々、忋抖だけのつもりだったのだが話が大きくなり過ぎてしまっている。
「まさか荊軻と枉駕がそうするなんて思ってなかったからね。俺もちょっと戸惑ってんだよ」
大きく嘆息して頭を掻く紳の背中を舜啓が思い切り叩いた。いって、と呻く紳の耳をそのまま舜啓が引っ張っている。
「だいたい忋抖だけ狡いんだよ。最初に悧羅を譲ったのは俺なんだけど、そこんとこ忘れてんじゃない?で、悧羅の子って1番目は俺ですけど?」
「忘れてないって。忋抖に関しては年季が違うから、そこは呑み込んでくれ」
「ふーん、…まあそこら辺は忋抖に聞くから良いけどさ。だけど!紳がいない間、悧羅を支えてたのは俺なんだからね?悧羅も置いて行こうなんて考えたら怒るよ?」
ふんっ、と耳から手を離した舜啓にじろりと睨まれて紳と悧羅も小さく笑うしかない。ただ幼子たちは成熟した時にそれぞれの意思をきいてからと話がまとまったが、樂采だけは今が良い、とごねた。
「誓約してしまわば樂采の定命が短こうなってしまうに」
説いて聞かせる悧羅に樂采は、もう!、と頬を膨らませて見せる。
「そんなの悧羅ちゃんが長生きすれば良いだけでしょ!」
当たり前のように言い切った樂采に皆がきょとりとしたが、確かにと諾けてしまった。
「ほら、早く!」
うふふっと笑う樂采に背を押されるように、10と3つの鬼火が現れて揺らめき始めた。
“我が主、我が主”
『小生どもをお忘れではございませぬか?』
【俺の背に乗っておけば、皆同じ処に還れるぞ】
喜々として尾を振る眷属たちの頭を其々に撫でながら悧羅は、すまぬ、と詫びてしまう。
“我らの主は広き世において悧羅様、唯おひとり。違うモノに仕えよ、と申されてもその命のみは承服いたしかねましょう”
『まことそうでございますね。若君方姫君方ならいざ知らず』
【俺は主に惚れこんだだけだ】
さあ、と述べる眷属の前にも3つの鬼火が現れた。
皆が思い思いの箇所に傷を付けると、血がするりと吸い込まれていく。
「血の誓約、血の縛において妾よりかるることまかりならず。妾の定命尽きし刻共に果てゆかん」
「「「「是」」」」
笑いを含んだ声を巻き込んで鬼火が焔に変わるのを見つめていると、紳が悧羅の頬に口付けた。
「簡単に還れなくなっちゃったねえ」
「ほんに、なれど離れておったよりも長う共におれるようになったは喜ばしゅうあるの」
くすくすと笑い合っていると部屋の焔が消えた。わらわらと各々についた蓮の印の位置を確かめ合っている姿を微笑んで見ながら、荊軻が悧羅に声を掛けた。
「慶事を下ろしますのは明日の昼前で宜しゅうございますね。忋抖若君につきましても、同じく」
「よきに」
微笑んで応えた悧羅の腕の中で、びくりと忋抖が震えると更に強く抱きつかれる。
「どうした?忋抖?」
見えている耳を引っ張りながら、きょとりと紳が尋ねると、余計に悧羅にしがみついていく。
「いや…、ほんとに大丈夫かなって…」
ぼそりと呟やかれた声に紳と悧羅は目を合わせて苦笑する。ふはっと笑いながら忋抖の髪をかき混ぜた紳は、荊軻を呼んだ。
「悪い、荊軻。俺と悧羅の任なんだけど、今ここで返してもいいか?」
突拍子もない発言に重鎮達が一瞬、は?、という顔をしたが紳が忋抖を見たことで言わんとすることが知れた。ああ、と大きく頷きながら重鎮達も目を合わせて苦笑する。ほんの少しの荒療治を手助けしなければならないようだ。
「任をお返しになりたいとは長と近衛隊隊長の任のこと、でございましょうか?」
「そうそう」
「理由をお伺いしても?」
ふふっと笑い出しそうになったのを堪えたのは荊軻だけではない。栄州と枉駕など既に堪え切れず肩を震わせている。
「だって忋抖が里の民達に知れたら俺と悧羅の名が傷付くって言うんだよ。灶絃も気にしてたし、だったら辞めた方が話が早いだろ」
灶絃の名に栄州と枉駕が荊軻を見ると、手でだけ灶絃と啝咖を示して教えておいた。2人も声を上げて喜びたいのだろうが、今は声を出しては笑いだすと思ったのか必死に堪えてくれている。
「そうでございますねえ、では慶事と共にその旨も下ろすといたしましょう」
「は!?」
是に驚いたのか忋抖が勢いよく荊軻を見た。
「特に困るということでもございませんし。それで若君方の御心が安らかになると紳様がお考えなのでしたら、よろしゅうございますよ」
「いやいや!荊軻さん、何言ってんの!駄目でしょ!?」
ふふっと笑う荊軻に忋抖が急いで首を振るが身体は悧羅から離したくはないようで動こうとはしない。その様にもまた苦笑しながら荊軻も、いいえ、と言ってのけた。
「他者の倖を面白可笑しく話す者たちなど放っておいて良いのです」
「いや、そんな…ええ?」
言葉を失う忋抖に荊軻が少し大仰に頭を捻って見せ始めた。
「…となれば私共が里に残り民を護る道理もございませんね。…長、次は何処に里を構えましょう?またヒトの子の国にでも降りられますか?」
「それもよろしゅうあるの。どれ、枉駕、其方ちいとばかり良き処を探して参りゃ。栄州がおるに心地良き処での」
「かしこまりまして」
くすくすと笑いながら命を出す悧羅に枉駕も、わはは、と笑う。紳など、そこでは何して過ごそうか、などと話しだしてしまって忋抖が、ちょっと待ってってば!と声を張り上げた。
「いやいやいやいや、無理だって!何言ってんの!っていうか出て行くのに荊軻さんたちまで来たら一緒じゃない!?」
長と近衛隊隊長の座を捨てる、と言っているのに他の処で里を構えて、またその座に就くなど矛盾している。何よりまた一から里を築くなど途方もないことだ。
「そうは申されましてもねえ、紳様も長も辞めると仰せでございますし、此処では若君方の御心が休まらない。となれば新地に移り理解してくれる者たちとだけ過ごす方がよろしい。ああ、ご案じなさらずとも500年もあれば里は潤いますし、長から離れよと申されましてももう難かしくなってしまいましたので。私共も付いて行かねばならないのですよ。本当に困ったものです」
手を挙げた荊軻の指に誓約の蓮が見えている。確かに離れられないのだろうが、だからと言って長と近衛隊隊長の任を容易く解くなど馬鹿げている。
そう、馬鹿げた話だ。
そこでようやく忋抖も、あ、と気付く。ばっと紳を見ると悪戯な笑みを讃えながら、忋抖の頭を撫で続けているのが見えた。
「…謀ったね?」
じろりと睨むと堪え切れなくなった紳が腹を抱えて笑い始めた。
「だってお前!いつまでも、つまらないことばっかり気にするからさあ!」
「父様っ!!」
ひーひーと腹を抱える紳を叩くと余計に笑い転げている。釣られるように重鎮達まで笑い出して、もうっ!、と忋抖が悧羅に抱きつくと、そちらもまた小さく肩を震わせて笑っている。
「悧羅まで?もう、こっちは真剣に悩んでんだよ?」
「おやまあ、それはすまぬことをした。なれどこれでようと分かったであろ?紳と妾にとりて、忋抖らの方がどれほど愛しゅうあるか。名も座も惜しゅうない。皆にしかと見せておいでやし。忋抖が誰の者であるか、との」
くすくすと笑われながら噛まれた右耳を触られて、忋抖も諦めるしかない。わかったよ、と肩を落とすと満足したのか紳が忋抖の耳を引っ張った。
「だいたい、これ見た誰かが妙なこと言い出せるなら、そっちに会ってみたいもんだけどね。これにまた揃いまで着けられたんじゃあ、どっちが逑か分かんないぞ?」
「いったいって!俺見てないんだし分かんないだもん。そんなに違うの?」
ぎりぎりと引っ張られながら尋ねる忋抖に少し待つように悧羅が言うと、印の見せ合いが終わったのか子どもたちが側に座り始めた。そこでようやく荊軻が栄州と枉駕に、灶絃と啝咖のことを伝えると、場に居た磐里と加嬬まで大喜びしている。啝咖もこれだけの騒ぎの中では隠れていることが出来なくなったようで、顔を見せていた。
「何とまあ、心魂の番とは。爺が生きておる内に、また見えるなど、ほんに長生きはするものですなあ」
何処か憑き物でも落ちたように穏やかな顔をした啝咖の手を栄州が取ると、うんうん、と頷く。
「灶絃若君が肩の荷を卸してくださったか。そうかそうか。若君、卸し尽くすまでは今暫くかかろうが、ようと甘やかしておやりなされ」
「任せて、啝咖を甘やかすのは得意だ」
にっと笑って応えた灶絃の腕はしっかりと啝咖に廻されている。それにくしゃりと笑った栄州が暇を告げると、荊軻と枉駕も辞すことを告げた。
「急に呼びたてて悪かったな」
「なんの、いつぞや寝所に飛び込みました故、これで手打ちでよろしいかと」
「あー、あったねえ。でも、これじゃあ吊り合いがとれないよ?」
睚眦に栄州を乗せながら、にやりと笑う枉駕に紳が肩を竦めた。
「枉駕、甘やかしてはなりませんよ。私など哀玥に咥えられたのですからね」
「いや、それは本当にごめんって」
顔の前で手を合わせて見せる紳に、まあ、と荊軻が微笑む。
「まだまだ、長く共におらねばならぬようでございますし?その内にでも詫びをいただけると思っておきますよ」
「…うわあ、…1番怖いやつだ…」
少し青褪めた紳に笑いを残して睚眦が泳いでいくと、さあさあ、と磐里と加嬬が茶を持って入ってきた。
「一息おつきくださいませ」
礼を言いながら皆が受け取る中で忋抖だけが動こうとしない。
「忋抖、そろそろ返してくんない?」
「無理」
「無理って、お前」
被せ気味に否を言う忋抖に、おやまあ、と悧羅が笑いながら頭を撫でる。
「どれ、忋抖。少しばかり茶をもろうてゆるりといたそう。忋抖も辛うあったであろ?妾は忋抖の膝を借りておれば離るることもなし恐しゅうもなかろう?」
「…それなら、まあ…。父様が取らないならね」
くすくすと笑われながら悧羅に促されて渋々と手を離した忋抖の膝に悧羅が苦笑しながら座り直すと、すぐに背中から抱きしめられた。
「樂采、父様の膝に座ってて」
悧羅を取られないように忋抖が願うと、はあい、と良い返事をして樂采が紳の膝に座っている。
「容赦がないなあ、忋抖。なあ、樂采?お前の父様が俺に意地悪するんだけど、怒んなくていい?」
「右手だけなら貸してあげるよ」
「いやいや、逆だろうがよ?」
苦笑する紳に悧羅の右手が伸ばされて、嘆息しながら取ると契りの疵が重なる。
「なるほど、右ね」
「そのようだ」
悧羅と目を合わせて笑い合うと、うわあ、と姚妃が呆れて嘆息している。
「何だか父様が2人いるみたい。母様大丈夫?その2人って果てしなく重いよ?」
尋ねる姚妃の首筋に小さな蓮が咲いているのが見える。私、無理かも、と呆れている姚妃に悧羅はころころと笑って見せた。
「身を潰すほどに想うてもらえるなど嬉しゅう思えど煩わしゅうなどならぬよ。姚妃とていつの日か分かる時がこようて」
艶やかに微笑む悧羅に、そうかなあ?、と首を傾げる姚妃を苦笑して見やりながら、そういえば、と紳が皆に尋ねる。
「お前ら何処に悧羅の印入れたんだ?」
紳の問いかけに皆が自慢気に腕や脚などを見せる中、啝咖が大きく嘆息した。
「どうした?」
首を傾げた紳に啝咖が、本当にどうにかして、と哀願する。
「そう、そうなのよ。普通に考えつくのはそういうトコなのよ。身体の何処かってそういうことよね。…なのに灶絃ったら…」
深い嘆息に皆が嫌な予感を覚えると、にっと笑うと自分の左目を示した。
「「「「はあ!?」」」」
「そ、灶絃っ!ちょっとこっちに来い!」
「何処までぶっ飛んでんだよ、お前は…」
慌てて呼ぶ紳に、えー?、と笑いながら灶絃が寄ると忋抖も頭を抱えている。蹲こんだ灶絃の顔を捕まえて紳が検めると灰色の眼に、しっかりと蓮が刻まれてしまっている。
「お前はどうしてそう斜め上のことばっかりするんだよ?見え方は?どうもないのか?」
あーもう!、と嘆息する紳に、けらけらと笑いながら灶絃は手を伸ばされて悧羅にも見せている。
「むしろ、前より見えるくらいだよ?だって母様の印だよ?誰からでも見える処がいいじゃない」
「灶絃は見えずともよろしかったのかえ?」
苦笑する悧羅に尋ねられた灶絃は肩を竦めた。
「見方なんていくらでもあるよ。鏡でも水面でも刃でも。啝咖もいるから目に映れば見たい時に見れる」
にっと笑う灶絃に啝咖は嘆息しているばかりだ。忋抖に手招きされて動きながら、それに、とまた悪戯に笑う。
「ここに入れたの俺だけじゃないし?なあ、樂采?」
飛び出した名に忋抖が驚いて掴んでいた灶絃の顔を引き倒した。父様!、と忋抖が叫ぶより先に紳が樂釆の顔を掴んで上向かせて確かめている。
「…うっそだろお…」
漆黒の瞳孔に一輪の蓮が咲いているのが見えて、紳は大きく嘆息してしまう。
「え?ここが1番良いよ?妲己ちゃんも哀ちゃんも睚ちゃんも一緒だし。紳くんもしてもらう?」
「うーん、樂采、そうじゃないんだなあ」
きょとりとして言い放つ樂采に苦笑して忋抖に見せてくるように言うと、いいでしょ?、とにこにことして見せている。
「…いや、もう。この思い切りの良さは誰に似たんだよ…。うん、樂采が良いなら良いんだけどね?父さまは今日、心の臓が何個あっても足りなくなったと思うよ…」
がっくりと項垂れた忋抖に、ええ?、と樂采が目を丸くしている。
「大丈夫だよ、父さま。びっくりした分はちゃんと返ってきたでしょ?」
とんとん、と耳を示されて首を傾げる忋抖に紳は吹き出してしまう。
「確かに樂采の言う通りかもな。灶絃で1回、忋抖で1回。最後に印で1回。全部で3回だもんな。忋抖の印と同じ数だ。返ってきてるじゃないか」
ははっと笑った紳の言葉に、子どもたちが3つ?、と忋抖を取り囲み始めてしまう。わらわらと寄ってこられて耳を引っ張られ続ける忋抖が悧羅から手を離してしまうと、すかさず紳が奪い取って口付けた。
「ちょ、ちょっと!いてえって!あー、ほら悧羅取られたじゃないか!」
「煩い!ちょっと見せろ!!」
「第一!忋兄に聞きたいこと山程あるんだからね!」
賑やかな中に囲まれる忋抖を見ていると笑い声が聞こえてくる。久方ぶりに聞こえた忋抖の心からの笑い声に紳は悧羅を強く抱きしめる。
「ありがとうね、悧羅」
「なんの、妾の方こそ礼を申さねばなるまいよ」
ふふっと笑いあって深く口付けていると、とんとん、と紳の肩を樂采が叩いた。振り向いた紳に、ね?、と微笑んでいる樂采には紳も苦笑するしかない。
確かにあの時しかなかった。
「助かったよ、樂采。ありがとうな」
「どういたしまして」
ふふっと笑う樂采が、ちょいちょい、と紳を手招きする。ん?、と顔を近付けるとこそこそと耳打ちされた内容に、紳はますます苦笑する。
「紳くんと僕だけの秘めごとね?」
そう言って口に指を立てた樂采は、幼子の頃の忋抖にそっくりで紳は声を上げて笑ってしまった。
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