唯一【漆】《ユイイツ【シチ】》
遅くなりました。
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隊舎の窓から見える月を眺めて、終わったあ、と灶絃は大きく伸びをした。安穏を築かれている里とはいえ民達が平穏を享受し続ける為には見廻りは欠かせない。廻ることで民達と話し日々の暮らしがつつがなく過ごせているか確かめる、それも里を護る近衛隊としての大切な務めのひとつだ。長の護衛が近衛隊の主たる責務だが、その長である悧羅が民の暮らしぶりに大きな貧富の差が出ること厭うからだ。東王父からの呪を受けたときに目の当たりにした民の困窮を悧羅はそのままにはせず、荊軻に調べを進めさせ呪が身体を蝕むまで自ら里に降りては話を聞いていた。
「民為くして長に在らず」
悧羅が常々口にしている言葉だが、その言葉に偽りがないことは子である灶絃がよく知っている。里に降りれば民と同じ目線に膝を折って話し、その背中には童達が飛びついてしまう。学んだ史実の中でもそんな長など居はない。長とは里において何よりも高貴で尊ぶべき方であり、直に話すなど、ましてやその身体に触れるなど一介の鬼に許されることではない。許されることではないのだが、悧羅にとっては民達と言葉を交わし暮らしぶりを見れることの方が大切なのだと、幼い頃からよく言って聞かされていたものだ。
幼い頃や近衛隊に入隊する前には灶絃も強請って共に行っていたが、最初は妲己から降りる悧羅に飛びついてくる童達や、嬉しそうに周りを取り囲む民達の姿に驚いた。それでも幼心に民達が悧羅を慕ってくれているのが分かって誇らしくもあった。灶絃が共に行くようになったときには当たり前のような悧羅の姿が当たり前ではないと気付いたのは学舎に通い始めてからだった。嬉そうに民と触れ合う悧羅が気軽に1人で里に降りることができるようになったのには紳の助力があったということも後に知った。
ちらりと視線を隊舎の奥に移すと報せを認めている紳の姿が目に入る。卓に積まれた文書の山に埋もれながら、宮に帰りたい、とぼやいている姿に苦笑してしまうが悧羅のこととなれば何をおいても叶えようとする姿勢は好ましい。それだけ紳にとって悧羅が大きな存在だということも知っている。知ってはいるが時折はその深い愛情を悧羅もよく受け止め切れるものだと呆れてしまうことがあるのは否めない。子としては親の仲が睦まじいことは素直に喜ばしいし、それが紳なのだから仕方ないとも半ば諦めてもいる。まあいいか、と思い直して灶絃は紳の卓の前まで歩を進めた。
「父様まだ終わりそうにないんだろ?先に帰るよ、俺」
近付いた分、積まれた文書の多さがよく見えて小さな笑いも出てしまうが、手伝おうなどとはおいそれと言い出せない。ここにあるものは隊長である紳の認めが必要なもので、部隊長である灶絃たちが一度目を通した後に上げたものだからだ。とはいえ日々卓に向かってだけいれば片付く筈なのだが、紳の務めは卓に張り付いてばかりもいられない。宮の膝下でもある里の中心の見廻りには必ず出向くし隊士達への鍛錬もある。務めが多いのもあるが文書の確めが滞るのはそれだけが原因ではない。休憩と称して一日に幾度も悧羅に会いにいくからだ。とはいえ、それをやめさせようとすれば拗ねてしまって余計に務めにもならないことも分かっている。それだけ里が安泰だということでもあるので、まあいいかと思ってもいるのだが余り紳に甘いことを言おうものなら御目付役の啝咖や皓滓に叱られてしまう。灶絃としては悧羅の側に少しでも戻りたい気持ちも分からないでもないので紳の味方をしてやりたいのだが姉兄を敵に廻すと後が怖いのだ。
「ええ?灶絃まで帰るって今何刻?」
「戌の刻はとっくに廻ったよ」
応えると、嘘だろ?、と慌てたように紳が文書から目を上げた。そのまま窓の外を見やると高く昇った月を見留めて頭を抱えている。
「うわあ、やばいな。そろそろ戻らないと悧羅が待ってるじゃないか」
「だろうね。先に戻ってそろそろだって伝えようか?」
慌てて卓の上を片付け始める紳を見ながら苦笑すると、うーん、と何やら悩みながら隊舎の中を見廻している。とはいえ残っているものなど数えるほどしか居ない。だからこそ灶絃も砕けた話し方が出来ているのだ。残っていた数人の隊士達に戻るように伝えてから紳も立ち上がって大きく伸びをしている。
「いいや、悧羅のとこにはすぐに戻るよ。お前が伝えてくれたって言う事聞かないだろ?」
「いつものことでしょうが。心配しなくても誰かは側にいるでしょ」
紳が戻るまで悧羅が縁側で待つのはいつものことだ。あまり身体を冷やすものではないと言うのだが悧羅は、どうということはないと聞いてはくれない。少し触れれば容易く手折れてしまいそうな母が心配で子どもたちの誰かは必ず側に居るようにはしている。というのは建前で本当は誰もが少しでも悧羅の側で過ごしたいだけという方が正しいだろう。
「それはそうなんだけど今は皆忙しくしてるからな。早く戻って引き取らないと無理させたくないなあ」
「あー、父様?そこは大丈夫だと思う。むしろ遅く帰ってもらった方が俺たちは母様と長く過ごせるから嬉しいし、何なら一晩二晩くらい隊舎に詰めてもらっても構わないって皆思ってるから」
「酷い…」
大袈裟に肩を落としてみせる紳を置いて、じゃあね、と踵を返すと灶絃は隊舎を出ると宮に向かって翔けだした。里の灯を見下ろしながら暫く翔けると山の中腹の宮までなどあっという間に着いてしまう。そのまま高度を下げて中庭に降り立つと、いつものように縁側に腰掛けている悧羅が見えた。隣には玳絃の姿もあるということは、今日の御目付役は玳絃が勝ちとったようだ。
「お戻りやし」
穏やかに微笑んで手招きされて、つい灶絃も小走りに駆け寄って抱きついてしまう。
「ただいま、母様」
「おやまあ、幼子のようじゃ」
くすくすと笑いながらも悧羅が優しく抱き返してくれると、ふわりと温かな香に灶絃は包まれた。既に悧羅の背丈を超えた齢300にもなろうとする灶絃がこうして抱きついても悧羅は当たり前のように受け入れてくれる。務めとはいえ少しばかり張り詰めていた気持ちがほろりと解れていくのを感じながら灶絃は悧羅から身を離すと縁側に腰掛けた。
「あれ?今日はもうお終いでいいの?」
悧羅の向こう側からきょとりとした声で玳絃が尋ねてくる。
「母様が汚れるからね」
「珍しい。いつもそんなこと気にもしないじゃないか、ねえ妲己?」
“ほんに。何やら灶絃若君らしからぬような”
驚いたような2人に何でもないと笑ってみせるが逆に体調が悪いのではないかと心配されてしまう。
「だって父様がもうすぐ帰ってくるんだもん。母様に引っ付いてたら放り出されるだろ?」
言いながら灶絃が苦笑すると、ああねえ、と玳絃と妲己が納得したように嘆息した。
「俺だって母様をたまには独り占めしたいけどさあ。疲れてんのにこれ以上母様の取り合いで父様と争うなんてごめんだよ」
肩を竦めてみせる灶絃の横で悧羅はくすくすと笑いながら、ぽんぽんと自分の膝を叩いている。
「ほれ、おいでやし灶絃」
「母様、それはすっごい誘惑なんだけど?」
すぐにでも飛びつきたい気持ちを必死に堪える灶絃の姿が余程可笑しいのか悧羅もますます笑いを深めた。
「なにを堪えることがある?灶絃が妾に甘ゆることを誰が咎められようか」
「まあ、そうなんだけど」
「灶絃らしゅうおってくれねば妾が淋しゅうなるえ?」
ほれほれ、と膝を示され続けて灶絃も苦笑してしまう。この歳で母に甘え続けるのも如何なものかとは思うのだが、どうこうしたところでこの母に敵うはずもない。
「それもそっか!」
ふはっと笑ってごろりと悧羅の膝に頭を預けると安堵したような嘆息が玳絃と妲己から聞こえてくる。何やら妙に心配されているのは不本意なのだが悧羅の膝を占有できるのならそれでもいいか、と思えてしまう。額を撫でてくれる悧羅の手が心地良くて身を委ねていると、ええ?、と紳の声とともに中庭に降り立つ音がした。
「何で俺の場処が取られてるんだよ?」
悧羅たちから迎えの声を掛けられながら近付いてきた足音が灶絃のすぐ側で停まると額を、ぴんっ、と弾かれた。いてっ、とぼやいて瞼を上げると小さく笑ったままで紳が灶絃の頭を撫でた。
「玳絃が一緒に居てくれたのか?ありがとな」
「まだ遅くったって良かったのに。灶絃じゃないけど俺だって母様と一緒に居たいんだからさ」
灶絃の頭を撫でながら紳が礼を言うと玳絃が残念そうに肩を竦めて見せた。
「…何だか近頃子どもたちが俺に冷たい…。悧羅だけじゃなくて少しは俺にも一緒に居たいとか言ってくれないのかよお…」
「だって父様とは務めでずっと一緒じゃないか。離れて淋しいとか思う暇も無いんだもん。でも母様とはなかなか一緒に居れないからね。それこそ独り占めなんて、そうそう出来ないからさあ」
「そりゃそうだろうけど何か俺だけ除け者にされてる感じがするんだよなあ」
その場に蹲って大きな嘆息を落とす紳に、ざまはないな、と妲己が大きな尾を振りながら笑っている。
「そんなに落ち込まなくても…。父様が大事じゃないって訳じゃないんだから。なあ、灶絃?」
笑いを堪えながら玳絃に話を振られて灶絃も、うん、と応えながらごろりと身体を横に向けた。顔が悧羅の腹に付くと腕を廻して細い身体に擦り寄った。
「父様がずっと母様を独り占めするから俺たちは母様不足なんだよ。たまには甘えさせてもらわないと折角産んでもらったのに民達より遠い時があるんだもん」
ぎゅうっと悧羅に抱きつく灶絃の頭は変わらず紳と悧羅の手で撫でられ続けている。より近くで悧羅の匂いに包まれると、ほうっと心の底から安堵の息が漏れてくる。つい漏れてしまった灶絃の本音に玳絃が、分かる、と同意すると悧羅は、おや?、と首を傾げた。
「母様は長だから民達を大事にするのは分かるんだよ?そうでなきゃ母様じゃないっても分かるんだけど、たまに淋しくなるんだよ」
玳絃の言葉に悧羅と紳が目を合わせて悧羅にしがみついたままの灶絃に落とされる。ぽん、と2人から身体を叩かれて仕方なく灶絃もずっと呑み込んでいた思いを吐き出さざるを得ない。
「母様の1番は父様で2番目が民達で…。俺たちは3番目なんだろうなって思っちゃうんだ」
ますます悧羅の腹に顔を押し付けながら嘆息する灶絃を撫でる手が一瞬止まったけれど、すぐにそれまでよりも優しく2人の手が動き始めた。
「馬鹿だなあ、お前らは俺と悧羅の宝なんだぞ?順番なんて付けられる筈もないし、誰かと比べるなんて考えたこともないよ?」
「それは皆分かってるんだけどね?いい歳した鬼なんだし父様と母様がそんなふうに考えてないってのもちゃんと知ってるんだけど。たまにはただの子どもとして2人の側に居たいんだよ」
「2人っていうか出来れば母様とね。父様は何だかんだ言っても務めの時だろうと、ちゃんと父様の顔になってくれるから。俺たちもそれに甘えてるとこあるし」
ふふっと笑う玳絃に今度は紳が首を傾げた。
「務めでは贔屓してないぞ?お前らが精進して力を付けてくれたから副隊長なり部隊長なり任せてるんだからな?」
実際のところ務めに於いて子どもたちを贔屓しているとは紳は思っていない。紳と悧羅の子であるから素質は充分に身に宿してはいただろうとは思う。けれど身に宿した素質だけならば一本角の民達と何ら変わりはしない。悧羅は兎も角として紳は元から強かったわけではないし事実強さに然程拘りもしていなかった。ただ強さが必要になったから、ひたすらに鍛錬を重ねた結果、ようやく近衛隊の隊長に就くことが出来ただけだ。だからこそ素質があろうと開花させるには己自身の気持ちと、それに見合うだけの努力が必要だと痛い程に知っている。子どもたちが産まれた時から背負わせてしまった重圧に潰されないように、その思いを振り払うように、其々が鍛錬を重ねていることも。その努力が実を結んだだけだと考えていたがそうではないと周りからは見えているのだろうかと不安になる。
頭を抱えた紳を、馬鹿者が、と妲己が尾で叩くと玳絃も堪え切れずに吹き出している。
「そんなこと思ってないしそんなことする父様じゃないでしょ?近衛なんて母様を護る前線に力の無い奴を就けるなんて父様がしたくても荊軻さんたちが許さないだろ?」
「それはそうだけど」
「そうじゃなくて俺たちがきつい思いしてる時とかでも、父様はいつもすぐ側に居て見てくれてるからまだ甘えるのも我慢できるけど母様にはそう出来ないから、ちょっと淋しいってことなんだよ」
「なるほどねえ」
ちらりと紳が悧羅の膝の上を見るが灶絃は背を向けたままだ。
“姚妃姫君がお生まれになるまでは、玳絃若君と灶絃若君が末子であられた故。お2人とも主が恋しゅうなられたのだろうよ。我のように”
くっくっと笑いながら擦り寄られて玳絃もふふっと笑うが、灶絃は動かない。寝てしまったのか、と紳が悧羅に視線だけで尋ねてみたが小さく首を振られた。どうやら気恥ずかしいだけのようだが、しがみつかれたままの悧羅は何処か嬉しそうでもある。
「身体は大きゅうなれど妾にとりてはかけがえのない子であるというに。妲己とて何者にも変えられぬのじゃがのう…」
“存じ上げておりますよ?なれど我のように若君方が主の御側に侍れておるとは申せませぬでしょうや”
諭すような妲己に、それもそうか、と紳も少し考え始めた。樂采も八つになり昼間は学舎に通っている。とはいえ樂采の護りは睚眦が担っているし一昔前のように悧羅と妲己の2人の刻はとれてはいるのだろう。悧羅が里に降りる時は紳と妲己が共に行くし、ともすれば物忌みの間は妲己も寝所に来るようになっている。そう考えれば子どもたちが悧羅と過ごせる刻は妲己よりも少ないのだろう。
“紳が居れば主の御側近くには寄れぬ。それこそ我のようには、だ。それが為らぬということではないがな”
「…俺のだけどね?」
“たといえど、ということだろうに”
目を細めた妲己に紳も頭を掻いてしまった。確かにこれまでも、たまには悧羅を貸してくれ、と言われていた。都度、自分のだからと流していたが子どもたちは純粋に悧羅と過ごしたいと訴えていたのだろう。蔑ろにしていたつもりはないのだが、子どもたちからすれば長としてではなくただ自分だけの母として悧羅の隣に居れる刻を欲していたのだ。
「お前らも悧羅に甘えたいんだなあ」
小さく笑えてもきてしまうが、それだけ子どもたちは悧羅を支えにしているということだ。紳、と声を掛けられて悧羅を見ると穏やかに微笑みながら灶絃の髪を愛おしそうに梳いている。
「幾つになっても母親は特別ってことなんだろうね」
「父も、であろうて」
くすくすと笑う悧羅の額に口付けてから紳も灶絃の頭を、ぽんっと撫でた。紳も悧羅も早くに父母を亡くしたから恋しいとも思わない。あの荒れていた状況では亡くしたことを哀しむ余裕もなかったというのが正しいが、だからこそ子どもたちの思いに気付くのが遅くなったのは否めない。自分たちが通ってきた道ではないから意識が向かなかったとも言えるが、それで子どもたちに淋しさや我慢を強いるのは紳も悧羅も本意ではないのだ。
どれだけ歳を重ねようと、大切な子たちであることは変わらないのだから。
「まあ、悧羅は俺のなんだけど玳絃や灶絃にとれば大事な母親だもんなあ。…じゃあとりあえずもう少しだけ待てるか?1人ずつ悧羅と十分に過ごせるように刻とれるようにしてみる」
ぽんぽん、と紳が灶絃の身体を叩くと、え?、と灶絃が顔を向けただけでなく玳絃までもきょとりとしている。
「悧羅の側は癒やされるもんな。お前たちだけじゃなくて子どもたちや舜啓たちまで手を挙げるだろうから務めの中身を見ながらになっちゃうけど、さしずめ7日くらいずつあればとりあえずは足りそうか?」
「足りるも何も…。それは昼間母様を独り占めしてもいいってこと…?」
「そうだけど?だってそうしたいんだろ?」
きょとりとしながら、当たり前だと応えた紳に玳絃は身を乗り出し、灶絃は勢いよく悧羅の膝から飛び起きた。
「「いいの!?」」
嬉々として輝き始めた2人の倅の顔に、本当に我慢させていたことが見えて紳も苦笑してしまうしかない。
「お前たちも色んなことを背負って頑張ってるからね。たまには御褒美ってことでもいいでしょ。もちろん悧羅がいいならだけど…。どうする?」
聞くまでもないことだが一応尋ねてみると鈴を転がすように悧羅も笑ってくれている。
「子らと共に居れるなど妾への褒美ではないかえ?」
「だろうねえ。まあ悧羅と過ごした後は俺にも少しは構ってくれるようになると嬉しいけどね。さしで呑みに行くとかさ」
「それは別にいつでも良いけど。夜は寝所に籠るから声掛け辛いってだけなんで。父様とだって話したいこと一杯あるし」
余程嬉しいのか身体を震えさせている玳絃と灶絃の頭を紳は優しく撫でた。
「夜くらいは俺に返してもらわなきゃ。共寝がしたいなら昼寝でも一緒にすれば良い。王母様からの任を務めたって悧羅は昼間休んでくれないし、お前らが一緒に寝てくれるなら否でも休ませられるだろ」
「妾の務めなどさしたるものではないに。紳や子らのようにそうそう身体を行使うておるでもなし」
「ほら、これだもん。悧羅だってこいつらが甘えたいって言うんだから務めることもないでしょ?」
「…子らより先んじてせねば為らぬような務めなどないのう」
ふふっと笑う悧羅が是を示すと、うわあ、と玳絃と灶絃から歓喜の声が漏れた。まるで幼子のような2人の姿に紳も悧羅も妲己でさえも声を上げて笑ってしまう。
「ええ?どうしよう?母様とずっと一緒!?独り占め?!」
「それって宮の中だけ?里に降りてもいい?手を繋いで露店巡ったりしてもいいの!?」
喰らい付かんばかりの勢いで喜びを隠そうともしない玳絃と灶絃に苦笑しながら、紳は悧羅を、ひょいと抱えて座ると膝に乗せた。
「何がしたいかはお前ら次第だろ?お前たちがやりたいことを悧羅が拒むとは思えないもん。…里に降りたら囲まれるだろうけど、そこは悧羅がどうにかするでしょ、ねえ?」
ようやく悧羅に触れられて安堵しながら紳が擦り寄ると悧羅も廻された腕に手を重ねた。
「玳絃と灶絃が妾と居りたいと望んでくりゃるのなら、何事よりも先んじねばなるまいよ?何を共にしとうあるのか考えておくとよろしかろう。妾も楽しみにしておるとしようかの」
少し首を傾げて悧羅が2人を促すと、玳絃と灶絃が、やったあ!、と妲己に勢いよく抱きついた。飛び付かれた妲己もよい歳をした2人の男鬼を受け止めるために瞬時に体躯を大きくしている。
「うっわあ!妲己どうしよう!?」
「母様を独り占めなんて何年振り!?味方してくれてありがとう!!」
ぐいぐいと推し迫る2人に妲己も笑いを堪えられないようで、くっくっと目を細めている。
“若君方のお役に立てたのならばなにより”
あまりにもはしゃぐ玳絃と灶絃の姿に紳と悧羅も目を合わせてつい微笑んでしまう。
「あーあ、あんなにはしゃいじゃって…。ごめんね、悧羅」
「なんの、妾にとりても良きこと故。子らが務めてくりゃるようになってからは、ゆるりと共におれることもなかったでな」
「けどあれじゃあ悧羅の日みたいなのを作らされるんじゃないかって思っちゃうよね」
興奮冷めやらぬ2人と、それを尾で宥めている妲己を指さして紳が嘆息すると、悧羅も可笑しそうに笑う。
「紳の日、とやらもせがまれるやもしれぬよ?」
「そうであって欲しいんだけど…。やっぱりどうも俺の扱いが雑になってるような…」
やれやれ、と肩を落とした紳の膝の上で悧羅が身体の向きを変えた。向き合う形になると悧羅が手を伸ばして紳の頬をくすぐった。
「そのようなこと案じずともよかろうよ。子らも紳と居りとうあるのだろうが妾に気を遣うておるのであろ」
くすくすと笑う悧羅の額に口付けながら、だと良いんだけど、と紳は再び嘆息した。
「こいつらだけでこうなんだから、他の奴らに聞かせたら、もっと大騒ぎだよ、きっと」
早まったかな?、と苦笑しつつ紳が灶絃にとりあえず湯と食餌を摂ろうと促すと、そうだった!、と思い出したように湯殿に向かって駆けていってしまった。
「本当に童じゃないか」
まったく、と笑いながら紳も悧羅の手を引いて共に湯を使う。
「上がったら子どもたちに詰め寄られるだろうなあ」
「そのようなことなどなかろうよ?玳絃と灶絃も妾に気を遣うてくれておるのだろうて」
「…悧羅、それ本気で言ってる?絶対大騒ぎになるって」
きょとりとして言い放つ悧羅に呆れてぼやいた紳の読みは見事に的中してしまった。
遅い夕餉になってしまったので部屋で摂ろうとした紳を磐里と加嬬が笑いながら止めた。
「皆様まだお召し上がりになっておられますよ」
「待ってたってことじゃないんでしょ。やれやれだなあ」
はあ、と大きく嘆息しながら子どもたちの揃う部屋に入ると既に玳絃と灶絃から話を聞いたのだろう。悧羅を独占できる日という言葉に男たちが固まって箸を落としていたのだ。
「…悧羅を独り占め…?」
「…母様とずっと一緒?」
「…しかも7日続けて…?」
「え?何?紳くん大丈夫?病に罹ったりとかしてるんじゃ…?」
「ちょっと俺、荊軻さん呼んでくる!」
あまりの狼狽振りに予想はしていたものの紳も、ええ?、と苦笑せざるを得ない。慌てて部屋を飛び出そうとする憂玘の腕を、落ち着きなさい、と媟雅が引っ張ってその場に留めた。それでも女たちも男ほどではないのだが、それぞれにそわそわとし始めている。これでは話も出来ないと紳が手を繋いだままの悧羅を見ると、おやまあと小さく笑っている。どうやら悧羅が思っていたよりも子どもたちの反応が激しかったのが嬉しいようだ。先刻の玳絃と灶絃の姿を見ているのだからそれ以上になることなど紳からすれば容易く思い描けたが、悧羅からすればここまでとは思っていなかったのだろう。
どうにも自分を安く見るんだよなあ。
「だから言ったでしょ?」
「そのようだ。なれど妾などさして大した女でもあるまいに…。ほんに子らは妾に甘うあるのう」
こっそりと耳打ちした紳に悧羅はころころと笑うばかりだ。これは釘を刺しておかねば苦労するのが目に見えている。
「悧羅?分かってると思うけど忋抖だけだからね?」
もう一度耳打ちしてみるのだが悧羅は変わらずきょとりとしているままだ。もう、と肩を落としながら紳も席に着くと隣に座った悧羅は下を向いて肩を小さく震わせている。
「悧羅?」
声を掛けてみるが応えが返ってくるどころか繋いでいた手も離して悧羅は両手で顔を隠してしまった。
「え?ねえ?どうしたの?もしかして傷付けた?」
隠された顔を覗きこんでみるが悧羅は変わらず肩を震わせて小さく首だけを振ってくれた。ちらりと周りを見やると子どもたちの喧騒は未だ収まっておらずこちらに気付いてはいないらしい。ただ忋抖だけが悧羅の態度がおかしいことに気付いたのか訝しげな視線を紳に向けている。何をしたとでも言いたげな忋抖に、これはやばいと紳も焦る。隣で肩を震わせているのがもしも泣いているからだとしたら、紳が何と言おうとしばらく忋抖が悧羅を奪うだろう。動こうとする忋抖を手で制して他の子どもたちに気取られないようにしてから紳はもう一度悧羅を覗き込む。
「悧羅?違うよ?悧羅がそんなことするとは思ってないからね?悧羅じゃなくてあいつらの方が心配だって話なんだよ?」
こっそりとそれでも必死に弁明するが悧羅の震えはより大きくなり、くるりと身体の向きまで変えられてしまった。
「えっ!?嘘?ちょっと待って!?」
追いかけるように紳も悧羅の肩を掴んでしまう。
「ごめんって!ほんとにそんなこと全く!これっぽっちも!思ってないから!!」
掴んだ肩もまた悧羅が身体の向きを変えようと動くと外れそうになる。
「待ってってば!話!話聞いて!!」
引き溜める声がつい大きくなってしまったが仕方ない。すり抜けようとする悧羅の腕を掴んで胸に収めるのと、目の端で忋抖が動くのが見えたのは同時だった。
「何してんの?父様?」
「やばい…、俺言っちゃいけないこと言った…」
「は?」
つかつかと歩いてきた忋抖に泣きそうになりながら紳が悧羅に伝えたことを耳打ちすると大きな嘆息で返されてしまう。
「ほんっと父様って分かってるようで分かってないとこあるんだから。それ多分全部が見当違いだよ?」
腕の中でまだ震えている悧羅を忋抖に取られないように紳が力を込めるが、その隙間からひょいっと忋抖が悧羅の顔を覗き込む。
「あっちは大丈夫だよ、悧羅」
顔を覆っていた手を取りながら声を掛ける忋抖が次には、ふはっと噴き出した。
「ほら、父様。泣いてるんじゃなくてさ?」
促されて恐る恐る紳も覗くと取り払われた手の下で必死に声を殺して笑っている悧羅が見えた。
「え?悧羅?」
「…いや…、その、あいすまぬ…。ちいとばかり…」
ふっと漏て出る声を堪えようとするたびに悧羅の身体も震えている。隠されていた目がちらりと紳を捉えると、我慢できなくなったのか悧羅が噴き出してしまった。
「もう堪えきれぬ」
大声で笑いはしないがひたすらに笑い続ける悧羅の目に浮かび上がる涙を一緒に笑いながら忋抖が拭う。
「ほんとに父様には困るよねえ?なんでそんな斜め上の考えが出てくるんだか」
「…ほんに…、何とも愛らしゅうあるものじゃ…。すまぬの、紳。否と申そうとは思うたのじゃが、何とも可笑しゅうて声にすることすら難儀であった故」
ひとしきり笑って少し落ち着いた悧羅の手はまだ忋抖が包んでいるが、この際気にしている場合ではないだろう。
「怒ってたわけじゃないの?」
「何故に?」
ようやく悧羅が紳を見たが顔を見るとまた笑いが込み上げるのか、ふふっと視線を外された。
「悧羅に言っちゃいけないこと言った」
「何ぞそのようなことあったかえ?」
くすくすと笑い続ける悧羅からほんの一瞬視線を外して部屋の中を見ると、忋抖以外の子どもたちはまだ悧羅の日に何をしたいかで盛り上がっているようだ。これなら多少のことではこちらに気を取られることはないだろうと、紳も悧羅に視線を戻す。
「いや、ほら…。許してるのは忋抖だけだ、とかさ?」
「ようと存じておるよ?」
「疑われてるって思ったんじゃないかって…」
「いいや?何とも愛らしい悋気ではないか」
「傷付けてない?嫌いになったりとかもしてない?」
「あろう筈もなかろうて」
「じゃあほんとに可笑しかっただけ?」
ふふっと微笑みながら頷かれて、なんだよお、と紳の身体から力が抜けた。
「良かった…、俺また悧羅を傷付けたかと思った」
大きく深く息を吐いた紳の頬を悧羅も優しく撫でる。
「すまぬ、あまりに紳が愛しゅうあっての。そのようなことありはせぬと早う申せばよろしかったのだが。其方の悋気は心地良い」
「釘を刺したくなる気持ちは分かるけどね。だけど父様?心配しなくったってあれは俺とは違うよ?」
よいしょ、と座り直しながら忋抖が部屋の中を指さした。
「あいつらが持ってるのは憧憬。そんなの分かってるでしょ?何をそんなに不安になることがあるのさ?悧羅が父様から離れることなんて絶対無いのに」
はあ、と忋抖もまた嘆息して頬杖を付いた。
「悧羅だって父様の一言一言にそうそう傷付いたりしないって。むしろ父様が言うんだったら、何だって喜ぶと思うよ?ねえ?」
「そうさのう、紳であるならばどのようなことであれ愛しゅうあるだけじゃ」
「それは分かってるんだけど。悧羅をまた傷付けるようなことがあったら俺が自分を許せないんだよ」
「だーかーらー!心配いらないってば!」
もう!、と忋抖が繋いでいた手を離すと悧羅がそのまま紳を抱きしめた。
「昔のことがあるから父様が気負うのは分かるし、傷付けずに済むんならそれが1番だろうけど、今一緒に居れて最期まで手を繋いでいられるんだろ?悧羅がそうしてくれてるのが何よりの応えじゃないか」
忋抖の言葉に導かれるように悧羅が紳を抱き締める腕の力も強くなる。
「贅沢な悩みを見せつけるのやめてくれる?だいたい俺にこんなこと言わせるなんてどうなのさ?ほんっと勘弁してよ、泣きたくなる」
ああもう、と払うように手を振る忋抖に、悪い、と呟きながら細すぎる悧羅の身体に廻したままだった腕に紳も力を込め直した。
「あまり気負うてくれるなと随分と前に伝えておったのだがな。紳は妾のこととなればほんに脆くなる。それも妾を想うてくれておるからこそであろ?妾から離れることなど有りはせぬ。離れよ、と紳からどのように願われようとも否と童のように駄々を捏ねるであろうよ」
「それは俺も一緒だよ」
胸に擦り寄る悧羅の髪に顔を埋めると、ふわりとした悧羅の香が紳を包んだ。その香だけでほうっと安堵してしまうのだから、子どもたちが出来るだけ側に居たい気持ちは紳が1番良く知っている。
それが紳や忋抖が持つ想いとは別のものであることも、充分に。
「ほんとにこれ以上俺が絶対手にできないもので悩んだりしないでくれる?父様は悧羅の唯一無二、契りを交わした男なんだから、もっと自信持っときなって」
「「忋抖」」
やれやれ、と忋抖が立ち上がろうとするのを紳と悧羅が止めたのは同時だ。何?、と動きを止めた忋抖の手を取って悧羅が自分たちのすぐ側に座らせる。
「お前は俺にとって特別だぞ」
「知ってるけど?何を今更。俺だって父様は特別だよ?」
きょとり、としながらもう一度立ち上がろうとする忋抖の手を握る悧羅の手に力が込められた。まるでここから動くなとでも言いたそうな2人に、忋抖も諦めるしかなくなってしまう。仕方なくもう一度座り直した忋抖を見て、ほっとしたように紳と悧羅は小さく息を吐いた。
「もう誤解は解けたでしょ?俺が手伝えることなんてもう無いよ?それより俺もあっちに加わりたいんだけどなあ」
部屋の中では姉弟妹達の話が盛り上がっている。そちらに加わるほうが紳と悧羅の仲を取り持つよりも忋抖にとれば有意義なのだろう。隠さなくてもいい、皆に知らしめてもいいと紳も悧羅も事あるごとに伝えてはいるのだが、どうしても忋抖が首を縦に振らない。
きっとまだ紳と悧羅に要らぬ心労をかけると思っているのだろう。
今だってそうだ。
悧羅が関わっているとはいえ誤解を解く手助けなどせずにいれば、忋抖の利になっただろうに。
「おまえ、ほんと誰に似たんだろうなあ?」
逆の立場であったなら紳は忋抖のようにはできなかっただろう。
「はあ?先刻から何なのさ?誰がどう見たって父様でしょ。むしろ悧羅に似てるとこを探す方が難しいんですけど?」
もう!、と大袈裟に肩を竦めて見せる忋抖の前で悧羅が動いた。紳の手を離れた悧羅はそのまま流れるように忋抖を腕に包む。
「ええ?何?ほんとにどうしたの?」
咄嗟に抱き締め返したくなるのを堪えた忋抖の手が行き場の無さそうに宙に浮いているのが見えて、紳は笑えてきてしまう。この程度なら悧羅は子どもたちによくしているし、忋抖が懸念しているようなことは起こらないのに当の本人はそうでもないらしい。
「褒美だと思って受け取ってろよ。もう気付かれるから」
「何の褒美だか分かんないけど…、まあそういうことなら」
悧羅に包まれてしまった忋抖に紳の苦笑する声に混じって弟たちの叫びも聞こえてくる。
「兄様、狡い!」
「俺も!俺も、母様!」
ぱたぱたと近付いてくる足音に、ふふっと笑っているとぽんっと悧羅が背中を叩いた。
「忋抖は妾の唯一に等しゅうあるよ」
「はいはい、ちゃんと分かってるから気にしなくていいって」
浮かせてしまっていた手で忋抖が悧羅の背をぽんぽんと叩くのと、弟たちが周りを取り囲んだのは同時だったらしい。途端に賑やかになると小さな嘆息だけが忋抖の耳に残されて悧羅の身体が離れた。
「そのようなことではないのだがな」
嘆息と共に残された言葉の意味がよく分からなくて紳を見ると何やらにやにやと笑っているばかりだ。問い正したくても悧羅に群がる弟たちの前ではそれも出来ない。
考えていても分からないものは仕方ないし、妙なことを言い出さなければそれでいい。
やれやれと肩を落として忋抖は考えることをやめた。
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