護り【マモリ】
遅くなりました。
日常回ですが更新します。
悧羅の元に紳をはじめとした子どもたちが揃ったのは申の刻を過ぎてからだった。先に務めを終えた子どもたちが帰ろうとするとまだ晧滓によって積み上げられた文書が残っている紳が止めてしまったからだ。
「俺だって一刻も早く悧羅に会いたいんだよ?」
子どもたちが先に帰ると聞きたいことも聞けなくなるとでも言いたげな紳に根負けしてしまって皆で待つことにしたのだが、その間に何があったのかと尋ねる舜啓、瑞雨、憂玘に説いてやる刻が出来たのは喜ばしかった。ただ、務めが休みだった啝珈や文官として務めている媟雅と姚妃には結局のところ説いてやらねばならなかったが、話を聞いた皆は一様に狡い!、と声を揃えた。
「なんで父様ばっかり!」
頬を膨らませて拗ねながら詰め寄る啝啝に悧羅は苦笑を隠せなかった。
“姫君、そう仰せになられますな”
同じく苦笑しながらではあったけれど妲己が啝咖を宥めてくれてようやく話しが聞けるとその場の誰もが嘆息してしまう。
「で?いつからこれを憑けてくれてたのかな?」
大刀を取り出して柄に浮かぶ華を示しながら尋ねる紳に悧羅はさての?と笑うばかりで一向に応えてはくれない。
「契りの刻にもこのことは流れてこなかったんだけどなあ?」
小さく息を吐く紳から大刀を譲り受けながらそれでも笑うばかりの悧羅に、もう!と苦笑して紳はちらりと妲己を見る。啝咖を宥めたままその側に侍っていた妲己も悧羅を見て笑っている。主?、と尋ねると大刀に手を翳す悧羅が小さく頷くのが見えて話しても良いのだと悟る。どうやら悧羅自身から話すのは気恥ずかしいようだ。
“お前が近衛隊に就いた刻からだ”
その応えに紳だけでなく子どもたちもが声を上げた。
「はあ?!」
「そんなの800年も前になるじゃない!?」
「契るどころか恋仲でもなかったでしょ?なんで??」
紳と悧羅の間に何があったかを知っている子どもたちは信じられない、と口々に言い始めるが事情を知らされていない舜啓や瑞雨と憂玘などはきょとりとしてしまう。特に舜啓は長く悧羅のことを知っているからこそ、どういうこと?と眉根を寄せてしまった。隣で手を繋いでくれている媟雅を見ると、色々あるんだよ、と笑われてしまうが納得は出来ない。
「紳、まさかとは思うけど悧羅を傷付けたりしたとかじゃないよね?」
詰め寄る舜啓にどうしたものかと紳が頰を掻いてしまうが、これは話すしか無さそうだった。かいつまんで語り始めると話の途中から苦虫を噛んで腰を上げようとする舜啓を媟雅がどうにか留めた。それでも話が終わると舜啓は紳に喰らいつかずにはおれなかった。幼い頃に何気なく聞いてしまった父母のようにはならないのか、と聞いた時の悧羅の哀しげな表情を忘れたことなどなかった。それがどのようなことを指していたのかなどただ紳と想いが通じ合っていなかったからなのだと思っていたけれど、話を聞いてしまった今では腑が煮えくり返るのをとめられる筈もない。
「…なんてことしてくれてんだよ…」
今にも紳に殴りかかってしまいそうな舜啓を舜ちゃん、と止めたのは姚妃と湖都だ。咲耶に瓜二つの容姿をした湖都は舜啓と媟雅の娘だ。100年ほど前に生まれてくれた湖都はただ静かに父様と嘆息している。
「だって湖都…」
「だっても何もないよ?紳くんと悧羅ちゃんには二人にしか分からないことがあるの。父様が悧羅ちゃんを特別に大事にしてるのは知ってるし素敵なことだと思うよ?でも今が大事でしょ?」
「それはそうだけどさあ…。悧羅は俺にとって大事な女で母親なんだ。そんな女が俺の知らない所で泣いてたなんて…。悔しいよ」
「でも悧羅ちゃんはそうは思ってないよ、きっと。ねえ?悧羅ちゃん?」
視線を向けられた悧羅は大刀に翳していた手を離して小さく微笑んだ。
「そうだの、妾の勝手でしてしもうたこと故、紳を責めておくれでないよ?里の何処かで紳が倖でおってくれておると思わばこそ要として長として里を支えておれたに」
くすくすと笑いながら大刀を紳に返しているが舜啓はでも、と納得がいかないようだ。
「それに妾には舜啓がおってくれたではないか。名を呼び母と慕うてくれる其方がいつ如何なる刻でも小さな手を繋いでくれておったであろ?とても救われておったのだよ」
「…それくらいしか出来てなかったもん」
「なんの」
舜啓の言葉に微笑みながら悧羅が自分の隣に来るように床を叩いた。行っておいでとでも言うように媟雅に繋いでいる手を叩かれて舜啓は悧羅の隣に動く。優しい微笑みを讃えたままで悧羅は舜啓の頰に触れた。
「余りある程であるよ?…子を持てぬと思うておった妾には舜啓がおらばこそそれで良いと思うておれた。何より今この時に妾が倖を手に出来ておるは紳がおってくれてこそ。過ぎ去ってしもうたことなどほんに些末なことであるのだから」
「悧羅がそう言うなら俺が何を言える訳もないんだけどさ…。とりあえず後で紳は殴らせてもらうとして、その疵は俺にも見せてよね?」
「何でだよ!」
殴られることが決まってしまった紳が慌てながら舜啓に言うが一瞥を向けられてしまう。
「悧羅は俺の大事な母親なの。それなのに残る程の疵があるなんて知って見ずにいられるわけないでしょ?」
「それはそうだろうけども!悧羅の肌を見なくったっていいだろうがよ?」
「肌じゃなくて疵だよ。紳がなんて言ったって見せてもらうからね」
頰に当てられたままの悧羅の手を掴んで言い切る舜啓に、おやまあ、と悧羅は笑っている。じゃあ私たちも、と姚妃や湖都まで言い出して紳も肩を落とすしかない。少しでも味方を増やそうとちらりと忋抖に視線を向けてみたが苦笑しているばかりだ。確かに忋抖が堂々と悧羅の肌を見せることについてここで何か言える筈もないのだが視線だけでどうにかろ、と言われている気になってしまった。ああ、もうと頭を掻く紳に悧羅は鈴を転がすように笑っている。
「致し方なかろうよ?ただの古疵じゃて、そのように気を落とすでない」
「いや、でもね?悧羅の肌を見せるっていうのがさあ…」
「そうは申しても上の子らには既に見せてしもうておるではないか。何のことはない。ほんにただの古疵であるだけのこと。…それで紳が思い出してやるせないと申すのであらば諦めねばならぬが、今となっては些末なことであろ?」
舜啓と繋いだ手はそのままに空いた手で頬に触れられて紳はますます肩を落とした。
「…思い出さない日なんてないよ」
「であればこそ、皆に知ってもろうておるのも良いやも知れぬよ?今この時に紳が妾の傍におってくれておるのがどれほどの倖であるのかも知ってもらえるというものだ。それに、それを済まさねば紳が気にしておる大刀についても語ってやれぬではないか」
「それはそうかもしれないけど…もう!わかったよ」
半ば諦めた紳が是を示すと当てられていた頬がくすぐられてから離される。そのまま悧羅が子らを手招きすると、一緒になって一度見たことのある子どもたちも寄ってくる。
「お前らは見たことあるんだからもう良いじゃないか」
「何度でも見ときたいんだよ。父様と母様の想いの深さなんだから」
項垂れている紳の肩を媟雅が叩いて慰めているのを微笑ましく見ながら悧羅は腹の衣をずらした。途端に目に飛び込んできた夥しいほどの疵跡にそれまで見たことのなかった舜啓や姚妃、湖都、瑞雨、憂杞が息を呑む。いろいろな方向から手が伸びてきて疵跡に触れられるとくすぐったいのか悧羅がくすくすと笑い始めた。
「りらちゃん、いたいのない?」
小さな手で触れてくれる樂采に、いいや?、と微笑むと何処か安堵したような笑顔を見せてくれる。それぞれの手が退かれていく中で舜啓だけが両の掌で疵跡に触れたまま動かなくなってしまった。舜啓?、と媟雅が声を掛けるが動かない舜啓の身体がふわりと悧羅によって包まれた。小さく肩を震わせている身体を優しく撫でると、辛かったね、と押し殺したような声が聞こえてくる。
「今となっては些末なことだ」
笑う悧羅がそう言えるまでにどれだけのことを耐え忍んできてくれたのかなど舜啓には想像することも出来ない。
ただ目の前にある疵跡と触れる引き攣れた感触だけがその時の悧羅の想いを物語ってくれる。
「妾にとりて舜啓がどれほどの救いになってくれておったかなどこれを見らば言わずとも知れるであろ?そう泣くでない。このようなものただの古疵でしかない。何より紳とまたともにおれるようになったはこれがあったからこそ。今では妾の誇りでもあるのだよ?」
ほれ泣くでない、と背を叩かれて悧羅の腕に収まったままで舜啓は紳を見る。
「…俺が譲ったんだからね?」
その言葉に紳も、分かってるよ、と苦笑しながら舜啓の頭を撫でた。
「だからこそずっと護るって」
「だったら殴るのは一回にしといてあげるよ」
「…殴るのは変わんないのかよ」
ますます苦笑を深める紳に、当然と言い放って一度強く悧羅を抱き締めてから舜啓は媟雅の隣に戻る。大きく嘆息しながら腰を降ろした舜啓の手を握って媟雅が、ありがとう、と微笑むのを見ていると紳が悧羅の衣を直し始めた。腹だけを出したつもりだろうが脚の方まで乱れてしまっているのだから悧羅の肌を晒させたくない紳にしてみれば耐え難いことだ。とりあえず衣を整えてから、で?、と紳は話を戻す。
「俺が近衛に入ったのなんて悧羅は知らなかったんじゃないの?何で大刀に護りなんて憑けてくれてたのかな?」
傍に置いていた大刀を手にとって尋ねるがやはり悧羅はくすくすと笑っている。教えてくれる気がなさそうなのは何となく分かったけれど、それには子どもたちも異を唱え始めた。
「母様、教えてくれないと父様がまた籠ってでてこなくなっちゃうんだからね?」
「ほんとだよ。此処で話してくれないなら寝所で自分だけ聞けばいいくらいすぐに考えちゃうんだから。やっと最近になって近衛隊隊長としての姿を思いだしてくれたんだから」
お目付役の啝咖と皓滓に、本当に勘弁して、と哀願されて悧羅が、おやまあ、とますます笑い出すと妲己も笑いだした。
“主よ、御子方にあまり心労をおかけするものではございませんよ?”
「そうは申されてものう。少しばかり気恥ずかしゅうもあるに」
鈴を転がすように笑い続ける悧羅に、だから!、と灶絃と玳絃が声を揃えた。それに声を上げて笑いながら妲己は尾を振った。
“我と主の秘事故知られてしまいますのは少しばかり淋しゅうございますが。御子方も主の護りについてお知りになられたいようでございますので。さあ、早くお話にならねば我が話してお聞かせ致しますよ?”
「…それはちと困ったことになるやもしれぬのう」
“そうでございましょう?”
揶揄われるように妲己に目を細められて悧羅は、やれやれ、と小さく息を吐くしかない。このまま妲己が話してしまってはあることないこと、それも面白可笑しく話すに違いない。出来れば知られずとも良いと思っていた事柄なのだが話さなければ子どもたちの言うように寝所で悧羅が話さざるを得なくなる程に紳の手で堕とされるのは分かりきっている。しかし話しても良いものかとも思ってしまうのだ。子どもたちが言うように800年前など紳と恋仲であった訳でもなく護りを与えたのも紳さえ無事で健やかに過ごしていてくれれば良いという悧羅の手前勝手な想いでしかない。であればこそ契りの刻に於いてもこれだけはと流れ込むのを拒んだのだ。悧羅が手前勝手に行ったことで紳にいらぬ思いを負わせたくはないのだが、それを言ってしまえば子袋を潰したことでさえ悧羅の手前勝手だということも紳は今よりももっと否と言うのだろう。再び小さく嘆息して妲己を見やると早く話してしまえとでも言わんばかりに笑いを堪えているのが見えて悧羅も苦笑するしか出来ない。
「…近衛に入る者の名が妾に挙げられることは存じておるかえ?」
小さく嘆息しながら紡いだ言葉に紳以外が否を示した。長である悧羅を護ることが近衛隊の最重要任務だ。邪な考えや素性の明らかでない者を近付けて万が一のことがあってはならない。元々は荊軻が言い出したことだった。悧羅が長として立った時に、何処に至らぬ考えをもつ者がいるかは分からないのだから、せめて近衛隊に入る者だけは知っておくべきだと言う名目だったと思うが断ったものの押し切られてしまったのだ。
「ただでさえ腐敗した官吏を一掃なさったのです。里まで移した中ではどのような考えを持つ者が何処におるとも限りません。そのような中で長の御側近くに不埒な者をおくことなどできませぬでしょう」
「妾も己の身ほどは護れるに」
そうも言ってみたが荊軻は退かなかった。
「上げた者たちの名を全て御目通し下さいませ、とは申しあげませんよ?ひとつの壁としての役割であると思うていただければよろしいでしょう」
そこまで言われてしまっては頷くしかなかったのだが、あげられた文書の中に紳の名を見つけてしまった時には心の臓が跳ね上がった。何故という思いとともに荊軻はこれを見せたかったのかもしれないとも思った。心の奥底に沈めた想いとはいえ無くなってしまったわけではなかったから。同時に何と危ういことをと案じる気持ちが大きくなり何かせずにはいられなくなったのだ。
「その文書の中に紳の名を見つけてしまっての。危ういことが紳の身に降り掛かることのなきように、と思うてしもうてな。とはいえ手は離してしもうておった故、気取られぬようにせねばならなかったのだが。…妾が隣におることを許されずとも紳が良き者を見つけた時にも少しばかりの助けにはなろうしな」
困ったように話す悧羅の手を紳が強く握った。
「でも悧羅に大刀を見せたことなんてなかったよね?それはどうやってくれたの?」
「それは妲己に頼んだ。妲己であらば姿を見られず突き止めてくれるでな。紳が懇意にしておる鍛治師が造り上げた頃に、の」
「…よく妲己が動いてくれたもんだよ」
苦笑しながら紳に見られて妲己は軽く尾を振った。紳が近衛に入ったのは悧羅の立式の後だ。しかも大刀を拵えたのは里を移してからになる。その頃であれば妲己の紳への怒りはまだ大きかっただろう。いくら悧羅の頼みとはいえ何も言わなかったとは思えない。
“…腹に据えたとも。だが我の主は全ての倖を捨てておられた。その主が紳さえ平穏に過ごしてくれておるのならば後は何も望まぬとまで申されたのだ。そうまで言われて否やなど申せもせぬだろう”
ふん、と顔を背けながら妲己もその時のことを思い出す。あんな者など捨て置けばいいと言った妲己に悧羅は穏やかに微笑んでいた。その顔が何故か泣いているように見えてそれ以上は妲己も何も言えなくなったというのが正しい。拵え終わった大刀が紳の手に渡る前に悧羅と共に鍛冶場へ赴いた。誰にも知られてはならなかったから宵も更けて静寂だけが包む中で悧羅は大刀に護りを授けた。望まぬ夜伽の後で泣きぬれた顔で決して大刀に触れないように。きっと自分が触れては紳を汚してしまうと思っていたことは妲己であるからこそ感じ取ることができた。
「…紳にとりては煩わしいことこの上なかろうな…」
与えた護りの上から誰であっても気付かないように秘匿の呪を掛けながら呟く悧羅の顔を忘れたことなどない。
「でも、その後は?哀玥と睚眦が言うには薄くなったら掛け直してるってことじゃない?…母様が忍んで父様の処に行ってたとは思えないんだよね?」
首を傾げて灶絃が尋ねるが悧羅は、そのようなこと、と微笑みを深くした。
「一度施してしまいさえすらば何処におろうと同じこと。紳が近衛隊隊長に任じられてからは妾の側近くにおってくれたでな。さらに容易うなっておったの」
ふふっと笑う悧羅の隣で紳は頭を抱えながら大きく息を吐いた。まさかそこまでしてくれていたとは考えてもいなかった。あれほどの思いを強いてしまったのに自分の知らない所でも悧羅は紳を護ってくれていた。赦されない言葉をぶつけて生命さえ削らせることになっていたというのに、それでも紳の過ごしていく刻が平穏で倖に溢れるようにと願ってくれていたのだ。頭を抱えたままの紳にすぐ隣から呼ぶ声がするが振り向くことが出来ない。今悧羅の顔をみてしまったら必死に抑えている想いとともに涙も溢れてしまうだろう。幾度か名を呼ばれても、ちょっと待ってね、としか言えない紳に悧羅が小さく嘆息するのが聞こえた。
「…ほれ、やはり話すべきではなかったであろ?妾の手前勝手な想い故、紳が知らば戸惑うと思うておったから黙しておったというに…。すまなんだな、紳。聞かずであったということにしてはもらえまいか?」
優しく握ったままの手を叩かれるが、そうじゃない、としか紳には言えない。ただ繋いだままの手にますます力を込めるとやれやれ、とでも言うように忋抖が笑いだした。
「違うよ悧羅、そうじゃないって。父様は知らなかったことこそが悔しいんだよ」
くすくすと笑いながら言われて悧羅は、はて?、と首を傾げた。
「だって悧羅はずっと精気を獲らなかったでしょ?その呪だって憑けた刻はそうじゃなかったとしても繋いでいくためにはそれなりに生命を削ってたんじゃないの?」
「…それは後のことであるしのう…。そうは申してされても大したことでもないでなあ」
里や民の暮らしを護る為ならば悧羅は幾度となく鬼として長として能力を行使ってきた。代替りしたすぐの頃は里も落ち着かず若い鬼女であった悧羅を訝しむ者も多くいたし、先代の御代で安穏としていた者たちからの反発もあった。それらを治る為に度々能力を行使っていたから悧羅が蓄えていた精気など50年程で尽きてしまった。それからは少しずつ生命を削っていたけれどそれでこの生命が早く終わってくれるのであれば悧羅にとっては望ましかったし、そうであって欲しいと願っていた。
次の日に目が覚めることがないように、と毎夜願いながら妲己に包まれて眠りに落ちていたのだ。
何より里を護る為に行使うよりもただ紳を護る為に行使いたかった。大刀に憑けた呪も大して強いものではないのだし役に立っていたのかさえ分からない。それほどに弱々しい呪であったからそれが悧羅の生命を直接的に削ることにはならなかった筈だ。
きょとりとしてそう告げる悧羅に忋抖は肩を竦めて見せた。
「悧羅はそうでもないって思ってても悧羅が施した呪はとっても強いんだよ。上から秘匿の呪まで掛けてるなら父様の大刀には2つ悧羅の能力が乗ったってことでしょ?俺が同じことしようとしたら毎日でもヒトの子から精気を貰わないと賄えないくらいのものなんだよ?」
「それはちと大仰ではないか?大した呪でもないというに」
ますます首を傾げる悧羅にその場の全員がとんでもないと手を振った。
「母様、前に啝咖が言ったでしょ?母様は極々自然に息でもするかのように里を護ったり出入りの門の呪をずっと行使ってるけど普通の鬼ならそんなこと出来ないんだってば!」
「そのようなものなのか?ほんに大したことではないのだよ?」
「大したことなの!だから父様がこうなってるんだから」
子どもたちに指し示されてもう一度紳に悧羅が視線を戻して名を呼んでみるのだが紳は一向に顔を上げてはくれない。
「…ほんとにちょっと待って…。俺今悧羅の顔見たら泣いちゃうから」
ようやく絞り出した紳に、悧羅はおやまあ、と微笑んだ。その姿に子どもたちは声を上げて笑いだしている。
「ね?父様は知らなかった事を知っちゃって今どうしようもないんだよ。申し訳なさと悔しいのと有難いのとできっと頭の中がぐちゃぐちゃなんだ」
「…多分今すぐにでも寝所に飛ひ込みたいんだろうけど、それはこっちを済ませてからにしてもらおうかな?」
笑いながら諭す忋抖に押されるように玳絃が自分の大刀を取り出した。それを悧羅の前に置くと、他の子どもたちも自分の武具を取り出していく。媟雅や姚妃は自分が日頃使っている筆を出して悧羅の前に置いた。ずらりと並べられた物を前にして悧羅はくすくすと笑っている。
「父様だけってのは無しだよね?」
さあどうぞ、と護りを求める子どもたちに堪え切れなくなったのか悧羅が声を上げて笑いだした。それどころか妲己や哀玥、睚玼まで笑い出して、え?、と子どもたちはまさかと思った。
『お気付きになられておられなかったのですか?』
【主がお前たちだけ粗末に扱う筈もないだろう?】
哀玥と睚玼に諭されて皆が妲己を見ると大きく尾を振る姿が目に入る。
“我らの主は御子方が手にされた時より既に護りを御与えになられておいででございますよ”
くっくっと笑われながら妲己は言うが子どもたちには並べた自分の武具の何処に護りが憑けられているのかが分からない。まじまじと見つめる子どもたちの前で悧羅が空いている手をひらりと武具の上で振ってみせると仄かな紫の光が見え始める。
「少しばかり弱まっておるに掛け直しても良かろうの」
仄かな光の中でそれぞれの武具や筆の一部に小さな蓮が浮かび上がってきて見守る子どもたちが息を呑んだ。それは刀身であったり柄であったり鍔であったり、筆であれば持ち手の部分であったりと様々ではあったけれど確かにそこにある。
「紳が与えてくれた倖に何某かあらば妾の身は裂かれてしまうに。要らぬと申されればすぐにでも解く故、今しばらくは妾に其方等を庇護させてたも」
揺らいでいた光を吸い込むように置かれた武具の蓮が一瞬輝くと光が収まるに連れてまた蓮も見えなくなった。
「お願いしといて何なんだけど、これだけの能力を行使って母様は本当に何ともないの?」
光の消えた自分の武具て手にとって確かめながら皓滓が尋ねるが悧羅は静かに首を振るばかりだ。どんなに確かめても目を凝らしてみても先程はっきりと浮かび上がった蓮はもう何処にも見当らない。それ程に完璧に秘匿されているのだから例え紳であったとしても睚玼の言葉がなければ今も気付くことはなかっただろう。自由奔放な睚玼のことだからほんの僅かばかり気付けるように手を貸したかもしれない。悧羅が隠しておきたかったのも分かってはいたのだろうが、それでも紳は知っておくべきだとでも思ったのだろう。何よりこの事を知っていた妲己が睚玼の独断で教えてしまったことに異を唱えていないことがまず有り得ることではない。それは妲己もそうして欲しいと思っていたからではないだろうか?自分たちが戻ってくる前に躾と称して少しばかり痛い目には合っているだろうが、それでも妲己も話して聞かせることを受け入れたのだろう。
「この程度の呪などなんのことはない故、案じずともよい。なれどほんに大したものではないのでな、あまり無理をしておくれでないよ?」
子どもたちにそれぞれの武具を返しながら言う悧羅から受け取りながら、そういえば、と忋抖が口を開いた。
「樂釆の武具なんだけど大鎌って本当なの?それも悧羅が造ってくれるって話だけど何で?っていうかそんなことして大丈夫?」
座った膝に樂釆が乗ってきて大刀を触ろうとするのを制しながら悧羅を見ると微笑みながら左手に紫の鬼火を一つ出してふうっと息を吹き掛けた。一瞬鬼火が大きく燃え上がると長い黒柄に長く曲がった黒刀がそこに顕れた。大きさにして紳や忋抖の背丈を裕に越える大鎌の柄を持ってくるりと返して刀身を掴んだ悧羅は大鎌の柄を忋抖に向ける。忋抖が柄を掴むのを見て刀身から手が離されるとずっしりとした重みとともにふわりとした悧羅の能力が伝わってきた。
「…これ…、凄いんだけど?!こんな良い物樂采に使わせてもいいの?」
膝の上から、がくとの?、と顔を輝やかせる樂采が触らないように寄ってきた姉弟妹達に大鎌を渡すと皆驚きの余り、嘘お、と呟いている。紳も漏れ出る気配に気付いたのか顔を上げて大鎌を見やると小さく笑った。
「睚玼がそれでなければならぬと申しておるでな。里に大鎌を誂えられる者はおりはせぬであろ?であれば妾が拵えるしかなかろうて。とはいうてもまだ仕上がっておるわけではないに。忋抖がこれでよろしいと言うてくりゃるのであらばこのまま進めてゆくが?」
「良いも何も…。過ぎるくらいの物だよ。でも本当に良いの?父様だって悧羅に武具なんて拵えてもらったことないんでしょ?それを樂采になんて…」
背後で姉弟妹達が取り合うように大鎌を触りながら感嘆の声を上げているのを聞いている忋抖が焦ってしまうと、だそうだが?と悧羅が紳を見る。それにうん、と頷くとよいしょ、と紳が立ち上がった。
「ちょっと貸して」
瑞雨の手に渡っていた大鎌を受け取るとそのまま戸を開けて庭に降りた。
「悧羅」
紳が名を呼ぶと紫の結界とともにぐん、と皆の身体を引かれる感覚が走った。え?、と声を上げる皆が紳が降りた庭が自分たちとかなり離されたことに気付くより先に紳が大鎌を使い始めた。刀身だけでも紳の背丈を超える大鎌を手にして使い慣れた大刀と同じように紳は舞うかのように軽々とその感触を確めている。揺らぐ結界の外では一振りするごとに池が波打ち樹々がしなって葉を散らしていく。大鎌を手にしたのは初めてである筈なのに自分の手足のように振るう紳の姿に誰からともなく、嘘でしょ?、と感嘆の声が漏れた。
紳の実力は里の者なら皆が知っていることだ。何より子どもたちや舜啓たちなど幼い頃からその姿を見てきたし、その背を追いかけてきた。だからこそ今この瞬間の紳の姿に震えさえ覚えてしまう。
「しんくん、すごおい!」
無邪気にはしゃぐ樂采が手を叩いて笑うのと紳が大鎌を試し終えて肩に担ぐのは同時だった。うん、と笑う紳に導かれるようにまた皆の身体が引かれるといつもの距離に庭が近付くと、部屋に向かって歩き始める紳を招くように悧羅の結界が消えた。
「良いね。流石は悧羅が拵えてくれただけはある。これなら樂采の能力も活かしてやれるでしょ」
大鎌を担いで部屋に入ってきた紳が満足そうに悧羅を見ると、それはよろしかったの、と悧羅も又微笑んで再び大鎌を鬼火に変えて手元に戻した。掌の上で燃える鬼火を握ると炎はかき消えて仄かな蓮の香だけが残る。
「まだ仕上げてないんでしょ?だったら俺が感じたことも組み込んでくれる?」
「願ってもない」
悧羅の隣に座りながら頬に口付けている紳に、だから!、と忋抖が声をあげた。
「そんなに良いものを樂采に使わせても良いのかって聞いてるの!父様だって難なく使えるなら父様の物にしたほうが良いんじゃないの?!」
「ほんとだよ!何あれ?何あれ?!」
「紳くん、格好良すぎでしょ…」
忋抖だけでなく未だ信じられないと言うような瑞雨と憂玘に嘆息されて紳が苦笑した。
「あれくらいお前たちだって鍛錬を続けていけば出来るようになるよ。俺は樂釆の身体に合うか確かめさせてもらっただけだしね」
「…紳ていっつも笑ってて穏やかだけど、こうした姿を見ちゃうとやっぱり凄い男なんだって思わせられるよねえ。追いつくのはまだまだ遠そうだよ」
「いや!だからあ!父様が凄いのは今更なんでどうでも良いんだって!本当に樂采で良いのかって聞いてるじゃないか!」
「何だよ、珍しく舜啓が褒めてくれたのになあ」
いっかな答えをもらえない忋抖に声を上げて笑いながら紳は、当たり前だと言い切った。
「あれは樂采の物だよ。悧羅が樂采のためだけに拵えてくれたんだから遠慮せずにもらっとけ」
ひらひらと手を振りながら言う紳に、でも、と忋抖が悩むとますます紳は笑いながら自分の大刀を取り出した。
「俺にはこれが1番。…800年も前から悧羅が俺の為だけに護りを与えてくれてたんだ。これ以上の物はないよ」
ありがとうね、と微笑んで悧羅を引き寄せると額に口付ける紳にその場の皆がくすくすと笑い出した。
「あんな姿見せられたら母様じゃなくても惚れるのは仕方ないだろうねえ」
呆れながら笑う啝咖に悧羅が微笑んでいると、それでも、と身体が引き寄せられた。
「それでも俺には悧羅だけだよ」
当たり前のように寄り沿ってくれる紳に悧羅も、同じこと、と擦り寄った。
読んでくださってありがとうございました。
お楽しみいただけたなら嬉しいです。