器【弍】《ウツワ》【ニ】
更新します。
小さな赤子を抱えて湯殿から出て来た忋抖は中庭に面する廊下でふと足を止めた。宮で暮らす者たちの部屋は悧羅の呪によってきちんと個別に分けられているから皆が集う処以外で会うことは少ない。もちろんそれぞれに行き来は出来るが成人してからは特に自室に誰か来ることなど殆ど無いと言ってもいい。世話をしてくれている磐里と加嬬以外で自室を訪う者など無かったのに忋抖の部屋の前の縁側に紳が腰掛けて、しかも傍らには膳を埋め尽くすほどの酒瓶を置いて上機嫌で酒を煽っているのだから驚かないわけがない。紳の姿を見るのは忋抖が悧羅と共に戻って来た日以来だ。あとで、と言いながら脱兎の如く悧羅とともに籠ってしまっていたから数えれば五日振りだ。その間に務めにでも出ていようと思っていたのだが、それは磐里と加嬬に止められた。
「旦那様よりしばらくはお休みになられますように、と申しつかっておりますよ。まずは小若君のことをなさるように、とのことでございます」
「しばらくって…どれくらい?」
「さあ?それは旦那様にしかお分かりにはならないかと。どれくらいで足りるかと案じられて笑ってもおられましたよ」
突然赤子を抱いて戻った紳は皆に、忋抖の子だ、としか伝えていないようなのだが忋抖が帰ってきても誰もそれ以上を聞こうとはしてこない。磐里や加嬬は普段から詮索するようなことを好む性格ではないし、妲己たちは全てを知っているからこそ何も言わないでいてくれている。それは分かるのだが、宮で暮らす舜啓たちや他の姉弟妹たちに加えて重鎮達でさえも何も聞かないのだ。それなのに取り合うようにして姉弟妹達が赤子の面倒を見たがるのはどうにも腑に落ちない。何でだろう?、と首を傾げてしまった忋抖にそっと教えてくれたのは哀玥だった。
『落ち着いた頃に旦那様からお話になられる、と』
「なるほどね」
確かに紳が決めてそう伝えたのであれば疑問に思いはしても誰も口には出さないだろう。だが、落ち着いたらというのは果たして宮の中のことなのか、それとも紳自身のことであるのか。
後者だな、とひとり納得していたのだが待てど暮らせど姿を見せなかった。それなのにひょっこりと現われて待っていたかのように座していられたのでは忋抖も声の掛けようがない。どうしたものか、と濡れたままの髪を手拭いで拭きながら立ち尽くしていると気付いた紳が呆れたように手招きしてくれた。
「何してんだよ?」
「いや、いきなり父様が見えたから。あのさ父様、俺…」
「いいからとりあえずこっち来いって」
立ち尽くしたまま言葉を詰まらせた忋抖に苦笑しながら紳は自分の隣を叩いた。その姿があまりにもいつもと変わらないことに一抹の不安を感じながらも忋抖も紳の隣まで歩いて行く。近付いた途端に殴られるのではないかと内心覚悟していたのだが座った忋抖の腕から赤子を引き取って慣れた手付きであやし始める紳にますます忋抖は唖然とするしかない。
「ほんっとに忋抖そっくりだなあ、お前。…ん?、ていうことは俺にも似てるってことかなあ」
赤子の小さな頬をくすぐるように指で撫でながら嬉しそうに笑っている紳から、名前は?、と聞かれた忋抖が、まだと応えると呆れたような目で嗜められた。
「はあ?お前何やってんの?」
「いや、それはちゃんと考えがあるんだよ。それよりもとりあえず殴んなくていいの?」
「…馬鹿なの?お前?」
慌てて言う忋抖に心底呆れたとでもいうように大きく嘆息して紳は妲己と哀玥を呼んでいる。するりと現われた二人に赤子を託しながら暫くの間此処の近くに誰も近付かないようにと頼んでいる。背に乗せた赤子を器用に妲己が尾で巻き留めて姿を消すと続けて哀玥もするりと闇に溶けていく。
二人きりで残された忋抖も何か話さないといけないとは思うのだが何と言葉を出せば良いのかが分からない。何を口にしても忋抖が紳を傷付けてしまったことは変わらないのだ。例えあの時紳も赦していると教えられていても、それをそのまま受け入れてはならないとも思う。忋抖が面と向かって紳に心の内を曝け出したわけでも、心から詫びて許しを乞うたわけでもないのだから。
促されるままに隣に座ってしまったがまずは頭を下げて詫びることから始めなければならなかったのではないだろうか?
ぐるぐると考えを巡らせ続ける忋抖の腕に、ぽん、と何かが触れて急いで振り向くと紳が盃を差し出しているのが見えた。は?、とまた呆気に取られる忋抖に勝手に盃を持たせると紳は酒を注ぎ始めている。
「…いやいや、待ってよ父様?酒呑みながら出来る話じゃないよ?」
「なんで?」
焦った忋抖が訴えてみるが紳は苦笑しながら肩を竦めているばかりだ。
「なんでって…、俺…」
悧羅のことが、と続けたいのに先の言葉が続かない。代わりに紳への詫びを伝えようとするのだがそれさえも口にすることが難しくて止まってしまう忋抖の頭を紳はぽんぽんと撫でた。
「まあとりあえず呑め。言いにくいことなんて誰にでもあるんだから、たまには酒の力を借りたって良いんよ」
ふはっと笑いながら頭をくしゃりと混ぜられて忋抖は無性に泣きたくなるのを必死に堪えた。紳の方が心穏やかではないだろうに忋抖の心が壊れてしまわないように慮ってくれるているのが申し訳なくてどうしようもなくなってくる。
「何なら酒瓶ごといっとくか?」
今にも泣き出してしまいそうな忋抖にますます笑いながら紳が盃を酒瓶に置き換えて、ほら、と促してくる。諦めたように忋抖が酒を一気に煽って大きな嘆息を吐いてから紳を見ると満足そうに笑いながら自分もまた酒を煽り出した。
「…ねえ、父様…。悧、母様は?」
新しい酒瓶を渡してくる紳に意を決して尋ねてみたのだがつい名を呼ぼうとしてしまう。言い直したが紳には聞こえてしまっていたようでまた苦笑を深めていた。
「名前で呼べば?悧羅がそうするように言ってくれたんだろ?」
「…それは、そうなんだけど…。流石に父様の許し無くできないよ。それに父様の前でもそんなに気を抜いてたら何処かでしくじって誰かに勘付かれるかもしれないでしょ?…俺は何言われたって良いけど、それで父様と母様に迷惑かけたくないし」
紳が引いてしまった盃を取って注ぎながら肩を落とす忋抖に紳がまた呆れたような顔をしてくる。
「誰に迷惑が掛かるって?」
「いやだから父様と母様にだよ」
盃を握る手につい力を込めてしまって軋む音がした。下を向いてしまう忋抖の頭にまた紳の手が置かれる。
「そりゃ間違いだな。忋抖が誰を想おうが忋抖の自由だしそれが元で俺や悧羅に迷惑なんて掛かるわけないだろ?」
優しく頭を撫でられて穏やかな声音で諭すようにいわれては涙が溢れてくるのを堪えられる筈もなかった。それでも溢れた涙が零れてしまわないように唇を強く噛んだ忋抖を紳は労るように撫でてくれる。
「でも、こんなのおかしくない?俺のせいで父様と母様が変な目でみられるんじゃないかな?」
「そんなの笑い飛ばしてればいいんだよ。それくらいで揺らぐような信を築いてきたつもりもないし、お前が何したって護ってやれるくらいの自信も覚悟も俺らはとうの前から持ってるよ」
頭を撫でていた手で忋抖の額を軽く叩いて紳は笑う。
「大体お前は考えすぎなんだよ。もう少し自分の心に正直になってもいいんじゃないの?」
そう言われても今回ばかりは忋抖は自分を御し切れなかった。踏み留まれる機会はどれだけでもあったのに結局自分の欲に負けて誰よりも尊敬する紳を最悪の形で裏切ってしまったのだ。軽蔑されても親子の縁を断たれても仕方がないとさえ思っているのにどうして紳はこんな自分にこれほどまでの優しい言葉を掛けてくれるのだろう。
「…いつから気付いてたの?」
持っていた酒を煽って涙が零れてしまわないように空を見上げて尋ねると、ずっと前から、と紳も酒を煽る。
「ずっとって…」
「そうだなあ、お前が最初に闘技に出た頃にはもう気付いてたかな?」
紳の応えに忋抖は、は?、と驚いてしまった。忋抖が悧羅に対して恋情を抱いていると自覚したのはそれよりももっと後のことだ。確かに言われればそう見えていたのかもしれないが当時の忋抖の想いはどちらかといえば羨望や憧憬に近かった。本当にそうだと自覚したのは東王父の件が片付いてようやく穏やかに過ごせるようになってからのことだ。そう言ってみるが紳はくすくすと笑っている。
「だってお前幼子の時から悧羅を護るって言ってたんだぞ?闘技で負けた後から俺が見てない所でもお前が精進してたのも知ってるし、そんなのただ母親を護りたいってだけで続けられるもんでもないだろ?」
「…あの頃は本当に母様を護れるようになりたかっただけなんだけど?」
納得が行かなくて首を傾げる忋抖を見て紳は笑いを深めた。
「だあからあ、それは悧羅だったからなんだって。じゃあ考えてみろよ?もしも悧羅じゃない他の女が相手だとして、そこまでして強くなりたいと願ったか?」
問われて忋抖も暫く考えを巡らせる。紳と悧羅の子であるという民達の大きな期待に応えたいと思っていた。近衛隊隊長である紳と長である悧羅の子である以上過剰過ぎるくらいの期待と重圧を感じていたのは否めないが、それは当然のことだと信じて疑わなかった。産まれた時から肩に乗せ掛けられたものが例え忋抖が望んだものではなかったとしてもそれを民達に納得させなければならなかった。けれど確かに護りたいと想う相手が悧羅ではなかったとしたら忋抖はここまで自分を鍛えあげようとしただろうか?務めの後も休みの日も紳や妲己に鍛錬を乞い、それ以外の刻でさえ寝る間も惜しんで強くなりたいと願ったのは他の誰かでも果たして同じだったのだろうか?
違う、とそう思った。
他の誰かでもそう思えていたのならここまで貪欲に強くなることを望みはしなかった。
紳の言う通り悧羅であるからこそ、だ。
「…思わなかったね…」
「だろ?」
忋抖の答えに満足そうに紳が頷いて空いた盃に酒を注いでくれた。
「大体なあ、他でもない悧羅なんだぞ?本当に悧羅に惚れてしまったらもう全部駄目になるんだよ。憧れとか抱く奴は多いけど其処で終われるんだったら悧羅って女をちゃんと見てない証と一緒だ。何処を探せば代わりになれるような女が居ると思う?」
「…まあ、居る筈がないよね…」
「そうだろう?そんなの赤子にだって分かる」
当たり前だとでも言うように胸を張った紳に忋抖は肩を竦めてしまう。確かに羨望や憧憬で終わらせられていたならここまで悩むことも焦がれることも無かった。弟たちのように悧羅を慕う心はあっても母なのだからと自分に言い聞かせて気付こうとしなければ手に入れられない虚しさを感じることすらなかっただろう。
それでも気付かずにいられたならばとは不思議なことにどうしても思えない。
自分の想いに蓋をし続けて知らぬ振りを通し他の女と契っていたとしてもきっと長くは続かなかった。それで良ければこれまで情を交わした者たちの中から選んでいたと思う。どんなに魅力的だと周りから羨ましがられる鬼女を当てがわれても、ほんの一時悧羅を腕に収められると言われた方が忋抖にとっては価値があるものだったし、ずっとそんな時が来ればいいのにと切望し続けて来たのだから。
「でもさ、父様はそれで良いの?…その…、俺がこのまま母様を想ってても耐えられるの?」
思わぬ形で忋抖の願いは叶えられたけれど既に逑として悧羅と無二の契りを交わしている紳が納得しているとは到底思えない。忋抖が悧羅を想い続けるとなれば、またいつか自分のものだけにしたいと願う刻が必ず来る。一度であれば目を瞑ることも出来るだろうが、これから先の長い生を思えばそうしたいと渇望する日が来ることなど明らかなのに紳は今回のように僅かな刻とはいえ悧羅の手を離して忋抖に預ける事ができるのだろうか?そう思って尋ねた忋抖に紳は大きく嘆息して盃を置いた。
「…良い訳あるかよ、馬鹿野郎…」
憮然として頬杖を着いた紳の顔から笑みが消えている。
「だよね…。だったらやっぱり俺はこれまで通りが良い。でないとまた父様を傷付けることになるだろうから」
元々許されない想いだ。だからこそずっと蓋をして見ない振りをしていた。悧羅を想うことが紳を苦しめることに繋がることなど分かっていたし、本当に紳を傷付けるつもりなどなかった。何より忋抖は悧羅を想うことと同じように紳のように在りたいと願ってきたのだ。父としても一人の男鬼としても憧れ目指すべき目標としても尊んでいる。一度だけとはいえ忋抖の願いは叶えられたのだ。
それだけで有難い。
そう思っているのに紳はまた大きく嘆息している。
「…ほんっとうにお前って馬鹿なの?今俺は言ったよね?簡単に諦められるわけがないって」
「そうだけど、父様のことだって大事なんだよ!俺がこのままでいれば父様をまた傷付けるでしょ?そんなの嫌に決まってるじゃないか!だったら元に戻る方を選ぶよ!」
決死の覚悟で伝えた言葉は、お前ねえ、という三度の大きな嘆息にかき消された。
「何?お前が悧羅を想う気持ちってその程度なの?」
「そうじゃなくて!」
「一回曝けだしたのにまた何にもなかったように仕舞えてしまう程度のもんなの?」
「だから、そうじゃなくて!!」
「だからも何もないんだよ?お前が言ってるのはそういうことだって分かって言ってる?」
違うと言い続ける忋抖の額を紳が指で突ついてくる。
「いいか?よおく聞けよ?俺以外の男が悧羅に触れるのを俺が許せると思ってる?そんなこと考えてるって思うだけでそいつを引き裂いてやりたくなるくらい腑が煮えくり返るんだよ。お前じゃなかったらそんなこと考えた奴は今頃全部殺してるよ?忋抖お前じゃなかったら、だ!他でもない忋抖だから俺は呑み込んでんの!」
言葉と共に額を突く力も少しばかり強まってつい忋抖も、痛いって!、と嘆いてしまった。突くのを止めた紳が、ほんとにもう、とまた頬杖を着くのを見ながら忋抖も額を摩る。じんわりと沁みてくるような痛みを感じるということはきっと赤くなってしまっているのだろう。
「…お前は本当に俺にそっくりだよ。見た目も中身もね」
え?、と痛む額を摩りながら忋抖は紳を見た。
「お前見てるとさあ嫌でも思い出すんだよ。最悪の形で悧羅を傷付けてそれでもどうにか側で護りたくて、血反吐吐くまで鍛えてたこととか、夜伽の相手に選ばれたは良いけど触れたらまた悧羅をどうしようもないくらい傷付けるって分かってたのに我慢出来なくて褒美を言い訳にしてでも一度で良いから受け入れて欲しいって願ったこととかさ」
話す紳は何処が淋しげな眼差しで池に揺れている蓮を見ている。もう懐しむ程に遠くなった日のことだけれど決して忘れてはならない紳の過ちはいつでも心に残っている。
「分かるんだ、俺だって報われなくても一度でも良いから腕の中に収められた思い出さえあれば、その先一生その思い出だけで生きていけるって思ってたから。今お前がそう考えてるってことは嫌になるくらいに分かるんだよ」
「…それは聞いたことなかった。そんなことあったんだ、っていうかそんな大切なこと俺に話していいの?」
紳と悧羅が一度繋いだ縁を断ったことやその時に何があったのかは聞かせてもらっていたから知っている。けれど紳が語っているのは聞かされたことのない話だ。
「いいよ?これ話さないとお前ちゃんと向き合わないと思うしね。悧羅の腹の疵は前に見せてもらったんだろ?あれだけのことを強いてしまったのは俺だし、その上精気も取らずに早く命が終わるようにって願わせてたのも俺だ。精気を500年の間決して獲らずにいたって知ったのは本当にたまたま。悧羅が命を削って里を支えてくれてたのに俺は何も知らなかったし、知らなかったからこそ一度で良いって思えてた。悧羅が一日でも早く自分の生命が終わってくれるのを祈りながら過ごしてるなんて知らなかったから一度だけでも叶えてもらえたなら、その後も遠くからでも悧羅を見続けて想い続けることだけは出来るって思ってたんだよなあ」
夜伽の任を告げられた時に色んな口実を付けて断ることは出来たのに紳にはそれが出来なかった。紳が側にいることも紳の姿を見ることさえも苦痛を感じさせているのは痛いほどに分かっていたのに目の前に悧羅が居て目を合わせてくれただけで一度だけ、と願ってしまった。あの時舜啓が拐かされていなければ、舜啓を庇って腕を落とすことがなかったならば紳はそのまま何も知らずにいたことだろう。願いを叶えてもらいひとり満足して日々を過ごしながらある日突然姿が見えなくなって消えてしまった悧羅を想って嘆き苦しんでいたと思う。いや、もしかしたら悧羅が居なくなってしまった事に耐え切れず自棄になって自分で自分の生命を断っていたに違いない。どうしてそんなことになってしまったのかも永遠に知らされないままで。
「だからお前の気持ちは嫌になるくらい分かるんだよ。分かるからそのままでいいって言ってんの」
「いや、でもさ」
「いやも、でも、もないの!」
慌てる忋抖の額をまた紳が突き出す。
「勘違いするなよ?譲るって言ってる訳じゃないぞ?悧羅の全ては俺のものなんだからな?だけど本当にどうしようもないって時は一瞬だけ俺が居ない時に限って貸してやるってだけだ。だけどそれはお前だからだぞ、忋抖!?」
突かれ続ける額の痛みがどんどん増してくるけれど、なんで?、としか言えない忋抖を突くのを止めた紳は代わりに指で額を弾いてきた。
「何度も言わせるなよ。忋抖だからだって言ってるだろ?」
「答えになってないよ?」
食い下がる忋抖に紳は、仕方ないなあ、と苦笑しながら肩を竦めて見せている。
「悧羅は良い女だろ?」
「は?そんなこと分かってるよ?」
分かりきったことを言われて忋抖は首を傾げてしまう。
「俺は700年、お前は300年。それだけの年月をたった一人だけを想い続けるなんて生半可な気持ちで出来ることじゃない。他でもない悧羅だから俺たちにそうさせるんだ。お前も俺も悧羅じゃなきゃ駄目なんだよ。渇き切った飢えを癒してくれるのは悧羅ただひとりだけ。それを身をもって知ってるのは俺以外ではお前だけだ。だから忋抖、お前は俺にとって特別なんだよ」
「年季が違い過ぎるし、そんなに甘やかすと俺が調子に乗るって思わないの?」
「思わないね」
はっきりと言い切った紳は置いていた酒をまた飲み始めた。ほら、と渡された盃を忋抖も受け取る。
「言っただろ?お前は俺とそっくりだって。そんなお前が悧羅が嫌がる事なんてするはずない。まあ、年季の違いは仕方ないけどね」
「でも絶対またそうしたいって思うよ?」
「そうしたらまた上書きするさ。今回みたいにね」
酒を煽り続ける紳はくすくすと笑ってもいる。そういえば悧羅はどうしているのかと尋ねたのに答えはもらえていなかった。
「ねえ、父様。もう一度聞くけど母様は?」
「壊した」
笑い続けながら紳は置いてある酒をどんどん空にしていく。
「ちょっとやり過ぎちゃったから暫くは起きてこれないと思うぞ?今もぐっすりだし」
悪戯を考えている時の童のような顔をされて忋抖は嘆息するしかない。紳が姿を見せる前に里や出入りの門に掛けられていた悧羅の呪が薄氷のように消えた。消えた気配を感じたのは宮にいた忋抖と舜啓、それに重鎮達だけ。何事か、と駆け付けてきた重鎮達は悧羅に何かあったのではないかと焦ったようだが、紳と籠っていると聞かされて安堵したように去っていったのだ。里はともかく出入りの門の周囲だけは警戒しておくべきだ、と笑いながら。とはいえ本当に紳の手によるものだとは忋抖は思ってはいなかった。これまでどれだけ二人が寝所に籠ろうとも当たり前のようにそこにあった護りが消えてなくなるなどただ事ではない、と見廻りに出ようとしたけれど姉弟妹達が代わってくれた。赤子を護るようにと言いつけられてではあったけれど、それもまた忋抖のことを思っての事だったのだろう。
「そんなに無理させたの?」
呆れてしまった忋抖に紳は笑いを深めるばかりだ。
「そりゃそうでしょ?まあ確かに今回はやりすぎたかなってちょっとだけ反省してるけどやっちゃったものは仕方ない。それに悧羅を壊せるのも堕とせるのも俺だけだしね。役得役得」
「そりゃそうだろうけどさあ、それ俺に言うの?」
得意気に言う紳にますます呆れてしまって忋抖も酒を飲み始めるしかない。
「それもそう…なのか?まあ良いじゃない。だけどなあ悧羅が寝てるのに俺が側を離れられるってのも有り得ない事なんだぞ?いつもなら堕ちてても絶対離してくれないんだから」
「だあからさあ!それ言う必要ある!?」
揶揄われているのは分かるが聞いてもいないことまで話し始める紳から忋抖は酒を取り上げた。ここまで話す紳の顔色が変わっていなくても流石に呑みすぎだろう。現に紳の周りには空になった酒瓶が数十本と転がっている。これ以上呑ませてしまっては後の事が怖くなってしまう。聞かせるつもりはなかったと言い出しでもしたら紳が勝手に話したのだと言っても信じずに忋抖が責められるのは目に見えている。もう!、と酒を自分の方にまとめながら姿の見えない哀玥に水を持ってくるように忋抖が頼むとそう待たずに背に乗せて持って来てくれた。
「父様、ちょっとこれ飲んで!」
水を支度する間、紳に抱きつかれて良いようにされている哀玥もくすくすと笑いながら好きなようにさせている。
「哀玥ぅ、忋抖が冷たいんだよお。俺の酒を取り上げちゃうんだ」
「呑み過ぎなんだってば!ほら、とにかく水飲んで!」
「酒が良いのに…」
哀玥に抱きついたままの紳にどうにか水を渡したがなかなか飲んではくれない。いいから!、と促すと渋々ながらもどうにか飲み始める紳に身体を預けられて哀玥も動けなくなってしまっている。
「父様、哀玥が動けなくなってるよ?居心地も悪そうだし離してやってよ」
紳に周りを見張っておくように言われていたのに寄り掛かられたままでは姿を消すことも出来ない哀玥に代わって忋抖が言ってみるが、紳にますます身体を預けられて哀玥が体躯を伏せた。
「そんな上機嫌になれるような話なんてしてないでしょ?何してるんだよ、もう」
飲み干した湯呑みをぶらぶらと揺らしている紳から湯呑みを取り上げて水差しごと持たせると忋抖は、ごめんね?、と哀玥を撫でた。なんの、と目を細めた哀玥は何処か嬉しそうにも見える。
「ばあか、上機嫌になるに決まってるだろ?これまでの俺の苦労を本当に分かってくれる奴がようやく素直になれたんだぞ?やっぱりお前は俺の自慢の子だったな」
ふふっと笑いながら紳は哀玥から起き上がったが言われた言葉に忋抖は目を丸くしてしまった。あれ?、と哀玥を見るとこちらもまた可笑しそうに笑っている。
『小生の申し上げたとおりでございましたでしょう?』
「そうみたいだね」
笑い続けている紳を見ていると忋抖も自然と笑えてきてしまう。先程まで紳に対してどう詫びたらいいのかと悩んでいたことさえも小さなことだったかのように思わせてくれる。そんな紳が凄いと思うし紳の子であることを本当に誇りに感じた。
「でも父様?そんなに余裕を見せてたらいつか本当に俺が奪っちゃうかもしれないよ?」
「ああ、無理無理。それはないね」
揶揄いを込めて言う忋抖に紳はますます笑って手を振って見せた。
「分からないじゃない?もうちょっと待てば俺より父様の方が先に天に還るでしょ?そうしたら母様は俺が貰ってもいいよね?」
「お前、縁起でもない事言い出だすなあ。だけどそれでも無理だって言っとくよ」
「どうして?分からないでしょ?ねえ、哀玥?」
撫でられて心地良さそうな哀玥に味方をしてもらおうと思ったのだが紳の余裕の笑みは崩れない。
「哀玥に味方になってもらおうったってこればっかりは無理だぞ?哀玥が一番分かってるんだから」
なあ?、と紳に見られるのと、何のこと?、と忋抖に問いかけられるのが被さって哀玥は小さく笑ってしまう。
『小生からは何とも。旦那様がそうせよと命じられるのであれば致しますが』
「そりゃそうだねえ。でもここまで来て隠すっていうのも忋抖に不誠実だと思うんだよなあ」
「だから何のこと言ってるのか分かんないんだって!二人でばっかり納得してないで教えてよ」
全く話の見えない忋抖が痺れを切らす姿が面白いのか紳と哀玥は目を合わせて笑い合っているばかりだ。暫く揶揄われた忋抖が、もう!、と頬を膨らませるとますます二人は笑い出してしまう。まあまあ、と幼子にするように頭を撫でられて忋抖が紳を睨むと笑いながら左手を前に出してきた。その手首にはくっきりとした悧羅との契りの疵がある。
「母様と契ってることなんて知ってるけど?」
「違う違う。そっちじゃないよ、ちょっと見てろ」
不貞腐れて言う忋抖が言われるままに見ていると契りの疵のほんの少し上に小さな蓮の華が浮かび上がってきた。見覚えのあるそれは哀玥の左眼の下にあるものと同じものだった。蓮は言わずもがな悧羅の象徴であり悧羅そのものでもある。だが数日前に忋抖が直に触れ慈しんだものと同じ華が何故紳にもあるのかがどういうことなのかが分からない。哀玥は悧羅の眷属なのだから分かるのだが、何故という気持ちばかりが大きくなる。
「何これ!?」
驚いて目の前の手を掴んだ忋抖に堪え切れずに紳が大笑いし始めた。
「え?なんで?どういうことなの?」
紳の手を引き寄せてまじまじと見る忋抖の頭を乗せたままの手でもう一度撫でて紳は笑いを収めた。
「これが理由。俺と悧羅はほんとに一つなんだよ。悧羅が死なない限り俺は死なないし死ねない。生きるも死ぬのも全部一緒。だから無理なんだよ」
「いや何かもう色々と聞きたいことが多くなってきたんだけど。もう少し分かりやすく教えてもらえない?父様がそうだっていうなら哀玥は?哀玥も母様が居なくなったら消えるってことになるの?」
浮かんだ蓮から目を離せずに聞く忋抖に哀玥が擦り寄った。
『御案じ為されずとも小生は消えたりなど致しませぬよ。旦那様の御言葉は足りておりませぬ。若君を揶揄うて愉んでおられるのですよ。旦那様あまり若君で遊びなさいますな』
蛇の尾でぱしりと叩からながら哀玥に嗜められてしまっては紳は苦笑するしかない。
「哀玥は忋抖に甘いんだよなあ。俺の味方は何処に居るんだよ?」
肩を竦めた紳をまた、旦那様、と哀玥が嗜めると、分かったってば、と今度は肩を落として忋抖を呼ぶ。
「これは道なんだよ」
「道?」
忋抖がきょとりとして紳を見るが手は掴まれたままだ。
「そう、ただの道。王母様の場の蓮から精気を分けてもらうための道ってだけだ。だからさっき言ったことは半分は本当で半分は偽りになるかな?」
「どこまでが本当なのさ?」
「うーん、俺にとっては全部本当のことなんだけどさあ。それじゃあまた哀玥に怒られるだろうからなあ。とりあえず絶対なのは悧羅が死ぬまでは死ねないってところかな?」
紳の答えに忋抖はほんの少しほっと安堵した。紳が言うことが本当なら紳も悧羅も哀玥もそれぞれに別の個ということだ。悧羅が天寿を全うしても二人を伴うことはないのだろう。
「それでも俺は悧羅が居なくなったらすぐに後を追うけどね。そうしないと何処に行っちゃったかすぐに分からなくなるからさ」
「それは知ってるし今更なんで言わなくても良いんだけど、なんでこれが父様にあるのかが分かんない」
「お前冷たくないか?もう少し嫌がれよ」
あっさりと紳が悧羅を追うと言ったことを流されて嘆息する紳だが忋抖はずっとそうすると聞かされ続けていたのだから特に驚くことでもない。むしろ悧羅が居なくなってしまった世に紳が一人で在り続けると言い出すことの方が可笑しなことだ。
「姚妃を身籠ってくれた時、悧羅は本当に危なかったろ?俺も悧羅の側を離れるわけにはいかなくて、ちょっとだけ生命を削ってたら王母様に見抜かれちゃってさ。授けてもらえた。これがあれば精気を獲りにいかずに済むからね」
ああ、と忋抖もその時の事に思いを馳せた。
あの時の悧羅の姿は今でも鮮明に覚えている。真っ白な顔をして座ることも紳に支えてもらわなければできなかった。もちろん起き上がることも歩くことなどももっての他で、紳は片時も側を離れず悧羅と腹で育つ姚妃のために精気を送り続けていた。確かにいつ精気を獲りに行っているのだろうかとは思っていたし、紳がかなりの無理をしているのは見ている誰もが気付いてもいた。何度か自分たちが看ているからと勧めたけれど頑なに紳は頷かなかったのだ。離れている間に悧羅に何かあっては取り返しがつかないと首を縦に振ることはなく、周りで見ている忋抖たちはいつか紳が倒れてしまうのではないかと気を揉んだものだ。それがある日を境に二人とも少しずつ体調が上向いたのは見ていて不思議に思ったけれど聞いても二人とも頑として口を割らなかった。どうにか自分たちに姚妃という可愛い妹を抱かせてくれた時は心の底から安堵したがどうして、という疑念は少なからず残った。だがそういうことであったのなら理解は出来る。
「これを植え付けられる時に王母様に聞かれたんだよ。この先一生を悧羅の側で終える覚悟は変わっていないのかって。そんなの聞くまでもないことなのにさ。悧羅は暫く泣いてそれから怒ってたよ。俺はモノじゃないってね」
「それはそうだろうねえ。母様のことだから父様を本当の意味で縛るのが苦しかったんでしょ」
蓮が少しずつ薄くなって見えなくなるのを見つめながら忋抖は紳の手を離した。
「よく分かってるじゃないか。俺はこれ以上ないくらい倖せだと思ってるけど悧羅は自分の業に俺たちを巻き込むことをとにかく嫌がるからさ。悧羅に縛られていられるっていうのがどれだけの倖せな事なのかってどんなに教えてもなかなか呑み込んじゃくれないんだから、本当に悧羅は俺を困らせるのが上手いんだよね。お前だってそう思うだろ?」
「そうだね、母様にずっと縛ってもらえることが出来て、それでずっと側に居られるんならそれ以上の倖せなんてないかな」
「そうだろ?やっぱりお前は分かってくれてる。悧羅を本当の意味でやることはできないけど、そんな忋抖だから俺はお前を認めて赦すんだよ。だからちゃんと名前で呼んでやれよ?でないと悧羅が哀しむからな」
うん、と頷いたもののやはり他の者の前では憚られる。許してくれている者たちの前だけにしよう、と忋抖が決心していると見透かしたように紳が苦笑してまた頭を撫でてくる。
「誰の前でも、だからな?呼び方を変えたくらいでどうこう言う奴なんて何処にもいないぞ?もしそんな奴がいたら俺が黙らせてやるから」
心配するな、と笑われて忋抖から漏れたのは感嘆の嘆息だった。
本当に凄い、と素直にそう思う。
器が違うし大き過ぎる。
この背中に追いつく為にはまだまだ長い刻が必要だろう。
「でも、父様と二人の時は母様って呼んでも良いかな?遠慮とかじゃなくて俺がそうしたい」
「別にいいけど、なんで?」
「二人の子だっていうのは俺の誇りだからだよ。…それに父様といる時くらいはまだ甘えててもいいでしょ?」
「300超えといてまだ甘えるのかよ?」
仕方ない奴だなあ、と笑われて掻き混ぜられる頭に触れている紳の手が忋抖には堪らなく温かく感じられて笑えてきてしまう。それと同時に一つ大切なことを思い出した。
「あのさ父様に一つお願いがあるんだけど」
「…なんだよ?まだ貸してやれないぞ?」
悧羅をまた貸してほしいと願われると思ったのか紳は忋抖の頭を掻き混ぜるのをやめて胸の前で手を振っている。それに、違うよ、と笑って忋抖が妲己を呼ぶと背に赤子を乗せたままするりと現れてくれる。妲己に礼を伝えながら赤子を受け取るとそのまま紳に渡す。
「名前、父様に付けて欲しいんだ」
受け取った赤子を抱き直しながら、はあ?、と紳が驚いた顔で忋抖を見た。
「お前そんな大切な事勝手に決めるなよ。子の名付けって凄く大事な事なんだぞ?」
「憂玘は付けたじゃないか」
「あれはたまたま悧羅と話してたら舜啓と媟雅が気に入ったってだけなんだよ。それにお前さあ…」
その後の言葉を紡ぐのが憚られたのか嘆息した紳に、だからだよ?、と忋抖は笑う。
紳が言いたいことは分かっている。
悧羅を想い続けると決めた忋抖にはこの先新たに子を授かることは出来ない。悧羅と情を交わしても身籠らせることが出来るのは紳だけであるし、忋抖ももう他の鬼女と情を交わすことを善としないからだ。忋抖の子はこの赤子が最初で最後。藍琳が己と引き換えに残し護ってくれと頼んだこの子だけだ。
「俺にとって凄く大事な子だから父様に頼みたいんだ。父様は俺の一番の憧れなんだからね」
頼める?、と笑う忋抖に紳が一瞬目を丸くしたけれど、すぐにいつもの笑顔を見せると赤子の小さな頬を撫で始めた。
「お前の父様 は仕方のない奴だなあ?じいちゃんに名付け親になれなんて言い出してるぞ?」
くすくすと笑いながら赤子をあやしている紳を見ていると満更でも無さそうで忋抖は知られないように胸を撫で降ろした。悧羅と共に戻って来た後から密かに決めていた。名付けは紳にしてもらいたい、と。けれど忋抖より歳若く見られる紳が自分のことを爺様と呼ぶことには些か腑に落ちず面白いところでもあるのだが、それは悧羅も同じく若々しいままであることと関わりのあることなのかもしれない。赤子と戯れる紳を暫く眺めていると哀玥に尾で叩かれた。
『きっと良い名を授けてくださいましょう』
うん、と二人で笑い合いながら待っているといつのまにか赤子も目を開けていたようで紳に抱かれながら手を動かしている。まるで早く名をくれ、とでも言うように小さな手を紳に伸ばす赤子と遊びながら、決めた、と紳が笑った。
「樂采、ってどうだ?」
「樂采?」
「うん。忋抖はこれまでずっと色んな事で悩んできただろ?でもこの子がお前に悧羅を想う事の大切さと覚悟を教えてくれた。これからは抱え切れないほどの楽しさもくれる。もちろん消えてしまったあのヒトの子の事を忘れちゃいけないけど、あのヒトの子だって忋抖とこの子の倖せを願ってくれてた筈だ。だから樂采」
どうだ?、と聞かれた忋抖は弾けんばかりの笑顔になる。忋抖のことだけでなく藍琳のことまで慮ってくれた。いつも通りの表情の裏でこの短い刻の中、沢山の名の候補とその意味を考えてくれたのが伝わる。否やなど出よう筈もなかった。
「やっぱり父様に頼んで良かった。すごく良い名前だよ」
微笑む忋抖の前で妲己が紳の頭を尾で叩いている。
“ヌシは名付けの才だけはある”
「ちょっと妲己?他に取り柄が無いみたいに言わないでよ?」
“我には思いつかんな”
「酷くない?何百年の付き合いなんだよ?」
くっくっと笑いながら言う妲己と嘆く紳から樂采を引き取ったが忋抖は笑いが込み上げてくるのを堪えきれないが、とりあえずは、と紳に礼を言う。
「ありがとう父様、大切に呼ばせてもらうよ」
樂采を抱く腕に力を込めながら頭を下げた忋抖に返ってきたのは優しく置かれた手の温もりだけだった。
お楽しみいただけましたか?
読んでいただいてありがとうございます。
また1週間くらいで更新出来ると思います。