凪ぐ【ナグ】
更新します。
日常回です。
一度目の見廻りを終えて近衛隊舎に戻った紳は戸を開けると同時に、ふはっと笑ってしまった。隊舎の中の一番奥、隊士達を全て見ることの出来る卓は紳の座る処なのだがどうした訳なのか先客がいたようだ。白銀の髪に黒曜石の一本角を持った幼子が何やら懸命に卓の上で書物に耽っているが、その左右に玳絃と灶絃が座らせられて幼子が卓から落ちないように見張らせられていた。先に紳に気付いた二人が苦笑していてますます紳も笑えて来てしまう。
「何してんの、樂采?」
灶絃の頭をぼんと撫でて横を通り自分の椅子に座ってから声を掛けるとようやく樂采も紳に気付いたようだ。振り向いて紳を見つけると余程嬉しかったのかきゃあと叫びながら飛びついてきた。筆を持ったままで飛びつかれて紳の隊服にも周りの卓にも墨が散ってしまう。
「おつとめ!えらい?」
小さな手に大き過ぎる筆を持っていたからか手も顔も墨で汚れてしまっているが本人は満足気だ。どうやら紳の代わりに隊舎内の事を行っていたようで残っている隊士達がくすくすと笑いながらそれぞれに紙をひらつかせていた。紳の場処からも見えるそれには字とは呼べない線が書かれているだけなのだが樂采は指示を出したつもりらしい。
「そうかあ、俺の務めを手伝ってくれたんだな。ありがとう」
見廻りに出る前に置いていた文書は卓の上には見当たらない。樂采が来てすぐに灶絃と玳絃が仕舞ってくれたようだ。
「樂采は優しいなあ、凄く助かったぞ?」
「じゃあしんくん早くおかえりできる?」
「うん、帰れるよ」
嬉しそうな樂采の頭を撫でてやるとまた喜んで抱きつかれて紳も樂采も墨まみれになってしまった。流石にこれ以上汚されては敵わないと思ったのか玳絃が筆を取り上げて灶絃が濡らした手拭いを二つ持ってくる。
「たい兄ちゃま、めっ!」
筆を取り上げられて樂采が頬を膨らませて取り返そうと手を伸ばすが今度は灶絃に掴まれて手や顔に付いた墨を拭き取られてしまう。いやっ!、と手を隠そうとする樂采に茶菓子が食べれないよ?、と灶絃に言われてしまって唇を突きだしながらされるままになっている。齢五つになる樂采はこうしてしばしば近衛隊舎に居ることが多い。まだ一人で翔けることは上手くないのだがお目付役として睚眦が付き添ってくれていた。睚眦も最初は悧羅以外を庇護することに不満を漏らしていたがその悧羅に頭を下げられて頼まれてしまっては否やとは言えなかったようだ。それでも時折、何故俺がと口にしてはいるが存外樂采の側に居るのは心地良いらしく不満を言いながらもしっかりと護ってくれてはいる。きっと樂采から仄かに漂う雰囲気がそうさせるのだろう。とはいえ墨まみれになるのは好まないらしく樂采を近衛隊舎に預けると離れた卓で寝ているか見守りを任せた子らの肩の上にいるかのどちらかだ。今も灶絃の肩や背に貼り付いて飛んでくる墨から自分を守っている。
「ちゃんと悧羅に伝えてきたの?」
墨を拭き取られて玳絃が出してくれた揚饅頭を頬張り始める樂采に紳が尋ねると膝の上から、うん!、と良い返事がある。
「しんくんのお手つだいしてくるっていったよ?おひるねまでにはおかえりするおやくそくもした」
「そうか、偉いぞ」
小さな頭を撫でてやると少し照れたように笑っている。媟雅達が幼子の頃ならば齢五つの幼子を里の中とはいえ一人で宮の外に出すのは紳も悧羅も善とは出来なかった。例え妲己や哀玥が共にいたとしても少しばかりの危うさを感じてしまっていただろう。けれど今の里であれば案じて送り出すことができる。それだけ民達が安穏と過ごせるように日々平穏を作り上げてきたのだ。もちろんそこには悧羅の能力が深く関わってはいる。全ての能力が華開いた悧羅が日々が穏やかに巡っていくように常に里の中のことを感じ取って護ってくれているから造りあげられたのだ。悧羅が長として在ってくれているからこそ突如樂采が忋抖の子であると報せを下ろしたときも大きな混乱はなかった。
膝の上で小さな頬一杯に饅頭を詰め込んでいる樂采に玳絃と灶絃が、ああもう!、と嘆息しながら茶を飲ませ両手に掴んでいる饅頭を取り上げた。やっ!、と取り上げられた饅頭を取り返そうとする樂采を二人とも笑って世話を焼き続けている。
「嫌じゃないって。喉に詰めたらどうすんのさ」
「饅頭は逃げないから落ち着いて食べなさい」
「にげるもん!」
「そしたら一緒に買いに行けば良いだろ?」
姚妃の面倒も見ていたからか幼子の相手はお手のものになっている二人と樂采のやり取りに紳が苦笑していると、やっぱりここにいた!、と忋抖が隊舎の中に入ってきた。紳の膝に当たり前のように座って玳絃と灶絃に構ってもらっている樂釆を見つけて大きく嘆息しながら寄って来ている。紳が帰って来た時よりも跳ね上がって喜ぶ樂采の手から灶絃が湯呑みを取り上げた。
「溢れるってば!」
その横では既に溢れた茶を玳絃が、やれやれ、と拭いているが樂采は気にすることもない。近付いてくる忋抖を紳の膝の上で飛び跳ねて待っている。がたがたと卓を揺らしているのを、こら!、と忋抖が押さえて止めるが目の前に来た忋抖に樂采は飛びついた。
「父しゃま!」
勢いよく飛びつかれてしまって頭で顎を強打されながらも忋抖が樂釆を受け止める。
「樂采?ここは遊び場じゃないって教えたでしょ?父様が帰ってくるまで御利口に待ってるって指切りしたのは誰だったかな?」
じんじんと痛む顎を摩りながら尋ねる忋抖に樂采はきょとりとしている。
「がくと、お手つだいしてたんだよ?おじゃましてないよ?」
「いやいや…」
忋抖の腕の中で胸を張って見せる樂采と墨まみれの紳や後始末に追われる玳絃、灶絃の姿に忋抖は肩を落としてしまう。どう見ても邪魔をしていたようにしか見えない。この調子では紳はともかく玳絃と灶絃の務めは滞ってしまっているだろう。悪い、と詫びる忋抖に玳絃も灶絃も笑うばかりだ。
「小さな近衛隊隊長の指示を受けてただけですよ、副隊長?」
「そうそう。隙あらば籠ろうとする何処かの隊長とは違って務めに懸命ですからねえ?」
ちらりと二人に見られた紳は残っていた饅頭を頬張っている。
「ほんと誰のことだろうなあ?」
揶揄われているのにくすくすと笑うばかりの紳は灶絃の手から茶を奪いとった。
「樂采が手伝ってくれたから今日は早く帰れそうだよ?ねえ?樂采?」
笑いながら紳に言われて樂采は、ほらあ、と忋抖にますます胸を張って見せている。その姿があまりにも幼子の頃の忋抖にそっくりで紳はつい声を上げて笑ってしまう。
「そうやって皆が甘やかすから樂采がここに来ちゃうんでしょ?本当にもう…」
「良いじゃないか。それだけ安穏としてるってことだし樂采だってお前や俺たちと一緒に居たいんだろ?」
「だからそういうことじゃないんだってば」
再び肩を落とした忋抖を今度は隊士達もこぞって笑い出した。その光景に紳も嬉しく思ってしまう。
5年前に樂采を手にした忋抖が一番に案じていたのが、皆に受け入れてもらえるのだろうかという事だったからだ。忋抖に契りを結んだ者がいないことは民達ならば皆が知っていることでもあり、ましてや里の鬼女との間に子を授かったわけでもない。一目見れば忋抖と瓜二つなのだから疑いようもないのだが、どうして、という疑念を抱かれてしまうと思っていたのだろう。一人一人に藍琳のことを説いていく必要はないと紳も悧羅も伝えてはいたけれど鬱々と考え込んでいたことも知っていた。忋抖も自身になら何を言われようが受け入れる覚悟は出来ていたが樂采が暮らしにくくなるのではないか、と気を揉んでいたようだ。けれどそれを打ち消したのは紳でも悧羅でも宮で共に過ごす者たちでもなく栄州の一言だった。
樂采の事を周知させるためにもまずは重鎮達に話そう、と言う紳と共に朝議に向かった場で事の顛末を紳から聞かされた栄州はその場の誰よりも喜んで涙しながら老いた手で樂采を抱いてくれた。
「何と…!忋抖若君の子であらせられると!」
そうかそうか、と喜ばれて忋抖はきょとん、としていたがもちろん重鎮達に忋抖が隠してきた想いやこれからのことを全て話したというわけではない。それはほんの僅か、忋抖を許してくれている者たちだけが知っていれば良いことで、伝えたとしてもきっと解ってなどもらえず侮蔑や非難の声が上がると忋抖が信じて疑わなかったからだ。だが重鎮達は深くを聞かずその場に居る樂采をそのままに受け入れ喜んでくれた。
「いつぞやの忋抖若君を思い出しますなあ。…このような褒美まで貰うてしもうて、我は真今生に思い残す事など無くなってしまいましたぞ?」
年老いていつ定命が来てもおかしくないと相談役の任を返したいとまで言っていた栄州が今まで勧めてくれていた相手と良いようになれなかったことを忋抖は詫びていたが、なんの、と栄州は笑っていた。
「お気に病まれますな。元より忋抖若君の御目に適う者が居るとは思うておりませんでしたのでな?」
それ以上を語らずに荊軻や枉駕と取り合うようにして樂采をあやし始める姿を見て重鎮達は気付いていたのだ、と忋抖も悟ったようだった。それでも何も言わず聞かずで受け入れてくれる3人の姿にほっと安堵しているのが見て取れて、な?、と紳は忋抖の頭を撫でた。紳と悧羅に優しく微笑まれて忋抖は今度こそようやく本当に胸を撫で降ろしていた。他の子ども達と磐里と加嬬にも紳がかいつまんで説明したことで一応納得したように見えたけれど、ふうん、と何か言いたげな弟たちのことは放っておいても良いと思えたようだ。それからは紳と二人きり以外では悧羅を名で呼ぶようにもなった。弟たちからは狡い!、とも言われたようだがそこは気にしても仕方がないだろう。
「兄様だけって狡いよ、父様!俺たちだって母様の名前を呼びたいのに!」
いい歳をして駄々を捏ねる倅達を宥めるのにはほんの少し苦労したのは事実だが、色々と頑張った褒美ということにしておいた。それでも駄々を捏ね続ける倅達には悧羅の一言が効いた。
「おやおや、では妾を母と呼んでくりゃる倅がおらぬようになってしまうのう…。なんともせんないこと」
ほうっと小さく嘆息した悧羅に倅達は一斉に、母様でいい!、と声を揃えていたのだから本当に悧羅は凄いと笑えてしまった。
あれから5年かあ、と忋抖に抱かれている樂采を見ていると自然と笑みが溢れてしまう。
樂采はとても不思議な子なのだ。
赤子として生まれ落ちたにも関わらず普通の赤子のように母からの乳を必要としなかった。腹が空いたと泣くこともなく何も口にしないからといって痩せていくでもない。他のことは何処の赤子とも同じだったがそれだけが違った。必要としたのは王母からの精気だけ。それも一月に一度程度で良かった。王母の精気で良いなら、と紳が分けてみたがそれは受け流された。蓮からの精気ではなく王母自身からでないと受け付けないことに紳も忋抖も戸惑ったが悧羅はそれはそうであろ?、と笑っていた。
「腹におる姿のままで世に出てしもうたのを引き止めたは王母である故。まだ樂采の中には花弁の気配も僅ばかりは残っておろうし馴染むまでは王母からしか受け入れぬであろうて」
「それって大丈夫なの?王母様直々に分けて頂くなんて樂釆に何か起きたりしないかな?」
焦って尋ねる忋抖にも悧羅は何のことはない、と微笑むばかりだ。
「元を正せば王母に責のあること。為してはならぬことならば手を貸すことなど善とはしておらぬよ。あの場に於いて手を貸したは王母の意思故甘んじておってもよろしかろう。案じずともその内馴染むであろ。樂采が食餌をとれるようにならば手も離れようて」
のう、樂采?と言う悧羅の言葉に間違いは無かった。普通の赤子と同じように少しずつ食餌が摂れるようになると王母から精気を譲り受けることも少なくなり一つを迎えるころには食餌だけで満足できるようになったのだ。その頃には樂采の身体に残っていた花弁の残りもしっかりと樂采の精気と一つになってくれていた。王母から精気を賜ることでもしかしたら次の華の子としてあるのではないか、とは紳も忋抖も少しばかり案じていたので樂采が樂采として成った時には本当に胸を撫で下ろした。そうなるということは悧羅の定命が近いと知ることになるからだ。二人にそう告げられて悧羅はきょとりとしていたが次にはくすくすと笑って見せてくれた。
「そのようなこと案じずともよい。妾の天寿はまだ遠いことのようであるからの」
「そうでなきゃ困るの!」
笑い続ける悧羅を紳と忋抖が嗜めたけれど悧羅は嫋やかな微笑みを浮かべるばかりだったのだから何処まで本気で取り合ってくれていたかは分からなかった。その樂采も妲己や哀玥たちに上手く乗れるようになるまでは宮の中で悧羅と大人しく待っていたのだけれど、一度せがまれて悧羅と共に近衛隊舎に来たことがきっかけとなり、それからよく来るようになってしまった。宮には今、樂采しか幼子がおらず退屈でもあるのだろうが、隊舎内で見る紳や忋抖たちの姿に幼心に感銘を受けたらしい。以来何度も行きたがる樂采に伴って悧羅が近衛隊隊舎によく降り立つようになったものだから、一時期は紳が務めを放棄するまでになってしまった。悧羅を見れば膝に乗せて離さなくなるのだから、もう!、と皓滓に叱られてしまったので悧羅の代わりに睚眦が伴うようになったのだ。紳からすれば悧羅が来てくれる方が喜ばしいのだが近衛隊隊長としてあらねばならない時の紳に特に皓滓は手厳しい。啝伽がいる時など二人揃って叱られてしまうのだから降参したほうが早いのもこの数100年で紳が学んだことだった。
「でも良くここにいるって分かったな?朝からあれだけ約束してただろ?」
懐かしい思い出を浮かべながら紳が尋ねると、宮に寄ってきた、と忋抖が樂采の口の周りについた饅頭を拭いながら嘆息している。
「あれだけ約束したからなあって思ってたけど、どうも悧羅と樂釆がひそひそしてたからね。様子見に行ってみたら案の定だったんだよ」
まったくもう、と樂采を抱き直しながらまた肩を落とす忋抖に玳絃が笑っている。
「母様は樂采に甘いもんねえ」
「悧羅だけじゃなくてお前たちが皆で甘やかしてるんだって。だから当たり前に隊舎に来ちゃったりするんだから」
もう!、と三度嘆息した忋抖に、それは仕方ない、と灶絃も笑って樂采の頭を撫でた。
「樂采が可愛いのが悪いんだ。弟が居たらこんな感じなんだろうねえ」
「そこは子じゃないのかよ?」
笑う紳にまだまだ良いよ、と灶絃と玳絃が苦笑しているが紳の卓の上にはいつのまにか仕舞われていたはずの文書が置かれて始めている。
「もしかしたらまだ弟妹が増えるかもしれないし?まあ俺はまだでも玳絃がどうなるかは分からないけどねえ」
揶揄うように言われて紳は増やしていいなら良いけど?と言いながら文書を開き始めたが玳絃はそうでもなかったらしい。
「ほんと、勘弁して…」
しばらく頭を悩ませていることを突かれて紳の横に置いていた椅子に嘆息しながら項垂れるようにして腰掛けた。玳絃が頭を悩ませている事が何であるかを知っている紳はまあまあ、と笑うしかない。あまり大きな声で言えることでもないのでそれ以上は灶絃も揶揄うことをやめたけれどくすくすと笑えてしまうのは抑えきれないようだ。
「とりあえず樂采は帰ろうか?」
頭を抱える玳絃を慰めるように撫でながら忋抖が言うが樂采は紳が広げた文書を見てまだ手伝うと首を振っている。
「しんくんのお手つだいしないとだもん。えいや!も今からでしょ?」
「それは危ないからもう少し大きくなってからって約束したよね?父様の手伝いも又今度にしよう?」
「いやっ!えいや行くの!」
忋抖が優しく伝えてみるのだが樂采は頬を膨らませてそっぽを向いてしまう。[えいや]と樂采が言っているのは鍛錬のことなのだが広い鍛錬場で鬼達の稽古を見るのが樂采が近衛隊舎に通う目的でもあるのだ。最初に悧羅に連れられて来た時に鍛錬まで見てしまい余程気に入ってしまっているらしい。とはいえ皆が真剣に鍛錬をしている場では忋抖も樂采にばかり気を割いているわけにもいかない。近衛隊副隊長としての任を預かっているのだから忋抖自身もより鍛錬を積まなければならないし、何より隊士達に稽古をつける立場にある。そこに樂采が居てちょろちょろと走り廻られてしまっては気もそぞろになってしまう。せめて妲己か哀玥のどちらかが付き添ってくれているならまだ安心出来るのだが、何分睚眦は好き放題させてしまうところがある。走り廻る樂采の肩に乗って鼻唄など唄っている始末なのだから。
【少しばかりの怪我などどうということもあるまいに。忋は案じ過ぎるのだ。小さくとも鬼なのだぞ?】
今も灶絃の肩に乗って、やれやれとでも言いたそうな睚眦に忋抖が一瞥を投げるが欠伸で返してくる。
「だから睚眦がそんなんだから連れてっちゃ駄目なんだって!わざと怪我するように仕向けたりするだろ?」
【全くもって甘いものだな。痛みを知らねば危ういことも何を成し遂げるために強くあろうとするのかも分からないままではないか】
「それはそうなんだけど早すぎるって言ってるんだよ。俺だって十を過ぎるまではそんなに連れて来てもらえなかったんだから」
どうにか味方になってもらおうと説いてみるのだが睚眦は鼻を鳴らしながら紳の頭の上に飛び移った。
【…紳、お前が甘やかして育ててきたものだから忋がこれ程までに甘くなっているのではないか?】
文書を手早く片付け続けている紳は突然責任の矛先を向けられて苦笑するしかない。紳が子どもたちに甘いのは里の者ならば誰もが知っている。鬼であるから、妖であるからとはいえ怪我をすれば血は流れるし痛みも伴う。子どもたちが自身で進むと決めた道ならば目も瞑れるがそうでないことならば親として気を揉むのは当たり前のことだろう。何より子どもたちが傷付いてしまうと悧羅の方が傷を負ったように悲しんでしまうのだから、ある程度子どもたちが己自身で決められるようになるまでは護ってやりたいと思う。子どもたちが幾つ歳を重ねようと、護るべき血族が増えてくれる度にその気持ちは大きく強くなっている。そのためだけに紳も己を研鑽し続けているのだから。
「睚眦の言うことも尤もだけど、そんなに急いで大きくならなくったって良いって思ってるからなあ。でないと淋しくなるし俺が居る理も薄くなっちゃうじゃない」
【お前は主の御為だけにあれば良いのではないか?】
「それは大前提だよ。ただね睚眦?子どもたちや樂采たちみたいに悧羅が護りたいものは俺も護りたいし、何よりもこいつらが傷付くとお前の大事な悧羅が哀しむんだけど、それでも良い?」
笑いながら言う紳に睚眦もそれは困るな、と小さな嘆息を漏らしたが、いやしかしだな、とまだ何か言おうとする。それを止めたのはそれまで黙って忋抖の傍らに侍っていた哀玥だった。
『大概にせよ、睚眦』
少しばかり体躯を大きくして紳の頭の上の睚眦を咥えて降ろすと前脚で抑えつけている。
『…ほんにもうおヌシというモノは…。妲己殿が主を、小生が忋抖若君を、おヌシが樂采小若君をお護りすると決めたではないか?いつまでそのように駄々を捏ねておるつもりなのだろうな?』
蜥蜴程度の大きさにしかなっていなかった睚眦は踏まれた脚から逃れることも出来ずにじたばたと手足を動かした。
【哀玥、潰れる!潰れる!!】
『黙しておれば忋抖若君のみならず旦那様まで軽んじることを申すとは何とも情けないこと。どうやらまた妲己殿と小生から躾直されたいとみえる。どれ早速…』
踏みつける前脚に力を込めていく哀玥に待て待て!、と睚眦が哀願している。東王父の元から悧羅と共に戻り意図せず眷属となった睚眦はまだ幼子のようなところがある。悧羅の眷属となったことやそれに伴う事柄は体躯の奥底に刻みつけられているのだから悧羅を護ることに繋がることには否やを言わない。そこは良いのだがどうしても悧羅以外を軽んじてしまう気質がある。東王父とは契約を結んだだけであったので主従の関係というものがまだよく分かっていないのかも知れなかった。元々誰に縛られていたわけでもなくそれなりに能力も持ち悠々自適に過ごしていたからのことだとは分かってはいるのだが、どれ程教えてもなかなかモノにしようとしないのだ。話し方も哀玥としては改めて欲しいところなのだがこればかりは直りそうにない、と妲己が笑ってくれているので従っているに過ぎない。
『よろしいか睚眦。幾度も申しておるが主の言は小生等にとりて全て。主が護るとされておられるのであれば小生等も護るべきこと。何より主が尊ばれておられる旦那様や御子方を共に尊ぶことなど至極当然のことだ。主と忋抖若君が小若君をお前に託されたことを誇りだとは思わぬのか?』
【思う!思うぞ?!】
『思うはておらぬと見えるが?』
【今言っているだろう!真に潰れてしまうぞ!?】
ますます踏み潰されそうになって睚眦が紳!、と助けを求めたが紳は面白そうに笑っている。傍若無人なのは睚眦なのだからと特に気にしてもいなかったが哀玥の話ぶりからして今までも苦労していたことが見てとれた。
「がいちゃんおこられるのがくとのせい?」
目の前で今にも踏み潰されそうな睚眦のことが心配になったのか忋抖の腕の中から聞かれて紳はますます苦笑してしまう。
「違うよ、樂采の責じゃない。ほら哀玥。俺は気にしてないからそろそろ許してやって」
「父しゃまもがくちゃんおこらない?」
笑う紳が睚眦を離すように頼むと忋抖も怒っていると思ったのか樂采はまだ心配そうにしている。少しおろおろとしたような樂采の背中を叩いて怒ってないよ?、と忋抖が伝えるとほっとしたのかにっこりと笑っている。
「哀玥は樂采を心配してくれてるだけだよ?樂采が怪我しちゃうと皆が悲しいし嫌な気持ちになっちゃうからね。だからえいやはもう少し大きくなったらにしよう?」
「だってえ、しんくんも父しゃまも兄ちゃまたちもえいやかっこいいもん。がくともしたいもん」
「もう少し大きくなったら父様が教えてあげるから」
「や!しんくんがいい!」
宥める忋抖に樂采はまたそっぽを向いた。それだけなら良いのだがまさか忋抖でなく紳に教えを乞いたいなどと言われてしまって忋抖は、嘘お、と落胆してしまう。樂采に選ばれた紳は手を伸ばされてまた樂采を膝に乗せたがすぐに両側から文書が片付けられた。
「樂釆は俺に教えてもらいたいの?忋抖が良いんじゃない?」
「や!だってしんくんおつよいもん。父しゃまはしんくんに負けちゃうんだから」
「それはそうだけど。忋抖は凄いんだぞ?里で3番目に強いんだから」
「ええ?そうかなあ?」
納得がいかないように紳の膝の上で足をぶらつかせる樂采に忋抖はまた嘆息するしかない。
「なんで俺をそんなに疑うかなあ?」
小さな額を指で突くと、いつも負けてる、と言われてしまう。確かに鍛錬やその他の手合わせをしている時でさえまだ忋抖は紳に及ばないのは事実なのだが、どうにか舜啓とは肩を並べられるようになって近衛隊の両翼を担っている。それなのにこの評価の低さは何なのだろうと笑えてもきてしまう。
「がくともしんくんとおんなじのつかうの。父しゃまも兄ちゃまたちもみんないっしょがいいもん」
「大刀が良いんだ?」
「うん!かっこいい!」
その姿にまた幼い頃の忋抖が重なって紳が樂采を撫でていると、ならぬぞ!、と睚眦の声がした。どうやらまだ哀玥から逃してはもらえていなかったようで時折潰される!、と呻いている。
「なにが駄目なのさ?」
少しばかり可哀想に思ったのか玳絃が睚眦を救いあげると捕まらないようにするためなのか衣の中に身を隠した。顔半分だけを玳絃の懐から出して、だから大刀だ、と言う。
【樂には大刀は合わぬ。鎌にしろ。大鎌だ】
『睚眦、又おヌシは何を言い出すのだ?大鎌を扱える者などそうおりはすまい?』
ずいっと哀玥に迫られて睚眦は玳絃の衣の中に完全に隠れた。捕まってしまったら今度こそ踏み潰されてしまう。
【樂なら出来る、いや、むしろ樂は扱えねばならぬ。主にも伝えたがそれなら手ずから造ってやると言っていたぞ?】
顔を出さずに声だけを張り上げる睚眦にその場にいた者たちがへえ、と目を丸くした。悧羅が手ずから武具を造るなど聞いたことが無い。里の鍛冶師たちは皆優れたものを造ってくれるし使う者に合わせて整えてもくれる。馴染みの鍛治師を見つけたら生涯その者に任せるのが当たり前なのだし、紳は勿論、子どもたちでさえ悧羅から造ってもらった覚えは無い。紳の大刀も長い付き合いの鍛冶師に手入れを頼んでいるし、子どもたちも紳の大刀捌きに憧れて同じ武具を選んだため紳の馴染みの職人に任せている。何より悧羅が武具を造れるということも知らなかった。
「悧羅が造るって言ったの?本当に?っていうか悧羅ってそんなことまで出来ちゃうの?」
【戯言など言うか。それに主に為せぬことなどある筈もなかろう?】
首を傾げて尋ねる紳に睚眦の声だけが聞こえてくる。
【樂が使うものならばと言っていたぞ?それにお前とて時折主に大刀を預けておるではないか。あれがどのようなことなのか知らぬわけではないだろう?】
「いや、たまに見せてって言われるから見せてるだけだよ?」
ますます首を傾げる紳に睚眦の嘆息だけが聞こえてくる。あのなあ、とまた顔を半分だけ出した睚眦は呆れて大刀を出すように言う。言われるままに大刀を取り出すと灶絃が危ないから、と樂釆を引き取ってくれた。
【よく見てみろ、柄の部分だ】
促されて使い慣れた大刀をくるりと廻してから検めてみると持ち手の部分に微かに見える小さな蓮があった。あれ?、と目を擦るがやはりそこにそれはある。言われなければ気付ない程に小さなそれに触れるとほんのりと温かく護りの呪が掛けられていることが知れた。
【俺が主に着いた時には既にあったぞ?随分と古くからあるもののようだが本当に気付いていなかったのか?薄れた頃には掛け直しているというのに…。まあ主のことだ。お前に気付かれずとも良いとでも思っていたのか、気付かない程度で留めていたのかは知らんがな】
睚眦でも測り知れないほどの前からとはいつから紳は護られていたのだろう?
気付いてた?、と哀玥を見ると小さく笑って頷いた。
『小生が眷属と在るを許された時にはもうございましたよ。いつからかを御存知でおられるのは主と妲己殿だけかと』
「うわあ…。ちょっと俺宮に帰ってくるわ…」
大刀をぎゅっと握って席を立とうとした紳を駄目!、と忋抖、玳絃、灶絃が押し戻す。
「いやいや!こんなの知って務めなんてしてる場合じゃないだろ?すぐに行かないと!」
「務める為の刻なの!」
「だいたい父様だけ狡いじゃない!」
「俺たちだって悧羅からの護りなら喉から手が出るくらい欲しいのに!」
「そんなこと言ったって悧羅は俺のじゃないか。とにかく一回帰ってくるから後は忋抖と舜啓に預けても良いだろ?」
嬉々とした表情を隠すつもりもない紳とそれを必死になって止める子どもたちの姿が可笑しかったのか隊士達が笑い出している。それでもどうにか悧羅の元へ行こうとする紳の首根っこを、駄目に決まってるでしょ?、と掴んだのは皓滓だった。
「…あれ?皓滓、いつの間に?」
「父様が大刀に夢中になってる間に、だよ」
無理矢理に紳を椅子に座らせて晧滓は仕舞われていた文書を有無を言わさずに卓の上に出し始めた。
「いい?父様?父様は近衛隊隊長なんだよ?母様と仲が良いのは安心するけど今行ったらまた幾日も籠るでしょ?啝伽姉様が居ない時は俺が父様の御目付役なの。しっかりと隊長としての責務は果たしてもらわないといけないんだよ?」
卓に文書を広げられて筆を持たされてしまった紳が、ええ?、と落胆しているが皓滓は飄々としたままだ。
「いや、でもさ?俺は今すごくどうしても悧羅に会いたいんだよね?どうにか見逃してもらうってことって出来ないの?」
どうあっても今この時に悧羅に会いたくて堪らない紳が願ってみるが皓滓は出来ないね、と次々に文書を広げている。
「確かに母様は父様の者だけど俺たちの母様だってことも忘れてるわけじゃないよね?母様直々の護りなんてみんな欲しいに決まってるんだよ?それこそ俺たちだけじゃなくて民達や此処に居る隊士達だって授けてもらえるならこぞって宮に押し寄せたい位のものなんだからね?」
見てよ?、と指し示されて紳が周りを見ると隊士達も興を持っているのか視線こそ向けていないものの耳がこちらを向いているのがわかる。
「それはそうなんだろうけど…」
「だから、まずはこの溜まった文書を片付けてからにしてくれる?それから睚眦は樂采をすぐに連れて帰ること!兄様たちと一緒に俺も戻って皆が揃ってから護りについては母様に聞けばいいんだからね?」
ほら、と皓滓が手を叩いて皆が務めに戻るよう合図すると、玳絃の衣の中に隠れていた睚眦も樂采の頭に飛び移った。
【樂、戻るぞ】
帰ると言われた樂采はええ?と不服そうだが忋抖にお昼寝は?、と聞かれてしまい悧羅との約束を思い出したようだ。そうだった、と目を丸くする樂采を哀玥の背に忋抖が乗せると哀玥が逃げようとする睚眦を咥えている。
「妲己に話があるんでしょ?」
苦笑しながら哀玥の頭を撫でる忋抖に睚眦の焦ったような声が聞こえてくる。
【おい待て待て!妲己だけは勘弁してくれ!】
咥えられたままで悪かった、と繰り返す睚眦をそのままに哀玥は忋抖に擦り寄ってから隊舎を出ていく。
「忋の兄様、容赦ないじゃない」
「帰った時の睚眦の姿が見物だねえ」
双子から言われるが忋抖も樂采の安全が係っているのだ。睚眦には少しばかりは哀玥の言う躾とやらを受けてもらった方が良い。
「樂采の身の安全があるからね」
笑いながら忋抖も務めを片付けるために卓に向かう。未だに悧羅の元に戻りたがる紳の前には何か言うたびに新しい文書が積まれて行っている。
「あんまり聞き分けがないと舜啓と兄様の分も任せるよ?そしたら父様だけが残って片付けてよね?俺たちはさっさと帰って母様とゆっくりしとくから」
舜啓と忋抖の卓に置かれている文書を二巻ずつ取って晧滓が紳の卓に置くと、勘弁してくれよ、と嘆いている。山の様に広げられた文書を片付け終わるには今日だけでは決して足りないだろう。これは今日は悧羅を貸してもらえるかもしれない、と一瞬考えを巡らせた忋抖はもの凄い勢いで文書を片付けていく紳を見てすぐに無理だと思い直した。
「ほんっと父様がやる気になるのも堕落するのも母様にだけなんだよねえ。変わらないことで何より何より」
「こんなにゆっくり出来るのも母様がいてくれているからこそのことだしねえ」
穏やか穏やか、と笑い合う玳絃と灶絃に俺のだからね?!、と叫ぶ紳を見やって忋抖と晧滓は笑うしかなかった。
お楽しみいただけましたか?
読んでくださってありがとうございます。