唯一《参》【ユイイツ《サン》】
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翌朝の朝餉の刻も加嬬はいつもの通りに動いていた。宮に住むいと尊き御方たちは思い思いの刻に起きてくるが食事の刻だけは必ず一同に返す。もちろん紳の務めが休みの時には紳と悧羅が姿を見せることはないがそれは皆が知っていることだ。だが今日は紳も休みではないし、いつもの通りに悧羅の支度も整えることができていた。身支度を手伝う加嬬に悧羅が何か言いたげだったのだが流石の加嬬も夜明けまでの情の余韻もあり尋ね返すのを失念していた。だがそれも皆が務めに出た後、落ち着いた頃に尋ねみればいい。そうしたとしても悧羅は加嬬を責めることなどしないだろう。
磐里と共に手早く朝餉の支度を整えていると次々に皆が場に集い始める。それぞれが磐里と加嬬を見留めると、おはよう、と笑いながら声を掛けてくれた。まだ 若い姚妃や樂采など2人を見つけると走り寄って抱きついてくるのもいつものことだった。子どもたちが集い始めると賑やかになる場に紳と悧羅が入ってしばらくした頃、最後に皓滓が現れて座につく。忙しなく動き続ける加嬬を見つけて微笑んではいるがやはり心配はしてくれているようだ。茶を注いで廻る加嬬が皓滓の前に来ると、そっと、大丈夫?、と尋ねてくれた。
それも仕方の無いことだとは思う。
加嬬の願い通りに皓滓は夜が明ける迄腕の中から出すことはしなかったし、加嬬も離れたくなくて幾度もせがんでしまったのだ。皓滓の形を加嬬が覚えるまで、という願いは早々に叶えられたけれどそれでも皓滓と繋がっていたかった。務めを始めなければならない直前まで睦み合っていたから皓滓が眠れていたとしてもほんの一刻くらいのものだったのだろう、時折小さく欠伸をしている。だが加嬬は眠ることもせずに務めに出ているのだから皓滓が案じるのも無理はない。尋ねられたことには小さく微笑んで返すだけにしておいたが、正直に言えば気怠さは感じている。皓滓から離れる時も実を言えば脚が震えてしまっていたのだが、悟られないように部屋を出てきたのだ。だがそれよりも焦りを感じたのは首筋に深く残された皓滓の噛み跡の方だった。くっきりと残された跡はどうにか衣で隠せはしたけれど少しでもずれてしまえばすぐに見留められるだろう。
情の間は気にもならなかったがこの噛み跡はじんわりとまだ熱を持ってしまっている。痛む、ということではないのだがその熱がまた加嬬を皓滓の元に走らせてしまうように思えて、見えたその時からずっと加嬬は自分を律し続けているのだ。その熱を気取られないように皓滓の前から動いて加嬬は食事を進めている者たちへ茶を注いで廻る。その姿に一つ嘆息して皓滓は箸を置く。ちらりと上座に視線を流すと変わらない紳と悧羅が見えた。何か話しては互いを見合って笑い合う姿を微笑ましく思いながら皓滓は居住まいを正した。そのまま父様、と呼ぶと紳と悧羅が一緒に視線を返してくれた。
「ん?どうした?」
居住まいを正している皓滓にきょとりと首を傾げた紳につい笑ってしまう。
「あのさ、俺契るから」
「え?はあ!?」
まさかそんな話だとは思っていなかったのだろう。持っていた箸をぽろりと落として腰を浮かせた紳の隣で悧羅は、おやおやと笑っている。
「うっそ!?皓滓が?!」
「皓ちゃん!?何か悪いものでも食べたの?!」
場に居る者たちも一斉に騒ぎ始めて皓滓は苦笑した。
「皆は俺のことをなんだと思ってるんだよ」
「いや!だって皓滓が契るなんてそれこそ天地がひっくり返っても考えつかないじゃないか!」
「そうだよ?皓の兄様だって父様と母様の側から離れたくないってずっと言ってたじゃない」
「まあそこは変わってないけど」
口々に言う姉弟妹達に苦笑を返していると、まあ待て待て、と紳の声がして皆も口を噤んだ。紳も余程驚いたのだろう。悧羅から茶を受け取って飲むと大きく息を吐いている。
「とにかく、だ。皓滓、契りたいってのは本気なんだな?」
「はい」
大きく頷いた皓滓を紳が手招きして自分の前に来るように示す。素直にそれに従った皓滓が紳と悧羅の前に動いて座す。
「相手も諾って言ってくれてるんだよな?」
「はい」
紳の気遣いは至極当然のことだ。宮からというよりも紳と悧羅の側から離れたくないが為に一度はそうなるはずだった縁を皓滓は自ら断ったのだから。
「契るからにはお前の生涯をかけて添い遂げるってことだぞ?何があろうと相手を尊んで護っていくんだ。そのことはちゃんとわかってるよな?」
「もちろん。父様と母様をずっと近くで見てきたんだ。そう出来なきゃ契りたいなんて口に出せないよ」
眼前でも手を取り合っている2人を見ながら皓滓は笑う。この2人のようになれる相手をずっと探してきた。それでも心配してくれているのは痛い程に伝わってくる。里では若君と呼ばれる立場を持つのが皓滓だ。その肩書に寄ってくる者がいる一方でそういう仲になることを敬遠されもしてきた。実際に一度はそうかもしれないと思った相手は結局そうではなかった。けれど今度はそうではないと胸を張って言うことが出来る。
「ならいい。お前の生涯でそんな女に会えたってことが凄いことだしね。で、相手には会わせてもらえんの?」
契るということは長である悧羅とも伴侶で近衛隊隊長の紳とも縁が繋がるということだ。2人からも義娘として扱われる。きっと2人なら愛情を持って皓滓の選んだ相手に接してくれるだろうが、もしもそれに胡座をかくような女子なら紳も悧羅も子どもたちも一線を引いて接していかなければならなくなる。であればこそ一度会いたいと思う紳の気持ちが分かって皓滓は小さく苦笑した。
「父様が思ってるようなことにはならないから安心してよ。…それにもう会ってるし」
「ん?近衛隊士の中の1人ってことか?」
きょとりとする紳にますます皓滓は笑えてきてしまう。
「違う違う。今だって目の前に居てくれてるからだよ」
は?、と言いながら視線を皓滓から自分の前に移す紳の前には加嬬が居る。いつものように減った湯呑みに新しく茶を注ぐと空いた皿を片付けてくれているのだが、目の前にいると言われても加嬬は動じる様子も見えない。
「俺の前には加嬬しか見えないんだけど?」
「そうだよ?加嬬が俺の契りたい女なんだ。ほら、おいでってば」
くすくすと笑う皓滓に、はあ、と嘆息して加嬬も手を止めるしかない。気の変わらぬ内に、と言ってはいたがまさかこうくるとは加嬬も思ってはいなかった。皓滓が唐突に紳に契りの話をし始めた時にどれほど心の臓が跳ねたと思っているのか…。仕方なく半ば諦めて皓滓の横に座した加嬬の背中に、あらまあ、とどこか嬉しそうな磐里の声がする。座したはいいものの紳と悧羅をまっすぐに見ることが出来なくてそのまま加嬬は伏してしまった。
「ちょっと、何してんのさ!」
慌てたような皓滓が加嬬を起こそうとするがその手を掴んで加嬬は礼を取り続ける。
「長ならびに旦那様にまずはお詫びを申し上げます」
深く伏した加嬬の身体が小さく震え始める。悧羅に仕えて800年になろうというのにこんなにも心の臓が跳ねることなどなかった。一介の女官であり二本角である加嬬が里で最も高貴な方々のなかに肩を並べることになるなど考えもしなかったのだから当たり前だ。
「ねえ加嬬?それは何に対しての詫びなの?」
震える背に静かな紳の声がかかって、加嬬はますますびくりと大きく震えてしまう。
「私如きが皓滓若君をお支えしたいなど身の程も知らずに願ってしまったことへの、でございます」
「身の程を知らない?」
声音まで震える加嬬は、はい、とだけ返すとますます床に額付いた。
「本来であれば私のような二本角がお願い申し上げることさえ許されることではないことなど重々に承知しております。なれどお許し頂けるのであれば私の生涯を持って皓滓若君をお支えして参る所存にございますれば」
かたかたと震え続ける加嬬は掴んだままの皓滓の手を強く握り締めてしまう。どれくらいの刻が経ったのかも分からない加嬬に、ふはっと紳の笑い声が届いた。同時に衣擦れの音と悧羅?、と紳の呼ぶ声が聞こえたが顔を上げることが出来ない加嬬の背にそっと手が置かれたことでそれは解き放たれる。
「加嬬」
静かな悧羅の声がすぐ近くで聞こえて咄嗟に顔を上げた加嬬の前に悧羅が居た。伏したままだった加嬬の前に座して背に当てていた手で優しく頰を包んでくれる悧羅の目から涙が溢れて流れ落ちている。流れ落ちる涙はそのままに悧羅は優しく加嬬の身体を起こさせた。
「長、申しわけご、」
再び詫びようとした加嬬の口を悧羅の優美な指が留め置く。そのまま静かに首を振った悧羅は流れるように加嬬を抱き締めた。
「…加嬬」
「長、このような…。私は咎められて然るべき者にございます」
「妾に加嬬の何を咎めねばならぬと申すのじゃ?」
しなやかな腕で抱き締られて震える背中を優しく摩ってくれるのが温かくて加嬬はほうっと息を吐いた。少しずつ収まる震えの代わりにじんわりと涙が溢れてきてしまう。
「ですが私は女官であり二本角でしかないのです。本来であれば身を退かねばならないことなのです。そうでなければならないと分かっておりますのに、…私はっ…」
それ以上は言葉にならなかった。涙がどんどんと溢れてきて堪らずに加嬬は悧羅の肩に顔を埋めた。
「何を申すかと思えば…そのようなこと気に病むことなどなかろうに」
「ですが…っ」
「すまなんだな、加嬬。悩ましゅう思うておったのだろう?その上このような場で其方に詫びさせてしまうなど…。恐しゅうて堪らなんだったろうに…。ほんにすまぬことをした」
ぽんぽんと背中を叩かれて加嬬も悧羅の身体に腕を廻した。細すぎる身体は女子の加嬬の腕であっても容易く収めることができる。こうして触れることなど本来なら許されないことだ。里の要であり誰よりも気高く尊いのが悧羅なのだから。仕えてきた800年の間でも世話をさせてもらえても腕に包んでもらえることなどなかった。それが当たり前だったのだし、何よりそんな大それたことなど考えもしなかった。それなのに今悧羅は何の躊躇もなく加嬬を包んでくれている。優しく労わるような思いが体温から伝わってきて次第に加嬬から嗚咽が漏れだすと悧羅が一層強く抱きしめてくれた。
「堪えずともしっかと泣くがよろしかろう」
「です、がっ、おっ、長もっ」
腕に包まれる前に見えた悧羅は確かに涙を流していた。
悧羅と紳に連なる者たちを支えて仕えていかなければならない加嬬が皓滓とそうなってしまったことに落胆したのかもしれない。
何よりも紳と子どもたちのことを大切にしている姿を見てきたのに、加嬬がしたことは悧羅からの信頼を失墜させてしまったのかもしれない。
ともすれば女官としても居られなくなるのではないだろうか。
涙の意図が分からないまま昨夜よりも大きな不安が渦巻いて加嬬に押し寄せた。
嗚咽に不安が加わって震え出した加嬬の背中を悧羅がぽんぽん、と優しく叩く。まるで幼子をあやすかのような温もりに包まれて加嬬の緊張も緩んでしまい、抱きしめ続けてくれる悧羅にしがみつくとそのまま泣き崩れた。このような場で声をあげて泣くなどしてはならないことだと分かっている。それでも一度堰を切った涙を止めることが出来ずひたすらに悧羅にしがみついて泣き続けてしまう。
どれ程の刻そうしていたのかも分からない程に泣いて、泣き叫んでようやく落ち着きを取り戻した時には悧羅の衣がひやりと冷えていた。
「…っ!申し訳ございませんっ!」
慌てて離れようとした加嬬を悧羅は優しく留め置くと、良い、とまた背中を叩いてくれる。ほうっと大きく息を吐いた加嬬の頭にぽん、と手が置かれる。振り仰いで見ればいつのまに来ていたのか紳が2人の側でしゃがんでいる。再び申し訳ございません、と加嬬が悧羅から離れようとするとまた悧羅に留められてしまう。
「少しは落ち着いたか?」
頭に開いた手で撫でてくれながら紳が加嬬に尋ねるが、その顔は加嬬を、案じてくれているようだ。
「悪い、怖がらせちゃったよな」
言うなり紳は加嬬に頭を下げた。それにもまた加嬬は慌ててしまう。
「旦那様、おやめくださいまし!」
「いや、だって泣かせちゃったし」
「それは私が不甲斐無いからでございますから!旦那様にそのようなことをしていただくことなど何もございません!」
慌てすぎて悧羅の腕の中から出てしまったが懇願する加嬬に紳は、でも、となかなか顔を上げようとしてくれない。
「お願いでございますから!おやめくださいまし!」
旦那様!、と願う加嬬の後押しをするように悧羅の大きな嘆息が聞こえると、目の前の紳の背中がびくりと震えたのは誰の目にも明らかだった。
「…ほんにもう…、妾の加嬬をこれ以上困らせるつもりかえ…?」
「いや!そんなつもりはないんだよ?ただちゃんと謝らないといけないことをしちゃったから」
「それはそうじゃな。なれどこれ以上は加嬬にいらぬ心労をかけるは妾は望んでおらぬのだが…」
小さく吐息を吐いた悧羅の言葉でようやく紳が頭を上げた。安堵する加嬬の前では焦った紳が頭を掻き始めている。
「…悧羅…、ちょっと怒ってる?」
「怒りはしておらぬが呆れてはおるの」
やれやれ、と肩を落としながら悧羅は加嬬を引き寄せて自分の肩に加嬬の頭を乗せた。長、と身を起こそうとした加嬬の頭を悧羅が支えて止める。
「良いからこのままでおりや。…顔色もよろしゅうない。余程心を悩ませておったのだろう?」
支えられた頭を優しく撫でられてまた加嬬はほうっと安堵してしまった。そこで初めて自分の周りを子どもたちが取り囲んでいるのが見えた。その中にはより心配そうな皓滓の姿も見える。出来れば側に寄りたいのだろうが悧羅に制されていては動けないようだ。
「じゃあ落ち着いたところで話を進めようかな?でないと俺が悧羅に叱られそうだ。ああ、加嬬はそのままで良いからね?むしろ動かないで。動くと悧羅が怖い。それは勘弁して」
ちらりと悧羅に見られた紳が加嬬にそのままでいるように伝えながらくしゃりと加嬬の髪をかき混ぜた。
「で、皓滓。加嬬と契りたいってのは本気なんだな?」
「はい、俺にはどうしても加嬬が必要なんです」
「加嬬も見たとこ受け入れてくれてるみたいだし、それは良いとして。契りの日を決めなくちゃいけないな。後で荊軻に頼むか」
泣き疲れて呆っとしている加嬬の目の前で話が着々と進んでいく。
「え?今すぐでも良いのに日取りを決めなきゃいけないの?」
「お前なあ…。契りを交わすってのは特別なことなんだぞ?お前はそうでなくても加嬬は女子だ。契ることに思い描いてきたことだってあるかもしれないだろ?」
「…それは、そうなの、かな?」
小さく首を傾げた皓滓を、あんた馬鹿なの?、と啝珈が小突いた。
「仮にも逑になって欲しいって頼んでいる相手に対してちゃんとした儀もしないなんて加嬬に失礼でしょうが」
「いや、そんなんじゃなくて。できるだけ早くって思っちゃって。…いつ逃げられるか分からないから早く掴まえたいんだけなんだよ」
「だあからあ!その考えが駄目でなんでしょうが!ほんとにうちの男たちと来たら惚れた相手が出来たらすぐに周りが見えなくなるんだから。これって絶対父様譲りだわ」
ほんっと馬鹿ばっかり、と投げやりに啝珈に諭されて皓滓だけでなく一括りにされた男たちが苦笑していると、あらあら、と磐里が部屋に入ってきた。手に桶を持ってくすくすと笑いながら輪の中に入ると加嬬の前に座って手拭いを絞っている。
「少し冷やしましょうね」
冷たい手拭いが加嬬の目元を覆い隠したが泣き過ぎて腫れぼったく感じていたのでとても心地が良かった。
「啝珈のいう通りだよ。ちゃんと考えてやらなきゃ加嬬に申し訳ないだろ?皓滓の気持ちも分からないわけじゃないけど、通すところはちゃんと通さないと。な?」
苦笑しながら忋抖にまで言われて皓滓も、分かったよ、と肩を落とすしかない。それを見やって紳が話を進めていく。
「とりあえず日取りは荊軻に頼むとして、加嬬が抜けた分をどうするかなんだけど…。磐里、棌絲と秌絲に頼むことって出来るかな?」
「ええ、私から話しておきましょう。きっと喜んで上がると思いますよ」
「じゃあそれは大丈夫かな?あとは…」
目元が冷やされて幾分か頭も晴れて来た加嬬も余りにもとんとんと進んでいく話に、あの、と声を上げた。
「お話を割ってしまうのですが、その…、私は皓滓若君のお側におってもよろしい…、ということなのでしょうか?」
加嬬の言葉にその場の全員が、は?、と声を揃えた。だが目元が隠れている加嬬には皆の表情は見えないのだから尋ねるしかないのだ。何しろ目元の手拭いがずれてしまわないように悧羅が押さえているのだから、おいそれと外すこともできない。
「それに私に罰などはお与えにならずともよろしいのでしょうか?」
おずおずと尋ねる加嬬にまた皆の、はあ?、という声が聞こえた。加えて悧羅が紳、と嗜めているのか、ああそっかあ、と紳が深く嘆息したのも聞こえてきた。それに少し身構えてしまったのだが次に聞こえてきたのはいつもの穏やかな紳の声だった。加嬬、と呼ばれると目元の手拭いが取り払われてようやく加嬬にも周りの景色が見えた。身体を起こそうとすると、そのままでいい、と紳が止める。
「ごめん、そこからだった。良い?加嬬。皓滓が加嬬を望んで加嬬もそれを受け入れてくれたんだろ?それなのに俺や悧羅が否を言うと思うの?」
「…身の丈に合わぬとは…お考えになられぬのですか?」
加嬬の言葉に紳がまた、ふはっと吹き出している。
「加嬬が気にしてるのは角の数のこと?それとも宮仕えっていう立場のこと?」
「それらすべてでございます。それに私は皓滓若君と500も歳が離れておりますし…」
少し強張った加嬬の頭にまた紳の手が乗せられて優しくぽんぽんと撫で始めた。
「角の数なんて気にすることないよ?俺だって父は二本角だった。それにこの里で1番の身の程知らずは俺でしょ?悧羅にあんなこと強いたのに側にいたいって願ったんだ。それに比べたら何でもないことだよ。歳のことだってそうだ。長い俺たちの生涯でそんなもの大したことでもないじゃないか。里の中にはもっと差のある者たちだっているだろう?何より加嬬は俺たちにとって大事な者で倖せになって欲しいって思ってた。そんな大事な加嬬が大事な皓滓の逑になってくれるっていう。そんなの喜ぶ以外どうしろっていうのさ」
当たり前のように言う紳は本当に嬉しそうに笑っている。それでも不安をすべて拭い去れはしない。
「ですが長はお泣きになっておられました」
あの涙は加嬬が相手だと知って落胆したからではないのだろうかと思ってしまうのだ。俯いてしまった加嬬に悧羅の声が掛かって加嬬が視線を上向けると溢れんばかりの笑顔が飛びこんできた。
「加嬬、妾が泣いてしもうたは嬉しゅうあったからじゃ」
え?、と目を見開いた加嬬をもう一度引き寄せて悧羅が擦り寄ってくれる。
「妾を長く支えてくりゃった加嬬がこれより先は皓滓を支えてくりゃるという。これほど喜ばしいことがあろうか」
「…長…、ではお怒りになってはおられないのですか?」
「何故に憤らねばならぬのじゃ?加嬬は妾の大切な者だというに」
ふふっと笑われて加嬬もようやく本当にほうっと安堵する。同時にまた涙ぐんでしまうと、おやおや、と優美な指がそれを拭ってくれた。
「ですが長、旦那様。私はこれより先も宮仕えを続けさせていただきたいのです」
「それは…、加嬬がそうしたいならこっちとしては助かるけど。無理がかかるんじゃないか?」
心配そうな紳に加嬬は首を振った。
「皆様方のお世話をさせていただけることは私の誉であり倖なのです」
きゅっと悧羅の衣を掴んだ加嬬に、願ってもない、と笑顔が返ってきた。
「加嬬の良きようにすればよろしかろう。妾とて加嬬がおってくれねば立ちゆかぬでの」
「悧羅がそういうなら俺も構わないよ?だけど無理だけはしないようにね。そういうことだから磐里、棌絲と秌絲には通いで良いっても伝えてくれるか?」
「承りました。まあ、加嬬であればそのように言い出すのではないかと思っておりましたよ」
くすくすと笑い続けながら磐里は手拭いを新しくしてまた加嬬の目元に乗せてくれる。
「私にとっても加嬬にとっても皆様方と共に居られることこそが倖ですもの」
姿は隠れてしまったが磐里の声音がどこか嬉しさを含んでいるように聞こえたのは加嬬がそう思いたいだけなのだろうか。そうも考えたが泣き疲れてしまったことと安堵から少しずつ瞼が落ちてきてしまう。寝てはならないと分かっているのに悧羅の体温と周りの声が心地良くてついうとうととしてしまう。それに気付いたのか悧羅がぽんぽんと身体を叩き始めてくれる。すうっと沈むように眠りに落ちた加嬬を悧羅が引き寄せていると廊下から衣擦れの音がして開け放たれていた戸から荊軻が顔をだした。部屋の中を見やるなり、おや?、と首を傾げる荊軻に悧羅が小さく笑って見せるとそれだけで何が言いたいのかは分かってくれたらしい。
「朝議の刻を過ぎておりましたので何事かあったのかと参じたのですが。成程、これでは朝儀どころではなかったようでございますね」
くすりと笑いながら言う荊軻の言葉に、そんな刻!?、と俄かに場が騒がしくなった。
「やっばい!務めのことすっかり忘れてた!」
慌てだす子どもたちの姿に小さく笑って荊軻は、よろしゅうございますよ、とその場に座した。
「長がおられる限り里に何某か起こることなどございませんでしょう。…長も今は朝儀どころではないようでございますしね。里の見廻り程度のことであれば私と枉駕が命じればそれで事足ります」
笑う荊軻に、でも、と舜啓が異を唱えようとしたが静かに首を振る荊軻にそれは制された。
「長と紳様のお顔を拝謁しましたところそのような些事よりも慶ばしいことがありますのでしょう。今は何よりも加嬬殿のお側に皆様方…、特に皓滓若君がおられる方がよろしいかと存じますよ」
「何で皓兄様だって分かるのさ?」
当たり前のように微笑んでいる荊軻に瑞雨が首を傾げたが応えようとした荊軻に悧羅がしいっと自分の唇に指を立てて笑った。その姿があまりにも妖艶過ぎて紳と忋抖が同時に息を呑んだ。そのふたりに気取られないように荊軻は心の中でたげ苦笑してしまう。
この姿を見たからには後で紳と忋抖の間で取り合いが始まるのだろうが、それもまた荊軻にとっては笑って見過ごせるくらいのことだ。
何より紳がそれを許しているということ自体が驚くべきことなのだから。
「まあそれは歳の功とでも申しておきますよ」
ふふっと笑った荊軻は、では命を承りましょうか、と紳と悧羅に向き直ったのだった。
少しずつ皆が幸いを掴んできております。
完結までもう少しお付き合いくださいませ。