唯一【拾壱】《ユイイツ【ジュウイチ】》
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宮の中が揺れたのは翌る日の夕餉の後だった。
「久しぶりに夕餉の刻にみんなが揃ったなあ」
喜ぶ紳と悧羅を囲んで、さてどう切り出そうか、と考えていた灶絃の思いは樂釆の一言で何なく打ち砕かれた。
「啝咖ちゃん、お嫁さんになれたでしょ?」
9つになった樂采は皓滓の横に座っているが、その腕には赤子が掴まっている。掴んだ樂采を支えにして立っているのは、ひとつを迎えた皓滓と加嬬の子だ。珩冥と名付けられた子は紅玉の髪を樂釆に押し付けながら立つと座るを繰り返している。珩冥を手伝いながらそれも何でも無いことのように言った樂采に、は?、と皆の視線が集まった。
「え?樂采、いきなり何言ってんの?」
1番近くに居た皓滓が尋ねながら忋抖に視線を送るが、知らないよ、と手を振っている。いきなり言い当てられた啝咖が慌てたように立ち上がって樂采に駆け寄る間にも飄々として珩冥の手をとって遊んでいる。
「僕言ってたでしょ。3年したら啝咖ちゃんはお嫁さんになれるって。なれたでしょ」
「樂采!」
それ以上話させないように啝咖が樂采を勢いよく抱き寄せるのと、皓滓が珩冥が転ばないように支えたのは同時だった。
啝咖の態度でその場の皆にも樂采の言っていることが真実だと伝わったようだが、一様に固まってしまっている。
これはやばいかなあ。
灶絃がちらりと紳を見ると驚き過ぎているのか一片も動かない。この中で動じていないのは哀玥だけかとそちらを見ると忋抖の横で、こちらもまた目を見開いていた。どうやら泣かせるなとは言ったもののそうするとまでは考えていなかったようだ。
まあ、それはそうだろう。
当の灶絃でさえ為そうとまで思っていなかったのだから。
だがまずはこの沈黙と困惑をどうにかしなければならないだろう。とはいえどう切り出したらいいものかと悩む灶絃の見ている先で、ふふっと笑ったのはやはり悧羅だった。
「紳」
固まってしまって動かない手から盃を受け取りながら悧羅が紳の脚に触れる。
「あー…っと…、うん、はい?!」
我に返ったようだがまだ状況が呑み込めない紳の脚を悧羅が、ぽんぽんと叩いた。
「紳も心穏やかではなかろうが、まずは話を聞いてやらねばなるまいよ?」
微笑んで悧羅が指し示した方を紳が見ると樂采を強く抱きしめたまま動けないでいる啝咖が見えた。啝咖の腕に囚われた樂采が、啝咖ちゃん苦しい、とぼやいている声だけが部屋で唯一聞こえている。
確かにこれは呆けている場合ではない。
大きく嘆息して頭を2.3度振って気を取り戻す。
「啝咖」
呼びかけた紳の声に啝咖の身体が傍目からでも分かる程に震え上がった。怯えさせないようにしたつもりだが、この中で名を呼ばれること自体恐ろしいのだろう。
「啝咖ちょっとおいで?」
もう一度呼んでみたが啝咖は首を振って余計に樂采を抱きしめている。
「別に叱ったりしないんだけどなあ」
やれやれ、と苦笑しながら立ちあがろうとした紳を、父様、と灶絃が呼び止めた。
「何だよ?」
紳が振り返ると悪戯に笑いながら灶絃がひらひらと手を挙げている。
「俺なんだよね」
「なにが?」
「契りの相方」
「……はい……?」
本日2度目の唐突過ぎる話に紳はまた固まってしまった。
「だから啝咖と契ったのは、俺」
「はあ?!」
ひらつかせていた手で自分を示して笑っている灶絃に紳だけでなく、その場の皆が驚愕した。
「灶絃!?あんた何してんの!」
「待って、まったく意味が分かんない!」
「え?え?何で?何がどうなってんだよ!」
“【…若君…】“
何重にも錯綜する声で混乱した部屋で灶絃はけらけらと笑っているが、啝咖は一層小さくなっている。この状況には流石の紳でも叫びたくなってしまった。
「…あー…、まあ、とりあえず、だ」
座り直して大きく嘆息した紳が手招きすると灶絃は、にこにこと笑いながら前に座った。
「ちょっと順を追って話してくれ…。頭ん中がぐちゃぐちゃだ…」
笑ったままの灶絃に伝えると肩を竦めている。
「もちろん。でもちゃんと俺が話すからあっちはもうちょっとだけ、そっとしといてくれる?」
苦笑しながら灶絃が示す方には啝咖がいる。確かに今すぐに啝咖を引き合いにだすのは辛いだろう。誰とも知らない者であったならば啝咖に聞かなければならないが、灶絃が名乗り出た時に何も言わなかったということは庇っている訳ではなさそうだ。
分かった、と紳が頷くと悧羅が妲己に頼んでくれている。
「すまぬが啝咖の傍におっておくれやし」
“御意に”
悧羅の背後に侍っていた妲己が啝咖に侍るのを見届けてから、紳は灶絃に向き直る。にこにこと笑っている灶絃に紳も何から聞けば良いのか分からなくなってしまうが、兎にも角にも確かめなければならないだろう。
「それで、契ったっていうのは本当なのか?」
「あ、そっちから聞いちゃうの?うん、契った」
結果から聞いた紳に灶絃は、けろりとした顔で応えた。
「契ったって、…お前ねえ」
余りにも何でもないことのように話す灶絃に紳は嘆息してしまった。『契りを結ぶ』ということがどのようなことであるのかは、子どもたちが幼い頃から教えていた。自分の生涯で命を賭けても良いと思える唯一を見つけられるように、言葉でも態度でも示してきたつもりだ。紳が悧羅を唯一として過ごす日々の中で子どもたちも一緒にそれがどういうことであるのかは学んでくれていると思っていたが勘違いだったのかとも思えてしまう。頭を抱えてしまいそうになる紳の考えを読んだのか灶絃が笑った。
「大丈夫。父様、ちゃんと分かってるよ」
「なら良いんだけど、分かってるように見えないんだよなあ。何がどうしたらいきなり契るなんてことになるんだよ?」
「まあ、そうなるよねえ」
肩を落とした紳に苦笑しながら灶絃が居住まいを正した。
「いろいろな順序を飛ばしたのは申し訳ないって思ってるよ。ただ、父様と母様に報せや相談もする暇も惜しかったってのはわかってほしい」
「暇が惜しかったって、…何かあったのか?」
訝しんで眉を寄せた紳に灶絃は小さく首を振った。話せないことというよりはこの場では言えないことなのかと思っていると灶絃の口が『あとで』と形作った。紳と悧羅にだけ見えるようにした灶絃の行動で自分たちに関わることだと知れる。ぽん、と脚を叩いた悧羅も同じことを感じたようだ。紳が小さく是を示すと心無しか灶絃もほっと安堵したようだ。
「でもいきなり契りを結ぶことまでしなきゃならなかったのか?灶絃も啝咖もそんな仲じゃなかっただろ?」
「そうだねえ、6月くらい前に1回だけそうなっちゃったかな。でもその時だけだよ。昨日まで本当に何も無かったから」
「それでどうして契りまで結ぼうとするのか俺には理解し難いんだよなあ。そういう仲だった、とか焦がれてたとかならまだ分かりやすいんだけど…。悧羅、分かる?」
脚に置かれたままの手を握って悧羅を見ると静かに微笑んでいる。子どもたちから何か大事な話がある時に悧羅が口を挟むことは少ない。長ではあるがその前に紳の伴侶である、ということに重きを置いてくれているから紳が決めたことに否を伝えることもない。それだけ紳を信頼してくれているからこそだ。もちろん紳が求めた時はきちんと応えてくれるが、あくまで血族のことの決定権は紳に預けてくれている。
だが今の悧羅は握った手を指でなぞっている。それは灶絃から話してもらわなければ確たる言葉を伝えてやれないということなのだろう。
「そこに関しては俺も不可思議な処があるから母様に聞きたいトコでもあるんだけど。とりあえず確信として言えるのは俺の唯一は啝咖だって教えてくれたモノがあった」
「教えてくれたモノ?」
きょとりとする紳に灶絃はしっかりと深く頷く。繋がった時のあの感覚をどう伝えればいいのか悩んでしまう。灶絃と啝咖の間にしか感じられないことだし、理解し難いことだとも思うが伝えねば話が進まないし、むしろ紳なら分かるかも知れないとも思う。
「うーん、上手く言えないんだけど本能からくるのかなって思う。啝咖と繋がると自分の意思とは関わりなくそれが身体の中で起こるんだ。啝咖も同じらしいよ」
「…起こるねえ…。それってどんな?」
首を傾げる紳がほんの少し目を開いたが、灶絃はしっかりと頷いている。少し視線を伏せた紳の手を握る手にほんの僅かに力が込められた。
「ええっとねえ、…1番近いのは雷鳴かなあ」
「うん?」
首を傾げてしまったが、灶絃が言わんとすることを紳は知っている。
焦がれ続けた悧羅をようやく腕に収めることが出来たあの夜に紳と悧羅の間にもあったものだから。
繋がれた時に走る身体を駆け抜けるあの痛みを言葉で表すのは難しいが、灶絃の表したものは的を得ているように思う。
「雲の中を通る時とか弾いた時とか、後にちょっと指先にぴりってしたの残るでしょ?あれに1番似てるかも」
「…うん」
確かに、という言葉を今は呑み込んでおく。あの感覚は不可思議なもので紳の身にも、今でも思い出したように時々起こる。悧羅も感じてはいるようだがそのことについて特に話したことはない。何かを知ってはいるのは間違いないのだが笑ってくれているし、その程度のものだろうと思っていた。悧羅以外と契りを結びたいなど考えたことも無いが万が一、悧羅と出逢えておらず他の者と契っていたら、その者との間でもそれは起こっていたかもしれない。
その程度のことだと思っていたのだが。
目の前でどう伝えようか考えあぐねて頭を捻る灶絃にとってはそうではないらしい。
「だけど、それだけで契りまで結んだわけじゃないんだろ?」
「まあね、それが1番大きいとは思うんだけど、啝咖がずっと逃げるからさ。最初は逃げたいならそれでも良いかって思ってたんだけど、時々すっごい虚しくて自分が空っぽになんの。見えてても本当にそこに居るって分かるまで、見えない何かに引きずり込まれるっていうのかな。俺だってそれが何か分かんないから別で埋めようとするじゃない?そうすると欲だけは満たされるんだけど、何処かは空っぽのまんまで余計に虚しくなるんだ。でも啝咖に触れると一瞬で充たされる。それこそ手が触れただけでもね。…父様ならその気持ちが分かるんじゃない?」
「…分かる」
当たり前の様に微笑まれて紳は小さく嘆息した。
見えている、そこに居ると分かっているのに居ないような喪失感。
手を伸ばせば届くのに伸ばせない虚無感。
それらは悧羅の手を離してしまったあの日から契りを結ぶまで紳の中にずっと在り続けたものだ。任を受ける瞬きにも満たない一瞬の邂逅がほんの一時だけ己を充してくれていた。
「これが分かんのは父様と母様、後は忋の兄様くらいかな?」
「そこで俺を出すなよ」
にっと笑って見られた忋抖が肩を竦めて嘆息している。
「まあ良いじゃない。本当のことなんだから」
ふふっと笑った灶絃がまた紳に向き直ると、で、と先を促される。
「絶対に逃したくなかった。どうしても手に入れなきゃならないって思ったんだけど、見ることさえも怖がって避け続けようとするんだもん。逃げられるって、分かってくれないって思ったら絶望しちゃって。逃げられなくしちゃえば良いって身体が動いちゃった。で、やったら出来ちゃった」
「はあ?出来ちゃった…って、お前なあ!」
とんでもないことを言い出した灶絃に紳は思わず腰を浮かせてしまう。契りを結ぶには互いの諾が要る。一方の想いだけで為し得てしまっては情を交わすことが本能のひとつである鬼の根幹を揺らがす事になるからだ。
「いや、俺も出来るなんて思って無かったって。啝咖は諾って言ってくれてなかったし前約ぐらいの縛りか印付けが出来たらいいなって思ってたんだもん。実際最初に出来たのはそんな感じのものだったし」
「いやいや、お前…。印付けるとかなら皓滓の時に聞いたけど、前約出来るなんて聞いたことないんだぞ?…あー、もう…」
「だよねえ、俺も何で出来たか分かんないもん」
ついに頭を抱えてしまった紳に灶絃は、またけらけらと笑い出した。
「まあ本当に前約出来てたんだとしても、あのままだったら母様が容易く解いたと思うよ。それに本当に契りたいなら順を追えって父様に言われるのも分かってたし、そしたら俺がどんなに嫌だって訴えて今と同じ話をしても解かれてやり直しってなっただろ?」
「…そこは話聞いてからどうしたいか2人に尋ねた上で決めたと思うけどな。だけどそこまで分かってんなら止まっててくれよ…」
ああもう、とますます頭を抱えてしまうと灶絃が手を振って見せる。
「止まったら啝咖はまた見ないフリして逃げちゃったもん。俺との縁が見えてるのに掴むことさえ怖がってたし、解いたらもう考えることさえしなくなったと思う。意地でも縁を 断ち切って俺が近付くことも拒んだろうね。俺だってそうなってたらきっと潰れてたよ。だから諾って言ってくれた時にしっかりと結んだんだ。他の皆だったら待てたかもしれないよ、たかが1日って。でも俺にとってはその刻しか無かった、それだけなんだよ」
微笑みながら言い終わると灶絃がゆっくりとその場に伏す。頭を下げて行く灶絃の顔から笑みが消えた。
「いろいろ飛び越して驚かせてしまってごめんなさい。でも生半可な覚悟でそうしたんじゃない。為したことは卑怯だって言われても仕方ないけどやったのは俺。啝咖には一片の非もない。全部後廻しになって申し訳ないんだけど、父様、母様お願いします。俺に啝咖っていう唯一を護っていく許しを下さい」
額付いて許しを乞う灶絃の背は、紳にしか分からない程でしかないが小さく震えている。その背中に紳は皆が気になっているだろう言葉をかけた。
「…一応聞くけど姉ってなってるのはいいのか?前も言ったけどそれを禁じてる訳じゃない。ただ周りはそう思ってる。それを灶絃はどう考えてる?」
問いかけに床に付けられた灶絃の手が拳を作った。
「血の繋がりでは、でしょ?そこは覆せないし覆そうとも思ってない。俺たちが父様と母様の子で姉弟なのは、変えられない事実だしどうしようもないことだ。だけどそれが何?啝咖が母親だろうと姉妹だろうと、何の縁のない里の民だろうと俺は啝咖を探したし縁を繋げたよ。そんなことで諦められるくらいなら、初めから啝咖を逃がしてた。周りがどんなに非難したとしても、その声は全部俺が受け止める。啝咖がずっと笑って傍に居てくれるなら何でもするし、他に何もいらない。だから、お願いします。俺に啝咖を護らせて下さい」
拳を握った手が震えているのを眺めながら、紳は大きく嘆息した。くれ、と言われても既に灶絃と啝咖は契りを結んだという。縁を断ち切らせることも出来はするが、きっとこれはしてはならないものだ。ちらり、と悧羅を見ると多彩花に微笑んで灶絃の姿を見守っている。紳が動くまでは何もするつもりはないのだろうが喜んでいるのは繋いでいる手が教えてくれた。
まあ、丁度いいのかもしれないな。
伏したままの灶絃と起こっていることに目を見開いて更に固まっている啝咖、それを穏やかに見守っている忋抖を見やってから紳はもう一度大きく息を吐いた。
「哀玥、悪いんだけど荊軻を大至急連れてきてくれ。咥えてでもいい」
【御意】
するりと哀玥が消えると紳は手を伸ばして灶絃の身を起こさせた。
「やるもやらないも灶絃と啝咖が決めたならそれで良い。否なんてないよ」
小さく震えている倅の肩をぽんぽんと叩いてやると少しずつ力が抜けていく。先に話だけでもしてくれていたら、とは思うが出来なかったと言う灶絃の言葉を疑うつもりもない。血の繋がりのことも正直なところ本当にどうでもいいのだ。ただ、そうは思えない者たちも居る中で、灶絃がどう思いどう動くのかを聞いておきたかっただけだ。
「だけどお前ひとりで全部の盾にはなるな。何のために俺や悧羅がいると思ってんだよ?」
ねえ、と悧羅を見ると微笑んで頷きながら睚眦を呼んでいる。
「すまぬが枉駕と栄州をここに。ゆるりとの」
【哀玥とどちらが速いだろうなあ】
舜啓の肩に乗っていた睚眦が命を受けて笑いながら飛び降りると部屋を出るなり龍に転じて泳いでいく。それを見送って紳は灶絃の頭を撫でる。
「灶絃忘れるなよ?お前たちは俺と悧羅の宝なんだ。お前らが背負うものも受け継いでくれるものも全部一緒に抱えてやるためにいるんだぞ?」
「…そんなの知ってるよ。でも醜聞とか非難とか、俺がやらかしたことでまで父様と母様に迷惑かけるのは違うでしょ?」
楽にするように灶絃を促しながら紳も、よいしょとようやく上げていた腰を降ろした。
「何処かで聞いたような言葉だなあ?」
ふはっと笑いながら忋抖を見ると、煩いよ、と苦笑している。あの時と同じ話を悧羅や子どもたち皆の前でするとは思わなかった。
「そんなんで揺らぐような信を築いてきたつもりはないよ。言いたい奴には言わせとけ。お前らが何したって護ってやれるくらいの自信も覚悟もとっくの昔から俺らは持ってる。だから安心してちゃんと頼れ。ちゃんと護らせろ。それで、ちゃんと倖になってくれ」
そうだ。
そんな覚悟や自信など本当にとうの昔から持っている。
それこそ子どもたちを授かったと悧羅が教えてくれる毎に。
増えてくれていく血族をこの手に抱かせてもらえる度に。
「だけど父様と母様の名に傷がつかない?」
「そんなんなら要らないね」
まだ硬い灶絃の額を小突くと紳は皆に傍に来るように床を叩いた。わらわらと寄って灶絃を取り囲む中で啝咖は灶絃の背の後ろに座ってしまう。こっち、と示すが隠れる啝咖の手を灶絃が後手に握って庇うと、ほっと安堵したように表情が和らいでいて、それには紳も苦笑するしかない。
疑っていたわけではないが、どうやら本物のようだ。
「俺が近衛の隊長になったのは悧羅の傍に行くためだ。それはもう叶ったから、立場とか名声とか本当にどうでもいいんだ。そんなんが傷付くくらいでお前らを護れるなら安いもんだろ?何なら捨てたっていい」
「そんなこと父様にさせらんないよ」
まだ強張ったままの灶絃の身体を紳は幼子をあやすように叩く。
「なんで?」
「父様は里で2番目に強いんだから、そんな容易く捨てたりしたら母様や民達も困るだろ?」
少し不貞腐れたような姿に、まあねえ、と紳も苦笑しながら、ぽんと灶絃の頭に手を乗せる。
「確かに隊長って肩書だし民を護んなきゃってのはある。強いって言われればそうなんだろうさ。だけどそれは、全部お前らを護るための力だ。里だ民だ、とか近衛だからとかってのの前に俺は俺で、お前たちの親なんでね。悧羅とお前ら以上に価値のあるものなんてない。捨てて護れるっていうなら喜んでそっちを取る」
くしゃりと灶絃の髪をかき混ぜると、ぐっと息を呑んでいる。
「でも母様は長だ。そんなに容易く捨てさせることなんて出来ないもん」
「だってよ?悧羅?」
背中で繋がれている灶絃の手が強く啝咖の手を握ったのが見えて、紳が声を掛けるとほんの少し悧羅が灶絃に近付いた。
「今この刻に捨てて構わぬ」
迷いなく出された言葉に灶絃の目が潤んだ。
「…そんなの無理だよ、母様」
少し震える声音で言われた悧羅は、何故に?、と微笑みながら小首を傾げて見せる。
「何ぞ妾に為せぬことなどあろうはずもなし」
微笑んだ悧羅はするりと灶絃の顔を包んで引き寄せると額に口付けた。そのままぎゅっと悧羅の腕に包まれた灶絃から深い嘆息が漏れる。
「長の座など惜しゅうもない。その座が灶絃を苦しゅう思わすのであらば煩わしいことこの上なし」
包んだ灶絃の頭に擦り寄る悧羅の身体に、堪えきれなくなった灶絃が片手で強く抱きついた。
「じゃあ悧羅、2人で辞めようか?」
「それも宜しゅうあるのお。荊軻もそろそろ来る頃合いじゃ」
さっさと辞める話を進める2人に、ははっと、小さな笑いが聞こえると、悧羅の腕から出ながらようやく力の抜けた灶絃が大きく嘆息している。
「ほんと父様と母様って格好良い」
小さくはにかんだ灶絃の頬にそっと口付けてから、悧羅が紳の隣に戻ると、代わりに紳が灶絃の頭を撫でる。
「当たり前だろ、お前たちの親なんだぞ?だからしっかり甘えてしっかり頼れ。馬鹿なことばっかり気にしてたら、荊軻たちが来たらすぐに2人で任を返すからな?」
頭から手を離すと、うん、と灶絃が頷いた。よし、と笑う紳の背に悧羅の手が添えられると肩から力が抜けていく。どうやら紳も少しばかり気を張っていたようだ、と息を吐くと哀玥が部屋に飛び込んできた。咥えてでもと言ったのは確かだが本当に咥えられている荊軻は、邸に引き上げていたのか官服姿ではない。どうやら上衣を纏う猶予も貰えなかったようで、床に落とされて唖然としている姿などなかなか見れるものではない。
落とされて呆けながらも部屋の中を見廻した荊軻は、ゆっくりと立ち上がって乱れた衣を直してから大きく嘆息した。
「いえ、お察し致しますよ?お察し致しますけれども」
いつものように近付いてくる荊軻に子どもたちが場を空けると、また嘆息しながら座している。
「せめて身支度を整えるお刻くらいは頂きとうございましたよ」
苦笑する荊軻に紳も苦笑するしかない。
「ごめん、焦った」
「そうでございましょうとも。長も紳様をお止めにはなられなかったようでございますし。…面白がっておられましたね?」
ちらりと一瞥を投げられた悧羅もくすくすと笑っている。里の官吏の中で悧羅にこんな物言いが出来るのは荊軻くらいだ。
「すまぬ、なれど800年ともにおってくりゃるというに、妾のまかり知らぬ荊軻がまだおるとは思わなんだえ」
「私でお戯れになるのはおやめになって頂きたいものですよ。長の御存知ないことなど片手で足りております。逆もまた然りでございましょう?何でございましたら、これ以上私でお戯れになれぬよう喜んでお教えいたしましょうか」
やれやれ、と嘆息した荊軻に悧羅はころころと鈴を転がすように笑っている。長、と嗜めながらも荊軻が灶絃と啝咖を見て、にっこりと微笑んだ。
「寿ぎを申し上げましょうね、灶絃若君、啝咖姫君」
流れるように優美に伏して礼を取る荊軻に、皆が驚く間も無く紳が笑い出した。
「流石」
「だから何で荊軻さんは分かるんだよお」
意味が分からない、とぼやく瑞雨に、おやおや、と荊軻が身を起こして微笑んだ。皓滓の時も今回も荊軻は何も聞くこともせず、さも当然のように話を進めてしまう。その度に困惑させられる周りの身にもなって欲しい。
「その御様子では長は何も仰せになられておいでではないのでしょうねえ。要はきちんとお話なさいませ。私は致して差し上げませんよ」
居住まいを正しながら荊軻に見られた悧羅は肩を竦めた。
「そうは申しても程良い頃合いであろ?皓滓が為したことも灶絃が為したことも。為されておらなんだなら其方と栄州のみしか知らなんだであろうしの。知らずとも粛々と進むもの。何より其方がおってくりゃる故、大事にはならぬでの」
「それでは困ります、と幾度も申し上げておりますでしょう?私もいつまでお側におれるか知れぬのですよ?」
「おや?それはちと難儀してしまうのう。荊軻がおってくれねば、妾を叱る者がおらぬようになるではないか」
くすくすと笑い続ける悧羅が首を傾げると荊軻がまた嘆息して、今度は紳に一瞥を投げた。
「紳様も紳様でございますよ?いつもいつも無理難題ばかり申されて。私の身体がいくつあっても事足らぬというものです。して、長?」
一通りの小言を言って嘆息してから荊軻が促すと、悧羅の指が動いた。
「心魂の番じゃ」
「そのようにお見受け致します」
示された灶絃と啝咖を見て荊軻が微笑むが、他の者には何が何だか分からない。
「それって何?」
何より本人の灶絃と啝咖も分からずにきょとりとしている。それに、ああ、と荊軻は微笑む。
「心魂の番と申しますのは、元より定められておる己の片割れのことでございますよ。理として身体に刻まれているもの、とでも申しましょうか」
きょとりとする皆に荊軻が説いて聞かせる。話せ、といったものの悧羅が荊軻に任せるのは分かりきっている。
「見えることも難しいものなのです。見えたとしても気付かず流れることが多ございましょうねえ」
「何それ?分からない者の方が多いって、じゃあそうじゃなくて皆違う相手と契ったりしてるってこと?それじゃあ契りって何の為のものなのさ?」
吐き出すように玳絃が呟いた。
荊軻が言っていることが本当なら、今契りを結んでいる者たちは何なのか。
理で決められた者が居るのであればそちらを探さなければならないのではないか。
混乱したのは玳絃だけではない。契りを結んだ者たちも、それは誤りだと言われている面持ちになる。
「ああ、そうではございませんよ」
皆の表情を見た荊軻がにっこりと笑って手で制した。
「確かに皆様方の御身体に理は刻まれております。もちろん私にも。ですがその縁はいつ繋がるとも分からない程に、細く脆く消えやすいのですよ。出逢えることこそ理でございますから。あまり御気になさらずともよろしゅうございます。斯く言う私の逑もそうではございませんし。そのような曖昧なモノに囚われずとも己が選んで己が結ぶ。そちらの方がより確かなモノでございます。そうでございましょう、長」
荊軻の声と共に皆の視線が悧羅に向かうと、ふふっと悧羅が艶やかに笑って是を示す。
「其方たちが永き生を共に在りたいと望む者こそ唯一、と妾は申しておったであろ?なにも間違うてなどおらぬよ」
穏やかに言い切る言葉に確かなモノを感じて、その場の皆がほっと安堵する。
「理などと言うたとて見える筈もなし。結べたとて儚うなることもあるであろ。泡沫のようなものであるならば、結んだ方をしっかと繋いでおればよい。ただそれだけのことじゃ」
言った悧羅が、のう?、と紳の手を取ると、しっかりと握り返して甲に口付けている。いつも通りの2人の姿に荊軻が肩を竦めながら話を戻した。
「して、如何致しましょうか。慶事を下ろしますのはいつでも宜しゅうございますが儀は?」
「あー、それなんだけどもう結んでるみたいなんだよ」
悧羅の手に口付けるのをやめて紳が言うと荊軻が苦笑した。
「前約ではなく?」
「しっかり結んじゃったんだって。だからそこは灶絃と啝咖の気持ち次第でいいよ。っていうか前約出来るなんて聞いたことないんだけど?」
頬を掻く灶絃を荊軻が見ると舌を出して見せている。そこにはくっきりとした牙の疵痕があって荊軻はますます苦笑してしまう。
またとんでもない処に入れたものだ。
「疵が2箇処、…前約でございますね。まあ心魂であるが故に為せたというところですか。縛りは脆弱でしたでしょう?」
「何で分かるの?」
検めた荊軻が言うと灶絃が目を丸くしたが、紳から見せろと言われて顔を引っ張られている。引かれた分、離れてしまう啝咖を他の者の目から守る為なのか、横手に抱き寄せて見えないように隠している。啝咖が落ち着くまで晒されるのを自分だけにするつもりなのだろう。
「またなんてトコに付けたんだよ。へえ、ほんとに疵が2つある…。うわあ、こっちは思いっきりいったなあ…」
「おやまあ、引き攣れておるではないか。啝咖、妾に見せてはくれぬかえ?」
紳と悧羅が疵痕を確かめると部屋中から見せろと声が上がる。戯けるように舌を出して見せる灶絃の疵痕を見て、うわあ、とそれぞれから声が上がっているが、悧羅に声をかけられた啝咖はそっと悧羅の胸に動いた。悧羅が上衣で啝咖を隠すと、啝咖がおずおずと舌を出した。くっきりと刻まれた2つの疵痕に、ひょっこりと覗きこんだ紳が灶絃の頭を叩く。
「灶絃、お前っ!もう少し加減しろよっ」」
「いったいなあ!仕方ないじゃんか!そんな余裕無かったんだもん!」
もう!、と頭を摩る灶絃に荊軻が儀はどうするのか、と尋ねると、うーん、と暫く考えている。
「啝咖がしたいならするけど、多分恥ずかしがって嫌だって言うと思うんだよねえ。啝咖?」
「無理無理無理無理!」
「ほらね?」
悧羅に隠されたままの啝咖の声がようやく部屋に聞こえて皆もようやく微笑んだ。
「父様、絶対しなきゃならないってんなら、啝咖が本当に落ち着いてからでいい?あと、疵って他の処が良いとかあるのかな?」
「儀そのものは絶対ってほどじゃないかな。疵の場処についてはあんまり良く知らないけど、こんなトコに付ける奴なんて見たことない」
「いひゃい!」
べっ、とまた出された舌を紳が掴んで荊軻に向ける。掴まれた手を叩く灶絃に苦笑しながら荊軻も少し考えた。
「箇処については大事ないかと、契りは結ばれておるようでございますしね。見える処に刻みますのも周りに知らしめるためでございますから。これからまた契りの疵を別に、となれば一度結びを解きませんと」
「あ、解くのは無しで」
荊軻が言い終わらない内に被せる灶絃に、紳も荊軻も笑うしかない。
「お前なあ…」
「だって解いたら俺泣いちゃうもん。疵だって啝咖のだって分かればそれで良いんだし。残らなかったら意味がない」
なーんだ、と肩を竦めた灶絃に、とことこと樂采が寄ってくるとひょいっと口の中を覗き始めた。突飛な行動をする時の樂采は何を言い出すか分からない。身構えた紳と荊軻の側に忋抖も寄る。手を伸ばせば届く位置に皆がいるとはいえ、いつでも口を塞げるようにしておくためだ。
「樂采?」
「無いなあ」
灶絃の口を覗きながら、うーん、と樂采は何やら考えて灶絃の耳飾りを触ると、今度は啝咖の方に動いて口の中を見ている。暫く唸って、よし!、と頷くと悧羅に耳打ちした。話を聞いている悧羅の目が一瞬見開かれたがすぐに笑顔に変わる。
「いい?」
「とても」
耳打ちを終えた樂采が尋ねると悧羅も微笑んでいる。じゃあ、とまた灶絃の側に来ると左耳の飾りを樂采が触る。
「灶兄さま、これちょっと借りるね」
「え?何すんの?」
『借りる』と言われても灶絃の耳飾りは耳を通しているもので、外すためには飾りを切らないと取れない。
嫌な感じがする、と皆が思っていると、行くよー、と樂采が飾りを引き千切った。
「…っ!いってえっ!!」
「「「「樂采お!?」」」」
ぼたぼたと流れ落ちる血と、耳を抑える灶絃と周りの叫びで場がまた騒がしくなる。急いで癒そうとした荊軻を、為らぬ、と悧羅の声が制した。
「ちょっとそのままでいてね」
にこっと笑うと樂采はまた啝咖の方に行っている。すぐそこなのだが悧羅の上衣に隠れている啝咖の姿は皆から見えない。
「啝咖ちゃん、ちょっと我慢してね」
ごそごそと何やら動く樂采の陰から、いったあいっ!、と啝咖の声がすると灶絃が寄ろうとした。
「啝咖?!」
「灶兄さま、そのままね。今はダメ」
灶絃たちの方を見もせずに言う樂采の声は、何故か否を言わせない響きがある。
「うん、悧羅ちゃんこっちお願いねー」
戻って来た樂采の手は血に塗れていて、慌てた舜啓が叫んだ。
「磐里!加嬬!手桶と水!あと手拭いも!!」
「もう、舜兄さま大丈夫だって。僕のじゃないもん。はい、灶兄さま耳出してね」
周りの喧騒などお構い無しに、樂采は先程引き千切った灶絃の耳を出すように言う。
「えー、もう怖いんだけど」
「はやく!まにあわないから」
急かされて渋々と灶絃が耳を抑えていた手を離すと、千切られた耳にナニカが当てられた。途端に灶絃の身体をあの感覚が走り抜けたが、その痛みは比べものにならないほど強い。
「…い…ってえって!!」
思わず動こうとした灶絃を、だめ、とまた樂釆が止める。
「父さま、治して」
「え?うん」
呼ばれるままに忋抖が癒すと灶絃の耳と身体から痛みが消えた。
「灶兄さま、もう一回お口見せて」
「もう何が何だかわかんないって」
開けられた灶絃の口を覗き込んだ樂采が今度は、うん、と頷いた。
「まにあったみたいだ」
にこっと笑う樂采に皆が呆然としていると、灶絃が勢いよく啝咖の側に寄る。
「啝咖!?」
悧羅の上衣で隠れていた啝咖の右耳が血塗られているのが見えて、ひゅっと灶絃が息を呑む。奪うように引き寄せて隠すと、ほうっと安堵の嘆息が聞こえた。
「大丈夫、吃驚しただけ」
ふふっと笑い声が聞こえて灶絃も安堵すると啝咖の身体に悧羅の上衣が掛けられた。いつのまに来ていたのか磐里が濡らした手拭いを差し出して、2人の姿を見ていつものように、まあまあ、と微笑むと灶絃の手に手拭いを持たせる。そのまま樂采が使ったのだろう手桶を持って部屋を出ていってしまった。
「樂釆!せーつーめーいー!」
自分と啝咖の耳を拭きながら、一仕事終えたような樂采に灶絃が言うと、きょとりとしているばかりだ。
「お手伝いしただけだよ」
「「「「何の!?」」」」
ますます意味が分からない、と皆が頭を抱えると、とんとん、と樂采が自分の耳を示した。話が見えないが、ともかく、と荊軻が手を伸ばす。
「灶絃若君、失礼致しますね」
先程千切られた傷は癒えているが、そこにある飾りが違う。灶絃たち子どもたちが持つ耳飾りは、其々が成熟した時に悧羅が贈ったもので個々に異なる。悧羅と対になっており装飾を好まない悧羅が唯一着けているものだ。左耳が子どもたち、右耳が孫としていたが流石に増えすぎて孫の分は呪で一つに納めている。
その飾りが変わっている。
これが意味するものは何か?
実際の歳よりも聡く物事を見ているのが樂采という子だ。同じ年頃の子どもたちよりも、能力や知力が頭ひとつ分抜きん出ているのは荊軻も知っている。その樂采が何かに気付き行うことを悧羅も許した。
「これは啝咖姫君のものでございますね。となれば」
視線を啝咖に落とすとそちらには灶絃の飾りがあった。
「ああ、そういうことでございますか」
『無い』と呟いた樂采を思い出して荊軻は大きく頷いてしまった。樂采が『無い』と言ったモノ。
それは寿ぎの呪だ。
「なるほど、と申しましょうか。何ともまあ難しいお手伝いをなさいましたね」
「でも上手にできたでしょ」
胸を張って笑う樂采に苦笑しながら、荊軻は皆に何が起きたのかを説く。
樂采は灶絃と啝咖、其々の血を纏わせた耳飾りを入れ換えることで、本来刃を用いて行う儀の代わりとしたのだ。
「儀で用いる小刀には造る時に寿ぎの呪を纏わすもの。飾りには長の呪がかけられておりますから、丁度よろしかったのでしょう」
「じゃあ間に合わないってのは何だったの?」
「寿ぎの呪が間に合わない、ということかと。契りの儀で共に纏い、結びつきにほんの僅かに倖があらんことを願うものでございますからね。刻が経ち過ぎては何の意味もございませんから。よくお気付きになられたものと感服致しますよ」
ふふっと微笑んで荊軻は樂采の頭を撫でた。荊軻でさえ見逃しそうになったことを気付いた子は、この先、里で大きな役割を担うかもしれない。
「え?じゃあ俺と啝咖の分の母様との対がないじゃん!」
もっと他に尋ねることがあるだろうに、灶絃は悧羅との対の物が無くなったと頭を抱えた。
「気になさるのはそこでございますか?若君らしくあられるとは思いますが、ご案じなさらずとも長はもう一度贈ってくださいますよ。これらは長が創られたものでございますから」
「後程の、妾の左もまだ空いておるに」
くすくすと笑う悧羅に灶絃がほっとしている。心魂の番を見つけても悧羅という存在が子どもたちにとっての絶対であることは変わらないようだ。
微笑む荊軻に、はあ、と皆が感嘆してしまう。樂采もそうだが荊軻もだ。その博識さ、物事を冷静に俯瞰する思慮深さ、そして何事も穏やかにこなしていく態度と行動。悧羅の側近として共に過ごし揺るがぬ治世を造った。荊軻が居なければここまで磐石なものにはならなかっただろう。
「悧羅ちゃんが荊軻さんを離せないのが何となく分かったよ」
深く感嘆の嘆息を吐く瑞雨に荊軻と悧羅が共に微笑んだ。
「おや、誉なことを。ですが皆様方、決して灶絃若君と同じことをなさってはなりませんよ?灶絃若君が為し得られたのは、心魂という理があったからこそ。同じことをしようとされても、出来て皓滓若君のように印を付けることまで。特に樂采小若君のなされたことは真似できるものではございません。よろしゅうございますね?」
間違えても一方的に他者の尊厳を陵辱するようなことがないよう、少し強めに言い聞かせると、しないし!、と皆が首を振る。にっこりと微笑んだ荊軻に再び火種が投げられた。投げたのは、やはり樂采だ。
「でも契りは難しくてもね、お約束はできるんだよ。いいよって言ってくれたらだし、強くないけど大好きな人にずっと縛られていいやって思えたら出来るんだよ」
でしょ?、と屈託のない漆黒の眼で見られて固まったのは荊軻と紳だった。
「樂采、ちょっと待とうか?」
できるだけ穏やかに紳が樂采を引き寄せて膝に乗せるが、樂采はきょとりとしている。
「え?どうして?僕見えてるし知ってるよ?紳くんと悧羅ちゃんと荊軻おじちゃんが、どうやったら1番いいかなって考えてくれてるの。だから悧羅ちゃんが枉駕おじちゃんと栄州おじいちゃん呼んでくれたんだもんね?」
「樂采、本当にちょっと待とう?」
ぽんぽん、と紳が樂采の頭を撫でると嫌だと首を振る。
「ぼくも見えても言っちゃいけないことならお口に出さないよ、紳くんと悧羅ちゃんと父さまとお約束したから。だけどこれは言っていいし言わないとダメでしょ?紳くんもそう思ったでしょ?」
「…そうなんだけどね…。今じゃなくて枉駕と栄州が来てからでも良いんじゃないかな?」
どうにか宥ようとする紳に樂采が、だめ!、と珍しく声を大きくした。
「今でなきゃダメ!でないとダメになるよ?だって、たくさん考えちゃうから。だから紳くん、お願い。ぼくの父さまにお約束させて!」
出された言葉に、は?、と忋抖が固まって言葉を失なった。
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