唯一【伍】《ユイイツ【ゴ】》
更新します。
「まあまあ、玳絃若君。なんという処でお休みになっておられるのですか」
からりと開けられた戸から陽が差し込むのと同時に呆れたような磐里の声がした。ぽんぽんと身体を叩かれて瞼を上げると目の前に磐里の顔と縁側が見えた。
「…磐里…?」
目を擦りながら尋ねると、あらまあと笑う声がする。
「はい、磐里でございますよ。まだお寝坊さまでございますか?」
くすくすと笑われながら玳絃も身を起こして周りを見ると成程と思うしかない。玳絃が居たのは戸のすぐ前で寝所ですらない。まるで床に倒れ込むかのように寝ていたらしい。これは呆れられても仕方ないだろう。
「お休みの間に何かございましたのですか?このような処でお休みになっているなど、樂釆小若君のようでございますよ」
「ええ?樂采と一緒ってのは言いすぎでしょ」
大きく身体を伸ばしながら玳絃が言うが磐里は小さく笑いながら卓の水差しを片付け始めている。
「昨夜は余りお酒が多いということでもありませんでしたのに。お疲れでございますか?」
「そんなことないと思うけどなあ。ちゃんと寝ようと寝所に入ったんだけど」
手際良く御簾を上げて寝所を整えている磐里に向かって声をかけると、そのようでございますね、とまた笑われてしまう。整え終わると寝所の上にきちんと畳まれた隊服と薄衣を置いてくれる。
「本日もお務めでございましたね。あまりご無理をなされてはなりませんよ」
置いていた水差しを持って笑いながら部屋を出ていく磐里に礼を伝えてから玳絃も立ち上がって寝所に向かう。支度された隊服に着替えるために寝間着を脱いで置こうとして、あれ?、と玳絃は声を上げてしまった。寝間着に染みた血が目に入ったからだ。なんで?、と自分を見ると右の大腿に掴んだような跡と乾いた血が見えた。
「ええ?何これ」
大して痛みもしないから既に癒えているようだが寝ている間に玳絃自身がやったのだとしたらそれもどうしてなのかが分からない。とりあえず軽く癒しの術をかけてからもう一度寝間着を広げて他に血の跡がないか確めると、腰紐よりも下、ちょうど下腹辺りに滲んだ血がついている。掻きでもしたのかと下腹を見るがそこには傷はない。
「なんだよ、なんか嫌だなあ」
思いながらも寝間着についた血の臭いを確かめると一つは玳絃自身のものだが、もう一つは違う。けれど嫌な感じを受けないから敵意や呪ということではないのだろう。昨夜寝るまでの間に樂采と遊んでいたし、その時にでもついたのかもしれない。
「考えても分かんないか」
仕方ないと思い直してさっさと隊服に着替えて部屋を出た時だった。
[ごめんね、兄様]
頭の中に小さな声がして泣きながら笑う姚妃の姿が過った。ざらついたような画で見えたのはほんの一瞬、それでも玳絃をその場に蹲るには十分すぎた。
「は?何…今の…?」
ぞわりと這い上がってくる何ともしれない感覚に包まれるが、見えた画がまた浮かび上がってくることはない。響いた声も再び聴こえることもない。ただえもいわれぬ不安が玳絃の身体に寒気として乗し掛かる。思わず口元を抑えていた手が小さく震えて背中にも冷たい汗が滲む。僅かに荒れた息のままで頭を小突いてみるがそれ以上何も出てこない。
「…何だっていうんだよ…?」
漠然とした不安だけが大きくなって玳絃は立ち上がると食餌を摂る部屋へと駆け出した。見えた画は姚妃だった。姚妃であったけれどあんな表情は見たことがない。あんなに悲痛な声も聞いたことがない。
何かあったのかもしれない。
足元から這い上がってくるナニカを振り払うように駆けて見えた部屋の戸を玳絃は勢いよく開けた。
「姚妃!!」
勢いよく開けられた戸が大きな音を立てて外れるが、それよりも玳絃の声の大きさに場に居た皆の視線が集まったがどうでも良かった。玳絃の席から灶絃を挟んだ処が姚妃のいつもの場処だ。そこに目を向けると呼ばれた姚妃は持ち上げた箸をぽろりと落として固まっている。弾かれたように走ってその前まで動くと玳絃は姚妃の両肩を掴んだ。
「姚妃!お前どうもしてないか!?」
「え?何?おはよう…?どうしたの玳の兄様?」
「うん!おはよう!じゃなくて!!お前何か変わったこととか、どっか痛めてるとか何かないか?!」
尋ねながら掴んだ両肩を揺さぶるが姚妃は、ええ?、と首を傾げて笑っている。
「何だか分からないけど何もないよ?」
「本当か?!本当にどうもしてないか!?」
「うん」
揺さぶっていた腕に姚妃の手が置かれて玳絃の動きが制された。はあ、と大きく息を吐いた玳絃の身体から力が抜けて、良かったあ、と項垂れると可笑しそうに姚妃がくすくすと笑い出した。
「よく分からないけど私は大丈夫だよ。心配してくれてありがとう、玳の兄様」
当てられていた姚妃の手が玳絃の腕をぽんぽんと叩いたが、それによりまた玳絃の足元からざわりとナニカが這い上がった。
「…姚、妃…?」
「なあに?ほら玳の兄様も早く朝餉を摂らないと務めに障りがでるよ?」
ほら、と促されるが目の前の姚妃が明らかに何かが違うと玳絃に伝えてくる。ぞわぞわと這い上がってくるナニカが玳絃を包む間際、何だよこれ、と紳の呆れたような声がして引き戻される。
「戸が外れてるじゃないか。誰だよ、もう!」
苦笑しながら戸を直す紳に彼方此方から玳絃がやったと教えている声がする。
「玳絃かよ。まったく幾つになっても童みたいなとこあるんだから」
笑いながら直した戸の具合を確めて、しょうがないなあ、と悧羅とともに場についた。磐里と加嬬が2人の膳を支度する間に玳絃が姚妃の肩を掴んでいることにも笑っている。
「なに?なんかあったの?」
置かれた茶を啜りながら尋ねられて玳絃はようやく姚妃から手を離した。
「…何もないんだと思うんだけど…。姚妃に何かあったような気がして…」
悪い、と姚妃に詫びてから玳絃も自分の場に着いた。
「おかしな玳絃だねえ。何か変なものでも食べたの?」
「吃驚して喉に詰めるとこだったじゃない、もう!」
舜啓や啝咖から揶揄うように言われて玳絃も頭を搔きながら茶を手に取った。ごめん、と謝ってみたもののぞわりとした感覚は残っている。
何なんだよ、これは。
よく分からない感情を抑え込んで朝餉に手を付け始める玳絃に、変な玳の兄様と姚妃の笑う声が届く。それにまた妙な感覚を覚えたがこれ以上は皆を混乱させるだけだろう。黙って朝餉を取り続ける玳絃の周りでは先程の玳絃の行動が笑い話になっているが気にすることでもない。自分でもらしくないと思っているのだから暫くはこれで弄られるだろう。
「まあ姚妃に何かあったら俺らだって慌てるだろうしね」
「それはそうだよ。可愛過ぎる妹なんだから」
くすくすと笑いながら話す皓滓と灶絃の言葉にも何かちくりとするがとりあえずそのままにしておく。とりあえず姚妃には何事もなさそうだしこのまま様子をみていてもいいのかもしれない。玳絃が感じたモノも思い過ごしである可能性もあるのだ。何より他の誰も玳絃の感じたモノは感じていないようだ。ほっと安堵した玳絃は次には箸を落としてしまった。
「玳の兄様は優しすぎるんだよ。そろそろ妹離れして欲しいけどね」
ふふふっと笑った姚妃の姿に戸惑ったのは玳絃だけではなかった。え?と皆に振り向かれても姚妃はきょとりとしている。
「姚妃?お前どうかしたの?」
あり得ないとでも言いたげに瑞雨が声をかけるが姚妃は、何が?、と笑うばかりだ。
「いや、だってお前さ…」
「なによ?」
憂玘の言葉にも飄々と返す姚妃はいつもと変わりなく見える。けれどそれが可笑しいと玳絃は本能で悟った。笑いながら話し続けている姚妃は間違いなく姚妃だ。でも何かが違う。思わず声をかけようとした玳絃はまたしても別の言葉で遮られてしまった。
「磐里、加嬬。申し訳ないんだけど今夜から暫く姚妃は俺の部屋で寝るように支度してもらっていいかな」
は?と目を見開いた玳絃の前で忋抖が2人に頼んでいるのが見える。あらまあ、と笑う2人は何も戸惑ってはいないし、場の皆も特に驚いてもいないようだ。
「え?忋の兄様、何で?やっぱり姚妃どうかしてんの?」
思わず腰を上げた玳絃に忋抖は笑って手を振った。
「違う違う。玳絃が来る前に樂采から強請られたんだよ。しばらく姚妃と一緒に寝たいんだって。だから姚妃に無理言ってお願いしたんだよ。ね?樂采?」
「うん!あのねえ、ぼくようひちゃんといっしょにお休みしたいの。がいちゃんもあいちゃんもいっしょなの」
「あれ?父様は?」
「父しゃまもだよ?いつもいっしょでしょ」
もう!と頬を膨らませた樂采は、ね?と姚妃を見ている。その姚妃も笑いながら是を示しているし他の者たちも知っていたというのは間違いではないのだろう。後から来たはずの紳と悧羅が何も言わないのには少しばかり違和感を覚えたが、樂采が言い出したことなら何も言わないのはいつもの事とも言える。
“おやおや、我だけ呼ばれませぬのか?”
悧羅の背後に侍っていた妲己が笑いながら言うと樂采が慌て始めた。
「だっきちゃんも来てくれるの?」
“我も小若君のお側におるのをお許し頂だけるのであらば嬉しゅうありますよ?”
くっくと笑う妲己の先で樂采が忋抖に、良い?と聞いている。いいよ、と頭を撫でられて、やったあ!と喜ぶ樂采を見ていると本当に何でもないことのようにも思えてしまう。何だかなあと後味の悪い思いを引き摺りながら朝餉を済ませて玳絃は身支度を整えに部屋を出た。釈然としないナニカは感じるがそれがナニカも分からなければ対処の仕様もない。とりあえずは務めだな、と気持ちを切り替えて玳絃はもう一度部屋に戻ることにした。
絶対おかしい、と玳絃が確信したのはあの感覚を感じてから六月が経った日だった。その日は皓滓と加嬬の契りの日で皆が倖に包まれていた。まだ呑み足りないという他の姉兄たちを置いて先に休むという姚妃を部屋まで送ると言ったのだが姚妃はきょとりとしていたのだ。
「忋の兄様の部屋に行くだけだし、宮の中なんだから平気だよ?」
心配しすぎ、と笑う姚妃は六月前とは明らかに変わっていた。六月前までの姚妃なら玳絃が言い出さずとも自分から強請っていたし、歩いている時も腕を絡ませてくるのはいつものことだったから。立ち上がった姚妃の足元が揺らいでいたのを理由にして送ったのだがふらつく身体を支えてもすぐに離れるし、手をとろうとしても大丈夫だと固辞された。
「いつまで忋の兄様の部屋で寝るんだよ?」
分かれ道で尋ねた玳絃に姚妃はにこにこと笑っている。
「うーん、樂采のお願いだからねえ。樂采が良いって言うまでだろうけど。たまに忋の兄様に抱きついて起きたりもできちゃうから役得なんだよね、忋の兄様も喜んでくれてるし。私ももう少し甘えてたいかなあ。幼子の頃みたいで安心しちゃうもん」
「忋の兄様はそれでいいって言ってんの?」
「うん。居たいだけ居て良いよって言ってくれてる。もしかしたら樂采のお嫁さんになってくれるかもしれないからって」
ふふっと笑う姚妃に玳絃は唖然としてしまった。は?、とあげた声が疑問に聞こえたのだろう。
「どうかしたの?玳の兄様?」
きょとりと首を傾げる姚妃に違和感が募っていくのを玳絃は止められない。
「姚妃、樂釆と契るのか?」
「やだなあ玳の兄様。樂采だよ?今は幼いからそう言ってくれてるだけだよ」
あはは、と笑って手を振ってはいるがその言葉も態度も何もかもがおかしいと感じてしまう。
「じゃあ姚妃は誰と契りたいのさ?」
そう聞いてしまったのはただの興味だったのか、何かを確かめたかったのかは玳絃にもわからない。けれど返って来た言葉に玳絃は息を呑んでしまった。
「え?いないよ?」
「…は…?」
「何でそんなに驚くの?そんなに容易く決められることじゃないって玳の兄様だって知ってるでしょ?」
「それは…、そうだけど。お前、…俺と契るって言ってなかったっけ?」
知らず知らずに震えそうになる声音を拳を握って隠しながら何でもないことのように尋ねたがそれにもまた姚妃は、ええ?、と笑っている。
「それってすっごい幼子の頃の話でしょう?今はちゃんと身の程を知ってるよ。でもそうだねえ、そろそろ私も誰か恋仲になれるような相手を見付けないと。いつまでも兄様たちに守ってもらってても駄目だしねえ。兄様たちにいい女ができた時に私が邪魔しちゃいけないしなあ」
にこにこと笑う姚妃を見ながら玳絃は忘れていた感覚を思い出してしまう。ぞわぞわと足元からナニカが這い上がってくる冷たい感触。六月前に一度感じたがよく分からずに封じ込めたあの異質。
「私よりも玳の兄様がしっかりしてよ?でないと先に私が契っちゃうかもしれないよ?」
悪戯な顔で覗き込まれた玳絃は肝が急激に冷えていくのを止められない。
「…姚妃…、なんだよな…?」
「なあに当たり前のこと聞いてるの?あ、もしかして玳の兄様も結構お酒が廻っちゃってる?駄目だよ無理しないでね?」
ぽんと腕を叩いて、おやすみ、と去っていく背中を玳絃は呆然と見送るしか出来ずにその場に立ち尽くしてしまう。
あれは誰だ?
玳絃の知っている姚妃ならあんなことは言わない。何より姚妃が玳絃を見る眼差しに以前のような熱が無い。あれほどまでに玳絃に好意を伝え契りを強請っていた姿が何処にも見えないのが何故なのかも分からない。ぞわぞわとした感覚に呑み込まれないように大きく息を吐いてから、そういえば、と玳絃はこれまでを思い返してみる。考えてみればこの処、姚妃から契りを結びたいと言われていなかった。
いつからだ?
記憶を辿っていくとやはりあの日、玳絃が最初にこの感覚を覚えた日からだ。あの朝を境に姚妃から何も告げられなくなっている。
まるで何処にでもいる兄妹のような関わりしか無かった。
あまりにも言われすぎて慣れてもいたからそれが当たり前になり過ぎて、正直に言えば辟易していた。だからこそそれを伝えられないことに安堵していたのは否めない。だがどう考えてもおかしいと思えてしまう。
いや、おかしくはないのかもしれない。
玳絃であっても一時の情の相手や恋仲の者との間にあった筈の恋情が一瞬で冷めたことはある。どれほどの刻を共に過ごしていても冷めるときは冷めるし、それをどうにかしようとしても無駄だということも知っている。けれど冷めたからとはいえ共に過ごした間の思い出は残るし、その間に持っていた想いを忘れてしまう訳ではない。互いを知っているからこそ慮れることも踏み込む線引きを推し測ることも出来るようになっていくものだ。
だが姚妃にはそれを感じなかった。
姚妃から感じたのは最初から玳絃に恋情を抱いたことなどない者だけが持ち得るものだ。
親子、姉兄、弟妹、友人、部隊の間に在る親愛や信頼の情の違。
恋情とは程遠い何の熱も持たないモノ。
「…は…?、何で…?」
姚妃の眼差しを思い出すと、ぞわりとした感覚が強くなってくる。思わず頭を抱えながら玳絃はその場にしゃがみこんでしまう。
一度でも恋情を持ってしまった者に向ける眼差しには僅かにでもそれが残るものだ。姚妃が玳絃を想うことを諦めて、気持ちに区切りを付けたというのならそれでいい。元より玳絃は姚妃の想いに応える気など無かったし、むしろ迷惑だと、煩わしいとさえ思っていた。当たり前に居る兄妹のような関わりに戻れることをずっと求めていたのだから、今の状況を素直に喜ぶべきなのだと分かっている。
だが何かが違う。
「あーもう、…わっかんないなあ」
何かがおかしいと思ってもそれが何であるかが分からない。分かるのは不快でしかない感覚と異様に絡みつく違和感だけだ。くそ、と頭を掻き毟ってまとわりつく不快感を払おうとしてみるが上手くいかない。
「何なんだよ、あれだけ好きだの契りたいだの言っといて言い逃げか?しかも全部忘れたみたいに無かったことに…しちゃっ…て…?……っ!?」
何の気もなく出した言葉に玳絃は息を呑んだ。
あの日を境に変わった姚妃の表情。
玳絃へ向けられる熱の無い眼差し。
ただの兄に接するような態度。
姚妃の中で玳絃への恋情が元から無かったことになっているとすれば姚妃に感じる違和感にも合点がいく。
「は?本当に?全部忘れてんの?」
そんなことがあるはずがないとも思う。
だが、もしもそうだとしたら?
考え始めると抑え込もうとしていた不快感が大きくなり玳絃に覆い被さってきた。不気味な感覚に身体が震えだしてしまう。
「…嘘、だろ?」
無かったことにする、ということは姚妃の意識を弄るということだ。今まで培ってきたものの中から玳絃への恋情に関することだけを抜き取って紛い物の記憶を入れる。それは里に迷い込んだヒトの子を降ろす時にも掛けるから玳絃にも出来はする。けれど容易く出来るように思えるが、実際には何処かに綻びが出るのだ。何かの契機で思い出したり、前後の記憶に繋がりがなかったりとそれぞれだが、1番気をつけなければならないのは心を崩すことだ。記憶を弄るということは心に踏み入ることと同じ。ヒトの子であれそのモノの尊厳を傷付けることがあってはならないとその呪を学んだ時に紳と悧羅から教えられた。他の呪を行使う時よりも気をつけて行使うようにと。そう教えられていたから玳絃も数える程しか行使ったことはない。もちろんそれは迷い込んだヒトの子に対してだけだ。
それを姚妃が姚妃自身に対して行使ったのだとしたら?
「駄目だろ、そんなの…」
立ち上がって玳絃はまだ姉兄たちの居る部屋に向かって歩き出した。玳絃が辿り着いた答えはきっと間違ってはいない。けれど姚妃がそこまでしなければならなかった理は他にもきっとある。あの日の朝、頭に過った画と響いた声。大事なナニカを忘れているのは姚妃だけではなく多分玳絃もだ。賑やかな声のする部屋の戸を開いて中に入ると玳絃は忋抖の肩にぽんと手を置いた。
「忋の兄様、ちょっといい?」
返された灰色の眼が何かを察したようにほんの少し細められて、それが玳絃に全てを語ってくれる。
忋抖は知っているのだ。
姚妃が変わらざるを得なかった事柄も。
玳絃が忘れてしまっているナニカも。
すべて。
「どうした?樂采が淋しがってる?」
他の皆に気取られないようにするためだろう。にっこりと笑った忋抖が立ち上がりながらそう切り出してくれる。長兄は容姿も1番紳に似ているがその在り方も瓜二つだ。
「うん。忋の兄様連れてこないと口きかないって怒られた」
「それは怖いね」
有難く忋抖の話に乗じさせてもらう玳絃の頭を、ぽんと撫でて部屋を出る忋抖を玳絃も追いかける。部屋の戸を閉めると既に忋抖は廊下を歩き始めていた。急いで追いつくが向かっている先は忋抖の部屋ではないようだ。
「忋の兄様、何処行くの?」
隣を歩きながら尋ねると頭に手が置かれた。
「悧羅のとこ」
「母様?何で?…っていうか駄目だよ!もう寝所に入ってる頃合いだって!」
慌てる玳絃の頭を撫でながら忋抖は、大丈夫、と笑っている。
「だって父様、まだ一緒に呑んでるもん」
「さっきは居なかったよ?」
玳絃が姚妃を送って行く前には紳と悧羅は共に部屋を出ていた。戻った時も紳の姿は見えなかったし、そのまま寝所に入っていると思っていた。そう言うとますます忋抖は笑っている。
「湯だけ先に行ったんだってさ。さっきは虫拳に負けて酒を貰いに行かされてるから居なかったんだよ」
「ええ?珍しい。父様が母様の傍に居ないなんて、槍でも降るんじゃない?」
「それも虫拳だよ。祝いなんだからって皆に詰め寄られて負けてんの。自分から虫拳言い出しといてだからね。父様らしいけど」
言い出した虫拳で負けて騒ぐ紳を思い描いて玳絃も苦笑してしまう。ふふっと笑っていると目の前に悧羅の部屋の戸が見えた。どくん、と何故か強張った玳絃の頭を置かれたままだった忋抖の手が撫でてくれた。後押しされるように一緒に歩いて戸の前に来ると忋抖は当たり前のように声を掛けている。
「起きてる?入るよ、悧羅」
からりと開けられた戸の先で悧羅が、おやまあと立ち上がりながら微笑んでいた。紳と湯を使ったというのは本当のようで寝間着一枚の姿に忋抖が、もう!、と苦笑している。
「お入りやし」
微笑みながら近付いた悧羅が玳絃の手を取って部屋に招き入れてくれた。悧羅が玳絃を座らせている間に忋抖が部屋の奥から上衣を取って来て悧羅に掛けるとそのまま出ていこうとする。
「兄様」
思わず呼び止めた玳絃に視線を返して忋抖が肩を竦めてみせた。
「俺は何にも知らないんだよ?」
小さく笑って、それでもその場に座ってくれた忋抖に玳絃がほっと息を吐くと、くすくすと笑いながら悧羅が玳絃の前にふわりと座った。して、と頬を撫でられて玳絃の身体からほんの少し力が抜ける。
「何ぞ知りとうあるのかえ?」
何も言わなくても悧羅は分かってくれている。優しい声音に泣き出したくなるが玳絃はそれをぐっと堪えた。分かってくれているのなら多くを語る必要はない。一緒に居てくれている忋抖も何も知らないとは言っているが、ある程度察しているのだろう。そうでなければ玳絃が違和感を感じたあの日から姚妃を側に置くことなどしなかったはずだ。
何も知らずとも守ってくれていたのだ。
姚妃の心が壊れてしまわないように。
「母様、俺は何を忘れてるの?」
ようやく絞り出した声は思いのほかに震えていた。膝に置いた手が知らず知らずのうちに拳を握ってしまう。
「姚妃は何を犠牲にしたの?」
触れられた手は穏やかに玳絃の頰を包んだままだ。
「俺は姚妃に何をしたのかな?」
握った拳が小さく震え出すと、そっと悧羅の手がそれを包んでくれた。
「それを知れたとして、玳絃はどうありたいのじゃ?」
「…っ…!」
責められている訳ではないと分かってはいても玳絃は言葉に詰まってしまった。確かにそれを知って玳絃と姚妃が無くしたと思っている記憶を取り戻したとしても、玳絃がそれに向き合わなければまた同じことの繰り返しなのだろう。だとすれば忘れたままの方が姚妃には良いのかもしれない。
それでも。
「…分からないんだ…。姚妃にとってはこのままの方が良いとも思う。…俺は姚妃の想いに応えてやれる器はないし…」
「ならばこのままでも良かろうよ?姚妃が決めたこと故」
「母様が助けたんじゃないの?」
「妾は何もしておらぬよ?話されておったなら何ぞしてやれたやもしれぬが、姚妃は聡うあるでのう」
「…そっか…、うん、そうだよね…」
確かにそうだ。
もしも悧羅がこの事に関わっていたのならば玳絃が違和感など感じる筈もない。一部の隙もなく全てを行えるのが長である悧羅なのだ。だがこの呪は玳絃がおかしいと感じてしまえるほど縛りが甘い。やはりこれは姚妃が1人で考えて1人で行使ったからだろう。
それはどれ程苦しいことだったのか。
それ。思えば、はあ、と嘆息するしか出来ない。
「…じゃあ、母様なら解ける?」
「玳絃が望むとあらば」
「姚妃のも?」
「解くは容易い。なれどその後を思わばそれを為すと申すはどうであろうのう」
するりと包まれていた頬を撫でられて玳絃はますます泣きたくなってしまう。けれど玳絃が気付いた違和感をこの先ずっと姚妃が気付かないということはないだろう。
「じゃあ俺だけ戻して」
顔を上げて悧羅に伝えた言葉はもう震えてはいなかった。
「何故に?」
優しく問われて玳絃は大きく息を吐いてから紡ぐ言葉を探し始める。
「…姚妃を追い詰めたのは俺なんだと思う。忘れてることを取り戻したって姚妃の想いに応えてやれないってのも変わらない。だけどちゃんと向き合ってなかったのも俺だから、もしも姚妃が気付いた時、姚妃が壊れないように支えてやらなきゃいけない。それは多分、父様でも母様でもほかの誰でもなく俺がしないと駄目なんだ」
今は気付かずともいつか姚妃も自らに這い上がる違和感を感じることになるだろう。それがいつになるかは分からない。
でも、その時に今の玳絃のように忘れたものを取り戻したいと願うかもしれない。
思い出すことで心が壊れてしまうかもしれない。
それだけは避けなければならないのだ。
姚妃の叫びを無視し続けた玳絃が今出来ることは見ようとしなかったものをちゃんと見ることだ。
「今は忋の兄様が俺の代わりをしてくれてるんだろ?思い出したら代わるからね?」
「…まあ、思い出してから決めれば?急がなくったって良いよ。お前が思ってるよりもきついことかもしれないし、俺は可愛い妹が抱き付いて寝てくれてるんだから役得なだけだしね」
振り返って忋抖に言うと小さく笑ってくれている。
「兄様の想い女に怒られるんじゃない?」
「残念。それくらいで怒る女でもないし、俺の全部をあげちゃってるから怒られようもないんだ。たまには妬いて欲しいくらいだよ」
嘆息する忋抖から手を振られて玳絃は悧羅に向き直った。玳絃と忋抖の話が面白かったのか、くすくすと悧羅も笑っている。
「そういうわけだから母様。俺に姚妃と向き合う刻をください」
ゆっくりと頭を下げようとした玳絃の動きを悧羅の細い腕が止めた。顔を上げると玳絃の頬が両側から包まれて引き寄せられる。当てられた掌から悧羅の能力が流れてくるのを感じていると額にそっと口付けられた。はあ?、と忋抖の声がした気がしたが、とろりと微睡んできて身体がぐらりと傾いてしまう。
「眠りゃ。明日には戻っておる」
ことん、と落ちた玳絃の身体を悧羅が抱き止めたがすぐに忋抖に引き剥がされた。おや、と笑いながら悧羅が手を振ると玳絃の姿が消える。どうやら部屋に送ったらしいが、それよりも、と嘆息しながら忋抖は悧羅を膝に乗せた。
「何考えてるのさ?俺の前で父様以外にあんなことするなんて」
「おや?母が子にするはおかしゅうなかろう?」
「…しなくたっていい事だったよね?」
「愛らしゅうある倅を慰めただけであろ?」
くすくすと笑い続けながら悧羅が忋抖の頬に触れる。
「ほんっと俺ばっかり妬かされてるよね。近い内に満足するまで貸してもらわないと、俺はもう空っぽだよ?父様にお願いしとかなきゃ」
呆れたように嘆息しながら忋抖が悧羅に口付けると、しなやかな腕が首に廻された。
「忋抖が他の女子と床を共にしておるからであろ?」
唇を離すと今度は悧羅が微笑んで深く忋抖に口付ける。
「姚妃だよ?」
「姚妃といえどもじゃ。忋抖に触れてよいのは妾のみではなかったかえ?」
「なーんだ、妬いてくれてたの?」
額に口付けながら擦り寄る忋抖の背がぽんぽんと叩かれた。
「忋抖の想う女子とやらは妬かぬらしいがのう」
「そう思ってたんだけどね。どうやら思ってたよりも俺のことが大事みたいだよ?」
胸元に吸い付きながら話す忋抖の耳に小さな笑い声が届いてくる。
「それを伝え切れておらぬ女子かえ?つまらぬのう」
「俺の捧げ方が足りてないのかもね。丁度いいよ。恋敵が務めで俺の休みが片手の内には来るから、そこでしっかり捧げてくるよ」
「それを妾に申すなど…。その女子に余程妬いて欲しゅうあると見える。はてさて忋抖は誰のものであったかのう?」
悧羅の胸に顔を埋めて抱きついた忋抖の髪を手で梳きながら揶揄う姿に、もう!、と忋抖は肩を落とすしかない。
「玳絃も姚妃もあんまり泣かないでくれると良いんだけどなあ」
細い身体をぎゅうっと抱きしめながら忋抖が呟くと、悧羅も、そうさな、と嘆息する。
「こればかりはどうしてやることも出来ぬ。傷が広がらぬよう見ておるしかないでな」
頭を柔かく腕で包まれて、それでも、と忋抖は願わずにはいられない。
泣いた先でちゃんと2人が笑っていられるといい。
叶うなら忋抖が与えられたような倖があればいい。
あんまり苦しんでくれるなよ。
大きく嘆息した忋抖が悧羅の名を呼ぶと、ふわりと2人の姿が消えた。
お楽しみいただけましたか?
読んでくださってありがとうございます。