唯一【拾】《ユイイツ【ジュウ】》
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中庭に降り立った灶絃を、お帰りなさいませ、と廊下を歩く磐里が出迎えてくれた。
「あれ?磐里、まだ休んでなかったの?」
辺りは宵闇に包まれ月も真上まで昇っている。いつもであれば磐里も既に自室に引き上げている頃合いなのだ。
「もしかして待ってた?」
遅くなるから夕餉もいらないと伝えて務めに出た筈だったが、言い忘れてでもいたのだろうか?
そうであれば申し訳無い。
そう思いながら縁側から宮の中に上がると、いいえ、と磐里が微笑みながら脱いだ履物を片付けてくれている。
「啝咖姫君も先刻お戻りになられましたものですから」
「は?姉様今日遅かったの?」
啝咖と別れたのは酉の刻を過ぎた頃だった。哀玥も来てくれたし、すぐに宮に戻っていると思っていたのに何故そんなにも遅くなるのか。
「まさか呑んできたんじゃないよね?」
もし、そうであればどれだけ危機感が無いのか。あんな男に出会わした後なのだから素直に帰ればいいのに。眉を顰めて考え込む灶絃に磐里が、まあまあ、と微笑んだ。
「ご案じなされるようなことはございませんでしたよ?哀玥と遠乗りに行かれただけとのことでございますから」
「え?そうなの?」
「はい。戻られるまでに背でお休みになられてしまったと。哀玥も降ろすに降ろせず、旦那様のお邸で共に休んでいたと申しておりました。亥の刻頃のお戻りでございましたから」
「あー、…そうなんだ」
ほっと安堵した灶絃に磐里も頷いている。つい6月前までは酔い潰れて戻って来る度に何処かしこ傷を作っていて心配したが、それも今ではぴったりと見なくなっている。何か心苦しい事があったのだと、それがどのようなことであるかなど言われずとも磐里にも推し図ることは出来るが、おいそれと口に出すことは出来ない。勿論、話してくれるのであれば共に泣くくらいはできるのだが、どうにも啝咖は堪えることが癖になっているようだった。
「怪我してないならいいけどさ」
「そこはご案じなされずともよろしいかと。ただお疲れであられるのか明日はゆっくりとお休みになられるようですよ。起こさずに、と願われましたもの」
「もともと寝坊助だからね、姉様は」
「あらあら、姫君だけではないようにお見受けしておりましたよ?」
くすくすと笑われて灶絃も苦笑するしかない。生まれた時から面倒を見てくれている磐里には、啝咖だけでなく灶絃たちも幼子の頃と変わりはないのだろう。
「さあさあ、若君もゆっくりお休み下さいませ。明日もお務めでございますか?」
「ううん、俺も休み」
「ではお起こしせずともよろしゅうございますね。お部屋にお酒だけでも支度しておきましょうか?」
「大丈夫、ほら」
湯に行くように促された灶絃が持っていた酒瓶を揺らすと、ますます磐里は笑っている。
「だから磐里もゆっくり休んでね」
「まあまあ、ではお言葉に甘えましょうね」
小さく礼を取った磐里と別れた灶絃も湯殿に迎う。実を言えば入っては来たのだが、宮まで翔けてくる間にまた汗ばんでしまったし、務めで汚れた衣を纏ってしまった。とはいえ顔を出すと約束したことは、この6月の間に果たせたし離れを借りた分の支払いは利子を付けて返せただろう。
身体を清めてから湯に浸かると、ようやく落ち着ける。
「あれかあ」
立ち昇る湯気と共に日暮刻の啝咖の姿を思い出してしまう。見かけた時は揉めているとまでは思っていなかったが、何となく様子が可笑しいことは遠目からでも見て取れた。とはいえ往来でもあり、そう大きな面倒事にはならないだろうと立ち去ろうともしたのだ。
遠く離れた処で固まった背中を見るまでは。
は?、と思った時には身体が動いていた。止める袽華の声も聞こえたのに、気付けば啝咖を庇っていた。腕に収めた身体が小さく震えているのが伝わっただけで、目の前の男がそうなのだ、と灶絃に知らしめるには充分だった。
すぐにでも引きずり倒したいのを精一杯堪えたのは啝咖が耐えていたからだ。あの場で灶絃が怒りのままに動いていたら啝咖が堪えてきたことが全て無に帰しただろう。
「手のひとつじゃあ足りなかったよなあ」
せめて腕の骨ごと砕けば良かった。
むしろ今からでも探して焼き払ってしまおうか。
「いやいやいやいや、駄目だって!何考えてんの、俺!」
頭を振って湧き立ってくる思いを外に出す。あれ程啝咖に手を出すなと言われたのだ。啝咖自身が呑み込んでいることに灶絃が口を挟んではならないと決めたのに、どうしてもあの時の啝咖の姿が脳裏でちらついてしまう。
「…あんなに泣いてたじゃんか…」
もう!、と勢いよく湯から上がって身体を拭く。考えたところで灶絃に出来ることなどない。
慰めるのはあの時が最後だと、決めたのは啝咖だ。姉と弟に戻ると、そう言われた。その事に苛つきもしたが、灶絃にとって何か不利益があるわけでもない。それで良いなら構わないとも思った。あんなことでも無い限り啝咖と情を交わすことは無かったし、むしろ灶絃にとれば利しかなかったとも言える。
あの時だけだと、そうしたいのであればそれで良い。
そう思っているのに。
「…震えてたんだよなあ…」
寝間着の紐を結びながら、ぼそりと呟やいてしまう。
そう、震えていたのだ。
男と対峙していた時も。
腕に収めて庇った時も。
送るのを固辞して哀玥を呼んだ時も。
あんなに今にも泣き出しそうな顔をするくらいなら、意地を張らずに素直に送られていれば良かったのに。
苛々としながら湯殿を出ると自室に向かう。
加えて袽華だ。
「若様、向き合わないフリばっかりしてちゃあ、本当に欲しいって思った時にゃあ、それはそこにないもんなんだよ?」
褥でゆったりと煙管を燻らせながら笑った顔は、何もかもを見透かしているとでも言いたげだった。
そんなこと言われずとも分かっている。
けれどどうしようもないではないか。
距離を取られたのは灶絃の方なのだから。
啝咖が揺れているのも見ていて感じてはいたが、何処まで保つのか試してみたかった。なのに、本当に何も無かったのだと言い聞かせるような姿にも辟易してしまっている。
あんなに縋りついて求めたことなど夢であったとでも言いたいのだろうか。
「若様、覚えときな。契るに足る縁ってのはね、何も恋仲ってんで生まれるもんでもないんだよ。本能に刻まれてるもんもある」
「は?何それ?父様と母様みたいなもん?」
「あのお二人はそんなもん飛び越えちまってるよ。…まあ、そうなったら分かる。鬼ってのは本能に抗えやしないんだ。…若様は、もう勘付いてんじゃあないのかねえ?」
揶揄う袽華が背後から抱きついて耳元で笑っているような気さえしてしまう。
そうだよ、勘付いてはいるんだ。
はあ、と嘆息して部屋に入った灶絃は、あれ?、と立ち止まってしまった。誰も居る筈の無い部屋の奥から寝息が聞こえる。ん?、と見廻すと見慣れた自室ではない。どうやら考えに耽り過ぎて悩みの種の部屋にきてしまったようだ。
けれど。
仄かに炊かれた香が以前のものではないことに小さな笑みが溢れてしまう。この香を炊いているのは宮で4人しかいないのに。
本当に素直じゃない。
そっと戸を閉めて起こさないように御簾の奥の寝所に入ると穏やかな寝顔が見えた。静かに布団に座ってからそっと頬に触れると、ひやりとした涙の跡がする。
やっぱり堪えてた。
ひとりで泣くくらいなら、良いように使えばいいのに。
何処まで行っても啝咖は不器用で意地っ張りだ。
小さく嘆息してしまうと、若君、と低い声が囁くようにすぐ隣で響いた。
「居てくれたんだ、哀玥」
『…悪戯は為されませぬよう』
静かな声には否を言わせない強さがあった。
哀玥のことだ。
聞き出しはしなかったのだろうが全て分かってくれているのだろう。
そこは流石哀玥だと感服する。
さしずめ啝咖を1人で泣かせたくなくて侍ってくれていたというところか。
「…悪戯じゃないよ」
『ならばよろしゅうございますが、余り泣かされませぬよう』
ふわりと消えた気配に後押しされるように、見えている額にそっと口付けると小さな声と共に啝咖が薄らと目を開けたがすぐにとろりと瞼が閉じていく。それでも当てていた掌に擦り寄る姿が愛らしくて、つい、ははっと笑えてしまった。そっと布団に潜り込んでも一向に気取らない警戒心の無さには一抹の不安も覚えるが、あれだけ心を擦り減らすことがあったのだ。深く眠ってくれていることは安心してもいいだろう。
だがこのまま朝まで共寝というわけにはいかない。目が覚めた時にあの日のように壁を作られたのではたまったものではないし、いい加減に逃げるのもやめてもらわなければ無意識にここに来てしまった灶絃が報われない。
さて、どうしてやろうか?
組み敷いて起こしてもいいが、泣かすなと哀玥に言われた手前気が引ける。とりあえず啝咖を囲って声を掛けてみたが目を開けない。頬を擽ってみても、鼻を摘んでみても効果がない。
「ほんとに、寝坊助なんだから」
苦笑しながら指で唇をなぞっていると、ふいに吸いつかれた。ぞくり、として指を離すが相も変わらず啝咖からは寝息が聞こえてくるだけだ。
「勘弁してよ。…誰なのかも分かってないくせにさあ…」
戸惑わせたくなくて必死に己を律っしているというのに、この女は。
深く嘆息してもう一度指で唇をなぞってから軽く口付けてみると、ほんの少し瞼が動いた。そのまま啄むように口付けながら呼び続けて、ようやく重い瞼を上げた啝咖の目が驚きで見開かれた。
「あーもう、やっと起きた」
「え?灶…っ?!」
名を呼ばれる前に深く口付けると押し除けようとしたのか衣が掴まれたけれど、灶絃はもう知っている。
啝咖がどれほどこれを欲しかったのかも。
灶絃がどれほどこうしたかったのかも。
深い口付けを繰り返すと衣を掴んでいた手が震えて拳が握られる。縋りつきたいのを堪えているのを見るのは愛らしいが、このままではすぐに灶絃の腕の中から逃げていってしまうだろう。
「ねえ、姉様」
口付けを解くと戸惑った目をした啝咖の顔が見えて、思わず灶絃も微笑んでしまう。
「いつまで見ないフリすんの?」
「…何を?っていうか何で灶絃がいるの?」
「あーあ、まだそんなこと言う?」
潤み始めた目で見つめて聞かれても灶絃には惚けているようにしか見えない。
「姉様は俺と姉弟のまんまで本当に良いの?」
「いや、だって姉弟だし」
「そうだけど。そこは置いといて、姉様は俺が欲しくないのかって聞いてんの」
「えっと…、情の相手としてってこと?」
これ以上ないくらい見開かれた目は今にも溢れて落ちそうだ。
『情の相手』という言葉を出した啝咖の身体が強張ったのは、あの男と灶絃が重なったからだろう。
「違う違う。ごめん、言い方が悪かった」
そっと頬を包んでやると見開かれていた目がほんの少し細められる。
「そうじゃなくて…」
言いかけて灶絃も、あれ?、と言葉に詰まった。
そういえばどういうつもりで自分はここに来てしまったのだろう?
悧羅に似ているだけで男たちから欲の相手として求められることに耐え続け、それでも仕方がないと笑う啝咖の姿が悼ましいと思った。
あの男のような態度を取る者たちから震える啝咖を守りたいと、あんな男たちに見せたくもないとも思った。
泣きたいなら隠してやることくらいは出来る。
縋り付きたいなら身体を重ねることもしてやれる。
けれど、無意識の内にここまで来て、逃がしたくないと感じたのは、何なのだろう?
「え…っと、灶絃?どうしたの?何だかよく分かんないけど、とりあえず起きようか?」
押し黙ったままの灶絃の下から啝咖が声をかけてくれる。きょとりとしている顔と触れてもいいのかと宙に浮いた啝咖の手は、迷いながらも触れきれずに自分の寝間着を掴んでいた。
「あー、ごめん」
ははっと笑ってしまう灶絃の耳にまた袽華の声がする。
「若様、向き合わないフリばっかりしてちゃあ、本当に欲しいって思った時にゃあ、それはそこにないもんなんだよ?」
そんなこと言われなくても分かっている。
分かっていても欲しいと切望したことがなかっただけで。
こつん、と啝咖と額を付けると、ああそうか、と小さな笑いが込み上げてきた。
「姉様、ちょっと1回入っても良い?」
「は?え?良く分からないんだけど、どうかしたの?」
焦る啝咖が手を振っているが灶絃には触れないようにしている。それもまた愛らしくて堪らなくて、つい揶揄いたくなってしまう。
「何言いたいか俺も分かんなくなったんだけど、入ったら分かると思うんだよね」
「なに言ってんの?あ、ちょっと駄目だってば!」
笑いながら啝咖の寝間着の紐を解くとより慌てた姿が目に入る。脱がせようとした寝間着の襟を掴んで抗う啝咖は、暗い御簾の中でも分かるほどに頬を紅く染めていた。
恋仲なんかになりたいわけでもない。
籠の鳥のように囲っていたいわけでもない。
「まあまあ、良いからいいから」
「良くないって!馬鹿馬鹿!落ち着いて!」
強張る啝咖の脚を片方だけ腕に引っ掛けて持ち上げると、ようやく啝咖の手が灶絃の胸に触れて押し止められた。寝間着の上から触れられただけなのに、じんわりと身体が温かくなって充たされていく。
「やっと触ってくれた」
ははっと笑って額を離すと、ごめん!、と焦りながら啝咖が手を退こうとした。それを空いた手で掴んだ灶絃が、自分の頬に当てさせると啝咖の手が小さく震えているのが伝わってくる。
「若様は、もう勘付いてんじゃあないのかねえ?」
ああ、分かってるよ。
分かってたんだよ。
認めたく無かっただけ。
堪え切れずに求めてくれるのを待っていたかっただけだ。
灶絃が欲しい、と灶絃だけのものになりたいと強く願って欲しかったから。
「契るに足る縁ってのはね、何も恋仲ってんで生まれるもんでもないんだよ。本能に刻まれてるもんもある」
本当にそうだったよ、袽華。
初めて繋がった時の、あの感覚。
何も無かったと自分に言い聞かせる度に襲ってくる虚無感。
きっとあれらは灶絃に教えていたのだろう。
灶絃の縁はここに在る、と。
それが灶絃だけの想いでないことも分かっているのだが、この女はすぐに逃げようとする。
もう逃げられないことなど知っているだろうに。
「姉様さあ、俺のこと要らない?」
「何言ってるの、要る要らないの話じゃないでしょ?」
「そうじゃなくて」
掴んだままの手の震えが少し大きくなるが、それもまた自分を求めてくれているからなのが嫌になるほど伝わって灶絃の胸に熱いものが込み上げてくる。
「俺を貰ってよ、姉様」
「貰うって、いやいや。モノじゃないし」
「だからそうじゃなくってさ」
伝えたい言葉の意味などとうに知っているだろうに、啝咖は気付かないフリをするばかりだ。分かっていることなど全部伝わっているのだから素直に頷くだけでいいのに。
「じゃあ言い方変える。姉様を俺に頂戴」
「やれるものでもないってば」
「あーもう!だからそうじゃないって!」
やれやれ、と大きく嘆息してしまうが啝咖の壁が厚いのも仕方ない、とも思う。
『最後にする』と言われたことに苛立って意地を張っていたのは灶絃の方だ。
縋ることも求めることもしては駄目だと伝えた上で、堕ちて来てくれるのを待っていた。
そんなことを伝えられて素直になれるような啝咖ではないことなど知っていた。
手を伸ばせない啝咖が見えている想いを隠すために、振り向くことさえ出来ずに心に蓋をしていくのを眺めていた。
ふとした時に漏れ出て流れてくる熱の籠った想いは優越感を与えてくれた。
啝咖自身も気付かない処を侵食出来ていることを喜んでいる自分がいたからだ。
思い返せば何とも童のようで自分に呆れてしまう。
「ああ、そっか。俺の責だ」
「は?何が?ねえ、大丈夫なの?」
「うん、大丈夫なんだけどねえ」
結局のところ灶絃が拗ねてしまったことが原因だったのだ。腕の中でかたかたと震え今にも溢れそうな程に涙を溜めながら、それでも尚、手を伸ばしてはならないとまで思わせてしまうほどに固く心を閉ざさせてしまった。
「どうやったら錠を外せるかなと思ってさ」
「いやもう、本当に何?揶揄う相手を間違えてない?」
肩を竦めた灶絃に啝咖が大きく嘆息しながら顔を背けた。
「…ほんと、勘弁して…」
ぽつりと呟やかれた声は、か細くて消え入りそうだった。
「姉様?」
呼んでみたが小さく首を振られてしまう。両手で顔を包んでも顔を向けさせることは出来ないが、掌に涙が伝った。
「姉様ってば」
幾度呼んでも返ってこない応えの代わりに、声を殺して息を呑む姿だけがある。
あの日のように声も上げずにひたすらに耐える啝咖に灶絃も小さく息を吐いた。
揶揄い過ぎたのは分かっている。
遠廻りに伝えても、今の啝咖に届く筈も無かった。
分かってくれているだろう、伝わっている筈だなどと思い上がりも甚だしい。
拗らせたのは灶絃なのだから、言葉にしなければならなかったのだ。
ちゃんと伝わるように、嘘偽りなく。
「ごめん、姉様。ちゃんと話すからこっち向いて?」
見えないけれど包んだ手で涙を拭ってみるがやはり首が振られる。態度だけでも応えてもらえているのだから善とすべきだろう。
「じゃあ、そのままで良いから聞いてくれる?」
問いかけに対する応えは無かったが沈黙は是と同じだ。
「俺さ、『弟』辞めるから、俺と契ってくれない?」
灶絃の言葉に啝咖が固まったのが分かった。呼吸することさえ忘れたように動かなくなった啝咖の頬をそっと撫でると驚き過ぎたのか、新しく溢れる涙も無くなっている。
「恋仲から、とか姉弟だからとか、そんな悠長なこと言って待ってるのも惜しいんだよ。そんなこと言ってたらまたひとりで堪えるだろ?」
相変わらず応えは無いが、ひゅっと息を吸う音だけが届くと啝咖が激しく咳込み始めた。どうやら本当に呼吸することを忘れさせてしまっていたようで、上手く息の出来ない啝咖を抱き起こしてゆっくりと背中を摩る。
「落ち着いて、大丈夫だから。俺の息の音は伝わるだろ?それに合わせて、ゆっくりでいい」
呼吸の音が聞こえるように啝咖を抱きしめるが、すぐ離れようと動く。息が苦しいだろうに、どうやっても啝咖は灶絃に身体を預けようとしてくれない。抱きとめていなければ例え倒れたとしても甘えてはならない、と示すように離れようとしてしまう。
灶絃があの日あんな事を言ってしまったから。
「堪えなくていいから縋ってよ、…今度はちゃんと待つよ。置いてなんていかないし離したりもしない」
ぎゅうっと抱き締める腕に力を込めて強引に啝咖を留める。苦しさが増したのか灶絃の腕の力が強過ぎたのかは分からないが、どうにか啝咖の頭を胸に預かることだけは出来た。
「ちゃんと応えるから 縋って求めてよ。俺のことが欲しいって、あの時みたいにもう一回言って?」
荒れた呼吸は治まることを知らず、寝間着越しに熱い息が灶絃の肌を刺していく。
「拗ねて意地悪してごめん。あんな男たちから守ってやれてなくてごめん」
本当なら啝咖が落ち着くまで待っていなけらばならないのだが、一度堰を切った想いはとめどなく溢れてきて、伝え続けていなければ溺れてしまいそうだ。
「俺だけの者になって俺だけに護らせて。泣くのも苦しむのも触れることも甘えることも、俺以外に許さないでよ」
抱き締めながら啝咖の髪に顔を埋めて灶絃が乞い願うと、啝咖から、はあ、と息が漏れた。
「全部を俺に頂戴。契りを交わそう?」
想いは同じだと知っている。だが、固く閉ざさせてしまった心を開いてくれるかどうかまでは灶絃には分からない。紡ぐ言葉が部屋の中に響いては泡のように消えていくと、伝える声さえも震えてしまう。
それでも伝えることと腕の中に留め置くことしか、今の灶絃には出来ることが無い。無理矢理に身体を繋げることは容易いが、縋り付けない啝咖にとれば心からの安堵が無ければこれまでの男たちと何ら変わらないだろう。想いを受け入れてくれてからでなければ繋がることも意味のないものになってしまう。
「お願いだから、うんって言ってよ、……啝咖……」
名を呼んだのはただの灶絃の我儘だ。ひとりの女として啝咖を愛しく想っているのだから、啝咖にも灶絃をひとりの男として見て欲しい。弟を辞めると宣言しても血の繋がりの上で姉弟であることは、覆しようのない事実だ。
それでも灶絃はこれ以上、啝咖を姉と呼びたくない。
「…そ…、…げん…」
乱れた息の中から弱々しい声がした。俯いて身体を震わせながら苦しさに耐える啝咖は自分の寝間着を強く掴んでいる。漏れる息の音だけがひゅうひゅうと静かな部屋で繰り返し響く。
「…く、…るし…っ」
絶え絶えに出された声はただそれだけ。息をきちんと吐けていないのだ。顔を包んで上向かせると、苦しさに喘いで潤んだ瞳に灶絃は囚われてしまう。
「…た、…っけ…て…ぇ…っ」
身を預けてもらえた訳じゃない。
「…うん、大丈夫。…助けるよ」
囁くように伝えて灶絃は啝咖に深く口付けると、ゆっくり息を吹き込んだ。
「ゆっくりでいい、少しずつでいい」
求めてもらえた訳でも、縋り付いてもらえた訳でもない。
「ここにいるから」
流れこむ息を受け入れ切れずもだえる啝咖を支えながら、何度も何十回も吹き込み続ける。
「焦んなくていいよ。絶対置いていかない」
灶絃のことが欲しくて手を伸ばしてもらえた訳ではない。
襲う身体の苦しさから救ってくれと言われただけだ。
此処には灶絃しか居ないから、助けを乞うことも灶絃にしか出来ない。
差し伸べられた手がほかにもあったなら、啝咖はそちらに助けを求めただろう。
灶絃にしか頼めなかった。
灶絃が欲している求めではないことなど分かっている。
わかっているが、―――それでも。
求められたものが助けを願うものだけだと分かっていても、頼ってもらえたことが堪らなく嬉しい。
「ゆっくり、ゆっくりだ」
宥めるように言い聞かせて行くと、少しずつ啝咖の呼吸が整ってくる。唇が離れる度に漏れる吐息が啝咖の震えも一緒に消してくれると、大きく息を吐いた啝咖の身体から力が抜けて崩れて落ちた。
「落ち着いた?」
「ん…、ごめん、…ありがとう」
寝間着を掴んでいた手を開いて胸を撫で下ろす啝咖を支え直そうとした灶絃の動きは、啝咖が手で壁を作ったことで制された。
「…ほんと、ごめん…。面倒かけちゃって…」
「…面倒だなんて思ってないよ…」
乗せていた膝からも降りようとする啝咖を背中を支えていた腕でどうにか留める。
「もう平気だから、灶絃も部屋に戻って休んで?」
「俺が平気じゃない」
「…ひとりで大丈夫だって」
くしゃりと微笑んだ啝咖の表情に灶絃の胸も、ずくんと疼いてしまう。
「俺、言ったよね?置いてなんていかないって。今度はちゃんと待つって」
「…でも、置いていかれたよ?」
「…っ!それは!…そう、なんだけどっ!」
微笑んで告げられた言葉に灶絃は苦虫を噛んだ。
責められているのではない。
告げられているのはただの事実だ。
はあ、と大きく嘆息してしまうがこればかりは灶絃がしてしまったことだ。
「啝咖は俺のこと欲しくないの?」
頭を掻くしか出来ない灶絃の前で啝咖が小さく笑った。
「…欲しいよ?」
「なら、どうして?」
尋ねる灶絃に啝咖は困ったように微笑んでいる。
「私は迷惑しか掛けないもん」
「迷惑だなんて思ってない」
ふふっと笑う啝咖の頬に触れると目を細めてくれる。小さく安堵したような嘆息は灶絃が触れることを心地好いと言っているのと同じことなのに。
「虚勢ばっかり張って性根だって良い方じゃない。母様に似てても母様みたいに何でも出来る訳でも、全部受け入れてあげられる器もない。ただ似てるだけだから、どんなに欲しいって願っても最後は結局置いていかれるばっかりなの」
細められていた目に哀しみの色が浮き上がってきたのを認めて、灶絃は、ああ、と心の中でごちた。
啝咖にとって『置いていかれる』ということがどれほど辛いことなのか、まだ灶絃は分かっていなかった。
それはただの事実などでは無い。
欲しいと願う度に、縋りたいと手を伸ばす毎に、叶わないと思い知らされてきた行いなのだ。
知らなかったとはいえ灶絃もまた同じことを強いて啝咖の心を抉ってきたのだ。
「ああ、もう…。俺って本当に最低じゃないか」
大きく嘆息して灶絃は上を仰いで両手で顔を覆った。あの日、自分のしでかしたことが悔やまれてならない。
なんてことしたんだよ、俺は。
待ってくれ、と願った啝咖があの場にどんな思いで残されたのか。
どんな思いであの場でひとりで過ごしたのか。
どんな思いでいつも通りに見せていたのか。
壊れかけていた心を更に抉って粉々にしたのは、他の誰でもない灶絃自身の手だった。
「…あーもう、本当ごめん…」
侘びた所で無かったことにはできないが、思い返せば返すほどに後悔だけが押し寄せてくる。
「あの時の俺を殴りたい…」
ああもう、と呻く灶絃の袖がほんの少しだけ引かれると、啝咖が小さく笑っているのも伝わってきた。
「ありがとう、嬉しかった。…もう充分」
くすくすと笑う声に胸が熱くなる。
どうしてもっと早く向き合おうとしなかったのか。
向き合ってさえいればこんな表情などさせずに済んだ。心地好いと求めてくれた灶絃の全てで啝咖の傷を埋めて、癒す手助けも、傍に居てやることも出来たのに。
微笑まれているのに、啝咖は灶絃が作った溝を広げていくばかりで近付くことさえ許してもらえそうにない。
受け入れてくれてからなど甘く考えず、もう力尽くで離れられなくしてやろうか。
そうしてしまえば啝咖がどんなに拒んで目を逸らしても、灶絃だけのものにして手を離すこともできなくすることができる。
「…それって拒絶?」
迫り上がってくる衝動を吐き出しながら尋ねてみるが啝咖は気付いてもいない。
「灶絃には私みたいな面倒な女じゃなくて、もっと似合う女がいるもの。それこそずっと一緒に隣に居て欲しいって思う女が現れてくれる筈。…ちょっと羨ましいよ」
「面倒だなんて思ったことないって言ってるじゃないか。俺が隣に居て欲しいのは啝咖なんだよ」
「慣れてるから大丈夫だってば。そんなに気を遣わないで?」
穏やかに紡がれる言葉の意味にますます胸が締め付けられる。本当にどこまでも灶絃は分かっていなかった。
『慣れている』に含まれているものも同じだったのだ。
悧羅だと思われて情の相手にされることに慣れている。
求めても縋っても最後には置いていかれてしまうことにも慣れている。
そういうことだ。
そうであればどれだけ言葉を尽くしても啝咖の心は癒せない。何より癒してくれる者など現れないと啝咖が思っているのが悔しくて、それに輪を掛けてしまった自分が情けない。
けれど。
啝咖は分かっていない。
今、灶絃が抱えている激情がどんなものなのか。
だったら、分からせるまでだ。
ぎりっと唇を嚙んでもう一度灶絃は大きく息を吐くと気取られないように自分の舌に傷を付ける。
「…絶対置いていかないって言ってるだろ?」
「無理しなくていい。分かってるから」
変わらない啝咖の言葉が灶絃の我慢の糸を断ち切った。
「俺の一世一代の願いをそんなんで終わらせんな」
ぷつり、と何かが切れると灶絃は強く啝咖を引き寄せて深く口付けた。同時に啝咖の舌に牙を立てて傷を付けると既に付けておいた自分の傷と重ねる。
付けた傷はほんの僅か。
それでもほんの一時、血が混ざり合うには充分だ。ひゅっと一瞬流れ込んだ啝咖の想いが灶絃が為そうとしたことは果たされた、と教えてくれた。
「これで俺のもの」
唇を離して、にやりと笑った灶絃を啝咖が唖然として見ている。
「灶、絃?何、なにした?」
「ん?契った」
「…いや、え?…あ、んた、何…?や、何で?」
「だって啝咖信じてくれないじゃん」
小さく嘆息して肩を竦めて見せると、啝咖がひゅっと息を呑んで激しく身震いした。
「は?え?…や…、ど、どうしよう…、え?」
狼狽する啝咖の顔から血の気が退いていく。ぽん、と背中を叩いてやると啝咖はもう愕然としている。
「これで本当に置いていけなくなっただろ?」
「…何、馬鹿なこと言ってるの?…そんな、大したことでもないのに、こんな…」
「大したことだよ。慣れんなって言ったろ」
大したことじゃない、などと言って欲しくない。
何よりそんな思いをさせ続けるのを黙って見続けるなど灶絃にとれば拷問と同じだ。
「…っ!だからって!何で灶絃の一生を縛るようなことっ!」
荒げられた声と共に啝咖が泣き崩れながら灶絃の胸を、どんっと叩いた。
「しょうがない。他にやり方無かったもん」
「仕方ないで済ませられないでしょう!あんたの一生が懸かってんのよ!?こんな馬鹿なことに使って良いものじゃない!」
泣き叫ぶ啝咖は力無く灶絃を叩き続ける。無理矢理に契りを結ばされたのだからそっちを怒ればいいのに。啝咖から出る言葉は全部灶絃を案じるものばかりだ。
「はいはい、まあ落ち着いて。また苦しくなるよ」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょうっ!?ああ、そうだ、母様なら何とかしてくれる!」
ぽんぽんと頭を撫でて肩を竦めて見せたが、啝咖は起こったことをどうにかしようと立ちあがろうとしてしまう。その姿もまた愛らしいが、とりあえず良いからと灶絃はもう一度啝咖の頭を撫でる。
「俺は啝咖が良いんだって。縛られるなら啝咖じゃないと嫌だ」
「そんな馬鹿なことっ!」
「馬鹿なことじゃない。啝咖のものになりたいってだけ。だって俺の縁は啝咖に繋がってるんだから。それは啝咖も分かってるだろ?」
とん、と啝咖の胸を指で示すと言葉に詰まったのか啝咖が息を呑んだ。あの時灶絃が感じたモノは啝咖も感じていた筈だ。
「知らないっては言わせないよ?」
視線を泳がせた啝咖に、ふふっと笑って灶絃は続ける。
「俺の唯一は啝咖だ。逃がさないし、ひとりで泣かせたりもしない。契っちゃえば疵を重ねるだけで全部分かるし、俺だけは啝咖から離れないって信じられるでしょ ?置いていかれることが怖いなら、俺がずっと抱き上げて動けばいい。見えない処で何してるか分かんないっていうなら呪かけて同じものを見れるようにすればいい。それでも不安が拭えないなら、離れられないように手を繋いだまま縫い付けてしまえばいいじゃない」
ね?、と微笑むがまた啝咖は唖然とし始めた。
「まあ順序とか全部すっ飛ばしちゃったけど、遅かれ早かれどうせ俺は啝咖と契るんだし。こうでもしないと啝咖はすぐ堪えて、見ないフリして逃げるだろ?俺のものだって分かって丁度いい」
「飛び越えすぎよ…。考えも、やり方も」
ぼろぼろと流れる涙を袖で拭きながら啝咖が呟いた。それには、まあねえ、と灶絃も苦笑するしかない。互いの諾の上でしか結ぶことが出来ない契りを一方的に行えたことがそもそもおかしい。
だが、それもまたそうするべきなのだということだ。
とはいえ、無理矢理に為したから結べた契りとしての縛りは弱い。啝咖の言う通り悧羅であれば容易く解ける程度のものだ。だが、この好機を逃せば啝咖は堕ちて来てくれないだろうし、灶絃としてはこのまま堕として、しっかりとした契りを結んでおきたい。
「やり直しっては言われるだろうけど、解かないからね?何だったら今から別の処にがっつりと疵入れてもいいけど?」
「…それは遠慮する。腕とか切り落としそうだもん…」
「啝咖がそれで安心してくれるなら腕でも脚でも何処だって切り落としていい。何だったら首でもいいけど」
「…そうしたらどうやって離れずに居るつもりなのよ…。ほんと、馬鹿…」
はあ、と大きな嘆息と共に、くすり、と啝咖が笑ったのは袖で顔を隠していても明らかだった。どうやら、ようやく堕ちる覚悟を決めてくれたようで灶絃もほっと胸を撫で下ろす。
「それもそうだねえ」
うーん、と考えながら灶絃は笑って腕を広げた。
「わーか?」
名を呼ぶと袖の向こうから啝咖がちらりと視線を向けた。顔を隠していた手がおずおずと灶絃に向かって伸ばされるが、胸に触れる寸前で止まる。
「…本当に、いいの?」
「もちろん。俺は啝咖のだよ?」
ほら、と微笑むと止まっていた手が動いて灶絃の胸に届く。そのまま抱きついてくれるかと期待したのに、啝咖はただ、ほっと肩の力を抜いて灶絃の寝間着をきゅっと掴んだだけだ。それでも柔かく、はにかんだように笑った表情はこれまで灶絃が逢ったどの女よりも美しかった。
「…あー…、限界」
広げた腕を閉じて納めながら擦り寄ると炊かれた香と同じ芳りが啝咖を包む。ほうっと出された安堵の息が寝間着越しに伝わると啝咖も胸に擦り寄りながら抱き返してくれた。
「捕まえた」
抱きしめる腕に力を込めると幸福感がじわじわと湧き立ってくる。
啝咖が堕ちたのではない。
灶絃が堕とされてしまった。
「啝咖、俺を貰ってくれる?」
「…喜んで」
「じゃあ啝咖を俺にくれる?」
「とっくに全部持ってかれてる」
「それはそうだ」
くすくすと笑いながら見上げてくる啝咖が手を伸ばして灶絃の頬を撫でると、熱が滾り始める。引き寄せられるようにどちらともなく口付けると、頬に当てられていた手が留めるように動いた。灶絃の手が啝咖の身体をなぞり始めると、首に腕が廻る。ほんの少し肌が遠くなってしまうと啝咖が膝を立てて灶絃に近付いた。寝間着をずらしながら首に胸に腹に、と舌と唇を這わせていく。漏れてくる甘い声に誘われるように灶絃の手が啝咖の脚の間を触り始めるとびくりと身体が応えた。
「…ははっ、かーわい」
「やっ、からか、わ、ない…でっ」
紅く火照った顔で間近で見下ろされたのでは灶絃も堪らない。舌を出して口付けを誘うと貪るように重ねてくれる。舌を絡ませながら啝咖の中に指を入れると、くぐもった声がした。かき混ぜる度に立てている膝がぐらつくが、それでも啝咖は灶絃の身体にしがみついて離れようとはしない。絡み合う灶絃の舌の傷が開いたのか僅かな血の味が互いの口内に広がった。
「…もう一回契る?」
「なんっかいでもっ」
悪戯に聞いた灶絃に喘ぎの中から啝咖が訴える。
「…そう来たか」
甘い声と蕩け始めた目で見られて灶絃は中に入れていた指に力を入れてぐるりと返した。
「…あっ、…やあっ!」
途端に果てた啝咖が灶絃にしがみついて崩れ落ちるのを留まると耳に顔を寄せる。
「ん…、灶絃」
「うん」
「…私も灶絃を悦くしたい…」
「うん?!」
ぎゅうっと抱きつかれて熱い吐息と共に甘い声で囁かれた灶絃は驚いて固まった。あまりのことに手加減を忘れて、より啝咖の奥に指を入れてしまう。悦い処を掠めたのか、びくりと跳ねた啝咖が灶絃の耳を噛んだ。
「…駄目…?」
魅惑的な誘いだが、とりあえず、と灶絃は大きく息を吐きながら啝咖の中から指を出した。
「…えーっと、啝咖さん?」
とんとん、と背中を指で叩くと、んー、と擦り寄りながら灶絃の身体を撫でてくる。
「ちょっと聞くけど、何処でそんなこと覚えた?ってか誰かにした?」
誰が教えたかなど聞かなくとも分かる。
あはは、と揶揄ういつもの笑いが聞こえてくるようだ。
「…え?前に覚えとくと良いよって袽華姐が。したのは、えっと…誰だったかな?」
「あー、あいつかぁ…」
出てきた名に灶絃はがっくりと項垂れた。いや、そうだろうとは思っていた。啝咖が言ったのは妓女たちが悦くしてくれる手管のひとつなのだ。普段の情の相手ともしないことはないがあまり用いない。一夜の相手として決めた時点で欲を満たすには十分だし、男たちにとっては悦くされたいという思いよりも、悦くしたいと思う方が多いだろう。
妓楼でそれが求められるのは商いだからだ。いつもと異なることを求めて来る客を捕まえておくため、要は道具のひとつとでも思えばいい。
それを啝咖に教えるなど袽華が面白がっているとしか思えない。
「灶絃、駄目?」
するり、と滾り切ったモノを触られて灶絃は慌てて啝咖の手を掴んだ。
「すっごく揺れる誘いだけど、駄目。それと聞いておいてなんだけど誰にしたかは言わないで」
「なんで?」
とろりとした目で見てくる啝咖が、自分以外にそんなことをしてやった男がいるなど考えたくもない。
「殺したくなる」
「何それ?もう、私も悦くしたいのに…」
拗ねたような目で見つめられて灶絃も苦笑してしまうが、少し尖らせている唇を啄んでやると、せがむように吸いついてきた。
「だーめ、俺が悦くするの。それに我慢も限界だから入らせて?」
滾り切ったモノを当てがって啝咖の入口の周りを擦ると、待ちきれないように腰が蠢く。
「…んっ、…絶対、だめ、え?」
「駄目」
ゆっくりと中に入り始めると啝咖も腰を落としてくる。
「ねえ、さ、せて?」
「…今日は駄目」
あの時よりも締め付いて巻きついてくる中にあって、艶かしく求めてこられては灶絃が否を言えるはずがない。負けた、と苦笑しながら押し進むと、ぴりりとした痛みが互いの身体に走る。
ああ、これだ。
「啝咖?」
問いかけると啝咖も頷いて強く抱きついてきた。灶絃が全部入ってしまうと痛みが熱に変わる。熱と奥まで呑み込んだ刺激で啝咖が果ててしまうと、灶絃もきゅうっと絞り上げられた。持っていかれそうになるのを耐えはしたが、入っているだけなのにこうも締め付けられていては長く保ちそうにない。
「動くよ?」
布団に押し倒したのと同じくして突き上げ始めると、まだ果てている最中だった啝咖から大きな喘ぎが聞こえ始めた。
「あっ、やあっ!…いま、まだっあっ!」
止めるような声がするが止まることなど出来ない。立てられた膝が絡みついて灶絃の動きを阻めようとするが、片脚を肩に預かって攻めると腕が掴まれた。
「ま…って、まって…っ!」
「無理っ」
掴まれた腕に啝咖の爪が喰いこんで、動くたびに傷を増やす。ちくりとした痛みが走る毎に深く強く突き上げると何度か子袋の入口に当たるようで、都度啝咖の身体が反り返っては灶絃を絡め取ろうとする。どうやら子袋との際の壁が、とかく弱いらしい。
「ここ?」
当たるとすぐに果ててしまうくせに、当てないと自分から当てにくる。預かっていた脚を降ろしてやると立てた爪先で布団を掴もうとするが、その間にも灶絃が深く入るので上手く為されないようだ。肌を合わせて啝咖の弱く悦い部分にだけ当たるように動きを変えると腕から手が滑り落ちた。
「あ、っ!や…っだあっ!!」
四肢の爪先で布団にしがみ付いた啝咖の身体が弓のようにしなる。浮いてきた身体は熱く火照りしっとりと汗を纏いながらも強張っている。抱きしめて支えてやると喘ぎの中から息を呑む音も聞こえた。
「やっ、だあ…っ!そこ、…やあっ!な、にっ?」
「大丈夫、怖くないよ」
「やあっ、お…なか、おかし…いのっ!」
与える官能が強すぎるのか、反って強張った身体で逃げ出そうとする啝咖を抱きしめて留める。
「…やあ、だあっ!…っそ、げんっつ!、やあっ」
「居るよ、何処にも行かない。だから逃げんな」
よりしなる身体を抱きしめながら灶絃は自分の舌に牙を深く立てて疵を作る。
「啝咖、先刻より痛いからね」
ナニカに耐える啝咖に声を掛けてから、ぐっと口付けて絡んできた啝咖の舌にも強く牙を立てると血が混ざり合う。瞬間、流れ込んできた啝咖のこれまでを取り溢さないように強く抱き留めると啝咖が更に締め付けてきた。流石に堪え切れず打ち付ける速さを強くすると、くぐもった声と共に啝咖が跳ねて果てた。覆い被せるように最奥で欲を吐き出すと、熱すぎる欲を受け止めた啝咖の身体が激しく痙攣する。強張っていた身体が、だらりと投げ出されると繋がったままの処から生温かい水が灶絃の脚を伝った。
「啝咖、こっち」
投げ出された腕を取って自分の首に廻させるが力が入らないのか、震えた手はそのままぽすりと落ちた。もう、と苦笑して手を重ねて指を絡めてやると、ぎゅっと僅かに力が入った。
「…そ、うげん…?」
「なあに?」
啝咖の口の周りに付いてしまった血を舐め取りながら癒しの術を行使う。気遣って疵を付けたつもりだったが、思いの外に深かったようだ。
「…そうげ、ん…?」
「はいはい」
荒れ果てたままの互いの呼吸を整えながら疵が癒えたか確かめようとするが、名を呼ばれるものだからなかなかに見えてこない。
「痛まない?ほら、啝咖、べってして」
空いている手で口を開けるように触ってみるが啝咖は首を振って灶絃の名を呼んでいる。
「灶絃」
「はいはい」
「灶絃」
「ちゃんと居るって」
「…置いていかないで…」
「行けるわけないでしょ」
小さく笑いながら嘆息して額に口付けながら繋いだ手を持ち上げて胸に当てる。
「ほら、ちゃんと居るでしょ。置いていけって言ったりしたら泣くからね?」
「…泣いてくれるの?」
「泣くよ。全部流れたんだから、今度こそちゃんと分かってるだろ?」
本当にもう、とごちながら舌を出して疵を見せた灶絃の下で啝咖の目に涙が滲み出した。
「手、縫いつけようか?」
「分かってるから大丈夫」
「俺は縫いつけたいんだけど?」
「それも知ってるよ」
「残念」
こつりと額をつけるとくすくすと笑う啝咖が見えた。
「泣かせないって約束したんだけど、守れなかったから怒られるんだよね、俺」
そういえば、と思い出したように嘆息した灶絃の頬を啝咖が包んでくれる。知ってるよ、と擽られて灶絃は目を細めてしまう。
「哀玥だけじゃなくて、みんなに怒られちゃうんだけど、どうしようか?」
「…一緒に逃げる?」
ふふっと笑いながら尋ねる灶絃に啝咖はきょとりと首を傾げていともなげに言ってのけた。
「それ良いね。啝咖と一緒なら何処だって倖だ」
流石に逃げなくてもいいだろうが、皆、灶絃がやったことを聞けば呆れ果てるだろう。
妲己と哀玥からは怒って叩かれるだろうが、睚眦は鼻で笑うかもしれない。
悧羅と樂采だけは落ち着いているような気もする。
そうだ、樂采。
はた、と気付いたことを啝咖にも伝えようとして灶絃はやめた。
あの不思議な甥っ子と啝咖が会った時、どんな話をするのかを考える方が楽しそうだ。
それまでは。
「灶絃?」
ひとり考えて笑っている灶絃を啝咖が引き戻した。
「何でもない」
その時が来るまではこの愛おしい女に倖にしていてもらおう。
思い直した灶絃は手が離れてしまわないように、強く繋ぎ直した。
お楽しみいただけましたか?
読んでいただいてありがとうございました。
完結まであと少し、お付き合いくださいませ。
(時間を見ながら全投稿分も修正していきます)