追憶【玖】《ツイオク【ク】》
悧羅が宮に入ってからの変化は目覚ましかった。隊士達は元々鍛えられているため身体の治りも良く、早い者で数日すれば普段通りには動けるようになった。動けるようになった側から、里に降り炊き出しを手伝い、温かな寝床を用意する働き手に回った。寒さと飢えで活気が無くなっていた里も、徐々に声が聞こえるようになっている。それは都だけに留まらず、辺境の里も同じだった。悧羅は、全ての里、全ての民に同様に優劣がつく事がないように、と強く命じていた。民達の生命は、すべからく尊ぶべきだ、と言う悧羅の言葉に全ての民が涙した。同時に事切れた者たちへは、国庫の衣を纏わせ礼を持って火葬した。数が数だけに一人ずつというわけにはいかなかったため、合同の葬儀という形を取った。出来る事なら、一人一人丁重に埋葬したかったが、これで赦してほしいと言う悧羅に苦言を呈するものなど誰もいない。どうにか民が肩を寄せ合いながらも一つ屋根の下で雨露に濡れないようになった頃には、炊き出しも終わらせることが出来、食材の配分という形をとれるようになった。
一応の暮らしの形が整えられたのだ。
民の暮らしが落ち着くまでに、悧羅にはまだやらねばならない事があった。新しい官吏達の選抜だ。先代の官吏達にまだその職を与えていたのは民の救済を優先したからだ。悧羅は、炊き出しや病人の世話など率先して行いながら鬼たちの動きを見ていた。最低でも武官、文官の長はいる。文官長はすでに決めていたので、内密に官吏たちの文書の確かめを行わせている。隊士達たちについては除隊も残るも本人の意思に任せて良い。と、なれば武官隊隊長は取り急ぎ決める必要もなかった。何かあれば悧羅が動けばいい。
あとは、信のおける女官が必要だった。先代の宮は大きすぎる。悧羅一人で使う分には一部屋で足りるが、邸が足りなかった分の隊士達の住処として大部分を提供していたので、その管理を任せたかった。
しかし、これがなかなか見つけられない。悧羅の求めているものが高すぎるのか。考えながら刻を過ごして、ふと里に降りてみることにした。別に、今宮にいるものから選ぶ必要などない。立式もしていないので、悧羅を長だと知るものは民の中にはいないはずだ。妲己を伴って里におり、数ヶ月前に通った道をのんびりと歩いていく。名残雪も終わり、暖かな季節になっていた。
都に来た時は腐臭と絶望に満ちていた都は、わずかばかり活気を取り戻している。店などはまだ開いてはいないが、暖かい陽だまりのの下で民たちが食糧を分け合い、笑いながら食べている。それだけで、安堵できた。しばらく歩いて、表通りから裏通りに入る。表通りよりは日当たりが悪かったが、民に悲壮感は見えなかった。それにもまた、安堵して歩き続けると、一つの大きな建物に行き着いた。元は宿屋だったような建物だ。道の脇で日当たりを楽しむ老婆に、ここは?、と尋ねる。老婆は、ああ、と笑って腰を上げた。
「療養所だよ、流行病を拗らせた者もいるからね。長様から、温かい物をたくさん頂いたから、病人をまとめて看てるのさ」
入っていくかい、と老婆に促されて悧羅と妲己も中に入る。長い廊下を挟んで両脇に座敷が広がっている。そこに布団が並べられ、療養している者たちが横になっていた。だが、悪臭はない。それどころか、清らかそのものだ。大きな窓は開け放たれ、病人が寝ている布団も柔らかそうだ。枕元には新鮮な飲水も置かれている。病人だが、その寝顔は安らかだった。しばらく歩くと、せっせと病人の身体を拭いて廻る鬼女がいる。自分は汗だくになりながら、病人の身体を拭き清潔な衣に替えさせる。また、別の所では咳込んだ病人の身体を支えて起こし、背中をさすり、落ち着いた頃に水を飲ませている鬼女がいた。ここは、何人で切り盛りしているのか、と老婆に尋ねると、4人と返ってきた。残りの2人は、と聞くと老婆が手招きする。裏口に繋がる戸の前だった。そこを開けると、大量の布地や衣を洗っている鬼女が2人見えた。暖かくなったとはいえ、水はまだ冷たいだろう。それでも、嫌な顔一つせず歌いながら手際良く洗濯をしている。
「ありがたいよね。これも長様が私たちの生命も尊いと言ってくださったおかげだよ」
にこにこ笑って老婆がいう。でなければ、ここに居たものは皆、事切れていただろう、と。本当ですね、と悧羅も知らぬ振りをして頷いた。老婆に、室内で病人を看病している鬼女の名を聞き、礼をいって療養所を出る。
妲己、と呼ぶと、良い為人のようです、と返ってきた。それにうん、と頷いて悧羅は宮へと戻っていく。内密に決めている文官長に話をすると、翌日には手伝いという名目で、彼は療養所へ向かった。夕刻になって帰ってくると、善き者たちと見受けました、と報せがあった。決まりだね、というと同意を示す。
その翌日には先代からの官吏を集め、一斉に任を解く、と命じた。そんな、と声が上がったが、すでに文官長が調べているもののなかから幾つか読み上げると、全員が押し黙った。
「本来であれば自害すべき事柄でしょう。ですが、今の里の状況では1人でも担い手がほしい。今までの己を見つめ直して、一、民として余生を過ごしてください」
悧羅の言葉に官吏全てが平伏した。
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中庭の大樹が緑に生い茂るころ、宮を住処としていた隊士達もそれぞれの里に帰り、ようやく宮には悧羅と妲己だけになった。ほっと安堵していると文官長に指名している荊軻が、立式はどうされますか、と声をかけてきた。門番として門番めていた荊軻は、驚いたことに一本角の持ち主だった。もともと、文官として務めていたが官吏の行いを戒めたことで門番として降格になっていたのだ、と宮に残った者たちを世話する中で聞いていた。最初の出会いからして、印象的であったが負傷者の世話をする荊軻は真摯そのもので、何より博識だった。その力を貸してほしい、と頼み込んで文官長の任を引き受けてもらうことになっている。とはいえ、立式も行っていない悧羅が言っているだけなので、まだ正式ではない。
「女官のほうは、どうなってるの?」
「本日、文を出しました。明後日には内々に宮に訪れてくれるようになっております」
そう、と頷いて、立式したらどうなるのか、と尋ねる。
「まずは、全ての民が長のお顔を知ることになるでしょう。宮内のことは後回しとして、早急に里の再建に本腰を入れるようになるかと」
うん、と悧羅は頷いた。
「それと、これは大変申し上げにくいのですが…。夜伽を始めて頂かねばなりません」
うん、とこれにも悧羅は頷いた。悧羅に契りを結んだ相手がいない以上、当然のことだった。
けれど、私には紳が待ってくれている。
懐かしい家で、悧羅が迎えに来るのを今もずっと待っていてくれているはずだ。髪を結えている白銀の組紐に手を当てて、悧羅は荊軻に向き直った。
「荊軻、お願いがあるの」
「承りましょう」
恭しく荊軻が頭を下げたがその顔には微笑みが浮かべられていた。
悧羅が都に来てから六月が過ぎようとしていた。
次のお話から少し物悲しくなるかもしれません。
ありがとうございました。