唯一【陸】《ユイイツ【ロク】》
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冷たい水の中に揺蕩う感覚が、微睡みから浮き上がろうと踠く玳絃の意識をまた沈めていく。
目を開けなきゃ。
そう思うがどうしても上手くいかない。手も足も身体の全てが重くて、まるで自分の身体ではないような感じがしてしまう。湖の底に抗うことなく沈む意識の中でひとつの出来事だけが繰り返し頭に流れ込んでは消え、また流れ込んでは消えて行く。
今、この時に起こっていることではない。
忘れていたモノを教えるように、何度も見せられるそれはまるで大刀の刃の如く玳絃の罪を暴いていく。
口の中に広がる甘くて苦い蜜の味。
無理矢理に押し入らされた感覚。
痛みに震え涙ながらに詫びる姚妃の姿。
何を望むでもなく繋がりを解いた姚妃。
それに向けた玳絃の侮蔑と軽蔑の眼差し。
そして。
[ありがとう兄様。私に恋情を教えてくれて。兄様を好きになれて倖だったよ]
涙を溢しながら、それでも見惚れるほどの笑顔。
何度伸ばしても寸前で掴めない姚妃が見えなくなると、また繰り返しだ。
[兄様はこのことを忘れるけど、私は兄様への恋情を忘れるの]
遠く微かな声がずっと響いている。
何度も何度も見せられる度に、どうして、という思いもとめどなく湧き上がる。
姚妃がここまでのことをしなければならなかった理由。
あまりにも明白なその理由から目を逸らしたくなる。
長い間恋情を伝えられていた。
契りを結んでずっと傍に居たいと願われていた。
真っ直ぐに、純粋に。
それを玳絃は見ないフリをし続けたのだ。
認めたくなかった。
幼さの残る妹が拗らせただけだと思いたかったから。
見たくなかった。
伝えてくれる言葉の中に本気の熱が宿っていたから、
信じたくなかった。
迷惑だと、煩らわしいと感じていたから。
ちゃんと向き合って、伝えられる想いを受け止めて真摯に話していたなら何かが変わっていたかもしれないのに。
兄としてだけじゃない。
男しても玳絃は最低だった。
あんな表情をさせたかった訳じゃない。
泣かせたかった訳でもない。
何よりも誰よりも大切な妹だから。
何よりも誰よりも倖になって欲しかった。
ごめん。
姚妃の姿が手を擦り抜けていく度に、玳絃は詫び続けるしかできない。
どれ程に悩んでいたのだろう。
どれ程に傷付けていたのだろう。
どれ程の覚悟であの夜玳絃の元に来たのだろう。
情けだと思われても一度だけでも慈しんでやれば良かった。
そうすればやり場のない姚妃の想いも少しばかりは汲んでやれたかもしれない。
玳絃への身を焦がすほどの恋情に区切りを付ける手助けくらいはしてやれたかもしれない。
ごめん。
本当にごめん。
馬鹿なのは俺の方だった。
今度はちゃんと向き合うから。
姚妃が前を向いて歩き出せるまで、逃げずに護り通すから。
―――――だから―――――。
伸ばした手がまた姚妃を擦り抜けた刹那、沈むばかりだった身体が勢いよく引き上げられた。
「姚妃!!!」
発した声の大きさで玳絃は目を覚ました。まだ夜更であるのか見える景色は仄暗く、部屋のなかでぼんやりと灯が揺らいでいるのが目の端に入ってきた。静寂しかない部屋の中で玳絃の荒れた呼吸の音だけが響く。無意識に伸ばしてしまっていた腕を戻しながら玳絃は身を起こした。荒れた呼吸を整えるために大きく息を吐く。
「…ほんっと俺ってどうしようもない…」
立てた膝に頭を乗せて玳絃は自嘲する。
悧羅に忘れていることを取り戻してもらったのは四月前だ。それからずっと眠りにつく度に同じ画を見続けている。何度も繰り返し見せられて都度弾かれるように飛び起きてしまう。起きた時に襲ってくる後悔も罪悪感も日を追う毎に強くなり、冷たい汗が身体に纏わりついているのにも慣れてしまっている。
小さく震えている拳をぎゅっと握るとまた深く嘆息してしまう。
初めてこれを見せられた日のことは今でもはっきりと思い出せる。心の臓は破れるのではないかと思う程に強く速く打ち付け、迫り上がってくる震えは玳絃に呼吸することさえ許さなかった。叩き付けられる心の臓が痛くて苦しくて胸を抑えて倒れ込むしかできず、とめどなく溢れてくる涙で苦しさが増した。それでも己の身に降り掛かったことであれば、どれだけでも受け入れる覚悟で思い出したいと願ったはずだった。
けれど突き付けられた真実は容赦無く玳絃の心を抉り続けている。
許せなかった。
許してはならなかった。
姚妃ではない。
玳絃自身が許されないことをしていたのだ。
玳絃がこれから先どれ程の痛みを背負おうと、どれ程の苦しみの中に身を投げようと、姚妃に強いてしまった辛酸を無かったことにはできない。
それでも。
姚妃が思い出してしまった時に傍に居るのは玳絃でなくてはならない。
苦しみと自責に押し潰されそうになった時は手を繋いで大丈夫だと、心配しなくていいと言ってやらなければならない。
また笑ってくれるようになるまで。
そう、決めたのに。
「…情けないよなあ…」
三度嘆息して玳絃は額を膝により押し付けた。すべて思い出したら代わると大口を叩いておきながら玳絃はまだ姚妃を手元に置けていない。あの朝、玳絃の顔を見た忋抖はただ頭を撫でてくれた。
「もうしばらく俺に貸してくれる?」
甘えてはならないと分かっているのに玳絃は否と言うことができなかった。本当ならすぐにでも手元に戻させてくれと願わなければならなかったのに、そうすることができなかった。あの日玳絃の表情を見た忋抖は、今の玳絃には背負いきれず、ともすれば玳絃自身も壊れると思ってくれたのだろう。
それからずっと忋抖の優しさに甘えてしまっていた。
いつまでもこのままではいけないと分かっている。いつ姚妃に掛けられている呪に綻びが生じるかなど誰にも分からないのだから、一日でも早く傍に居てやらなければならないのに。日が経てば経つだけ余計に言い出し辛くなってきて、もうその機会が何時であるのかさえ玳絃には分からなくなっている。
「…どうしたら良いんだよ…」
自分の不甲斐無さに唇を噛んでいると、からりと部屋の戸を開ける音がした。顔を上げてそちらを見ていると暗闇で白銀の髪が揺れている。
また来てくれたんだ。
揺らめく影が動くのを見ていると身体の震えも、荒れた呼吸もゆっくりと落ち着いていく。見つめる先で静かに御簾が上げられると、ははっと忋抖が笑って立っていた。
「やっぱり起きてたか」
湯呑みを差し出しながら忋抖が、しょうがない奴だなあ、と玳絃の頭を撫でながら隣に座った。
「…そんなに気にしてくれなくても俺は大丈夫だって」
受け取った水を飲みながら言う玳絃に忋抖は肩を竦めるばかりだ。
「たまたま通りかかっただけだよ?」
「兄様、それは無理があるって…」
「そう?」
玳絃の手から湯呑みを取り上げながら何でもないことのように言う姿に玳絃は苦笑するしかない。自分たちの部屋は悧羅の呪によって各個に分けられている。途中迄は同じだが各々の部屋までは決まった道筋を辿る必要があるのだから、たまたま通りかかったなど決してあり得ない。
「少し落ち着いたか?」
いつのまにか俯いてしまっていた顔を覗き込むように見てくれる忋抖の眼に、慮ってくれる色を見つけて玳絃は苦笑してしまう。
あの日からほぼ毎夜のように、忋抖は玳絃の部屋を訪ってくれている。玳絃が思い出した事実に押し潰されそうな瞬間を知っているかのように訪っては、暫く話して眠るまで傍にいてくれるのだ。目を覚ましてしまった玳絃が再び眠りに落ちるのを恐れているのを気付いているかのように。
何もかも甘えてしまっているのは分かっているのだが、忋抖が来てくれることで玳絃が落ち着きを取り戻せていることは紛れもない事実だ。
「…姚妃は?」
「樂采にしがみつかれてぐっすりだよ。お陰で俺はいつも寝所から追い出されちゃう」
ふはっと笑って見せる忋抖が何でもないことのように言ってくれるのが玳絃には申し訳なく思えてしまう。追い出される度に目を覚ましていては忋抖の疲れは癒されていないだろう。副隊長として近衛隊の両翼を舜啓と共に担っている忋抖は、部隊隊長の玳絃よりも多くの重積を背負っている。宮の中でくらい心も身体も休めて欲しいのにそれを難かしくさせているのは他でもない玳絃だ。ただでさえ忋抖には樂采がいるのに、その上本来なら玳絃が請け負うべき姚妃のことまで当たり前のように手元に置いて護ってくれている。兄との器の違いは理解しているつもりだが、それに甘えてばかりの自分に本当に嫌気がさしてしまう。
「…兄様、ほんとにごめん…」
上げていた頭をもう一度膝に押し付けながら玳絃は情けなさすぎて大きく息を吐くしかできない。低く呻めく玳絃の頭が優しく撫でられた。
「なにを詫びることがあるんだよ?」
馬鹿だなあ、と笑う声に玳絃は目頭が熱くなるのを止められない。
「兄様だって疲れてるだろ?務めだってあるし、樂采だっている。その上、本当は俺がしなきゃいけない姚妃のことまで甘えちゃってるし」
「大したことじゃないよ?そんなに気にすることでもない」
くしゃりと掻き混ぜられた髪の間から忋抖の体温が冷えた玳絃の身体にじんわりと沁み渡ってくる。
「樂采は俺の子なんだし、姚妃は可愛い妹だ。そんな可愛い奴らに囲まれてて癒されてないはずもないだろ?」
「…でも俺のことまで気にかけてたら兄様が休めてないじゃない」
「そんなことないんだけどなあ。どっちかっていうと癒されまくってるし」
「…嘘が下手すぎるってば…」
優しすぎる忋抖の声にますます溢れてくる涙を隠しながら言ってみたが、震えた声音は隠し切れていなかった。ぽんぽんと頭を叩いてくれながら、考えすぎるな、と忋抖が言う。
「そんな訳にもいかないよ。やらなきゃいけないことだってできてないのに」
「そんなに自分を責めなくても良いと思うんだけどねえ」
やれやれ、とでもいうように忋抖が小さく嘆息するのが聞こえて玳絃もほんの少しだけ頭を上げる。苦笑しながら頬杖を付いて忋抖は穏やかに玳絃を見ていた。
「姚妃がどれだけ玳絃のことを想っていたってそれに応えるかどうかなんて玳絃にしか決められないだろ?それが駄目な筈はないし、周りが何か言ったって2人のことは2人にしか分からない。むしろ姚妃の想いばっかり気にして玳絃が自分の心に嘘つくのも違うでしょ?」
「それは、そうなんだけど…」
忋抖の言うことは頭では理解できる。姚妃が全てを思い出したときにこれ以上傷付けたくないからと玳絃が自分の心に蓋をして姚妃を受け入れるのは違うということなのだろう。そうして受け入れたとしても同じ想いを同じ温度で返すことができなければ、より姚妃の心は深淵の底に沈み今度こそ本当に引きあげてやることはできないだろうから。
「俺には向き合うことしかしてやれないから。まあ、それもまだ出来てないのに何言ってんだって感じだけどさ」
「だあからあ、お前は考えすぎなんだってば。言っただろ?急がなくていいって」
額をとんと突きながら、本当にもう、と忋抖は苦笑を深めるばかりだ。何でもないことのように接してくれている忋抖は、何も知らないと言ったにも関わらず全てを知ってくれているように感じるのは何故だろう。もしかしたら忋抖も今の玳絃と同じようなことを経てきたのだろうか?
「…兄様はさ、いつどうやって唯一を決められたの?」
「何だよ?いきなりだなあ?」
ふと気になってしまったことを口に出してしまって、あ、と玳絃はまた下を向いてしまう。樂采を初めて迎え入れた時、紳はただ忋抖の子だとしか話さなかった。忋抖がどうして樂采を手にできたのかも聞かされてはいるが、話してくれたことが全てではないことくらい皆が分かっている。分かっていても聞いてはならないことだと皆も感じたから、それ以上を誰も尋ねなかった。何より忋抖に生き写しの樂采は無条件に愛らしかったし、家族になってくれたことの方が嬉しくて何があったのかなどはどうでも良かったというのが正しいかもしれない。
「ごめん、聞いちゃ駄目なことだったよね」
紳が話してくれたことは忋抖の心を傷付ることのない境目なのだろう。それ以上を語って聞かせるのは忋抖の尊厳に踏み込むことに繋がる。だからこそ何があってもそこに立ち入らないことを姉兄たちと約束していたのに、玳絃はあっさりと越えようとしてしまった。自分の心が弱っているからといって忋抖の傷を開いていい筈がないというのに。
「答えてくれなくていいからね?聞いたことも忘れてくれた方が助かる」
「ええ?何だよそれ」
慌てる玳絃に忋抖はきょとりとして笑ってくれた。ほっと安堵していると、うーん、と忋抖は何かを思い出すように考え始めている。
「俺の場合は俺が決めれたって訳じゃないしなあ」
「いやだから話さなくていいってば」
考え込むように両腕を組んで言葉を選ぶ忋抖に慌てて玳絃が止めようとしたが、忋抖はきょとりとしているばかりだ。
「え?だって聞きたいんだろ?」
「それは…、気になってないって言ったら嘘になるけど…。兄様だって言いたくないことくらいあるだろ?」
慌て続ける玳絃の前で、ますます忋抖はきょとりとして、それから、ふはっと笑う。
「そんなに大したことじゃないよ。それ聞いて玳絃がどう思うかは分かんないけどさ」
ぽんぽんと頭を撫でられて玳絃は、聞いていいの?、と返してしまう。やばい、と思ったが忋抖がまた頭を撫でてくれた。
「いいよ?」
返ってきた声に穏やかな優しさが含まれていて玳絃は深く息を吐いた。
「兄様の唯一は樂采の母親なんだよね?」
玳絃としては至極当然の問いだ。玳絃だけでなくほかの姉兄たちだってそう思っている。是と応えられると思っていたのに意に反して忋抖は苦笑していた。
「違うよ」
「え?…樂采を産んでくれた女なんだよね?産んでくれたけどもう会えないって…。唯一はその女のことじゃないの?」
「うん、違う」
困ったように苦笑しながら忋抖は、玳絃の髪をくしゃりとかきまぜた。
「もう会えないっていうのは本当だよ。樂采を残して逝っちゃったからね」
ほんの少しだけ目を細めた忋抖が玳絃の頭から手を離してまた腕を組んだ。
「会えないってそういうことだったの?」
「うん。何処かで生きてくれてたら樂采も抱いてもらえたんだろうけどね。俺が奪っちゃったから、樂采には淋しい思いさせちゃってると思うよ」
「奪った?」
忋抖からおよそ出ることのない言葉に玳絃は首を傾げてしまった。忋抖の優しさは姉兄たちの中でも 群を抜いている。長兄であることを差し引いてもそれは余りあることで、里においても近衛隊においても誰もが知るところだ。その優しさも紳によく似ていると舜啓や磐里、加嬬や重鎮達、長く紳を知る者たちに言わしめているくらいだ。その忋抖が自ら『奪った』という表現をすること自体に、玳絃は違和感を覚えざるを得ない。玳絃の知る忋抖は安易に他者の生命を奪うことなどしない。
「俺には兄様がそうしようと思ってやったとは思えないんだけど。そうしなきゃならないことがあったんだろ?」
きょとりとしたままで尋ねると一瞬忋抖が目を見開いたが、すぐに自嘲するような笑みを浮かべた。
「玳絃は俺を買い被りすぎてるぞ?そんな立派なもんじゃない。…俺はね、樂采の母親を大事な女の身代わりにしたんだよ」
飛び出した言葉に玳絃は息を呑んだ。
「…身代わりって…」
尋ね返す声が震えてしまうが忋抖は肩を竦めている。忋抖は冗談でもそのようなことを言う性格ではない。ずっと間近で見てきたからこそ分かるが忋抖は自分が傷付くことよりも他者が傷付く事に心を痛めてしまう。だがそんな優しい鬼である兄だからこそ望んだ結果ではないことだけは玳絃でなくともわかる。
「兄様が望んで奪った訳じゃないんだろ?」
しばらくの沈黙の後に言った玳絃に忋抖は目を見開いて、それから小さく微笑んだ。
「そうだな。だけど結果として見ればそれが事実だよ」
「それでもっ!…兄様は容易く生命を刈り取るような奴じゃない…っ!」
身を乗り出して声を荒げた玳絃の頭をまた忋抖が撫でた。ありがとうな、と苦笑されて玳絃は両の手で布団を掴む。
「俺の唯一の女ってね、本当なら望んだり願ったりそんなことを思うことすら許されない女なんだよ。俺も自分がそういう目でその女を見てるっていうのも遅くまで気付かなかった。気付いちゃ駄目だって何処かで抑えてたんだろうな」
ぽん、と玳絃の頭から手を離してから忋抖は頬杖をついた。
「周りは気付いてたみたいで俺の知らない処で心配させちゃったりもしてたみたいだったけどな」
何かを思い出したのか、ふふっと笑う忋抖に玳絃はますます首を傾げてしまう。
「唯一に出来ないって何で?兄様なら誰だって喜んでなりたがるじゃないか」
「そんなことないよ?俺はそんなに求めてもらえるような奴じゃないし」
「だから兄様、嘘が下手だってば」
真面目な顔をして手を振って否を示す忋抖に玳絃は呆れてしまう。忋抖が里の鬼女たちからそういう目で見られていることは玳絃でなくとも知っていることだ。それこそ一夜の情の相手になど事欠かないくらいに。そう伝えると忋抖は苦笑を深めている。
「まあねえ、そういう時もあったけど、それが全部俺に向けられてるって訳じゃなかったしな」
「どういう意味だよ?」
小さく嘆息する忋抖の言っている意味が分からなくて玳絃は唇を尖らせた。その姿に、童みたいだ、と忋抖が吹き出す。
「…俺は父様によく似てるだろ?」
笑いを堪えながら言われて、あ、と玳絃は布団を掴んでいた手に力を込めてしまった。
「あー、そういうことかあ…」
「な?あんまり良いものでもないだろ?」
「そうだね。それはあんまり気持ち良くない」
はあ、と大きく嘆息して玳絃は手の力を抜く。要するに忋抖への純粋な恋情だけで求められていたということではないのだ。
「うん。だけど俺も同じこと樂采の母親にしたからね。同罪だからそれ自体はどうってことはないし、それもあって覚悟を決めてもらえたから悪いことばっかりでもなかったかな」
「決めてもらった?唯一を?」
言葉の意味が分からなくて玳絃はまたきょとりとしてしまった。唯一を決めるのは自分自身でしかないと思っているのだが、忋抖の話し振りからは誰かの手助けがあったように思える。
「俺にはね覚悟が無かった。俺がその女を唯一だって認めたら傷付けるだけじゃなくて裏切りだと思われても仕方ないし、俺自身も沢山のものを犠牲にして失わなきゃならなかったから。それを考えたら動けなくてね。その時もう手にできてるものまで無くすことが怖かったんだよ」
「それ相手がもう契りを結んでたって聞こえるんだけど?」
何かを壊すかもしれない恐れ。
手にできているものも失うかもしれないという怖さ。
それらが示すのは想いを寄せてしまった者に既に契りを交わした者がいる時に感じる思いではないか?そんな想いをしないように恋仲になる時や情の相手とする時もそこだけは玳絃も気を払う。無駄に諍いや痴情の絡れに巻き込まれたいものでもないからだ。そう言う玳絃に忋抖が小さな嘆息を落とした。
「そうだよ?許されないって分かってた。だから姿形の似た樂采の母親を身代わりにしたんだ。それで生命まで奪ったんだから最低だろ?」
自嘲する忋抖を前にして玳絃は何と言ってもいいか分からなくなる。やっと見つけたと思った相手に既に唯一無二の伴侶が居ると知った時、忋抖はどんな面持ちだったのか。それでも諦め切れないほどの想いとはどのようなものであるのか、玳絃にはまだわからない。けれど樂采を手にした時から忋抖は里の鬼女たちとそういった関係を持っていないことは見ているからこそ分かっている。鬼であれば誰かと情を交わすことが当たり前だ。けれど見ている限り忋抖は務めと樂采のことばかりで、この5年、宮を空けているのを見ていない。それがどういうことなのか、それもまた玳絃にはわからない。
「兄様はそれで倖なの?」
唯一と決めた相手と忋抖が添い遂げる日が来ない事は、ここまでの話を聞けば自ずと理解できる。これまでどれだけ逢わせて欲しいと願っても忋抖が笑っていなしていたのは逢わせたくなかった訳ではなかった。
逢わせられなかったのだ。
そんな相手を想い続けることは忋抖にとって苦痛でしかないように感じて尋ねた玳絃の前で忋抖は見たこともないほど倖な顔で微笑んで見せた。
「だから倖にしてもらったんだよ」
「は?どういうこと?」
眉根を顰めてしまうが忋抖は気にもしていない。
「言ったろ?覚悟を決めてもらったって。背中を押してくれたのは俺の唯一とその契りの相手なんだよ」
「はあ?」
突拍子もない事実に玳絃は思わず腰を浮かせてしまった。
「驚くだろ?俺だって信じられなかったもんな」
「なんでそうなるのさ…」
己の伴侶を他の男に預けるなど考えられることではない。呆れて嘆息してしまうと忋抖も堪え切れないように笑いだした。
「その2人にとっては俺がそのまま心を殺して生きていくことの方が苦しいことなんだってさ。そのままにしてたら、いつか俺が壊れるって逆に慮られたんだよ」
「いやいやいやいや。そんなの相手にしてみれば気にしなきゃいいだけでしょうよ」
契りを交わしている自分の伴侶に横恋慕されたとしても、そんなものは見ないようにすればいい。手に入れられないと分かっているのだから、知らぬ存ぜぬで自分たちの暮らしが穏やかであれば抱かれた恋情もいつか熱が冷めていくだろう。それを待っていればいいのに。
「そうだよねえ。俺も相手の立場だったらそう思うだろうな。何で俺の唯一を貸してやらなきゃならないんだって、きっと荒れると思うよ」
「俺もそうだろうな。その2人は何でそんなこと言い出したんだよ、考えられないだろ?」
混乱してくる頭を叩いて落ち着けようとする玳絃に忋抖はますます苦笑を深めている。
「沈んでいく俺を見てられなかったんだってさ。救い上げてやれる機会がその時を逃したらもう見つけられなかったらしい。俺が壊れようが放っておけばいいのに手を差し出してくれたんだ。その上で言われたよ。誰が何と言おうが何と思おうが、他でもない自分達が受け入れて赦して護るから堂々としとけって。堂々と隠さずに、心を殺さずに、想い続けていけってさ」
「はあ?」
ますます訳が分からなくなって玳絃は頭を掻くしかできない。
「その代わり俺がその女を想い続ける間は何があっても側を離れるなっても言われたけどね」
「…死ぬまで離れるなってことじゃんか…」
小さく呟く玳絃に忋抖は、うん、と笑って見せた。
「その女が契ってる相手はね、とにかく凄いんだ。俺のどうしようもない飢えを癒せるのはその女だけで誰も代わりにはなれない。代わりなんて何処探したって居ないのを知ってるのは自分以外には俺だけなんだってさ。だから認めて赦すって笑うんだから」
話しながら忋抖はあの時の紳との会話を思い出してしまう。詫びなければと考えを巡らせている忋抖の心を本当の意味で救ったのは悧羅ではない。
紳だ。
「それを分かってくれる奴がやっと素直になったって喜ばれたんだぞ?器の違いを思い知らされたよ」
上機嫌に酒を煽っていた紳が、どれ程の苦しさを隠して悧羅を預けると決めたのかが分からないほど忋抖も愚かではない。
悧羅だってそうだろう。
500年耐えに耐えてようやく解き放たれた望まぬ夜伽という役目と苦痛を、忋抖に身体を開くことで思い出すことになっただろうから。
忋抖のことばかり慮ってくれていたその裏で2人が泣いていたことなど容易く分かる。
だからこそ忋抖が自分の心に背を向けることは許されない。
自分の想いを恥じることなどあってはならない。
紳と悧羅が忋抖を赦してくれているから、忋抖も真っ直ぐに2人に向き合わなければならない。
忋抖を赦したことを2人が悔やむ日が決してこないように。
「だから俺は倖にしてもらえたって言うんだよ。まあ最期は自分がどうしたいか聞いてもらえたから、結局は俺が決めたってことになるのかな?」
「俺にはまだよく分からないよ。本当にそれで兄様が倖なのかも信じられないし…」
「倖か、なんて言葉じゃ言い尽くせないぞ?表立って自分の想いを言えなくても、傍に居ることも腕に収めることも思い通りにいかなくても、そんなこと気にもならない。その女を諦めるってことの方が辛いことなんだし、ほんの一時だけでも俺だけのものになってくれるなら、それだけで満たされるし生きて行ける。唯一ってそういうことなんだと俺は思ってるよ」
本当に嬉しそうに笑う忋抖を見ながら玳絃は、あ、と気付いてしまった。
忋抖が『器が違う』などと尊ぶ者は一握りしかいない。その内の2人を玳絃はよく知っている。玳絃自身も誰よりも尊んでいる者たちだからだ。
「…兄様の唯一って、もしかして…」
おいそれと口に出してはならない現実を曝け出されて言葉を失った玳絃に、忋抖が悪戯な笑みを浮かべて口元に指を当てて見せた。
「秘め事だぞ?」
くすくすと笑う忋抖に玳絃はがっくりと項垂れてしまう。
「だったら話さないでくれよお…。どうすんだよ、俺とんでもないこと知っちゃったじゃないかあ…」
「何だよ?知りたいって言ったじゃないか」
「言わなくても良いっても言ったよね?うわあ、俺、絶対顔に出るわ」
焦って頭を抱える玳絃の前で忋抖は愉快そうに笑うばかりだ。
「別にそんなに身構えなくたっていいと思うぞ?気付いてる奴は気付いてるし、あの2人も俺も知られて困るってことでもない。あえて言うことでもないから言ってないってだけだし、どっちかっていったらバラしちゃうか、みたいに言われたこともあったしなあ。そうすれば俺が誰の前でも素でいられるんじゃないかって真剣に話してたし」
「そんな容易く決めて良いもんなのかよ?なんか呆れるの通り越して凄いよ、もう」
大きく息を吐くと忋抖が、にやっと口角を上げた。
「容易いことなんだよ、本当に」
「何言ってんだよ、そんな訳ないだろ?」
巫山戯てでもいるのか、と一瞥を投げた玳絃に忋抖が長い指を立てて見せた。
「いいか?俺も言われたけど血の繋がりとか何処で何の縁があるのかとかなんて俺たち妖にとって大したことじゃないんだよ。…ああ、思い違いするなよ?要はそれを認めて受け入れられるかどうかだ。俺と玳絃じゃ元々の心の持ちようが違うからそうしてやれって言ってるんじゃない。ただ姚妃がお前に伝えてたことは、お前が考えてたような突拍子もないことなんかじゃないってだけだ」
「それは…、そうかもしれないけど…。俺は…」
「うん、だからそれでいいんだって。どんな結果を出しても悩んで考えて相手を慮ろうとした刻は無駄にはならない。玳絃にとっても姚妃にとっても、だ。考えて出した答えで誰かが泣いたとしてもそれはそれで良いんだよ。向き合うってことに意味があるんだから。…っていってもまだ刻に余裕はありそうだし急がなくてもいい。玳絃の心がちゃんと向き合えるって整うまでは俺が預かっててやるからさ」
立てていた指で、とん、と額を弾かれて玳絃は、ふはっと吹き出してしまう。
本当にこの兄はどうしようもなく優しい。
「じゃあ甘えるだけ甘えようかな?兄様の唯一はそんなこと気にもしないんだもんね?」
笑いと共に強張っていた身体から余計な力が抜けていく。驚かされた意趣返しで少し意地悪をしてやろうと言った玳絃に忋抖が肩を竦めた。
「そこなんだけどねえ…。俺の唯一は思ってたよりも独占欲が強くてね。自分以外の女と寝るなってちょっと怒られてんだよ」
困ったように頭を抱えて見せる忋抖に、は?、と玳絃は唖然としてしまった。
「事の次第は分かってるみたいだから目を瞑ってくれてるけど、俺は誰のものなんだって確かめられるんだ。どうも思ってたよりも俺のことが大事らしい」
「あー…、ねえ…?惚気…?」
困ってんだよね、と大袈裟に手を挙げた姿に呆れてしまうが忋抖は嬉しさを隠すつもりもないらしい。
「ばれた?まあ、そういう訳なんで急がなくてもいいけど、欲を言えば早めに引き取ってくれると嬉しい。あんまり機嫌損ねて触れさせてもらえなくなったら耐えられないんで。無理しなくてもいいけど、ちょっと無理してくれてもいいからな?」
「どっちなんだよ」
矛盾ともいえる忋抖の態度に玳絃も堪え切れずに声を出して笑ってしまった。飄々と言っているが忋抖がここまで気持ちを落とし込むには長い刻を必要としただろう。
今、玳絃が思い悩んでいるように。
忋抖がこうしているのは逃げずにその先に来るであろう辛さにも苦しみにも向き合うと覚悟を決めたからこそだ。
きっと他の姉兄たちの言葉では玳絃の心は動かされなかった。
同じように悩んだ忋抖の言葉だからこそ、すんなりと心に染み入ってくるのが分かる。きっと忋抖も分かっていたのだろう。こうではないかと想像して誰かが話す言葉よりも、自分自身のこととして受け止めてきた忋抖の言葉の方が響くことを。話して玳絃が嫌悪してしまうことだってあったのに。
敵わないなあ。
そんな忋抖が大したことではないと言ってくれているのなら焦ることなどない。
応えられないならそれでいいのも本当なのだろう。
今はただいつか来るその日のために目を逸らし続けていたことと向き合えばいい。
言われた通り容易いことだった。
「兄様、近い内に引き取るよ」
ひとしきり笑って言うと髪がかき混ぜられた。
「しんどくなったら言えよ?」
「その時は甘える」
「…父様も心配してたぞ?何も言ってくれないのは頼りにならないからなのかなあってぼやいてた」
「酒でも持って話しに行くよ。兄様への礼も兼ねて二晩くらい父様が動けないようにすればいいんだろ?」
「お前…、よくできた弟だな」
互いに笑いながら紳と忋抖が悧羅を取り合う光景を思い描いて、ほんの少し玳絃は心が温かくなるのを感じた。
いつか忋抖が誰にも憚られず悧羅への想いを表せる日が来ればいい。そこにはきっと倖と笑顔だけがあるはずだから。
あの2人ならそんなに待たせないとは思うけど。
いつか来るであろう日を心の片隅に追いやって玳絃は紳を泥酔させるための酒を忋抖に相談し始めた。
お楽しみいただけましたか?
読んでくださってありがとうございました。