唯一《肆》【ユイイツ《シ》】
大変遅くなりました。
待ってくださってる方がいらっしゃったら嬉しいです。
からりと部屋の戸を開けて姚妃は廊下に出ると大きく伸びをした。長い刻卓に向かっていた為か身体の彼方此方から凝り固まったものが解れる音がする。このところ宮に戻りしばらく皆で過ごした後は自室に籠って過ごしていた。別に漠然と何の考えもなく籠っていた訳ではない。やらなければならないことがあったから。そのための刻が必要だったというだけのことだ。
皓滓と加嬬の契りの日取りもつつがなく決まり夕餉の時など倖を隠そうともしない皓滓とそれに巻き込まれてしまう加嬬の満更でもなさそうな姿を見ているのは姚妃にとっても心から喜ばしいと思えている。何より自分が生まれた時から宝のように守ってくれていた兄の1人が同じように大切にしてくれていた加嬬を選んでくれた事が何より嬉しくもあるのだ。加嬬の中ではまだ皓滓との間にある【立場】というものを気にするところはあるが、それも含めて安堵させようと努める皓滓の姿は姚妃でなくとも皆が微笑ましく思えている。何より慶事を下ろすのを戸惑っていた加嬬に紳と悧羅が笑って後押ししたのも加嬬にとっての心の負担を軽くするには大きかっただろう。
「何か言われても加嬬はもともと俺たちの大事な家族だろ?周りが何か言ったって俺たちがちゃんと守るよ。ね、悧羅?」
「そうだの。そのような些末なことで騒ぐ者らのことなど案じずともよい。紳や妾のみではのうて子らもその思いは同じであろうしの」
ふふっと笑いながら見られた子どもたちが全員で是を示したことで加嬬も幾分かは安堵してくれたようだったが、それでも瘧のような不安はおいそれと拭い去れるものではないだろう。けれどそれをしっかりと取り去れるのは宮の誰でもなくただひとり、皓滓だけだ。
皓の兄様であれば心配いらないでしょうね。
どのような場においても加嬬を大切にしている姿を思い出してつい姚妃は小さく笑ってしまう。自分を含め姉兄達も紳や悧羅の姿を常に間近で見ていたのだ。血縁であれ他者であれ尊ぶことがどのようなことであるのかなど自然と身に付いている。それでもすぐにでも契りたいという皓滓にせめて六月はと認めさせたのは加嬬だからこそ出来ることだったろう。皓滓は落胆していたがどうであれ加嬬はもう逃げられない。加嬬もそれは分かっているようで笑いながら己の首筋をとんとんと示していた。
その理を分かっているのは悧羅と荊軻そして姚妃くらいのものだ。紳や忋抖なら悧羅から聞いているかもしれない。知らなかったにしろ皓滓と加嬬にはそれがどのようなものであるかは悧羅から聞かされているだろう。とはいえ何も知らずにそれを行なった皓滓はある意味幸運の持主だったということだ。
「…私もいい加減に前に進まないと…」
一度空を見上げて姚妃は小さく嘆息した。開けたままの戸から部屋の中を見ると白磁の小さな器が2つ、目に留まる。ずっと部屋に籠っていたのはあの中身を拵えるためだった。たまたま務めている中で文書を整えているとき、ふと目に留まったそれには今の姚妃が何よりも欲していた事柄が記されていた。調合にはかなりの無理をせざるを得なかったが姚妃が何よりも望んでいることを叶えることができるなら何ということでもなかった。あとひとつ、あるモノを足すことでようやく願いを叶えることができる。
そのあとひとつは本来なら手に入れることなど出来ないものだ。長い鬼の生涯であっても見えることができるかもわからないモノ。それを手に入れようと夢見ることは靄を掴もうと空に手を伸ばすようなものだ。けれど今それは姚妃が望めば掴めるところにある。助力してくれるか否かは別にして。
その文書に書かれている事柄も誰も真のものだとは思っていないだろう。それ程に眉唾ものであるし、何より自らにかかる負荷のほうが大きい。幾ら呪に馴染みのある鬼であってもおいそれと手を出したくはないはずだ。だからこそ姚妃が手にするまで書庫の奥深くに埋まっていたのだろう。ここに至る前までの姚妃であれば同じような考えをしたはずだ。手に取ったとしても馬鹿らしいと捨て置いたに違いない。そう思えはするのに手にした途端に救われると思ってしまった。長く抱え込んできた報われない想いを終わらせることができる、と。
卑怯だともわかっている。けれど姚妃にはもうこの手立てに頼るしかないのも事実なのだ。
ずっと止まったままの自分の刻を進めるために。
もう一度小さく嘆息してから視線を庭に戻すと呟くように姚妃はその名を呼んでみる。
「睚眦、いる?」
呼んだ声は静かに場に響くが景色が変わることはない。もう一度呼んでみたがやはり変わらない。もともと睚眦が悧羅の呼びかけ以外に応じることがないのは分かっている。妲己や哀玥であれば悧羅でなくとも呼びかければ現れてくれるのだが睚眦はそうではない。睚眦に何かを命じられるのは悧羅だけで悧羅が望むから宮の者たちも里の民達も庇護してくれているに過ぎない。
「睚眦、お願い」
やっぱり駄目か、と思いつつも最後にもう一度だけ呼んでみる。これで駄目ならもうひとつのモノを手に入れなければならないだろう。三度の声掛けにも見える景色に変わりはないことに落胆しながら部屋のほうに身体を向けると背後からふわりと風が吹いた。振り向いた姚妃の目に青い鱗が飛び込んでくる。月明かりに照らされた長い体躯を空に向けて伸ばしたまま睚眦が長い髭を揺蕩わせて姚妃を見ている。
【全く…、何もこんな夜更けに呼びつけずともよかろうが】
「ごめん」
呆れたように目を細める睚眦に近付きながら姚妃も詫びた。だがいつもの蜥蜴の姿ではなく本来の姿で来てくれたということは姚妃が何を望んでいるのかなど睚眦には言わずとも分かってくれているのだろう。
「来てくれるとは思ってなかったよ」
近付いて頭を撫でると、やむをえんだろう、と嘆息されてしまう。
【俺が姚に手を貸さねば主が動くとまで言われてはな。無闇に主に傷が付くのを善とはできん】
「そっかあ…。やっぱり母様には何でもお見通しなんだね」
【今更なことだろう?】
「…そうだね…」
ふふっと小さく笑った姚妃に呆れたような睚眦の嘆息が降ってきた。姚妃が睚眦を呼ぶことも、それで何をするのかも悧羅は全て知っているのだろう。その上で姚妃の願いを叶える手助けをしてくれる母の気持ちが嬉しくもあるが申し訳もなくてつい姚妃は視線を落とした。
【…姚】
声をかけられて視線を戻すと手を出すように促される。従った姚妃の手に青く光る鱗がひとつ落とされた。思いの外に軽く薄いそれをそっと包むとひやりとした感覚が伝わってくる。
「睚眦ありがとう」
微笑んで礼を言うと、やれやれと睚眦が肩を落とした。
【…主は案じていたぞ?本当にお前がそれでいいのかとな】
「うん。たくさん考えて決めたから」
【そうか】
「うん」
手を開いてもう一度授けられた鱗を見ていると、難儀なものだな、と睚眦の声がした。
【姚がしようとしていることがどういうことになるのかなど俺には分からん。元より俺には不要なモノだしな】
長い髭を揺蕩わせて紡がれる言葉に姚妃は首を傾げた。いつもの睚眦の声音と違う。いつもであれば不遜な態度で良くも悪くもまっすぐな言葉を出すのが睚眦だ。だが今の声音はどことなく案じてくれているような暖かさを覚えてしまう。
【何事にもいつかは、ということはあるのだろう。姚が決めたのならばそれもひとつの事柄だな。…だが俺にそれをせよと言われても今の俺は否と言うだろう】
「睚眦は母様のことを本当に大切に思ってくれてるし繋がりも強いからね」
悧羅の眷属である睚眦に姚妃がこれからしようとしていることを強いるとすれば、それは睚眦に命を絶てと言うのと同義だろう。けれど姚妃はそうではない。あるのはただ自分が楽になりたいがためだけの手前勝手な思いだ。
【姚はそれでいいのか?】
「大丈夫だよ。これは私が前に進むためでもあるんだから」
笑って伝えた姚妃に睚眦がするりと擦り寄った。
【確かに俺の主は何者にも変えられん。だがな俺が思うているのは今は姚、お前のことだ。これでも俺はそれなりに姚や他の奴らも気に入っているのだぞ?まあ…、そうは見えんだろうがな】
擦り寄る龍の頭を姚妃はぎゅっと抱き締めた。硬くてひやりとした鱗が頬に当たるが不思議と痛みはない。
【これが終わったならしばらく樂と共に休むといいだろう。忋が酒に付き合った後は俺と樂と哀玥が共に居るなど贅沢だぞ?…ともすれば妲己も来るだろう。忋まで居れば考える暇もないだろうよ】
「いきなり忋の兄様の部屋で過ごしたら変に思われるんじゃない?」
【そこは忋が上手くやるだろう。姚の頼みとあれば喜んで応じるだろうよ。何より樂が喜ぶ】
だから案ずるな、と言う睚眦の頭をさらに抱きしめながら姚妃は浮かんでくる涙を堪えることができなくなった。
次の日もその次の日もいつもと何も変わりはなかった。いや、変わりはあったのだが姚妃がそうであると気付かせないように努めていたという方が正しいかもしれない。姚妃が何をしようとしているのかを決して気取られることがないようにいつものように振舞うことがこれ程までに胆力を要するなど知りもしなかった。堪えることでその先にあるものが喜ばしいものであるならばそれも良いのかもしれないが、これはそうではない。この程度のことでこれ程迄に己の心を凍てつかさなければならないのならば、これまで悧羅が背負ってきたものはどれだけのものだったのだろう。
母様って本当に凄いなあ。
比べることすら烏滸がましいのは分かっているが何かに縋らなければ姚妃が為すと決めたこともすぐに揺らいでしまいそうだった。はあ、と大きく嘆息しながら姚妃は置いていた白磁の器を爪で弾く。澄んた音が響いて止むまでのほんの僅かな間でも、本当にこれで良いのかと悩む自分に心底呆れて自嘲してしまう。これが最善なのだとこれまで幾度となく自分に言い聞かせてきた。こうするのが1番良いのだと違う道が無いのか考えるたびに行き着く先は同じだった。
繰り返し。
繰り返し。
何度も。
何度も。
何十年も。
何百年も。
もう一度大きく嘆息して静かになった白磁の器を握ると立ち上がりそのまま自室を出て歩き出す。既に丑の刻は過ぎているからか宮の中は静かだ。庭に面した廊下も処々に灯が灯されているがそれもほんのりと揺らいでいる程度だ。どちらかといえば月明かりのほうが役立っているかもしれない。鬼である姚妃たちにとれば宵闇など視界を遮ることにもならないが、里から見上げれば山の中腹にほんのりと浮かび上がる宮が見えることが民達の安寧に繋がっているのは知っている。宮を見上げるだけでそこに悧羅が居ることが皆に伝わるのだ。居るだけ、とはいえ悧羅が何もしていないことではないのだがそれを知らない民達にとれば悧羅という絶対の存在がそこにいることで自分の生命を預けるだけの意味を為しているのだ。
そこに至るまで悧羅がどれだけの辛酸を舐め自身を押し殺してきたかも知る由もなく。知れる機会があったとしてもそれを口に出す母ではないことも分かってはいる。
これを終えれば自分も少しは悧羅のようになれるだろうか。
父である紳のためだけに身を削り里を支え続け、暗い深淵の底に沈みそうだった忋抖の手を引き照らし続けることを決めたような強さに近づけるだろうか。長い刻をかければ或いは、と考えながら手順通りに歩を進めてひとつの部屋の前で姚妃は足を止めた。一度深く呼吸して白磁の器の中身を右の指に付けてから静かに戸を開いて中に入る。部屋の奥、御簾で隔たれたその先から寝息が聞こえるのを確かめて戸を閉めると御簾の奥で動く気配がした。
「んー…、誰…?」
寝惚けて憂いを含んだ声に一瞬身体が強張ったけれどここで退くことは出来ない。足早に御簾の中に入ると起きあがろうとしていた玳絃の上に姚妃は跨った。
「…は…?姚妃!?何だよ、何して…」
姚妃の姿を認めた玳絃が目を見開いている間に姚妃が右の指を玳絃の口に突っ込んだ。甘くて苦い華の蜜のような味が口内に広がると同時に玳絃の身体が一瞬で滾った。ぐらりと傾きかけた意識を保とうとすると、ひたりと滾り切った玳絃が姚妃に当てがわれた。
「ちょっ!ちょっと待て!」
慌てて上に乗ったままの姚妃を押し戻そうとするが当の姚妃は下を向いたまま頭を振る。
「いやいや!何してんだって!本当に待てってば!」
ゆっくりと姚妃が腰を落とし込み始めて中に入らざるを得ない玳絃も声を荒げるが姚妃は止まらない。下を向いたまま玳絃の寝間着を強く掴んでいるだけだ。時折呻くような声が聞こえてくるがそれ以外の言葉が姚妃から聞こえてはこない。
「姚妃!やめろって言ってるだろ!」
半分ほど中に入ってしまったところで玳絃が強引に半身を起こして姚妃の両肩を掴んで動きを止めさせる。ぎちぎちと締め付けられる中で動いてしまったから玳絃自身にも負荷はあるが腹に力を入れて耐える。何よりこれは一時の欲で済ませて良い話ではない。
「ほんとに何してんだよ!冗談じゃ済まされないんだぞ!?」
掴んだ両肩に力を込めて引き上げようとするがますます姚妃の身体が強張って抗おうとする。乾いたままの姚妃の中から玳絃が出ようと身体を引き離される度に裂く様な痛みが走って姚妃は唇を噛んで玳絃の寝間着を掴んで耐える。
「姚妃!!いい加減にしないと本気で怒るぞ!」
「わかっ…てるよ…っ」
掴んだ両肩に玳絃が更に力を込めた瞬間、姚妃も止めていた腰を一気に落とし込んだ。呑み込まれた刺激で受け入れた玳絃が呻く声が微かに聞こえたけれど 貫かれる痛みが思っていたよりも強くて何より玳絃の質量で苦しくなる。鈍い痛みに思わず苦悶の声が漏れて身体も震え出す。がたがたと震えの強くなる姚妃の耳に止まさせようとする玳絃の声も届いてはいるのだが応える余裕がない。
ここまで痛みがあるとは思っていなかった。
あまりの痛みの強さに身を起こしておくことさえ難かしくなって玳絃に身体を預けたいがそうしてはならないことも分かっている。それは本当に想いが通じ合ったもの同士にしか許されないことだから。一方的に玳絃の是も無く行った姚妃がどんなに玳絃を想っていたとしてもその身体に縋り付くなどあってはならないことだ。どうにか痛みを逃そうと大きな息を繰り返している姚妃の震えがあまりにも強いことに玳絃も声を荒げるのを止めるしかない。無理矢理に入り込まされたが姚妃には受け入れるだけの準備も何も感じなかった。何よりあまりにも狭い。いまこの時でさえ潤ってくることすらなく玳絃を受け入れることさえ出来ずにいる。ただ己の中に呑み込んだことだけで精一杯だと言わんばかりの姿なのだ。
まるでこれまで誰も受け入れた事がないように。
まさか、とは思うが目の前で必死に痛みに耐えている姚妃は本来なら動き出しても良いはずの刻だというのに動けないでいる。滾り切った玳絃を無理矢理とはいえ招き入れたのなら後は欲のまま動けばもしかしたら玳絃も応じざるを得ないかもしれないのに姚妃がそれが出来るようには見えないのだ。ただひたすらに痛みに耐える姿は玳絃に全てを語っているのと同じだった。
「…姚妃…?もしかして初めて、か?」
入り込まされたとはいえ玳絃が抜け出すのは容易いことだ。無理矢理に姚妃を引き剥がせばいい。けれど本当に破瓜であるならば力任せにそれを行なえば姚妃の痛みは増すばかりだろう。かといって動くという選択も玳絃には出来そうにない。
「姚妃?」
一度大きく嘆息してできるだけ穏やかに姚妃を呼んでみると、ぽたりと腹の上に涙が落ちた。
「…さいっ…!ごめんなさい兄様っ」
絞り出された声があまりにも悲痛で玳絃も姚妃の肩を掴んでいる手の力を緩めた。
「どうしても、どうしてもっ!諦めきれなかった…。私の想いが兄様を困らせて怒らせるだけだって分かってたのにっ…」
「うん」
「赦されないのは分かってる。私は卑怯な手を使った。でもこれが最初で最後。明日からはもう兄様を困らせたりしないから」
ぽたぽたと溢れる涙が玳絃の寝間着をどんどん濡らしていくが姚妃は顔を上げない。
「でも俺は忘れないだろ?こんなことして明日から避けられるとは思わなかったのか?」
「大丈夫だよ」
「なんで?」
「兄様が滾ったのは私が調合った薬の責だから
。それにはこのことを忘れる呪も入ってる。兄様は夜が明けたら何にも覚えてないよ。ただ眠ってただけなの」
「…何だよそれ…。じゃあ俺だけ綺麗さっぱり忘れて姚妃はずっと覚えてんの?それってどうなのさ?俺だけが忘れるならそれを逆手に取ればこれから先も同じようなことが姚妃はできるってことじゃないの?」
玳絃の問う声には少し棘があった。びくりと姚妃の身体が震えたが、すぐにそれはないと応える。
「そんなの分からないだろ?だって俺だけが忘れるんだろ?」
「兄様が思ってるようなことはしないよ」
「だから何でそう言い切れるんだよ?こんなことしといて信じろってのが難しいことくらい分かってるだろ?」
玳絃の問いは当たり前といえば当たり前のことだろう。玳絃の意志も矜持も全て無視してこのようなことを強いた姚妃の言葉など信じてもらえるとも思っていない。寝間着を掴む手にますます力を込めて、もう一度だけ姚妃は案じなくていいとだけ伝える。
「だから…、信じられるわけがないのは姚妃だって分かってるだろ?そう言い切れるだけの何があるんだよ?」
聞き返してくる玳絃の声が少し苛ついているのが分かって姚妃はほんの少し身を竦めてしまう。苛立つ玳絃に反して姚妃の中の玳絃の質量が緩まっていく。それが決して達したからではないことは繋がっているからこそ分かる。ここまでしても玳絃にとって姚妃がそういう対象ではないから緩まっていくのだ。つきり、と胸の奥に痛みが走るが、それも分かっていたことだ。
ふうっと一度大きく息を吐いて今度は玳絃を逃すために姚妃は腰を上げる。中が擦られて痛みもあるがどうにか繋がりを解くことはできたが、それでもまた痛みが強くてすぐには玳絃の上から動けそうには無い。玳絃も動きはしないが言葉を発しようともしない。それだけ怒らせたのだろうから仕方のないことだし、問われた事に姚妃が応えなければ玳絃から声をかけることもしないだろう。
「本当に兄様が思うようなことはしないから。言ったじゃない、最初で最後だって」
「それを信じられると本気で思ってんの?信じて欲しいっていうなら、ちゃんと話すべきなんじゃないか?」
出された声は思っていたよりも冷たかった。これまで姚妃を溺愛していた 兄達からは到底聞いたことない声音にまた姚妃の胸の痛みが大きくなるが、まだ玳絃の顔をみることはできそうにない。
「私も…、忘れるからだよ…」
「このことだけをか?だったらまた同じことを繰り返すって可能性はあるよな?」
冷たいだけの声に嘆息も加わって思わず姚妃は玳絃の上から降りて立ち上がった。どれだけ伝えても玳絃の怒りは消えないだろう。夜が明ければこうして話したことさえ忘れているはずだ。けれど忘れられるからこそ伝えておかなければならないのだろう。
「私が忘れるのはこのことじゃない」
「はあ?じゃあ余計に信じられないだろ」
侮蔑を含んだ眼差しに姚妃の身体が一瞬で冷たくなる。小さく震え出す身体と強くなる胸の痛みを堪えるために姚妃は自分の寝間着を強く掴んだ。目の前では玳絃が大きく嘆息して頭を掻いている。
これほどまでに怒らせるほど姚妃の想いは玳絃にとって迷惑でしかなかったのだろう。
誰の目から見ても拒絶されているのはこの姿を見れば明らかだ。
本当に欠片ほどの可能性さえなかったのだ。現に目の前の玳絃は頬杖をついて姚妃と目を合わせようともしない。小さく笑って姚妃は玳絃を呼ぶが視線は返されないままだ。
「私が忘れるのは兄様への恋情だよ」
「…は?…」
ゆっくりと返された視線を受け止めて姚妃も今できる精一杯の微笑みを玳絃に向ける。
「兄様はこのことを忘れるけど、私は兄様への恋情を忘れるの。だから兄様が思ってるようなことは二度とおこらないよ」
「いや…、いやいや、ちょっと待て!それはお前の記憶を弄るってことか?そんなことしたらお前の中の他の大事なことまで忘れるかもしれないんだぞ?!」
「…そうかもしれないね。だけどこれが1番良いことなの」
「何が良いんだよ!馬鹿なことするな!」
慌てたように玳絃が姚妃の腕を掴もうとするが姚妃は一歩下がってそれから逃れる。
「私は赦されないことをしたの。私が兄様を好きでいる限りまた同じようなことをするっていうのも当たってると思う。でも私の気持ちは兄様にとって迷惑なものでしかないでしょう?だから終わりにするの」
認めたくもなかったことを口に出してしまえば本当に終わりなのだという苦しさも同時に胸に押し寄せてくる。必死に笑顔を作るが溢れでる涙は止めることは難しい。
「ごめんね兄様。これまで沢山困らせて迷惑ばっかりかけて。最後まで怒らせちゃったね」
「…姚妃…?」
少しずつ後ろに下がる姚妃を追うように玳絃が立ち上がった。
「でもありがとうっても言っていい?」
背に戸が付いて後手に開ける姚妃に玳絃もゆっくりと近付こうとするが次の言葉に動きを封じられた。
「私に恋情を教えてくれてありがとう。兄様を好きになれて倖だったよ」
涙を流しながら笑顔で告げると姚妃は部屋を飛び出してそのまま自室に向かって駆け出した。
「姚妃!」
咄嗟に玳絃が伸ばした手は姚妃に届かなかった。するりと寸前で躱されてすぐに追いかけようとするが急激に眠気が襲ってきて膝が折れてしまう。
「くそ…っ」
早く追いかけて捕まえないと。
そう思うのに身体が思い通りに動いてくれない。床に爪を立てて身を起こそうとするが思いとは裏腹に強い睡魔に呑み込まれそうになる。ここで眠ってしまえば姚妃の言葉通り起きた時には何も覚えていることはできないのだろう。
「そんなこと…っ、あってたまるかよ…っ!」
思い誤っていたのは玳絃の方だった。何よりも大切な妹であることは変わらない。けれど、あんな表情をさせたかった訳ではない。好きだと伝えられてもいつかは醒めるだろうと考えていた。
けれど姚妃がしたことは何だ?
慈しんでくれとも一度だけでも抱いてくれとも言わなかった。ただ破瓜の痛みにだけ耐え玳絃の心が傷付かないように呪の力を借りただけ。その上でこれ以上玳絃の重荷になりたくないと恋情を消すとまで言っていた。それがどれ程の危うさがあることなのかも理解した上で。
「馬鹿は俺の方じゃないかっ!」
100年以上も恋情を伝え続けることがどれほどのことなのかわからないはずなどなかったのに…。
分かろうとしなかった。
向き合おうともしなかった。
いつもと変わらない姚妃が何でもないことのようにしてくれていたから、それに甘えていたのだ。
それがどれほど姚妃の心を抉り続けていたのか見ようともしないで。
「ここで動かなかったら兄貴としても最低じゃないか」
床に立てていた爪を足に置いて無理矢理肉に喰い込ませる。肉の裂かれる音と痛みと流れ出す血でほんの僅かに頭が晴れる。よし、と身体を起こしてみたがそこにより強い睡魔が被さってくる。先程よりも強い睡魔に身体が崩れて落ちた。
「…あーくそ…。最低じゃないか…」
落ちる瞼を止めることも出来ない自分に嫌気が刺す。閉じられた瞼の裏で姚妃の顔が浮かんでくる。
「ありがとう兄様。私に恋情を教えてくれて」
そう言って泣きながら笑った顔はすべて呑み込む姚妃の覚悟を玳絃に知らしめるには充分だった。
行ってやらなきゃ。
気にするなって頭を撫でてちゃんと向き合ってやらなくちゃ。
そう思うのに意識が沈んでいくのを止められない。
「…ほんと、ごめん…」
姚妃の名を呼んだつもりだったがきっと声になっていなかっただろう。ぷつりと糸が切れるように玳絃は眠りに沈むしかなくなってしまった。
お楽しみいただけましたか?
読んでくださってありがとうございました。