唯一《壱》【ユイイツ《イチ》】
遅くなりましたが。
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背後からの視線に加嬬はふうっと溜息を吐いた。目の前では今しがた干したばかりの衣達が風に靡いている。いつもであればこの光景を眺めるだけで心が穏やかになっていたのに近頃ではこの刻を迎えるのが苦痛に感じてしまっている。なぜなら加嬬が宮内のことを行う刻になると自身の務めが休みとなれば必ずと言っていい程に背後にぴったりと張り付く者がいるからだ。その視線を背中にひしひしと感じながら加嬬はもう一度深く息を吐いてしまう。気付かない風を装っても無駄であることはこれまででのことでも分かっている。それでもそれをそのままに受け入れることなど加嬬には出来ようはずもないのだ。背後からの視線を出来るだけ素知らぬ振りをしながら加嬬は次の務めを行うためにその場を去ろうと籠を抱え上げた。背後の人物に一礼をしてその場を去ろうとして、ねえ、と呼びとめられてしまう。流石に声を掛けられてそのままその場を去れる程、加嬬は礼を忘れている訳ではない。
「…何か御用でございましょうか?晧滓若君?」
「用事なんて今までもずっと言い続けてきたと思ってるんだけど。まだ通じてないのかな?」
困ったように苦笑する晧滓に加嬬も嘆息を返すしかできない。
分からないではなかった。むしろ分かりすぎていると言ってもいい。この数十年間違いではないのか、気の迷いではないのかと言い続けてきたのだ。
「幾度も申し上げておりますけれど私は若君に求めていただけるような者ではございません。皓滓若君には私などよりも良き縁がございます。…なにより私と若君には500年の歳の差がございますのよ?そのような私を一人の女子として見られるなど若君がどうにかされたとしか思えません」
籠を抱えたまま嘆息混じりに言いながらその場を去ろうとする加嬬に引き止めるような皓滓の声が響く。
「そんなの大した問題じゃないでしょ?長い鬼の生涯なんだ。たかが500年の歳の差が何なのさ?加嬬だって未だ老い始めてはいないじゃない?むしろ母様の傍に居てくれているからか若々しさはを保ってるくらいじゃないか。それに俺は正気だよ?」
そう言われてしまっても加嬬がそれをおいそれと信じることなどできはしない。
いつからであったのか皓滓が加嬬に対し恋情を持っていると打ち明けられてから長い刻が経っていた。その前に一度は皓滓も善き者を見付けていたし、契りを結ぶのではないかと磐里と心を踊らせたのだがそれが実ることはなかった。何でも悧羅と紳の傍から離れたくないが為に共に宮に入ろうと伝えたところ頑なに相手に拒まれたらしく破談になったというのだ。それはそれでどうしたものなのか、と磐里と苦笑し合ったのだが、どうやら独りを貫抜いている5人の若君や姫君にはそこを譲ることは出来かねるようだ。だがそれも仕方の無いことだとは思う。300年を超えて共に過ごした安寧の場から離れ難い気持ちは分からないでもないし、何より悧羅と紳が居るというだけで宮という空間は安らげるのだ。
斯くいう加嬬も悧羅に仕え始めて800年を過ぎた。初めの頃はひたすらに長としての苦渋を耐え抜く悧羅を支えるために召し上げられたに過ぎず、広すぎる宮に悧羅と妲己、磐里の4人が居るだけだった。それでも長の身の周りの世話を出来ること自体、里に暮らす者達にとっては誉なことであったし選んでもらえたことが何より嬉しかった。けれど細すぎる双肩に里と民の命を乗せ、その重さに押し潰されてしまいそうな悧羅の姿を日々目の当たりにしていくうちに何とも言えない気持ちになってしまっていた。いつからか全ての倖を捨てひたすらに苦渋の中に身を落とし込んでいく姿を見る度に、その支えになりたいと心から思い、何より長としてよりも悧羅個人を尊ぶようになっていったのだ。
今ではただ長の世話を任されているという誉よりも加嬬は悧羅を姉のように慕ってしまっている。里で唯一の尊き方に対して一介の二本角である加嬬が抱いてよい感情ではないことくらいはわかっている。それでも悧羅はそんな加嬬の気持ちを知っていて許してくているのだろうということは悧羅の加嬬に対する柔和な態度から痛いほどに感じることができた。
それは紳も同じことで、自身が悧羅の傍に居ることができなかった500年という長い刻を支え続けてくれたのは2人だ、と忋抖と啝咖を手にした時に長の伴侶であるにも関らず一介の女官である磐里と加嬬に頭を下げて礼を述べてくれた。それだけでなく磐里と加嬬が子を抱いてくれないと何も始まらないとまで言い産まれたばかりの忋抖と啝珈を抱かせてくれた。あまりにも身に余る倖を受けたその時に加嬬は誓ったのだ。自分はこれから先も悧羅と紳が長く遠回りしてようやく手に出来たこの倖を共に護っていくのだと。今在る暖かい場処が当たり前だと思わないように、よりよく過ごしやすくしていくことこそが自分が行うべきことなのだと。
それなのにどうして、という思いがどうしても否めない。
加嬬は晧滓が生まれ落ちたときのことを今でも鮮明に覚えている。子を望めなくしていた悧羅が4人目の子として晧滓を産み落としてくれた時、忋抖と啝咖が生まれてきてくれた時よりも倖を感じた。これまで諦め、もう望むことすら苦痛でしかないのだと思っていた悧羅の倖はもう揺るがないと信じられたから。その晧滓が乳飲子の時から世話をしていたのだ。それなのにこの数十年前になって突然に恋情を打ち明けられたのだ。けれど加嬬には何故晧滓が自分を好みはじめたのか分からない。加嬬にとればどうしても自身が手にかけてきた子という思いしか抱けないしその思いは強く刻まれている。何よりも加嬬は一介の女官で二本角の鬼でしかないのだ。長の子であり一本角の晧滓と釣り合う筈もない。
「幾度も申し上げておりますように私如き二本角の鬼と一本角であらせられる若君が連れ添えることなどないのでございますよ?」
「なんでそう思うのさ?俺は加嬬っていう鬼女に純粋に惹かれているだけだよ。それ以上の意味なんているのかな?」
「大いにございますでしょうに…」
肩を落とした加嬬に呆れたような嘆息を投げかけて晧滓は自分の隣を軽く叩いて座るように示す。そのようなことは、と一度は固辞した加嬬も、いいから、と幾度も示されて致し方無く籠を抱えたままで晧滓の隣に腰を降ろした。1人分を空けた場に座した姿に皓滓も流石に苦笑してしまう。
「そんなに警戒しなくても」
「…そのようなことではございません」
もう少し側に寄るように伝えてみるのだが加嬬はその場から動こうとはしない。仕方無く皓滓が、一歩分の距離を縮めてみたがその分加嬬が離れてしまう。それに小さく肩を落として皓滓もそれ以上近付くことは諦めることにした。
「じゃあさ、逆に聞くけど加嬬は俺の何がそんなに嫌なのさ?…ああ、歳の差とかいうのはもう無しでね?」
「…若君のことを嫌ということではございません。そうではなくて、その…」
言い淀む加嬬に晧滓の視線が刺さる。どうすれば自分の気持ちを上手く伝えられるだろうかと言葉を選ぼうと思案してみるのだが、晧滓はそれを許さないかのようにじっと加嬬を見つめている。隠し立てやその場凌ぎの応えでは納得するつもりはないのだろう。仕方無く加嬬も小さく嘆息してほんの少しだけ肩の力を抜くことにした。
「…若君が御生れになられた日のことを私はよく覚えております。まだ人の子の国に里が在った頃の穏かな陽射しが降り注ぐ麗らかな日でございました。あの日より私はずっと若君が健やかに御育ちになって往かれるのを御側近くで見ておりました。それこそ手ずから御世話をさせていただいてきたのです」
「まあそれはそうだろうね。磐里と加嬬が居てくれたから俺だけじゃなくて姉弟妹達も何不自由無く過ごしてこれてるんだから。ああ、だからってそこでまた歳がなんて言い出さないでよ?」
念を押す晧滓が僅かに慌てているように見えて加嬬は、そうではございませんよ、と笑う。
「そうではなく私はこれまで800年、長に仕えさせて頂いて参りました。その刻があまりにも倖でございましたので正直に申し上げますと、その…、何方かとそのようなことになるなど考えもしなかったのです。出来得ることならこのまま長の御側近くにいることが出来ればそれだけで私は倖なのですから」
300年程前に悧羅にも善い者はいないのかと問われたことがある。けれどあの時も今も加嬬にそのような相手など居はしない。只目まぐるしく過ぎてゆく日々の中で悧羅が捨て去るしかなかった暖かさと笑顔を取り戻して行く姿を見れることが何よりの倖だったのだから他のことなどどうでも良かった。あれ程までに悼ましく全てを諦めていた悧羅が再び紳との縁を結び直すことを決め、倖を日毎に取り戻していく。その日々を間近で支え共に喜べることが加嬬にとっては本当に嬉しいことだったのだ。
こうして今、自分に好意を伝えてくれている晧滓も幼い頃は磐里や加嬬の務めの邪魔をして二人から叱られては頬を膨ませていたものだ。
「ですから私はこれより先も女官として長や旦那様、それに御子方の御世話をさせて頂きたいのです。それこそが私の倖なのですから」
微笑んで紡ぐ加嬬を晧滓はじっと見つめているだけだ。何か言いたいのだろうが加嬬が話し終えるのを待ってくれているのだろう。悧羅の子どもたちは皆そうだ。他者の考えを軽んじることなど決っして行おうとはせず、自身が伝えたいことがあってもきちんと相手の考えに耳を傾けてくれる。本来なら若という立場なのだから本当にそうしたいのであれば加嬬の思いなど慮らず命じればいいだけだというのにそれを決してしないのだから本当に真直ぐに育ってくれていることを嬉しく思う。
「何より私は一介の女官に過ぎません。しかも二本角でございますれば、若君の御相手など恐れ多いことなのです。晧滓若君であらせられればより善い御方がおられますよ。焦られずともゆっくりと御探しなさいませ」
では、と立ち上がって礼をした加嬬に、なんだそんなことなの?、と晧滓の声が掛かった。きょとりとして顔を上げた加嬬の目の前で晧滓は大きく嘆息している。
「そのようなことでは…。大切なことでございますのよ?」
「そんなことだよ?俺のことを男として見れないとかじゃないもん」
「いえ、ですから。私と若君では釣り合いが取れぬと申し上げておるのです」
「どうして?」
小さく笑われて加嬬も、申し上げたではないですか、と嘆息してしまった。そんな加嬬の手を取るともう一度晧滓は自分の隣に座らせる。
「俺は加嬬のやりたいことを辞めさせるつもりはないよ。加嬬が居ないと宮の中はすぐに荒れ果てるだろうし磐里だけに任せるなんてことになったら俺が磐里に叱られちゃうよ。母様や父様に仕えてくれることが加嬬の倖で誉だって言うんだったらそれを取り上げたりなんてしない。俺とそういうことになっても加嬬が思うようにすればいいだけのことでしょ?」
「ですが…」
「角の数だって大したことじゃない。父様だって一本角と二本角の子として生を受けてる。子どもが出来てもその子は俺の血が色濃く出るだろうから問題にはならないじゃないか」
「ですから!それ以前に釣り合いがとれぬと申し上げておるのです!」
「釣り合いって何さ?俺は加嬬を選んだんだよ?それだけで充分だし、もしも容姿のことを言ってるならそれは違うでしょ?」
「違いませんよ」
只でさえ眉目秀麗さを持つのが一本角の鬼神たちだ。しかも晧滓は悧羅と紳の子なのだから、その美しさは並の一本角の比ではない。その隣に二本角の自分が立つことを考えるだけでも恐れ多くて震えが走るというのに。
「私は本当に一介の鬼でございますから!」
慌てて再び立ち上がった加嬬の腕を今度は逃げられないように晧滓が掴んで引き寄せた。勢い余って加嬬は晧滓の膝の上に座る形になってしまう。御無礼を、と急いで降りようとするのだが晧滓はそれを許さず転がり落ちた籠がころころと乾いた音を立てた。
「加嬬は綺麗だよ?なんで今まで決まった相手が居なかったんだろうって不思議なくらいだもん。でも特別な相手を作らなくても精気の交換くらいはしてきてた筈だよね?」
間近に晧滓の顔が見えて咄嗟に加嬬は腕を伸ばして距離を取ろうとしたが晧滓は笑顔のままで動じる様子もない。咄嗟に視線を外してしまったがそのまま、どうなの?、と尋ねられてしまっては応えることしか加嬬に残された道はなかった。
「それは…私とて鬼でございますから…」
三度の嘆息と共に出した言葉に晧滓の顔が僅かに歪んだのだが正面から視線を受け止めることができず顔を逸らした加嬬はそれに気付けなかった。だが加嬬とて鬼だ。宮仕えをしているからそうそう頻繁に、というわけにはいかなかったけれど里に降りた際に声を掛けられれば応じていた。日頃鬼としての能力を行使うことは余りなかったけれど、それでもつつがなく日々を過ごして行くためには必要なことなのだから仕方のないことであるし、何よりそれは鬼の本能なのだから抗う必要さえ無い。ふうん、と何処か不機嫌そうな晧滓の声で視線を戻すと少しばかり頬を膨ませている姿が目に入って加嬬はきょとりとしてしまった。
「どうかなさいましたか?」
「どうかしたかじゃないよ…」
「ただの精気の交換でございますよ?若君とて為さっておいででしょうに」
「それを言われると辛いし何も言えなくなるんだけどさ。俺は加嬬にそんな風に触れることを許されてないんだよ」
「当たり前ではございませんか。若君の幼い頃よりお仕えさせていただいておりますのに…。そのようなことを考えることすらございませんでしたでしょう?」
何を今更とでも言いたげな加嬬が膝から再び降りるために身体を動かそうとすると、ますます晧滓の腕に力が込められる。まだ務めも残っているし、そろそろ昼餉の支度も始めなければならない。流石にこれ以上は時間を取られるわけにはいかないと、若君、と声を掛けるのだが腕の力は緩まることはない。もう一度、若君と声を掛けた加嬬の身体がぐいっと引き寄せられた。え?、と上げた声は発せられていたのかは分からない。気づけば加嬬の唇が晧滓によって塞がれてしまっていたからだ。起こったことが俄かには信じられなくて目を見開くしか出来ない加嬬の頭が身体を支えていた腕が片方だけ解かれて押し留められる。深く口付けられたまではまだ良かったのだが呆けている間に晧滓の舌が侵入してきた。どうにか腕を使って押し戻そうと抗ってはみるのだが、余りにも激しい口付けに次第に加嬬の身体から力が抜けていく。
時折、離される合間に止めてくれるように伝えようと試みてはみるのだが、声を上げる間もなくすぐにまた口を塞がれて言葉も紡げない。幾度も唇を重ねられてどれ程の刻が経ったのかも分からなくなった頃には加嬬の身体からはすっかり力が抜けてしまい身体の奥てわ熱が燻り晧滓が支えてくれなければ傾いてしまう程になってしまっていた。
「…ごめん、嫉妬した…」
ぎゅうっと抱き締められた頭上から荒れた息のまま晧滓の声がするが加嬬も息を整えることと奥底で燻る熱を抑え込むだけで精一杯だった。
「加嬬にとって俺が子どもみたいだってのは分かってるよ。そういう風に見てもらえないってのも分かるけど、どうしても俺は加嬬が良い。どうしても加嬬が欲しいんだ」
「…若君…」
少しずつ力の戻ってきた身体を起こすと何処か泣き出してしまいそうな目をした晧滓が見えた。
「だから容易く拒まないで欲しい。今のだって軽い気持ちでした訳じゃないよ?だけど加嬬の気持ちを蔑ろにしちゃったからそこは謝る、ごめんね」
泣き出しそうな晧滓の目はしっかりと加嬬を捉えている。その眼差しから加嬬も目が離せない。代わりに抑え込もうとした熱が沸々と湧きあがるのを感じた。
「でもこれで俺が本気だってことは伝わったかな?」
頭を抑えられていた手がするりと加嬬の頬を撫でたが、その指先はひやりと冷たくなり微かに震えていた。その感触が伝わって加嬬は目を細めた。
ああ…、と心の中で呟く。
ほんとうに皓滓は自分を求めてくれているのだ。
まるで壊れ物でも触れるかのように冷えた指先が頬をくすぐる。その冷えと震えが加嬬の熱を少しずつ燃え上がらせてしまう。思い返せばこれまでの告白の間も皓滓は決して自分の気持ちを加嬬に押しつけたりはしてこなかった。それどころか数十年もの間、想いを伝えるだけに留めてくれていた。先程の口付けも本当に加嬬を想ってくれているからこそ精気の交換をしているという事実を聞いてしまったが故に箍が外れてしまったからなのだろう。
そうでなければ優しくて自らを律しす術を知り他者を慮れる皓滓があのような行動に出るはずがないのだ。
「…そうでございますね…、私は少しばかり考え違いをしておりましたようです」
申し訳無さを一杯に浮かべた皓滓の目をしっかりと見つめ返して加嬬は頬に当てられたままの手を包み返す。触れた手から自分の熱が伝わってしまうのではないかと恐れもしたが冷たくなって震える晧滓にはどうやら気取られてはいないようだ。
「よもや若君がその場限りの情の相手などに嫉妬してくださる程、私を想ってくださっているとは…」
包んだ手に擦り寄ると、だって、とまた泣きそうな皓滓の声がする。
「惚れた女が俺以外と情を交わしてるなんて聞かされたらどうにかなるでしょうよ?しかも俺にはそれが許されてないんだから尚更だ」
「そうでございますね。私が浅慮でございました」
くすくすと小さく笑う加嬬は空いた手で皓滓の頬に触れると今度は自分から口付けた。短い触れ合うだけの口付けだったのだが離れた時に見えたのは驚いたような顔の後に朱に染まっていく皓滓の慌てた姿だ。
「え?え!?」
焦るその姿が余りにも可愛いらしくて、つい加嬬は吹き出してしまった。先程までの余裕のありそうな皓滓は何処へ行ったのか。まるで初めての相手でもあるかのような態度にますます加嬬は笑えてきてしまう。
「なんで?どうして?」
「何故も何も若君はこのような関わりを私に求めておいでなのでしょう?」
「…それはそうだけど!俺は加嬬の気持ちが欲しいんだよ。身体だけの繋がりなんて望んでない!」
「…存じておりますよ?」
焦り続ける皓滓に加嬬は柔かく微笑んで見せた。身体の熱は収まるどころか晧滓の言葉と反応でどんどんと燃え上がってきている。
それでも不思議とそれを嫌だとは思わない。
むしろ―――。
ふふっと笑って加嬬は包んだままの晧滓の手に力を込めた。
「差し上げましょう」
「…え…?」
「ですから私を若君に差し上げると申しております」
「…は…?!」
微笑んだままの加嬬の言葉が信じられないのか皓滓の目がどんどん見開かれていく。
「私は狡うございましたね。一時の気の迷いでございましょう、私では若君の御側に侍ることなど烏滸がましいとあたかも理になるようなことばかり見つけては若君の御心をみないようにしておりました。…ですがここまで想っていただけるなど女冥利に尽きるというものです。若君がこのような私でも良いと申していただけるのであれば私ももう逃げることは致しません」
「…本当に?本当にいいの?」
信じられないのか尋ねる皓滓の声が震えている。それに深く加嬬は頷いた。
「何があろうとも護ってくださるのでございましょう?」
くすくすと笑いながら小首を傾げた加嬬の頬に当てられた手の震えが大きくなっていく。それだけで皓滓の今の気持ちが知れて加嬬の心もじんわりと温かくなってくる。
「…大事、絶対大事にするよ…。加嬬がやっぱり嫌だって言っても離れてあげないよ?」
「ようございますよ?その代わり私が私のままでいさせていただけるのを御許しくださるのであれば」
「許す許さないの話じゃないよ。言ったでしょ?俺は加嬬がやりたいことを辞めさせるつもりもないって」
「そうでございましたね。…では若君?私は皆様の昼餉の支度をせねばなりませんのでここはこれで許していただけますか?」
微笑んでもう一度口付けるとまた朱に染まる晧滓が、今からなの?、と不服そうに頬を膨ませた。
「俺としてはこのまま部屋に連れて行きたいんだけど…」
「それは私の務めを終えてからでもよろしゅうございましょう?もう逃げぬと申し上げておるのですから」
朱に染まった頬を撫でると大きな嘆息が晧滓から漏れた。
「…待ってるからちゃんと来てくれる?」
「ええ、必ずや」
「じゃあ堪えるしか無いじゃないか…。あ!でも気持ちが変わらない内に色々と事を運んでもいい?」
「それは今宵が終われば良きようになさってよろしゅうございますよ?」
喜々としている晧滓があまりにも可愛らしくて加嬬は笑いを堪えることができない。どうやら晧滓は確実に加嬬が逃げられないように早々に外堀を埋めるつもりのようだ。何をするのか何となく読めはするがあえて止めることもないだろう。
「ですがまずは私の務めをつつがなく終えさせてくださいましね?」
笑いながら晧滓の膝から降りると落ちていた籠を拾う。付いた土を払っていると再び大きな嘆息が届く。どうやら加嬬だけが燻る熱を感じていた訳ではないらしい。
「ほんと拷問に近いかも…」
ぽつりと呟いた晧滓に加嬬は微笑む。
「これが私でございますよ?」
籠を抱えて胸を張る加嬬の近くに晧滓も立ち上がって寄り添うと顔を近づけてくる。
「降参」
そのままどちらからともなく口付けて何故か可笑しくなり笑い合う。
「じゃあ早く残りの務めを終わらせてきてよね」
加嬬の腕から籠を引き取って共に歩き出す晧滓に、それは皆様のお戻り次第かと、とますます加嬬は笑って応えた。
大変遅くなりました。
完結まであと少し。
頑張ります。
読んでくださってありがとうございました。