唯一【玖】《ユイイツ【ク】》
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心地好い重みと仄かに芳る甘い匂いが啝咖を眠りから引き上げようとした。ぼんやりとした意識の中で、おーい、と誰かが呼ぶ声と共に頬を優しく擽ぐられている。
声を掛けられている、ということは朝なのだろうがこんな声の掛け方で起こしに来るのは弟たちの誰かだろう。
呼びかけられる声に応えなければ、とは思うが自分を包む芳りと程良い温もりに負けてしまう。
「…んー、もうちょっと…」
もぞもぞと布団に潜ろうとするが寝所の壁にでもぶつかったのか進めない。仕方無く壁に手を当てると、くすくす、と笑い声も降ってきた。
「おーい」
どうやら起こしに来た弟は啝咖の寝相の悪さを見て揶揄おうとでもしているのだろう。悪戯顔が目に浮かぶ。磐里か加嬬であればもう少し寝かせてくれるのに、弟たちは遠慮会釈なく御簾の中まで入ってきて起こすのだからいつも根負けして啝咖が起きる羽目になる。
加嬬が子を産んでくれてまだ十月も経っていないから休ませなければならないのはわかっている。分かってはいるがあの優しさが恋しくなってしまう。
「おーい、姉様」
潜り込んで隠した筈の顔を擽られて啝咖も布団から顔を出した。
「もう分かった。起きる、起きます」
重い瞼を上げると目の前に自分の物ではない肌が見えた。は?、と顔を上げると灰色の中に紫の光を宿した眼と目が合った。
「あ、起きた」
擽っていた手で啝咖の頬を包んで灶絃が微笑んでいる。
「…え?灶絃?」
「灶絃ですけど?」
唖然としてしまう啝咖に灶絃はきょとりとして苦笑しているが、互いに何も纏っていないことは触れ合う肌の感覚で分かる。何より啝咖は灶絃の腕にすっぽりと包まれているのだ。
啝咖たち姉弟妹の仲が良いことは周知の事実だ。同じ部屋、同じ床で寝ることなどこれまでも幾度も有ったが、それはきちんと衣を纏ってのことだ。けれどこの状況はどう考えてもただ共寝をしたとは言えないことだけは分かる。かたかたと身体の芯から震えが迫り上がってくるのを啝咖に抑えることは出来なかった。
「ごめんな、もう少し寝せてあげたかったんだけど、お互い今日も務めだろ?早めに起きて1回宮に戻った方がいいかなって思ってさ」
額に当たり前のように口付けられて、啝咖は狼狽してしまう。
「…は?え?何で?」
震え続ける身体を灶絃が引き寄せてぽんぽんと背中を叩いてくれた。
「あれ?もしかして覚えてない?」
「いや、ちょっと待って」
灶絃の胸に手を当ててこれ以上身体が寄り添わないようにしてみるが灶絃は微笑みながら啝咖の頬を撫でている。
「話そうか?」
悪戯な笑みを浮かべた灶絃の口を啝咖は慌てて自分の手で塞ぐ。
「待って!ちゃんと思い出すから」
灶絃の口に手を当てたままで昨夜のことを思い出そうと啝咖は朧気な記憶を掘り返しにかかった。
確か昨夜も露店で酒を浴びるほど呑んでいたところに灶絃が迎えにきてくれた。宮に戻りたくないとぼやいてしまったのも覚えている。その後はどうしたのだったか?袽華の声が聞こえた気もするのだが靄がかったように思い出せない。
「灶絃、一応尋ねるけど。ここは何処?」
「ん?袽華のとこの離れだよ。姉様が帰りたくないって言うし。かといって抱き上げて宿屋を探すわけにもいかないし?どうしようか悩んでたら通りかかった袽華が使えって貸してくれた」
当たり前のような灶絃の応えに啝咖の頭の中に昨夜の出来事が走馬灯のように駆け抜けた。
「…袽華姐の店って…」
「妓楼だね」
『妓楼』という言葉に啝咖の顔からさあっと顔から血の気が退いた。幾ら姉弟の仲が良いと皆が知っていても、宿屋に入るのと妓楼に入るのとでは見られた時の印象が違う。見かけた者が啝咖と灶絃が連れ立って妓楼に入ったという話をしてしまったら、話はまたたく間に広がってしまう。ただ啝咖を休ませる為だと説いても他者の噂話ほど面白く酒の肴になることが、そう容易く消せるとも思えない。共に妓楼に入るなど灶絃の信用にも関わってくることだ。啝咖だけに降り掛かる好奇の目や醜聞など気にもしないが、そこに大切な弟を巻き込んでしまうとなれば話は別だ。
…やってしまった。
あまりの事実に啝咖は、ああ、と頭を抱えてしまう。最近になって心苦しく感じていたことを紛らわすために酒に逃げた。呑んだとしても宮には帰れていたし、日々の務めにも障りは出していなかった筈だった。記憶を無くして起きることなど無かったのに。
…どうしよう。
ああ、と頭を抱えてますます震え出した啝咖に対して灶絃はくすくすと笑っている。
「思い出した?」
「…思い、出した…」
「それは良かった」
ふふっと笑いながら灶絃は面白そうに震える啝咖をぎゅうっと抱きしめて、宥めるように頭を撫で続けてくれている。
「全部忘れてるって言われたらどうしようかと思った」
目が覚めた時点で覚えていなかったことを呆れられても仕方ないのに、灶絃は気にもしていないようだ。
「…ごめん、灶絃」
「それは何の侘び?」
「灶絃は、その…、こうなることを望んでなかったでしょ?私があんな無茶なお願いして、無理矢理お酒も呑ませたからだし」
幾ら泥酔していたとしても、弟の優しさに甘えて逃げ場を無くした上、あまつさえ情まで交わさせるなど姉として以前の問題だ。
灶絃が優し過ぎることなど知っていたのに、卑怯にも啝咖はそこにつけ込んだのだ。
慰さめてくれと縋って。
「姉様に呑まされることなんていつものことでしょ。それに俺は酒の責にしないってちゃんと言ったろ?」
「そうだけど…、無理矢理だったし…」
ごめん、と侘びる啝咖に灶絃が声を上げて笑い始めた。
「まあ、あの状況で耐え続るのは難儀しただろうけどさ。結局負けたのは俺だし。俺は自分の意思で姉様を抱いた。ただそれだけだよ」
「そうは言っても…」
「悔やむならしないっても言ったろ?悔やんでんの?」
くすくすと笑い続けながら問われて啝咖はまた昨夜のことを思い出してしまう。
頬を撫でてくれる手の温もり。
身体を包んでくれた腕の力強さと、重ねられた身体の重み。
蕩けてしまうかと思った口付けと繋がって肌が触れ合うことでの恍惚感。
自分でも驚く程に灶絃の全てが心地好かった。けれどその心地好い繋がりを終わらせたくなくて、幾度も強請ってしまったことだけは消してしまいたい。
よりにもよって弟にそんな願いをしてしまうなど、情け無さと申し訳なさで自分を殴りたくなる。
啝咖も情を交わした数は決して少ない方ではないと思う。けれど、これ程までに満たされたことは初めてだ。
まるで離れてしまうことを恐れているかのように、ただ灶絃に包まれ続けていたかった。
「…悔やんでは、ない」
顔は隠したまま小さく首を振った啝咖に、うん、と微笑んでから、灶絃はより強く啝咖を自分に引き寄せた。ふわりとした甘い芳りに包まれて啝咖もほうっと安堵してしまう。何故灶絃と肌が触れ合っているのがこんなにも安心してしまうのかは分からないが、包まれていることで身体の震えも落ち着いてくる。それでも思い出してしまった覆えしようのない事実に今度は顔に血が昇ってしまう。
思わず灶絃を見る事ができなくなって顔を隠すと、ますます灶絃は小さく笑っている。
「何?可愛いことするじゃん?」
「揶揄わないで。恥ずかしさで死にそう…」
手で顔を覆ったまま俯いた啝咖の頬に灶絃の掌が当たると、そっと包まれたのが分かった。
「じゃあやっぱり悔やんでる?」
「それは無い」
問いかけてくれる声が穏やかで啝咖はますます申し訳なくなってきてしまう。何故かそこだけは断言できることも不可解なのだが、出来れば今この時でさえ灶絃の腕の中から出たくないとまで切望している自分がいる。
それほどに灶絃との情は啝咖を満たしてくれた。
例えそこに啝咖への情けしか無かったのだと分かっていても。
はあ、と大きく嘆息する啝咖に灶絃の小さな笑い声だけが届く。
「それなら良かった。で?いつまでそうしてんの?」
「いや無理。今は顔見れない」
顔を覆っていた手を外されそうになって首を振ると、ええ?、と呆れたような声がした。
「何で?」
「何でもなにも…」
応えに詰まっていると小さな嘆息と共に、ころりと身体が返された。同時に押し付けられる感覚に思わず啝咖が息を呑むと手も外されてしまう。
「可愛いかったのになあ」
「ちょっと、灶絃!」
両手を縫い付けられて慌てて顔を背けると首筋に舌が這わされた。
「せっかく姉様のお願いもきいてたのに」
「…お願い?」
灶絃の唇や舌が這った処から、じんわりと熱が滾るのを堪える啝咖を悪戯な笑みが見下ろしている。
「どうする?出た方がいい?」
ぐっと押し進まれて思わず漏れそうになる声を堪えると、より深く入り込まれる。
「起きるまで出るなって言ったよね?覚えてないの?それとも忘れた振りして誤魔化したかった?」
揶揄うように苦笑しながらゆっくりと腰を廻されては、啝咖も堪えようがない。背けていた顔を戻すと灶絃がくすくすと笑っていた。
啝咖の中に灶絃が留まってくれていたことに気付かないわけがない。啝咖が望んだことだったし、昨夜のことを思い出した時にそれを叶えてくれていたことが嬉しかった。
無理だと言っていたのに。
覚えているかも分からない啝咖の願いなど聞いていない振りをしていれば良かったのに。
「…灶絃はやっぱり優しすぎる」
その優しさにこれ以上甘えてはいけないと思ったから、何も気付いていない振りをして灶絃の腕の中から出ようと思ったけれど、どうやらそれは許されなかったことのようだ。
「いやあ、意地悪してると思うよ?」
縫い止めていた啝咖の手を解いて灶絃は肩を竦めて見せた。
「出たほうがいいなら出るよ?姉様はどうしたい?」
出たほうがいいなら、などと言いつつ灶絃は既に啝咖の最奥まで進んでいる。尋ねているのに焦らすように動かれては啝咖も喘ぎを抑え切れない。
「…じゃあ最後にするからもう一度だけ灶絃をくれる?」
「最後ねえ?」
手を伸ばして頬に触れた手を灶絃が掴むと、掌に舌が這う。びくりと身体を震わせる啝咖の姿に目を細められて、それだけでも啝咖はぞくりとしてしまう。
「ちゃんと姉と弟に戻るから。約束する」
「ふーん」
悪戯な笑みを浮かべたままの灶絃が啝咖の指先を強く咬むと、ぽたりと血が落ちた。
「まあ姉様がそれで良いなら良いんじゃない?」
何処か不満そうな声に小さな痛みを訴えるのも戸惑っていると、少しだけ荒々しく啝咖だけが返された。
「…灶絃?」
思わず名を呼んでしまったが、背後から肩を押し付けられ腰も持ち上げられて身動きを封じられた。
「じゃあ姉様の好きな口付けは無しだね」
「え?それは…っつ!!」
嫌だ、と訴えたかっかったのに強く突き上げられて言葉にならない。訴える代わりに灶絃の動きが速く強くなると滾る熱と快楽の波に呑み込まれてしまう。深く繋がっているのに触れられているところが押さえられている肩と腰だけというのが啝咖にとっては堪らなくもどかしい。心地好すぎる灶絃の温もりで身体を包んで欲しいのに、そうしてもらえないことが切なくて、喘ぎの中から名を呼んでみるが応えてももらえない。
その代わりとでもいうようにひたすらに突き上げられ、背中にだけ口付けが落とされていく。
「…やあ、だあっ!いじ、わるしない、でっっ!」
全身余す処なく触って欲しいのに叶えてもらえない。それなのに突き上げられる勢いで身体だけは滾り切って昇っていく。
せめて身体がずれてしまわないように啝咖が布団を掴むと、より一層打ちつけられる速さが上がって最奥の啝咖の弱い部分に灶絃が当たる。
「…そこ、だめっ!」
訴えてみるが応えはないまま、背後から両腕を掴まれた。浮いた身体の分、より奥に灶絃が入って今度はそこだけに当たるように突き上げられる。
口付けが許してもらえないなら、せめて抱きしめてくれ、と伝え続けても応じてはもらえず堪え切れずに昇り詰めて果てた身体も反り返ることさえ禁じられた。啝咖が果てると同時に灶絃の欲が最奥で吐きだされて、欲の熱を受け止めている啝咖の両腕もようやく離される。ぐったりと布団に倒れ込むと灶絃の大きな嘆息だけが聞こえた。
「はい、お終い」
ぼうっとしながら息を整える啝咖の頬をそっと撫でると、灶絃はあっさりと啝咖の中から出た。
「…やだあ、灶絃、口付けて。ぎゅうってしてよ…」
触れられた手を掴んで願ってみるが、灶絃はふふっと笑いながら立ち上がった。
「だーめ。正直にならない姉様のお願いなんてきいてあげないよ」
頬を撫で上げてから灶絃は湯殿に向かって行ってしまう。
ひらひらと手を振って立ち去った灶絃を呼んでみても止まってはくれない。そのまま湯殿に消えた姿を見送りながら、何よお、と啝咖はごちてしまった。ごろりと身体を返して燻り続ける熱を冷ましにかかると、部屋の隅で灶絃の鬼火が揺れている。その奥に啝咖と灶絃の衣が衣紋掛けに掛けられているのも見えた。
どうやら濡れてしまった衣を乾かしてくれていたようだ。
揺らめく鬼火を見ていると汗だけ流してきたのだろう。身体を拭きながら出てきた灶絃は啝咖を見ることもなく衣を纏い始めた。
「ほら、姉様も支度しないと宮に帰れないよ?」
身を起こした啝咖に視線も返さず支度を整える灶絃を呼んでみるが、んー?、と気のない返事があるだけだ。
「灶絃」
「なあに?」
「灶絃」
「ってか姉様も一緒に出てくれないと錠が閉めれないんだよなあ。まあ、後でも良いけどさあ」
「灶絃ってば!」
大きくなってしまった声にようやく振り向いた灶絃が嘆息しながら肩を竦めた。
「何だよ?ここに居るじゃん?」
上衣を羽織って啝咖の衣を手に取って乾いているのを確かめてから、灶絃は啝咖の前まで歩いてくる。
「身体壊すよ?」
目の前に蹲むと持っていた衣を啝咖に掛けてはくれるが、抱きしめて欲しくて伸ばした手は灶絃に触れることを拒まれて手で制されてしまう。
「だーめ」
「…何でよお…」
問うた声は啝咖も驚く程に弱々しい。抱きしめてもらいたいのに為されないことが侘しくて、身を乗り出して制された手を動かすが灶絃の身体には届かない。
「姉様が決めたんでしょ?最後にするって」
苦笑した灶絃は、ぽんと啝咖の頭を撫でると、やれやれ、と立ち上がった。
「姉弟に戻るんだろ?だったら縋って求めちゃ駄目だよね?ほら、支度して。俺は先に帰るからね」
「…っやだっ、待って」
「待たないよ?」
置かれた手が離れると、そのまま灶絃は部屋を出て行ってしまう。からからと戸が閉まる音が止むと、ずしん、と啝咖を虚無感が襲った。身体に掛けられた衣を引き寄せながら、つい俯いてしまう。
分かってはいる。
灶絃の優しさにこれ以上甘えてはいけない。
慰め、というのならもう充分に果たしてくれた。
だからこそ『最後』だと自分に言い聞かせたのだ。
あの心地好さを自分のものだと勘違いしてはならないから。
それでも、最後にもう一度だけ昨夜のように抱いて欲しかった。
「…ほんと私って我儘もいいとこだわ…」
一人残された部屋で啝咖は長い刻、膝を抱いて蹲ることしかできなかった。
その後の日々も今までと何ら変わりはなく過ぎていった。ただいつものように宮に帰りいつものように務めに出る。一月が過ぎ、二月、三月が過ぎても、まるであの一夜のことなど無かったように灶絃の態度に変わりは無かった。当たり前のように姉と弟として過ごすことはあっても、それ以上はない。
元々の姿に戻っただけ。
ただ、それだけだ。
啝咖もあの夜以来、外で酒に溺れることをやめた。自制できない程呑んで磐里を案じさせてしまうことも嫌だったし、何よりまた酔い潰れてしまっても灶絃だけはもう迎えには来てくれないことが分かっているからだ。
「たまには呑みに行くか?」
紳が声を掛けてくれることもあったけれど、それは笑って遠慮しておいた。紳と一緒なら啝咖が酔い潰れても心配はいらないが、2人して潰れてしまった時が恐ろしい。そんな事になればきっと悧羅が迎えに来てしまう。それはそれで嬉しいが流石にそんなことは長足る悧羅にはさせられない。
時折、目で灶絃の姿を追ってしまうこともあったが、馬鹿な考えを持つな、と自分に言い聞かせて過ごす。
手を伸ばしたくなる衝動も、触れられない虚無感も、別の誰かといる灶絃の姿を見る度に疼く胸の痛みも、何もかも見ないようにしてしまえばいい。
蓋をして見えないようにすれば、すぐに消えるから。
そんなときだった。
「啝咖」
務めを終えて帰る道すがら、樂采への土産に揚饅頭でも買っていこうと方向を変えると、忘れたかった声に呼び止められた。止めたくもない脚を止めて声のした方を振り向くと官服の男が立っている。無視して歩き出そうかとも思ったが、陽が沈んだばかりでまだ民達が行き交う頃合いだ。妙な態度を取って噂話になるのは避けたかった。
「何か用?」
仕方無く微笑えんで応えたことに何を勘違いしたのか安堵の息を吐きながら男が近寄ってくる。
「久しぶりだな。今から何処か行くのか?」
「何処に行こうとあんたに関わりは無いでしょ?用が無いなら私、急ぐから」
詰め寄られた分の距離を取りながら踵を返すと腕が掴まれた。
「ちょっと待てって」
離せ、と振り解きたいが、往来でそんなことをしては瞬く間に騒ぎになってしまう。掴まれた処から、ぞわりとした悪寒が走るがどうにか堪える。
「何よ?」
「いや、あのさ」
「だから何?」
急がないと店が閉まってしまう。用が無いなら早く離して欲しい。掴まれているだけでも嫌悪感で殴りたいのを我慢しているのだ。はあ、と嘆息した啝咖にもう一歩分男が近付いてくる。思わず身構えた啝咖に男は満面の笑みで信じられないことを言ってのけた。
「今夜の相手いる?」
「…は…?」
「いや、居ないなら久しぶりにどうかなって」
悪びれた様子も無く笑っている男に啝咖は怒りが込み上げてくるのを必死に抑えた。
ほんの六月前に縁を切ったばかりだというのに、この男は何を言っている?
啝咖の奥に悧羅を見ていたと告白したその口で、また同じ事を繰り返そうとしているのか?
掴まれていない手が自然と拳を握るが振り上げる訳にもいかない。
「馬鹿言わないで。相手が居ないなら金子持って妓楼に行きなさいよ」
どうにか怒りを逃がそうと嘆息しながら、出来るだけ冷静に聞こえるように伝えてみるが男は笑っているばかりだ。こっちは今すぐにでも殴り倒して土産を買いに行きたいのに。こうしている間に店が閉まって揚饅頭が買えなかったら、樂采たちの喜ぶ顔が見れないではないか。
「もう良いでしょ、離して」
拳を解いて男の腕を外そうと手を掛けると、いやいや、と余計に強く掴まれて耳元に男が近付く。
「お前でないと似てるって思えないだろ?」
耳打ちされた言葉に、は?、と啝咖の身体が固まった。同時に六月前の衝撃と絶望感が足下から這い上がってくる。目の前が暗くなって荒れてくる息と崩れ落ちそうになる膝を唇を噛んで耐ええた。
大丈夫、なんでもない。
こんなこと今までも何度もあった。
比べられることになど慣れている。
だからこれまでそうしてきたように軽く躱して何事も無かったかのように立ち去れば良い。
大きく息を吐いてから言い返そうとした啝咖の身体が勢いよく後ろから抱きしめられた。
「姉様、具合悪いの?」
羽交締めにされて仰ぎ見ることは出来ないが声と甘今芳りで誰なのか容易く分かってしまう。目の前の男に触れられた時とは違う温かさに、身体が震えた。
「…灶絃」
「朝から調子悪そうだったもんな。ああ、お前が気遣ってくれてたの?」
頭上から聞こえる声は穏やかに聞こえるがそうではない。啝咖の腕を掴んだままの男の手首を灶絃が強く握っているし、何より灶絃はよく知らない者を『お前』などと言うことをしない。
「あ…、灶絃若君」
掴まれた手首から、みしみしと音が響くと男の手が啝咖から離れた。触れられていた場処に灶絃の腕が当たると感じていた悪寒が消えた。
「ありがとうね。後は引き取るよ」
びしり、と鈍い音がすると男が顔を歪めたが騒ぎにしてはならない、と分かったようだ。
「いえ、姫様に大事が無くて何よりです」
「うん、ありがとう」
にっこりと笑った灶絃が手を離すと男も足早に去っていく。民達の波に紛れて男の姿が見えなくなると、啝咖の身体から力が抜けた。ほうっと大きく息をしてから支えてくれていた灶絃の腕を叩く。
「ありがと、灶絃。もう大丈夫」
「…あの男?」
腕を離そうとしない灶絃の腕から啝咖が出るが灶絃の目は、まだ男が去った方向を見ている。
「ん?ああ、そうだね」
「何か言われた?」
何処となく不機嫌そうな声音に啝咖は首を傾げた。
「前と同じ、何でもないことよ」
「は?」
視線を啝咖に戻した灶絃は眉を顰めている。それにますます首を傾げて啝咖は微笑んで見せた。
「慣れてるって言ったでしょ。気にしてないよ。それより、ほら」
何か言いたそうな顔の灶絃の後ろで袽華が手を振っているのが見えて、啝咖も手を振り返す。この刻から袽華が動いているということはそういうことなのだろう。差し詰め2人で伴って袽華の店に行こうとした所で絡まれていた啝咖を見かけたといったところか。
「袽華姐が待ってる。早く行って」
「え?ああ…、」
啝咖が示した方を振り向いた灶絃も袽華に手を挙げられている。
「でも姉様は?」
「大丈夫だって。樂采にお土産買って行こうと思ったけど、今日は諦らめて帰るよ。もうおばちゃんの店も閉まっちゃっただろうし。明日、樂采と一緒に買いにくれば良いしね」
「…樂采は学舎じゃん」
「帰ってきてから行けばいいでしょ?加嬬にも甘いものあげたいし、丁度良いよ」
笑って答える啝咖の視線の先で、待ちくたびれたのか袽華が近付いて来るのが見える。
「あー、…姉様、明日休みなの?」
「そうだよ?ほら。袽華姐来たよ」
何故か頭を掻いている灶絃の胸を叩いて教えると、袽華がするりと灶絃の身体に腕を絡ませた。その姿にちくりと胸が痛んだが悟られないよう懸命に呑み込んで笑顔を作る。
「袽華姐、相変わらず綺麗だね」
「ありがとうよ。それより姫様、大事ないのかい?変なのに絡まれちまったねえ」
空いた手で啝咖の頬を撫でながら案じてくれる姿さえも袽華は妖艶だ。ただでさえ美しい袽華が灶絃と共にあっては、道行く者たちもちらほらと見てしまうようで、向けられる視線が痛い。
「うん、平気。ごめんね、灶絃借りちゃって」
「お馬鹿な事を気にすんじゃないよ。姫様に何かあったら、あたしゃ泣いちまうよ。若様、送ってやるかい?」
「え?大丈夫だってば」
袽華に促された灶絃が是を示す前に啝咖は急いで辞した。今、灶絃と共に居たら、また縋り付いてしまう。先程、腕に包まれただけでもう胸が苦しくなっている。その上、袽華と寄り沿う姿まで見てしまっては、早々にこの場を離れないと他者も目も憚らず何をするか自分でも分からない。
閨事での灶絃を知っている者が他にもいるからの辛さなのか、それとも別のものなのかは啝咖にも分かっている。
分かっているからこそ、今は共に居ない方が良い。
目の前で啝咖を送る話が進みそうになって慌てて啝咖は、哀玥、と呟やいた。一呼吸の間に、するりと現れた哀玥が啝咖に擦り寄ってくれる。
『お呼びでございますか、姫君』
「ごめんね呼んじゃったりして」
ふわりとした体躯を撫でると、心なしか胸の痛みも落ち着いてくる。
「ちょっと変なのに絡まれちゃって。灶絃と袽華姐が助けてくれたんだけど、2人とも心配して宮まで送るだなんて言い出すんだもん。邪魔しちゃ悪いでしょ?」
話す啝咖に哀玥が目を細めた。
『成程。…小生をお呼びいただけるとは、誉でございますね』
低く鳴きながら哀玥は体躯を大きくすると啝咖を咥えて、ぽいっと背に乗せた。わっ、としがみついている内に2人に礼を済ませると、すぐに駆け出してくれる。
「哀玥!?」
灶絃の声だけが聞こえたが、2人の姿もすぐに見えなくなって啝咖も大きく嘆息すると、哀玥の背中に身体を預けた。
「ほんとごめんね、哀玥。助かったよ」
『なんの。嬉しゅうございますよ。…皆様方には何も申さぬ方がよろしいのでございましょう?』
「…流石、哀玥」
身体を預けた背をぎゅうっと抱きしめると、哀玥はくすくすと低く笑っている。
『少しばかり小生と遠乗りして戻ると致しましょう。姫君も難儀しておられる御様子、しばし落ち着けられてもよろしゅうございましょう?』
「助かる」
宮とは反対の方に翔けてくれる哀玥の毛並みに顔を埋めていると、して、と声がした。
『愚か者は何処に?』
「何で分かる…って、何でそんなこと聞くの?」
『容易いことにございましょう?小生の宝である姫君を貶めんとする愚者など、がぶりと喰らわせねば』
低く唸りながら、さも当たり前のように言ってくれる哀玥に啝咖は吹き出してしまう。あはは、と声を上げて笑うと蛇の尾でぱしりと叩かれた。
『笑いごとではございませぬよ?』
「うん。でも大丈夫。ありがとう、哀玥。…大好き…」
より一層力を込めて哀玥を抱きしめると、ふふっと笑いが返された。
『なんと誉なことでございましょう。さあ、姫君。少しばかりお休みください。良き虚言を小生が講じておきます故』
「今日、一緒に寝てくれる?」
『おや、これ以上の誉を賜れますとは…。姫君がそれで心穏やかになられるのであれば喜んで御側に侍らせていただきましょう。さあ、お休みくださいませ。…小生は消えたりなどいたしませぬ」
伝えられた言葉の重みに、うん、と応えた啝咖は身体を撫でる風と哀玥の温もりで、すとんと眠りに落ちてしまった。
お楽しみいただけましたか?
読んでくださってありがとうございます。