唯一【捌】《ユイイツ【ハチ】》
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一軒の露店の前で灶絃は大きく嘆息した。露天の中、店主に卓に突っ伏しながら酒瓶を差し出しているのが後姿でも姉だと分かってしまったからだ。里の陽も落ちて往来には良い気分になった民達が賑やかに騒いで過ぎていく。いくら安穏としているとはいえ仮にも姫様と呼ばれる者がおいそれと見せていい醜態ではない。
露店に向かって歩を進める灶絃にも彼方此方から、若様、と声が掛けられる。立っているだけで素性を誰もが分かる、それだけ紳と悧羅の子であるということの重さが知れるというものだ。掛けられた声に手を振って応えながら灶絃は露店の軒先を潜って酔い潰れている姉の隣に座った。
「啝の姉様、帰るよ」
嘆息しながら頬杖を付くと突っ伏したままの啝咖の顔がゆっくりと動いて灶絃を捉えた。
「また来たの?…放っといてもちゃんと帰るってば」
「俺だって来たくて来てるんじゃないよ。他に動ける奴がいないんだからしょうがないだろ?」
「だから来なくていいって言ってるじゃない」
ゆっくりと身体を起こした啝咖に店主が新しい酒瓶を渡すと、すぐに煽り始めてしまう。傍から見れば啝咖の身体はゆらゆらと揺れて座っているのが不思議なくらいなのだが、客として求められれば店主も応じないわけにはいかないのだろう。
「親父さん、もう2、3本お願いできる?」
「いやあ、姫様。今日はもうやめときな?若様も来てくれたんだし、また明日おいで」
「大丈夫、灶絃は帰すから。とりあえず置いといて」
ちゃんと話しているつもりなのだろうが呂律も廻らず、縦に横にと揺れながら頼む啝咖に根負けしたのか、店主も言われた通りに酒瓶を置くと灶絃の前にも酒を入れた盃を置いた。
「姫様が呑まれてるもんですよ」
ちらりと啝咖を見やりながら促されて礼を言ってから灶絃も盃を煽る。途端に喉が灼けつくような酒の強さに全身が熱くなった。
「なにこれ?!」
つい咳込んでしまった灶絃に今度は水を渡しながら店主が首を振った。
「里で1番強い酒ですよ。蛇を漬けて造る、男だってたったの一杯でそうなるんですがねえ。若様も毎晩大変でしょうが…、姫様、何かあったんですかい?」
「それが分かれば苦労してないんだけどね。姉様が読めないことするのはいつものことだから」
もらった水を呑みながら苦笑する灶絃の前で店主は心配そうに啝咖を見ている。
「らしくないって若様も分かってらっしゃるんだろう?姫様は何もなくあんな風にはならないよ」
「…まあねえ…」
店主と一緒に啝咖を眺めながら灶絃も小さく嘆息した。
奔放に見える啝咖だが本当はそうではないことくらい皆知っている。
あえてそう見えるように振る舞っているに過ぎない。
長の子であり尚且つ悧羅によく似た姿形であるが故に付き纏う期待は、灶絃たちが感じている重圧よりも遙かに重い。
それでも紳と悧羅の子である、ということは灶絃にとっても啝咖にとっても誇りだ。だからこそ2人の名に恥じぬ振る舞いを心掛けられているのは、姉や兄たちがそうであるべきだと教えてくれたからだ。
そんな啝咖が外で、しかも民達も気安く使う露店で右も左も分からなくなるほど泥酔するなど有り得ない。だからこそ店主でさえも啝咖らしくない、と評するのだ。
「何かあったって容易く言う姉様じゃないんだけど、里の皆に心配かけてるのは申し訳ないよ」
「心配くらいさせとくれ。若様や姫様が居ってくださるから長様が倖だと笑っておられるんだから」
「何にも出来てないけどね?」
見ている先で啝咖の身体が揺れて卓で額を打ちつけた音がした。
「あーあ、もう…」
がっくりと項垂れた灶絃の横で店主は、おやおや、と散らかった卓を片付け始めた。
「長様は長様、若様や姫様とは違うんだ。…あんまり背負い込みなさんなよ」
置いてあった酒瓶に蓋をして啝咖の頭を撫でてから店主は別の客の処へと行ってしまった。呟くような言葉は気にはなったけれどとりあえずは潰れてしまった姉をどうにかするしかない。
「ほら姉様、起きれる?帰るよ」
身体を揺すってみるとまだ深く眠ってはいなかったようで頭だけが灶絃に向けられた。
「やあだあ、まだ呑むう」
「何言ってんだよ、もう呑めないだろ?ほら、とりあえず立って」
「いーやーだー」
立ち上がらせようと手を取ると駄々を捏ね始める啝咖の目が座っていて、やれやれ、と灶絃は頭を搔いてしまう。
「酒なら親父さんが持たせてくれてるよ。何があったか知らないけどさ、呑みたいなら付き合うから、とりあえず戻ろう?皆、心配してんだよ?」
「…やだ…、帰りたくない…」
上げられていた顔がまた伏せられて、ぼそりと呟やかれた声に、ん?、と灶絃も顔を近付けた。
「なんで?」
「…母様が居る…」
「はあ?」
飛び出した言葉に灶絃は首を傾げた。何があればここまで酔い潰れようとするのかは分からないが、意味もなく悧羅の名を出すことなど啝咖はしない。それも拒むような言葉を口にするなどいつもの啝咖であれば考えることすらしないだろう。
とすれば悧羅の名を出さざるを得ないことがあったということになる。
「何があったの?」
息を吐きながら尋ねてみたが啝咖は小さく首を振った。確かに悧羅の名が出るような事を大衆の目がある場では言えないが、この塩梅では宮に戻ってしまっては余計に口を割らなくなるのは目に見えている。ようやく緩んだ啝咖の口を開かせる別の場処がないものか、と頭を抱える灶絃は背中からどんっと抱きつかれたことで考えを一旦止めた。
「若様じゃないかあ!」
あははっ、と笑う声の主を灶絃はよく知っている。そろり、と顔だけで見やると深い碧の髪と真珠色の一本角が見えた。
「…あー、…久しぶり、袽華」
「まったくだよ?あれからぱったりと来てくれなくなっちまってさあ?情が薄いったらない」
ふふっと囁きながらも身体を押し付けてくる袽華に灶絃は苦笑してしまう。
「珍しいね、客が付いてる刻じゃないの?」
「ちいとばかし空いてるだけさ。あたしを誰だと思ってんだい、つれないねえ」
するりと流れるように動いた袽華は当たり前のように灶絃の膝の間に立つと、長い腕を首に絡ませて微笑んだ。
「で?いつ店に来てくれるようになるんだい?」
悪戯に顔を近付けてくる袽華は明らかに揶揄っているのが分かって灶絃はますます苦笑するしかない。
魅惑的な身体は隠している処が少ないし、そんな衣を当たり前の様に纏っている袽華は妓女を生業にしている。灶絃たち鬼にとって他者と情を交わすのは当たり前のことなのだが、何も相手を必ず決めているということではない。契った相手や恋仲の相手が居れば話は別だが、一夜の情の相手となれば探すのが面倒になることもある。もちろんなかなか是と言って貰えないこともあるし、そんな時に皆が助けを求めるのが袽華の言う店。
要するに妓楼だ。
鬼の本能からすれば、そういった店がない方が可笑しい。加えて武官や文官に次いで志す者が多い務めだ。本能に抗わずそれを逆手に取って商いにする。
灶絃も幾つかの妓楼を知っているが袽華のいる店は数ある中でも高い方に組みしている。500年ほど前に袽華自身が開いたらしいが、店主としてではなく妓女として店に出る袽華には正直頭が上がらない。己が身ひとつで店を大きく出来たのは袽華の魅力もあるだろうが、男を堕とす手練手管に長けているからだ。
今でさえ灶絃を店に連れて行こうとしているのが見え見えなのだが、素直に誘いに乗れなくなったことは少しばかり口惜しい。
「相変わらずだねえ、魅せられたいのは山々なんだけど、今はちょっと難かしいかな」
「なんだい、ほんとにつれないじゃないか。…まさかまだあのことを気にしてるなんて、お言いじゃないだろうね?」
「まあ、それも無いっては言えないんだけど…」
話しながら身体を押し付ける袽華を軽く押し戻しながら灶絃が言うと、はあ?、と呆れたような声がした。
「若様、ほんとにどうしちまったんだい?もう終わったことじゃないか。それで来てもらえないってんなら、あたしをどれだけ見縊ってんのさ?」
「袽華がどうとかじゃなくて、俺が気不味かっただけだよ。…とりあえずちょっと離れてくれない?」
離れるどころか膝に乗ろうとする袽華に灶絃が頼むと紅い唇がにやりと上がった。皆が纏うような衣であればどれだけ擦り寄られても気にもならないが、袽華の衣は肌が出ている方が多い。身を寄せられれば肌が触れあうのとさして変わらないのだ。
しかも袽華は里でも人気のある妓女として名高い。
長い手足に男鬼を魅了して止まない身体付き、それに一本角だけが与えられている美しさ。紅をしっかりと挿した唇を上げて微笑む姿は妖艶と言うに相応しい。大金を積んででも相手にと望む客は後を絶たず、どうにか身請け出来ないかと頼む者も多いと聞く。
灶絃も悧羅という最上級の鬼女を当たり前のように見ていなければ容易く堕ちていたと思う。それでも悧羅のもつ美しさとはまた違うが袽華の美しさも充分に秀でている部類に入る。
「若様は変わらないねえ。だからこそあたしは若様が欲しかったんだけどねえ」
離れるどころか膝に腰掛けられて諦める灶絃に袽華は小さく笑って見せた。
「それはごめん」
「何を詫びてんだよ。縁が繋がらなかった、それだけのことだろう?」
にこりと微笑む袽華に、そうだけどね、と灶絃も肩を竦めた。以前姚妃が口にした『灶絃が口説かれている相手』というのは、この袽華のことだ。身分を隠して時折通っていたのだが里の中で灶絃たちの顔を知らない者などいない。灶絃が口にしない事を袽華から尋ねることはなかったけれど、いつしか客ではなく恋仲の者として会いに来て欲しいと願われるようになった。袽華の気質も容姿も好ましくはあったのだが、灶絃にはどうしてもそういった相手として見ることが出来なかった。断った手前、何事もなかったように店にいくのも憚られて足が遠のいていたのだが、まさか突如として会うことになるとは。
「生きてりゃそんなこともあるもんさ。あたしにすりゃ、いつまでもそれを気にして店に来てもらえない方が商いが上がったりで困るってなもんだよ」
「袽華も会いたくないかなって思ってたけど?」
「お馬鹿なこと言ってんじゃないよ。あたしの好いた惚れたで上客逃してなるもんか」
肩を竦めながら、ぱしりと額を叩かれた灶絃も思わず笑ってしまう。
「たまには顔見せに来とくれよ。若様が通うってんで箔がついてんだから。あたしの店を大きくするくらいは手伝っとくれ」
とんとん、と胸を叩いてから、で?、と袽華は視線を啝咖に向けた。
「姫様だろう?近頃よくこの辺りで呑んでるって聞いてたから、変な奴に引っかかってんじゃないかと来てみたんだが。どうしたってんだい?」
手を伸ばして啝咖の髪を撫でながらそれとなく袽華は顔色を看てくれている。
「分かんないんだよね。とりあえず連れて帰らなきゃなんだけど…」
帰れない、と言う言葉は呑み込んだが袽華は何かを察してくれたようだ。務めの性質もあるのだろうが袽華はとにかく他者の心の機微を読むのが上手い。
「こんな姫様を連れて帰っちまったら長様が心配なさるんじゃないかい?」
「そうだけど、宿を取ろうにも姉様を置いてくわけにはいかないもん。変な噂の種にされるのも姉様は嫌だろうしね」
「若様、姫様っていうのも厄介なもんだねえ」
嘆息しながら灶絃の膝から降りた袽華は、失礼しますよ、と言いながら啝咖に水を呑ませてくれている。
「そういうことなら、うちの店においでな。今日は1番奥の離れが空いてんだ。あそこなら若様も知っての通り、誰も来ないし近付かない」
「ああ、あそこかあ」
言われて灶絃も袽華の言う離れを思い出す。袽華の言う場処は店の庭園の最奥、広い池の真ん中に建っている。一度入ればそこには誰も近付かないように店に報せが巡る。何でも他者に妓楼を使っていることを知られたくない者も居るそうで、そのために造ったのだそうだ。実際、灶絃が入った時も明言通り誰も来なかったし結界も張れたのを覚えている。
「ありがたいけど、流石に姉様抱えて店に入るのはさあ?」
酔い潰れているとはいえ啝咖を抱えた灶絃が妓楼に入ったなどと知れれば、見かけた者から瞬く間に話が巡るだろう。店が店だけに寝る場を借りるだけだった、と説いたところでどれだけの者がそれを信じるかも怪しい。噂など放っておいてもいいが、それが悧羅や紳に迷惑をかけるかもしれない。それだけは啝咖も灶絃も避けたい事だ。
「なに変な事考えてんだよ?あたしの店の離れだよ?入りかたも忘れちまったのかい?」
考えていることを読んだような呆れた声に灶絃も、あ、と顔を上げた。
「そうだった」
「思い出したんなら何よりだ。ほら、さっさと連れていっておやりな」
胸元から錠を取り出して灶絃に握らせると、袽華は、ひらひらと手を振った。
「分かった、ありがたく使わせてもらうよ。でも代金はちゃんと払うからね」
錠を受け取りながら金子を出そうとすると、ぱしりと頭を叩かれてしまう。
「ケチ臭いことをお言いでないよ。端金なんかより、顔を出すって言っとくれ。そっちの方が儲かるってんだから」
あははっと笑う袽華に釣られて灶絃も苦笑するしかできない。
「敵わないなあ。分かった、そのうちね。ほら、姉様。立てないなら抱えるよ」
「おさけえ」
「持ってるって」
唸るように声を出す啝咖を抱え上げると灶絃の腕に酒が掛けられた。袽華に礼を伝えてから露店を出ると通い慣れた宮への道を辿りつつ民の波が途切れたのを見計らって横道に逸れる。
「姉様、ちょっと翔けるよ」
「…宮は嫌だってえ」
「分かったってば」
抱えられたままで、もぞもぞと動く啝咖をぽんぽんと叩いてから灶絃は、とんっと地を蹴って宮と逆の方向へと翔けていく。先程出てきた露店の立ち並ぶ仄かな灯の奥に、行燈の輝く場が見える。近くなると風に乗って様々な香の匂いも強くなった。妓楼の集まる一画からもう一本奥、碧玉色の館が袽華の営む碧玉楼だ。正門を通り抜けると敷地の最奥に池がありその中央に離れがある。
けれどそのまま降りても入れない。
池の手前に降りて足下に咲いている華の中から石楠花を探す。一輪手折ってから預かった錠に乗せて、ほんの少し能力を流すと、かちゃり、と離れの方から音がした。もう一度地を蹴って離れの前に立つと招き入れるように戸が両側に開かれた。
相も変わらずよく出来てる。
室内に足を踏み入れると、ぼんやりとした灯が灯もり戸が閉まって錠が落ちた。客の望みを叶えることは商いをする上で当たり前だとよく袽華は言っていたが、これだけの呪を行使える者なら近衛でも武官隊でも文官としても引き入れたいくらいだ。整えられている寝所に、よいしょ、と啝咖を降ろすと低く呻いている。話をするにしても水でも飲ませたほうが良さそうだ。
「ここ何処?」
「宮じゃないって。知り合いが貸してくれた」
「…だから何処よ?」
「袽華の店」
「あー、袽華姐かあ…。迷惑かけちゃったなあ」
もそもそと起き上がった啝咖に水を渡すと苦笑している顔が目に入った。けれどその表情が何処か悼々しく見えて灶絃は首を傾げるしかない。
「で?何があったのさ?心配しなくったって誰にも言わないよ」
「大したことじゃないわよ」
話すように促してみるが受け取った水を飲んでいる啝咖は何かしらを言い淀んでいる。
「何の理も無く姉様がそうなるはずが無いだろ?話したくないならそれでも良いけどさ、溜め込んでるばっかりじゃ辛いんじゃない?」
「…生意気…」
「とりあえず吐きだしなって。でないとそんな跡を増やしてたら皆も気が気じゃないんだって」
水を置いて酒を取ろうと伸ばした腕の赤黒く変色した跡を示すと啝咖が大きく嘆息した。啝咖の様子が可笑しいと最初に気付いたのは2月ほど前だった。元々出掛けることは多い方だったけれど酔い潰れるまで外で呑んで帰ってくることは無かった。それが毎夜のように深酒をし、戻ってきたと思えば何処で拵えたのかも分からない傷が増えていたのでは気にならない者などいない。それでも何も話そうとせず昼間はいつも通りに過ごす啝咖がこれ以上の怪我をしないように、と灶絃に迎えを頼んだのは磐里だ。日頃から頼み事をするような磐里ではないだけに、それだけ心配になったのだろう。身軽に動けるのが灶絃だけだった、ということもあるが。
「ほんとに大したことじゃないからね?」
「いいから話せって」
酒を煽り始める啝咖から灶絃も酒瓶を押し付けられて仕方なく口を付けると、3年、とぼそりと口が開かれ始めた。
「樂采が言ってたでしょ。3年たったらお嫁さんになれるって」
「うん、言ってたねえ」
姚妃がまだ玳絃に契りを迫っていた頃、確かに啝咖に対して樂采がそう言い切った。幼子の言う事と流してしまえるような事でないのは紳と悧羅に忋抖も頼んでいたし分かっているつもりだ。何より樂采は何処か聡いところがある。
「それを過ぎちゃったのよ。…今度の相手は一緒に居て本当に心地良かったから、勝手にそうであればいいって思っちゃったのよね」
「それは少し時期が違っただけなんじゃないの?」
「まあねえ、そうなのかもねえ」
ふふっと小さく笑いながら話す啝咖は恋仲で無くなったから腹に据えかねていると言った様子ではなさそうだ。
「それはいいのよ。そういう相手じゃなかったんだろうし、私だってどうしても契りたいって訳でもないしさ」
「それは分かる」
契りの相手を見つけても宮から出たくない、紳と悧羅の居る場処から離れたくないと思っているのは灶絃だけでなく姉兄たちも同じだろう。他者が聞けばいい歳をして、と失笑されてしまうだろうが灶絃たちにすれば極自然に湧き出た思いで恥じることでもない。
特に悧羅と紳の子である灶絃たちには邪な考えで擦り寄ってくる者も多い。それらをあしらうのも嫌気が刺すし、契れば宮に入ると公言していることで恋仲までで、と互いに割り切ることも出来ている。
「でも恋仲が終わることなんてこれまでもあっただろ?何で母様が出てくるのかが俺には分かんないんだけど」
露店で啝咖は悧羅が居るから宮に戻りたくないと言った。その言葉が飛び出す事自体、灶絃には有り得ることではない。悧羅が抱えてくれている重圧も、何を犠牲にしてどれだけのことを耐えてきてくれたかを知っているから尊敬や敬愛することはあれど、訝しんだり、ましてや傍を離れたいなどとは思わない。
それは啝咖も同じだと思っていたのだが、何か心情が変わるようなことでもあったのだろうか。
首を傾げてしまう灶絃に啝咖は新しい酒を持たせながら、違うわよ、と苦笑した。
「母様を邪険に思うわけないでしょ。母様は私の大切な母様で憧れなんだから。そうじゃなくて私が母様に似すぎてるっていうのがね、ちょっとだけ重くなったのよ」
「俺は羨ましいけどなあ。それに似てるって言っても姿形だけだし、姉様は姉様だろ?気性は全く違うじゃない」
余計に分からなくなって酒を煽る灶絃に啝咖もますます苦笑を深めている。
「あんた達はそう思ってくれてても周りは違うのよね。…忋抖なら分かるだろうけど」
「何で忋の兄様…、って…、ああ、そういうことかあ…」
引き合いに出された長兄の名で灶絃も啝咖が言わんとすることが理解できた。つまりは啝咖を求めて恋仲になっていたのではなく、啝咖の後ろに悧羅を見ていた、ということだ。契りの話か恋仲故の気の緩みかは分からないが、何某かの中で啝咖は相手の想いに気付いたのだろう。
忋抖も啝咖も父母に似ていることを良い事ばかりではないと常々言ってはいたが、それはこうした理を含んでいたのだ。
「母様に似てるのは嬉しいのよ?…ただ、ここ数十年そういった事ばっかり考えてる奴しか寄ってこないもんだから、ほんのちょっと疲れたってだけ。私の見る目がないから仕方ないのよ」
淋しそうに笑って酒を呑み続ける啝咖は、またゆらりゆらりと揺れ始めている。
「笑い事じゃないだろ、姉様。それは一体どこのだれ?」
啝咖の付き合いに口を出すつもりはないし、してはならないと思う。灶絃が何をしようと父母も姉兄たちも口煩く言う事はない。何があったとしても己で責を取れるのであればそれでいいから。取れなくなった時は灶絃たちがどう止めようとも紳と悧羅が動くだろうが、そうさせない為にも2人に恥じない子であるように努めてきた。
灶絃も。
啝咖も。
紳と悧羅に連なる者たち、皆で。
それなのに何故啝咖がそんなくだらないことで心を抉られなけらばならないのか。
「ちょっと俺その阿呆と話してくるから、教えてくれない?」
にっこりと笑って尋ねる灶絃の握っていた酒瓶に、びしりとした音と共に亀裂が入った。
「あー、いいって。そんな怒んなくて」
「いいから、どこのだれなのかな?」
笑顔を絶やさないように詰め寄ってみるが啝咖は、ふふっと笑うと灶絃の手から酒瓶を取り上げた。
「まあまあ、とりあえず呑んで呑んで」
「うわっ、ちょっと姉様っ!」
取り上げられた酒瓶を無理矢理口に突っ込まれると、強すぎる酒が喉を灼く。慌てて押し除けたが、むせてしまった灶絃の頭をぽんっと撫でながら啝咖はその場に座り込んだ。
「いいんだって。慣れてるから」
残った酒を取り上げる灶絃に、ふにゃりと啝咖が笑って見せる。あまりにも弱々しく見える姉の姿に灶絃の胸がちくりと痛んだ。
「…慣れんなよ、こんなの」
苦虫を噛みながら残った酒を呑み干す灶絃の肩をぽんぽんと叩いてから、よいしょと啝咖が立ち上がると、ふらふらと歩き始めた。
「姉様、何処行くんだよ?」
「ふふっ、酔い冷ましー。灶絃、湯はどこー?」
「はあ?その塩梅で入れるわけ…って、姉様!?」
卓や箪笥にぶつかりながら歩く啝咖が転んで身体に棚に置かれていたものが落ちていく。
「灶絃は優しいねえ」
被さったものから啝咖を救い出だすと腕に掴まって立ち上がりながらくすくすと笑っている。
「はいはい。とにかく今日はもう寝なって」
「やーだー。湯に入りたいー」
「今入ったら溺れるだろ?」
「だーいじょーぶだって。ほらあ、湯に連れてってー」
掴まれていた腕が離されて、また歩き出す啝咖は一歩進むたびに壁や柱にぶつかっている。どう見ても湯になど入れないように見えるが言ったところで聞きはしないだろう。
「本当にもう世話が焼ける」
大きく嘆息して灶絃は啝咖の腕を掴むと、こっち、と湯殿に連れて行く。湯に続く戸を開けると、お湯だあ、と啝咖が灶絃の手を振り払って駆け出してしまった。
「ちょっと、姉様っ!」
止めようとした灶絃の手を擦り抜けて、半ば転ぶように啝咖が湯の中に落ちた。
「嘘お…」
頭を抱えるしか出来ない灶絃の前で啝咖は湯の中でどうにか起き上がって座ろうとしているが、上手くいかないらしい。座ってはずるずると滑って湯に沈み、また座っては沈むを繰り返している。
泥酔した身体で熱い湯に入れば酒が廻って当たり前だ。その上、衣も脱がずに湯に浸かっては啝咖でなくとも身動きなど取れないだろう。とはいえこのままではいつか湯に沈んだまま上がってこなくなるのも目に見えている。
「あーもう!」
本日幾度目かも分からなくなった嘆息を吐きながら灶絃も湯殿の中に入ると沈みかけている啝咖を引き上げる。
「姉様、衣脱いで。そのままじゃ本当に溺れちゃう」
「はあい」
手を離すと湯に沈んでしまう啝咖に伝えると、陽気な返事と共に立ち上がって衣を脱ぎ始めた。
「前掛けと腰巻きは俺があっちに行ってから脱いで」
例え弟であろうと姉の裸体まで見るわけにはいかないし見られたくもないだろう。
「はあい」
背を向けた灶絃の頭の上にばさばさと放り投げられる衣の奥からまた陽気な声がして、一体どこまで真面目に聞いてくれているのかも分からない。啝咖の衣を投げかけられたせいで灶絃の衣も濡れてしまった。早めに部屋の中に干しておけば乾くだろうが、起きたときに啝咖がこのことを覚えているかも怪しいものだ。
「俺はあっちに居るからね。溺れない内に出てくるんだよ」
やれやれ、と頭に乗せられた衣を取り払いながら立ちあがろうとすると、衣の中に前掛けと腰巻きまで入っているのが見えた。
「姉様!俺が出ていってから脱いでって言ったでしょ!」
弟相手だとしても妙齢の女であるという自覚くらい持って欲しい。呆れ果てた灶絃の耳に面白そうな啝咖の笑い声が届く。
「本当にもう」
「灶絃、灶絃」
衣を抱えて立ち上がった灶絃を湯殿の縁に頭を置いた啝咖が手招きしている。
「あ?何?気持ち悪くなった?」
湯の中が見えない程度の距離を保って蹲込みこむと手招きしていた手がそのまま伸びる。
「何だよ?」
「灶絃は優しいねえ」
伸ばされた手を繋いでやると啝咖の嘆息が聞こえた。
「何言ってんの。逆だったら姉様も同じことしてるさ」
「そうかなあ?」
「そうだって」
持っていた衣を置いて繋いだ手を叩くと少しだけ力が込められた。小さく息を吐いていると繋いだままの手が引かれて灶絃の身体が傾いた。
「え…、うわ…っ!」
傾むいたと同時に腕を強く掴まれて抗う間も無く頭から湯に落とされた。慌てて顔を出すと啝咖が声をあげて笑っているのが聞こえてくる。
「何してんだよ!ああもう、すぶ濡れじゃんか!」
髪をかき上げながら濡れた顔を手で拭っていると両肩を押されて湯殿の縁に後頭部をぶつけてしまう。いってえ、と呻いた灶絃の身体に啝咖の膝が乗ると腹に重みまで加わった。
「姉様、本当に何して…」
打ちつけた頭を摩りながら目を開けると苦しそうな啝咖がそこに居た。
「本当に灶絃は優しすぎる」
「…姉様…?」
出された声は余りにも悲痛だった。何かを必死に押し殺しているような顔を見ているとぽたりと湯に水が落ちた。
湯に入っているから落ちた水ではない。
「…ねえ、灶絃…。私は母様とは違う?」
「…当たり前だろ…」
灶絃の掴まれている両肩に力が込められていく。
「…何で誰も私を見てくれないのかなあ…?」
「…相手の見る目がないだけだろ。そんな奴だって分かって良かったんだよ」
肩に当てられたままの手が小さく震え始めると、湯に落ちる水も多くなる。
「…私だけを見てくれる相手を連れてきてよ…」
「姉様は良い女なんだから焦んなって。樂采が言うんだから嫁には行けるさ」
湯の中から手を出して濡れそぼった啝咖の顔を拭ってやると、樂采かあ、とふにゃりと微笑もうとする。その姿はあまりにも悼々しい。
「…無理しなくても良いって。どうせ俺しか居ないんだし」
頭を湯殿の縁に預けて両手で顔を包んでやると、ははっと啝咖が苦笑した。
「…ほんっと、あんたって憎らしいくらい優しいわ…」
ぼろぼろと溢れてきた涙を隠すように灶絃の額に啝咖の額が付けられた。声も上げずただ笑うかのように涙を零し続ける姿を見ていると、今までどれだけ同じような思いをしてきたのかと灶絃の胸がまたつきりと痛む。忋抖も啝咖も紳と悧羅に似過ぎていることに不満を漏らしたことはない。
「良いことばかりじゃない」
そうは言っていても父母に自分たちの若い頃のようだ、と言われれば嬉しそうにしていたしそれが偽りであったとは思えない。ただ、灶絃たちが半分ずつ受け継いだものが極端にどちらかに寄っていたら、感じる重圧も伴う責任も投げられる視線でさえもやるせなく感じてしまうのではないだろうか。
何より自分に向けられていると思った恋情が、その奥に違う者が居ると知ってしまった時、それはどんな思いがするのだろう。
忋抖も啝咖もこれまで幾度となくそんな感情と視線に晒されていたのだ。
灶絃たちが何も知らなかっただけで。
「…やっぱりちょっと話してこようかな…」
小さな嘆息と共に呟いた灶絃に、ふふっと啝咖が笑うと付けられていた額がほんの少しだけ離された。
「…駄目だよ?慣れてるから怒んないでって言ったでしょ…」
「…慣れるなっても言ったよね?」
元々、怒るなというのは無理な話しなのだ。敬愛する母を愚弄し大切な姉の心を抉った。それだけで灶絃にとって万死に値する。今すぐにでも啝咖を泣かせた相手を引き摺り出して、声が枯れるまで侘びさせてから髪の一本さえ残さないように焼き尽くしてやりたい。そうしていないのは今ここに啝咖を1人残していくことなど出来ないからだ。
「…今はしないって」
「…後からも駄目だからね…」
「…それは約束できないかな?」
「…だから優し過ぎるのよ、灶絃は…」
嘆息した灶絃に小さく笑うと啝咖の腕の力が抜けた。ずるずると半ば倒れ込むように身体を預られて灶絃も半身を起こした。啝咖の顔が湯に沈んでしまうのを防ぐ為だったのだが、預けられた身体を見て灶絃は上を仰いだ。
そうだった。
いろんな事が重なり過ぎて、すっかり頭から抜け落ちていたが啝咖は裸だった。少しでも距離を取っていれば立ち昇る湯気で視界も遮られただろうが、ここまで身体を寄せられては見ないようにしても見えてしまう。
だから胸当てと腰巻きくらいは後で取れと言ったのに。
「あー、…姉様」
はあ、と両手で顔を覆ってから灶絃が声をかけると返事の代わりなのか啝咖が胸に擦り寄ってきた。
「とりあえずここから出ようか」
「…何で?」
きょとりとした声で聞き返されたが灶絃には啝咖を見る事が出来ない。
「いや、すっかり忘れてたけどここ湯殿だったんだよね」
「ああ、灶絃も衣脱ぐ?このままじゃ寛げないよね」
「違う!違う!!」
ほんの少し身体を離した啝咖は止めるのも聞かず、あっという間に灶絃の上衣の紐を解いてずらしてしまう。抗いたくても灶絃の手は顔を覆うことで精一杯だ。
「湯に入ってるんだから脱いだほうが気持ちいいのに」
袖が抜けないことに不服そうにしながら啝咖は露わにした灶絃の胸にまた身体を預けてしまう。強過ぎる酒に熱い湯、極め付けが一糸纏わぬ姿の女から身を預けているとなれば、灶絃の理性も容易く崩れ落ちてしまうかもしれない。
姉!姉様だから!
触れ合ってしまった肌からじんわりと滾る熱が灶絃の身体に広がるが、ひたすらに自分に言い聞かせて耐える。
「姉様、ほんっと勘弁して。傍に居てほしいならちゃんと共寝するから。…流石にこの状況は障りがありすぎる」
「幼子の頃はずっと一緒に入ってたじゃない」
「それはそれ、あの時とは姉様も俺も違うでしょうに」
頼むよ、と懇願する灶絃にきょとりとしたままの啝咖が尋ねる。
「それは灶絃は私を女として見れてるってこと?」
「この状況でそう出来ない男がいたらお目にかかりたいくらいだよ」
「母様に似てるからじゃなくて?」
「今俺の前に居るのは姉様だよ?何で母様が出てくるんだよ。第一、俺は姉様と母様が全く違うってことくらい嫌になるほど知ってんだって。だからお願いだから今はちょっと離れてくれると有難い」
ふつふつと湧き立ってくる身体の疼きを逃がそうと大きな息をくり返す灶絃の手に啝咖の手が重なった。
「灶絃、あんたは本当に優しいね」
「姉様、先刻からそればっかり。とりあえず離れようか」
別のことでも考えて気持ちを逸らそうとした灶絃の上で啝咖が動いたのは分かったが顔を覆った手を取ることは出来そうにない。
「灶絃…、慰めてよ」
「それならもうやってる」
「そうじゃなくて…」
顔を覆っていた手が啝咖によって取り払われると目の前に湯で火照ったしなやかな肢体が飛び込んだきた。瞬時に跳ね上がる衝動を懸命に抑えこむ。
「今だけで良いから慰めて、灶絃…」
涙の乾き切っていない啝咖の目は湯で温まりすぎたのも相まって、とろりとしている。掴んだ灶絃の腕を身体に廻されて灶絃の奥底で何かが跳ねた。
「お酒の責にしてくれていいから。今だけ私の我儘に付き合って」
するりと頬を包まれて灶絃は大きく息を吐くしかできなくなる。この状況で耐えられる者がいるなら会ってみたい。
「姉様はそれで良いの?酔いが冷めたら後悔するんじゃない?」
「私がお願いしてるのに?灶絃が辛くならないかのほうが大事なことよ」
潤んだ目で乞い願われて誰が否と言えるというのだろう。もう一度だけ大きく嘆息した灶絃は啝咖の身体に廻されていた腕に力を入れて引き寄せる。
「酒の責にする気なんてないけどさ、こんな良い女のことが分からないなんて、正直姉様の今までの相手に同情するよ」
目の前に見えた唇に触れるように口付けると頬を包んでいた啝咖の腕が灶絃の首に廻された。初めはただ触れるように、次には啄むように繰り返される口付けが深くなるにつれて啝咖が灶絃に強く抱き付く。唇から頬へ瞼へと口付けながら啝咖の身体を少し引き上げる。首筋や胸に舌が這うと啝咖が震えて甘い声がした。灶絃の手が探るように動き始めると合わせるように啝咖の声も漏れて、動くたびに湯を叩く音がする。灶絃に跨ったままの足の間にそっと触れてゆっくりと擦ると啝咖が息を呑む。沿わせた指をゆっくりと啝咖の中に入れていくと、肩に当てられていた手に力が入った。くるりと中に入れた指を動かし始めると堪えるような啝咖の喘ぎが聞こえ始めて灶絃は苦笑してしまう。
「堪えるなってば」
空いている手で啝咖の頭を引き寄せて深く口付けると舌を絡ませて弄んでいく。啝咖の中に入れた指も動かし続けると重ねた唇の隙間から誘うような声が漏れ出した。
「寝所に行く?」
触れ合う程度に唇を離して尋ねる灶絃に啝咖が首を振った。
「今はここでいい」
「今は、ねえ…」
返された言葉が思いの外に可愛いらしくて笑ってしまうと縋るように口付けられる。口付けは続けながら一旦中に入れていた指を出して、身体が離れないように抱えると湯殿の縁に啝咖を横たえる。手早く衣を脱ぎ捨ててからもう一度啝咖の中に指を入れて、今度は勢いをつけて中をかき混ぜるとしなやかな身体が大きく震え出した。重ねていた唇を離すと啝咖は自分の指を噛んで声が響かないようにした。その姿に灶絃も嘆息してしまうが身体をなぞる唇に熱い息が合わさって、余計に啝咖が震えている。
充分魅力的だと思うけどなあ。
片膝を立てて灶絃が与える快楽に耐える啝咖の脚の中心に吸い付くとくぐもった声がした。
「堪えるなって言ってんのに」
腕を伸ばして啝咖の手を外しながら足の中心を舐め上げる。
「…やっ!そこで喋んないでっ」
「言うこときかないならお仕置きがいるだろ?」
啝咖の腕を自分の肩に乗せさせて再び灶絃がそこに吸い付くと啝咖の甘い声をようやく聞くことが出来た。指を出した代わりに舌で中をかき混ぜながら、そこが閉じないように両手で開かせておく。
「…待って、待って、待って、灶絃っ!」
嬲る勢いを強めると喘ぎの中から止める声がした。反り上がる身体に呼応するように灶絃の肩に爪が喰い込んだ。気に留めることもなく強く吸い付くと啝咖の身体が大きく跳ねる。跳ね終わらない内に指も入れてより速く嬲ると幾度も幾度も啝咖の身体が跳ね返る。甘い声しか出せなくなった啝咖の手が肩からぱたりと落ちると、強く吸い付いてから灶絃もそこから離れた。
「…灶絃、口付けて…」
果て過ぎて力が入らないのか震える手を伸ばして乞われて、ははっと灶絃も小さく笑ってしまう。
「いいよ?」
乞われるままに軽く口付けてやると首に腕を廻して深く、とせがむ。
「こっち?」
求められるまま深く口付けると啝咖から舌を絡ませてきた。応えながら啝咖の中に入るためにあてがうと、びくり、と啝咖の身体が震えたのを灶絃は見逃さなかった。
「やめる?」
ここまで来てやめるのも拷問に近いが少しでも啝咖が迷うなら、この先には進まない方がいい。そう思ったのだが啝咖は勢いよく首を振った。
「そうじゃなくて…」
「うん?」
「こんなだと思ってなかったから、…その…寝所がいいなって…」
「ん?」
荒れた息の間から出された可愛いらしい願いに灶絃はきょとりとしてしまったが、照れたように目を伏せる啝咖の姿に笑いが込み上げてしまう。
「すっごい可愛いお願いだけど無理」
「えっ?灶絃?」
戸惑う啝咖の額に口付けながらもう一度当てがう。
「今はここがいいって言ったのは姉様だろ」
「…言った」
「だろ?だから聞いてあげない」
ゆっくりと押し入り始めると啝咖も息を呑みながら灶絃の背にしがみついてくる。進んでいく灶絃に啝咖の中がうねりながら絡みつくと、ぴりりとした痺れが走った。ん?、と違和感を覚えはしたが不快なものではない。そのまま全て入り込んだ瞬間、弱い痺れだったモノがほんの僅かな痛みに変わって灶絃の身体を駆け抜けると、啝咖も腕の中で小さく呻いた。
「姉様、大丈夫?」
頬を包んでやると瞼が上げられて灶絃を捉えると小さく微笑む。
「いつもと違う、…けど…」
言い淀んだ啝咖の脚がもじもじと動いて灶絃の身体に触れてくる。
「あー、はいはい」
そんなことよりもはやく動けということだ。
頬を包んでいた手を解いて硬い床から浮かせるように啝咖の身体に腕を廻す。強く抱き締めてからぐっと押し進むと啝咖から甘い声が出るが互いが感じた痛みも痺れも、もうない。
「身体が辛くなったら言って」
伝えた灶絃に啝咖が頷くのが合図だった。激しく突き上げ始めると啝咖の喘ぎが狭い湯殿に響く。しがみつかれた背に灶絃が突き上げるたびに爪は喰い込み細い脚も逃がさないとでも言うように身体にしがみついてくる。その姿はいつも奔放に見せている啝咖からは想像も出来ないくらいに愛らしい。片手だけを解いて快楽に悦がる頬を撫でると啝咖も腕を解いて両手で灶絃の顔を引き寄せた。貪るように口付けられて苦笑してしまうが可愛いらしいから許せてしまう。
口付けるたびに締めつけも強くなるが、唇を離そうとすれば追い求められるのだから止めるわけにもいかない。頬を撫でていた手を滑らせて繋がっている処を一緒に攻めると、くぐもった声と共に啝咖の身体が跳ねた。口付けていなければ離れていたであろう身体を、更に深く口付けて留めながら灶絃もますます動く速さを上げる。幾度も跳ねる身体を押し戻し続けていると一際強く反り返った啝咖が激しく灶絃を締め付けた。持っていかれないように腹に力を込めてどうにか堪えたが、代わりに唇が離れてしまった。
「姉様、締め過ぎ」
だらりとした啝咖の胸に吸いつくと赤い跡が残る。
「やだ、やめないで」
動きを止めるしかなかった灶絃の腕を啝咖が掴む。力の入らない半身を起こして擦り寄られては灶絃も堪ったものではなくなってしまう。
「やめるつもりはないけど、どれのこと言ってんのかな?」
起こされた半身を支えて座ろうとした灶絃が意図せず中から出てしまうと、やあ、と焦ったように啝咖は自ら灶絃を受け入れた。あまりの慌て振りと一気に中まで入らされた刺激で、啝咖の最奥に当たって灶絃も欲を吐き出してしまった。
「…嘘お…」
吐き出された欲を震えながら受け止めている啝咖が灶絃にぎゅうっと抱きついてくる。
「やめないで」
「だからやめないって言ったでしょうに」
荒れ果てた息の中から訴える啝咖の背をぽんぽんと叩いて灶絃が嘆息すると、ますます強く抱きつかれてしまう。
「ぎゅうってしてよ、灶絃」
「はいはい」
願われるままに抱きしめてやると腕の中で啝咖は、ほうっと安堵している。背中を叩いてやりながら啝咖の髪に顔を埋めると、啝咖もより灶絃の胸に擦り寄ってきた。
「寝所に行く?」
「…行く。でも出ちゃ嫌だ…」
「そんな無茶な…」
とんでもない要求に灶絃は苦笑してしまうが啝咖は嫌だと訴え続ける。
「寝所に行くまでだよ?」
「絶対、嫌」
「そうは言われてもなあ…」
やれやれ、と肩を落としてから繋がったままで灶絃が立ち上がる。抱き上げられた啝咖が落ちないように支えながら寝所に向かうと歩くたびに耳元で甘い声がした。よいしょ、と寝所に座るとその刺激で啝咖が果てている。しがみつかれる力がほんの少しだけ緩んだのを見て灶絃が啝咖を押し付けると喘ぎと共に細い身体が反った。上向いた頬に口付けると首に腕が廻された。
「まだ、沢山して」
誘う唇を啄むと、もっと、と強請られてしまう。ふはっと、笑いながらもう一度頬に口付けると愛らしいと思う気持ちが強くなる。
「いいけど、どれがいいの?」
悪戯に笑って尋ねると動けないように顔を包まれた。
「全部。灶絃の全部が心地好い」
「それはどうも」
「…私が起きるまで出ていかないで…」
「どうしてそう無茶なことばっかり…」
項垂れる灶絃の顔が引き寄せられて深く口付けられる。
「駄目よ?出ないって言って」
とろりとしたまま目を潤ませた啝咖の姿に灶絃は頬を掻くしかできない。
これからまた情を交わせば1度や2度では終わらない。何より先刻ので終わったと思われるのも癪ではある。とはいえ目覚めるまで出るなというのは無理があるというものだ。
無理があるのだが。
どう考えても答えは分かっているが、今はこの蠱惑的な女を堪能してみたい。
うーん、と考えてから灶絃は啝咖を押し倒した。
「仰せのままに」
諦めた灶絃の下で破顔する啝咖が手を伸ばして、はやく、とせがむ。
まあいいか。
思い直した灶絃は啝咖の求めに応じて深く口付けた。
お楽しみいただけましたか?
読んでいただきありがとうございました。