悔恨《カイコン》
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目にしたのは横たわる藍琳の姿だった。式に手を引かれて来たはいいが何か手伝って欲しいことでもあるのだろう、くらいにしか思っていなかった。女官の力では運べないものか、届かないところに手を伸ばして欲しいくらいのことだろう、と。あながちその考えが間違っていたようでもないが、今目の前に見えている光景は何だ?酒を取りに来た筈の藍琳が床に伏しており苦しいのか呻く声も微かに聞こえてくる。懸命に動く指がどうにか身体を起こそうと踠いているようだ。
「藍琳!」
呆けている場合ではない。急いで駆け寄って抱き起こしたのだが、手が触れた途端呻きは叫びに変わった。慌てて手を離してしまったので藍琳の身体が床に滑り落ちてしまい、また叫ばせてしまう。
「ごめん!っていうかどうした?何処か痛むの?!」
伸ばそうとした手をぐっと堪えて尋ねると、瞼をきつく閉じたままで力無く首を振ってみせる。
「だい、じょうぶで、す……」
「そんなわけないでしょ?!何処が痛むの?!」
声から忋抖の焦りが伝わるが藍琳にはそれだけ伝えるのが今は精一杯なのだ。それに偽りを言っているわけでもない。何処が、ではないのだ。全身が引き裂かれるように至るところが痛んでいるのだから。気を抜けば場も弁えずに叫び続けて容易く意識を手放しているだろう。
だが、これまでと同じであれば少し休めば治る筈だ。
ほんの少しの間だけ耐えれば良い。
耐えることには慣れているのだから、これくらいの痛みなど大したことはない。
何より忋抖にこれ以上の心労をかけたくない。
必死に耐えて呼吸を整えようとしてはみるのだが上手くいかない。いつもであれば既に消えていいほどの刻は経っているのに。考える間にも痛みは治るどころか強く激しくなる。堪らずに叫んだ藍琳と、此方へ!、と哀玥の声が重なった。触れることを躊躇う忋抖を、お早く!、と哀玥が叱責する。
『躊躇っておる刻ではございません!』
三度声を張り上げた哀玥に従って忋抖も覚悟を決めるしかない。
「堪えてくれよ」
触れた途端に叫ぶ藍琳を抱きあげると先に走り出した哀玥の後を追う。廊下を抜けて邸の中の部屋を幾つか通り過ぎると2匹の蛙が、早く早く!、と1番奥の部屋へ招き入れた。
「若君様!早く!」
「早く藍琳ちゃんを横にしてあげて!」
急かされるままに敷かれていた布団に藍琳を横たえると蛙達が少しでも楽になるように、と衣を緩め始めた。その間も動かないことは出来ないのだろう。叫びながら身を捩った藍琳が、どうにか堪えようと布団を握り締めた。
「藍琳ちゃん!おっきく息して!」
「ゆっくりゆっくり、だよ!!」
蛙達の声に後押しされて藍琳も言葉通りに呼吸が出来るように努める。根気強く声を掛け続けてくれる蛙達に合わせても息をすることさえ苦痛が襲う。耐える間に噴き出た汗が衣だけでなく布団までも重くした頃になってようやく引き裂かれる痛みが、とめどなく刺し貫かれるようには変わってくれた。どうにかきつく閉じていた瞼を開けることもできたが視界は霞んでぼんやりとしか映らない。周りを見渡すこともできないけれど蛙達と哀玥の形は分かった。心配をかけてしまったようで、影がすぐ近くでゆらゆらと揺れている。
『藍琳殿!』
「藍琳ちゃん!!」
目を開けた藍琳に気づいて3人が同時に声を掛けてくれた。
大丈夫だと伝えなければ。
声を出そうとして3人から抜けだすように忋抖の影が見えた、と同時に藍琳の中でナニかが跳ねた。その瞬間にこれまでの痛みが何のためだったのか、全てがすとん、と胸に落ちた。
ああ、そういうことだったのか。
分かってしまえば痛みなど、もうどうでもよかった。そうあるために不可欠だというのなら、どれだけでも耐えぬける。
藍凛がひとり納得している間も蛙達が名を呼び続けた。
「藍琳ちゃん!」
「皆ここにいるよ、藍琳ちゃん!!」
幾度も呼び続けた声はようやく届いたのか微かに藍琳の唇が動いたが何を言っているのかは聞き取れない。
「若君様、藍琳ちゃんが何が言ってる」
「でも聞こえないの。若君様なら聞こえるかな?」
2人に促されて、何?、と忋抖 が口元に耳を寄せたがあまりにか細くて聞き取れなかった。痛みを強くしないように気を付けながらもう少しだけ耳を近づけてみたが、やはり聞こえない。であれば口の動きを見れば分かるかもしれない。耳を近づけるのを諦めて微かな動きを読めるように見つめると、唇がゆっくりと形を作った。
[護……って]
誰を?、と忋抖は首を傾げた。それが藍琳自身のことを言っているのなら、今でも護っていると思う。藍琳が望む形ではないだろうがヒトの子の中に戻すまでは護り続けるつもりではいる。忋抖にとっても都合がいいということは別にしても、勝手な我儘で連れ出しておいて捨て置くようなことはしようとも考えていない。
「大丈夫だ。藍琳がヒトの子の中に帰るまではちゃんと護るよ?」
伝えてみたが安堵した様には見えなかった。
何かを間違えているのだろうか、とも思ったがそれ以上口が動くことがない。叫びはしないがまた布団を強く掴んで呻き始めた藍琳をどうしてやることもできずに只見守るしかない忋抖は、そこで初めて、あれ?、と思った。目の前で呻いている身体の片鱗が溶けているかのように薄くなっていくように見えたから。
見間違がえたか?、と目を擦ってみたが見える景色は変わらない。それどころか布団を掴んでいた筈の手が見えなくなっている。
「……え?何これ……?何が起きてんの!?ちょっと、藍琳!!」
慌てて身体に触れようとしたが忋抖の腕はそこにあるはずの藍琳を擦り抜けて布団に当たった。当たった掌に冷やりとした汗の感触はある。その感覚に、ぞわりとしたモノを感じて忋抖は咄嗟に腕を退いた。
藍琳の姿はまだそこにある。
呻く声がまた叫びに変わったのも聞こえている。
なのに何故触れることができないのだ?
「どういうこと……?何が起こってるっていうんだよ……?……ねえ!哀玥!!」
目の前でどんどん崩れていく姿に耐えきれなくなって忋抖は叫んでしまう。明らかにヒトの能力では起こし得ないことが目の前で起きている。いや、例え妖であったとしてもヒトの子ひとりを血の一滴も流さずに消すことなどできはしない。出来るとすればそれは妖の能力さえも超越した別のナニかだ。何が起こっているのかもわからないのに藍凛の姿は塵が流れるかのように少しずつ失われていく。
「ちょっ……と待ってよ……」
散っていく形をどうにか留めようともう一度手を伸ばしてみるが、やはり触れることは出来ない。ともすれば部屋の灯に照されながら抖忋の手をすり抜けて上へ上へと舞い上がって消えていく。
叫び続ける姿はそこにあるのにどんなに足掻いても留め置くこともできず、あまりの無力さに忋抖はどうすることも出来ない。
「何で?なんでこんなことになってんの?……藍凛はこのまま消えるっていうの?」
掴むことも出来ないのは分かっているのに舞い上がる塵の上で拳を握ってしまう。
「ちょっと待ってくれよ……、哀玥!どうにかできないの?!」
無言のままで傍らに座したままの哀玥に縋るような視線を向けたが、ゆっくりと頭を振られただけだ。
「そんな、どうしたら良いんだよ……」
愕然とした忋抖の肩に、とん、と手が置かれた。藍琳か?、と急いで視線を戻したが藍琳であるはずがない。藍琳の手は既に消えてしまっているのだから。では誰だというのだろう。翁の手にしては大きいし、孫娘達は藍琳の側近くで声を掛け続けている。哀玥の前脚とも違う。ゆっくりと手を置かれた方を振り向いて、なんで?、と忋抖は呟いてしまった。
そこには居る筈のない悧羅がいたから。
悧羅を見上げる忋抖の額に腰を屈めて自分の額をつけてくれる。長い薄紫の髪がさらりと流れて落ちて忋抖の身体をくすぐった。そのまま両手で頬を労るように包んで撫でてくれる。
「……せんなきことよな、忋抖」
目を見開いたまま固まっている忋抖に穏やかで優しい声が降る。
「何がなんだかわからないんだ、どうしてこんなことになってるのかも、どうしてやったらいいのかも……。母様なら知ってるの?」
「……そうさの……、ひとつは知っておると言うてもよろしかろう。なれどもうひとつは妾とてどうしてやることもできぬ……」
頬は包んだままで額を離した悧羅に、そんな、と忋抖は愕然とする。青白く血の気の退いた忋砥の頰から手を離すと、悧羅はゆっくりと藍琳に近づいた。この場に着いた時には聞こえていた痛い程の叫びも今はもう聞こえない。
声を出す力も奪われたか。
見ている先でも塵となっていく速さが増している。悼ましい光景に密かに眉根を寄せて嘆息した悧羅は塵の中に腕を伸ばして小さな鬼火を出すと崩れ果てている身体の片鱗に当てる。鬼火が塵と混ざって薄い壁となり昇っていく塵をその場に留めてくれた。
「ほんの一時なれど一言交わすほどには保つであろ」
忋抖の隣を通り過ぎながら悧羅が言うのと同じくして藍琳が、忋抖様、と唇を動かした。弾かれるように身体を寄せた忋抖の目に半分が崩れさった顔で穏やかに微笑む藍琳が映った。
「藍琳ごめん。護るってヒトの子の中に帰してやるって言ったのに、俺……」
「……藍琳は倖せでございました……」
言葉に詰まった忋抖に藍琳が伝える。その声は余りに細く弱々しいのに何処か微笑んでいるようにも聞こえる。でも、と言い淀む忋抖に残った顔で藍琳が穏やかに笑う。
「……苦しい場所から温かい処へ手を引いて連れてきてくださった……。今この時でさえ温かい方々が側にあって……。ほんとうに……」
言葉を紡ぐ藍琳の姿がまた揺らぎ始めて紫の壁とともに塵が昇りだした。
「……貴方様の御側にいれて倖せでございました……」
「藍琳、待って……!」
堪らずに忋抖が藍琳の頬に触れた、その刹那。残っていた藍琳の身体が全て塵となって忋抖を包んでいく。
[どうか泣かないで]
身体を透おり過ぎていく塵の中から藍琳の声が響いて、ふわりと優しく抱きしめられたように思えたが忋抖は消えていく塵をただ見上げていることしかできない。
「……嘘……、なんで……?」
ようやく絞りだした忋抖の声に応える者は誰もいない。
それはその場に居る誰かに向けられたものではないと分かっているから何も言えないのだから。へたり、と座りこんだ忋抖の足元には藍琳が身に付けていた衣と髪を結わえていた紐が残されている。おずおずと衣に手を伸ばすと冷えた指先に温もりが伝わってきた。それが今、目の前で塵となった藍琳が確かにそこに居たのだと忋抖に物語る。
「……なんで……っ」
残った衣を掴んで何とも言い難い思いをぶつけるように忋抖がそれを振り上げる。壁に投げつけられた衣から振り上げられた時、なにかが溢れ落ちた。小さくて、ともすれば見逃してしまいそうなそれは落ちた布団の上でみぎろぎもしない。いつもの忋抖であれば虫か何かだろうと気にも留めなかった。けれどこの時は何故かそれが気になって落ちたモノに視線を向けてしまう。見ている先でもぴくりとも動かないそれに顔を近付けてみても忋抖には何なのかが分からない。
大きさは母指ほどもなく色は白い。形は華や葉に着く虫のようだが勾玉のようだ。一部大きく膨らんだところに丸い目のようなものと突起もあった。
「……なんだ、これ……?」
指で触れてみると、ふにゃりとした感触があるけれどやはり動きはしない。
どうしてこんなものが衣から落ちてきたのか。
今はこんなものに思いを傾けている場合でもないのに。
嘆息した忋抖がそれを弾き飛ばそうとすると、王母、と悧羅の声がした。同じくして忋抖の手にふっくらとした手が重ねられて、ならぬ、と王母は静かに首を振った。
「それはならんよ、忋抖坊」
突如現れた王母に目を見開いたままの忋抖の手を包んだままで引かせると、もう一方の手を動かないモノの上に翳す。ほわり、と温かな空気が流れると仄かに光だした掌の下でそれはゆっくりと形を成していく。光が消えて行くことに呼応しているのか、光を吸い込むようしてしっかりと形を持ったそれに忋抖の息が止まった。
ほあ、と小さな声でひとつ泣いたそれは虫ではなく嬰児だった。
目も開いていない嬰児を翳していた手で優しく抱き上げた王母が、忋抖坊、と呼ぶ。はっ、と息を吐いた忋抖と繋いたままの手を、ぽんぽん、と叩いてやると驚きを隠せないままの目が王母を捉えた。
「お前の子だ」
「……は……?」
「お前の子だよ、忋抖坊」
「……え……?」
発された言葉の意味が判らない忋抖に、柔かく言い聞かせるように王母は伝えてくれているが、ますます忋抖は混乱してしまう。今まで共に過ごしていた藍琳が消えて、虫だと思っていたものが嬰児になり、それが自分の子だと言われても信じられる筈がない。情を交わしていたとはいえ藍琳はヒトの子だ。鬼である忋抖と子を成せるとは思えない。何より妖とヒトの子が交わって子を成したなど聞いたこともないのだ。
―――――――けれど―――――――。
王母に抱かれたままの嬰児は、そのまさかを打ち消すような姿をしていた。
天に向かって尖った耳。
白銀の短い髪。
そして額にある小さな黒曜石の角。
そのどれもが忋抖と同じ鬼が持つものだ。
「……なん、で……?」
言葉に詰まるばかりの忋抖の横に、よいしょ、と紳が腰を降ろしながら、くしゃりとその頭を撫でた。
「いいからまずは抱いてやれよ。話はそれからだ。ね?悧羅?」
忋抖を挟んだ先に、ふわりと座った悧羅に紳が言うと忋抖もゆっくりと悧羅を見る。動揺で揺らぐ眼で見られた悧羅は穏やかに微笑んで忋抖の頬に触れた。
「そうさの。忋抖も心穏やかではなかろうが……。ひとまずは」
のう?、と促された忋抖は小さく頷くと王母に向かって腕を伸ばした。僅かに震える手に王母が嬰児を渡すとおずおずと、だがしっかりと受け取って胸に抱く。動かされてほんの少し身じろきした嬰児は小さいけれど、ずっしりとした重みがある。
「ほんっと忋抖そのままじゃないか」
「ほんにのう。何とまあ愛らしゅうあることよ」
くすくすと笑いながら忋抖の両側から嬰児の頬を紳と悧羅が撫でると、くすぐったいのか小さな手を動かしてみせている。その様が何とも愛らしくて忋抖も嬰児を抱く力を強めた。お前の子だ、と言われても信じられない思いの方が強いのは変わらないのに抱いた僅かな刻で本能的に愛らしいと感じてしまう。嬰児を抱くのは初めてではない。妹の姚妃や媟雅の子ども達。それぞれに愛らしいと思ってきたけれど、この思いはそのどれとも違う。
忋抖が腕の中の嬰児から目を離せずにいる間に肩には睚眦が乗っているし、哀玥も悧羅に呼ばれて側に侍り嬰児を覗き込んでいる。小さくくしゃみをした嬰児に紳が自分の上衣を脱いで掛けてやっている。皆が温かく嬰児を迎えてくれているのは分かったけれど、忋抖は手放しで喜ぶことができない。
何より何故この嬰児がいるのか。
何故忋抖の子だと王母は言うのか。
何故藍琳は消えてしまったのか。
そのどれもの答えが解らないから。
「……父様……」
呼ばれた紳が、うん、とまた忋抖の頭を撫でた。
「そうだよね、何にも説いてやってなかったもんな。……っていっても俺もよく分かってないことが多いんだよ。だからここは王母様から教えてもらおうな」
よろしいですか?、と紳に見られた王母がちらりと悧羅を見たが悧羅は首を振った。悧羅に話させたかったのだろうが、こればかりは王母からの方が良いと悧羅は思っている。忋抖が納得できる話を出来るのはこの場で王母だけなのだし、悧羅が話しても王母の理までは説いてやることはできない。王母、と嗜められるように悧羅に呼ばれて王母も、仕方がないね、とゆっくりと息を吐いた。
「そうだな、こればかりは私から語らねばならないのだろうよ。まずは忋抖坊、お前は私の場のことを父母から何か聞いているかい?」
聞かれて忋抖は首を振った。紳や悧羅が時折王母の場というものに呼びだされることがあることは知ってはいるが、どういった処なのかと尋ねたことはない。重鎮達であれば話に聞いたことはあるかもしれないけれど、聞いたところで忋抖が足を踏み入れることなどないのだし知らなくとも良いことだと思っている。必要だと思えば悧羅が話してくれる筈なのだし、そうしないということは知らなくとも良いと悧羅が考えているということだ。里に、というよりも忋抖たち鬼にとって長である悧羅の言葉や意志は絶対だ。悧羅は強いることなど行ったことはないけれど、その思いは里に暮らす者たちにとれば至極当然に心の中にある。民達の暮らしが平穏であるように、と悧羅がどれだけ心も身体も捧げて皆を支えてくれているか知っているから。そしてそれは 忋抖であっても違わない。むしろ幼い頃からすぐ近くで見てきたのだから、より強くそうあらなければならないと思っている。
小さく震えたままの忋抖に、そうか、と王母は微笑んだ。確かめなくとも紳や悧羅が王母のことについて多くを語らないことは分かっていた。特に悧羅は自らの業という役割の何たるかを全て話すような者ではない。出来得うることなら子ども等に重積を負わせたくないとも思っているだろう。王母の場を知るということはそういうことに為り有るのだし、そこには知らずとも良い事柄も多くある。それを子らに負わせることを善とする悧羅ではない。
「ではそこから話さなくてはならないね。私の場は此の岸ではなく、どちらかと言えば彼の岸に近い処にある。娘を呼ぶと此方とは刻の進み方も異なるのでね。よく伴侶を虐めてくれるな、と娘に叱られてしまう」
ほほほ、と笑う王母に忋抖は首を傾げた。悧羅だけが呼ばれた時に戻ってくるまで紳が待ち続けるのはいつものことだが、それが今聞きたい事とどう繋がるのかも分からない。
「私の場には何時如何なる刻も蓮が生まれ落ちて揺蕩っている。いや、私の能力が蓮になっている、と言う方が正しいかもしれないね」
それには忋抖も頷いた。王母は悧羅を、娘、と呼んでいるし東王父の時も蓮を降ろすことには憤ったと聞いている。王母の能力を持った悧羅がヒトの子の世に無闇矢鱈と関われば妖もヒトの子も均衡が崩れてしまうのだろう。そう考えれば蓮の華を降ろすことを善と出来なかった東王父の一件にも合点がつく。あの時は弱っていく悧羅の姿に、どうして悧羅がこのような呪を受けなければならないのか、と憤っただけだった。帰ってきてくれた悧羅も、結果として上手く事が運んだのだから良い、として聞かせてくれなかったことも多くあることを気づかない程、忋抖や姉弟妹達も愚かではない。ただ、悧羅が話さないのであればそれは最善で悧羅がきめたのであればそれは絶対だというだけで聞かない理由には充分だったのだが、これを今聞いても良かったのかとも不安になる。きっとここまでの話を知っているのは紳と重鎮達だけだらうから。母様?、と悧羅を見る忋抖の頬に悧羅は微笑んで触れてくれる。
「妾は妾じゃ。それ以外の何者でもない。それは変わらぬ。忋抖であればよろしかろうと紳が申したでな。案じすともよいが……」
「……他言するなってことだよね?」
呟く忋抖に悧羅は微笑んで頷いた。そのままちらりと見られて王母も苦笑するしかない。
「ああそうだったな。私は蓮の娘としてこれを降ろした。けれど只それだけに過ぎない。何せこの娘は私の思いの数歩先を歩んでしまうのだからね、私がこうあれば良いと願っても思い通りには動いてくれない。私が手を離した瞬間から何をしでかすのか気を揉ませられてしまっては私と娘は別の者と思うしかないだろう。……まあ、それはそれとして、だ。私の場に途切れることなく蓮が生まれ揺蕩っていることは変わらない。その流れ揺蕩うモノの中で、ほんのひとひら此の岸に流れてしまうモノも出てきてしまうのだよ」
「華が落ちる、と言うことですか?」
ますます首を傾げた忋抖に王母はゆっくり頷いた。
「華、とは言えない。一つの華の花弁、そのほんの一欠片が流れてしまうことがある。いつもであればしばらく場で揺蕩うと光を失って消えまた生まれ落ちる、その繰り返しなのだけれどね。流れ落ちた花弁の欠片は此の岸に着く前に消えて無くなるのがその在り方だが、ほんの稀にヒトの子の腹に宿る子に入り込むことがある。……忋抖坊、お前あのヒトの子に会った時誰かに似ていると思っただろう?」
あ、と忋抖はあの日会った藍琳のことを思い出した。確かに悧羅に似ていると思った。けれど似ているだけで別物だと思ったのも確かだ。
「同じ華の子だからね。一欠片が混じっただけとはいえ持つモノが似てしまうことはある。だが所詮は花弁の一欠片、私がこうあればいいと思って降ろすこととは違う。手を離れてそれがヒトの子に宿ったとしてもそれまでのこととして捨て置いていたことだ。……これまでであればね」
「……じゃあ藍琳は……」
「その花弁が宿ってしまった子だよ」
ああそうだったのか、と忋抖は嘆息する。似ていると思ったのは当然のことだったのだ。似ているだけで別物だと思えたことも蓮の華の気配があっての事だったのであれば、すとん、と胸に落ちた。蓮の娘として王母が降ろしたのは悧羅だけなのだから意図せずに流れ落ちてしまったモノは同じ華とはいえ悧羅ではない。ただ華の気配を持っているだけのヒトの子だったのだ。そう思えはしても忋抖がそこに悧羅の面影を求めてしまったのは変わらない。
そういえば哀玥も藍琳と見えた時、一度動きを止めたことがあったことを思い出した。鼻の良い哀玥は藍琳の中にある花弁の匂いをその時に感じたのかもしれない。それでも何も伝ずにいてくれたのは忋抖の気持ちを慮ってくれていたからこそなのだろう。
「そこまでは分かりました……、でもそれで何でこの子が俺の子になるんです?妖とヒトの子の間に子ができるなんて俺は聞いたことがないし、これまでもそんなことは起こり得なかった。そうでしょう?」
忋抖の問いに、そこなのだ、と王母が指を立てた。
「妖とヒトの子が子を成すということは有り得ぬことだ。こと鬼であるならば尚更だ。戯れに交わって成せたとしても腹に宿った子と交わる毎に鬼に精気を持って行かれてしまう。鬼が奪うつもりではなくても流れこむ。弱者が強者の糧になるのは理のひとつだ。だからこそ子が宿ったとしても腹から出る前にその者自体が命を落としていた」
けれど、と王母は忋抖に抱かれて寝息を立てる嬰児を見やった。
「お前と交わったのは花弁が混じっていた。単なるヒトの子であれば一度や二度で精気を奪い尽くしてしまいヒトの子の形は失われていただろう。花弁であったからこそ保ったと言ってもいいね。……だが子が宿ったことでそれは崩れた」
「……え……⁈」
収まりかけていた忋抖の身体がまた小さく震えだして紳が肩を抱いて支えたのを見やって悧羅も忋抖の脚にそっと手を置いた。
「鬼が子を宿せば多くの精気を求めることは知っているだろう?宿している間は逑からしか受け付けないことも。お前の子を宿したのは花弁とはいえヒトの子、精気を送ることは出来ない。となればただひたすらに奪われ続けるだけ」
忋抖の身体の震えが強く大きくなるのが肩を抱いている手から伝わってきて紳は腕に力を込めるとほんの少し自分に引き寄せた。そうしてやらなければ今にも崩れ落ちてしまいそうな程に忋抖の顔から血の気が退いてしまっている。
「お前に奪われ限りが見えた頃に子が宿り精気を欲するようになった。2人から奪われてしまってはヒトの子の形を保つことなどできはしない。だからヒトの子は消え果てた」
がたがたと音が聞こえてきそうな程に忋抖の震えが大きくなる。それに、すまないね、と王母が肩を落とした。
「まさか溢れ落ちた花弁が忋抖坊と出会うなど……。だがね忋抖坊、あのヒトの子は最後の願いでその赤子を残した。消えゆくヒトの子が自らにある能力など知りもしないというのにその赤子に残りの精気を送った。僅かな光明を掴むように願いながらね。理の流れからすれば聞き届けられないほどの僅かな願いだったけれど、どうやらそれは聞き届けられたらしい。……胎児の姿で残された、ということは私が手を貸すことを善とする。そうでなければ私であっても、お前にその赤子を抱かせてやることはできなかったろう。……だからその赤子は疑いようもなくお前の子なのだよ、忋抖坊」
諭すような王母の言葉に忋抖はますます震え上がった。王母の言った事が全てなのだとしたら自分がした事は決して許されることではない。
藍琳の奥に悧羅を見ていた。
違うと分かっていても報われない想いをどうにか軽くしたくて自分の欲のままに扱った。
精気を奪うつもりはなかったけれど、情を交わした後に身体が軽いことにも気付いていた。
気付いていたけれど気づかないふりをしていただけ。
それを認めてしまえば悧羅に似ている姿を腕に包めなくなるから。
全部、自分の責なのだ。
藍琳が消えてしまったのも。
この嬰児が母を無くしてしまったのも――――全部。
腕の中の嬰児を見やると何も知らずに忋抖の腕の中ですやすやと眠っている。そこに藍琳の面影はなかったけれど、滲んでいく視界の中でほんの一瞬嬰児が目を開けた。いつのまにか溢れ落ちていた涙が顔に落ちたのが煩しかったのか小さな手を動かしながら開けたそこに黒曜石のような漆黒の眼が見えた。
……藍琳の色……。
見えた途端に全身の力が抜けてしまう。
声もなく崩れ落ちた忋抖の背中を優しく叩いてから紳は嬰児を引き取った。弾かれたように顔を上げる忋抖の頭を撫でてから、ぎゅっと引き寄せる。
「……大丈夫だ、分かってる。だから心配しなくていい」
任せろ、と笑ってから泣き続ける忋抖の髪をくしゃりと混ぜてから紳は嬰児を抱いたまま立ち上がると、哀玥と睚眦を呼ぶ。何も言うこともなく紳に従った2人の姿がいつもとは違うことに忋抖は気付けない。
涙がとまらないから。
泣き叫びたいのを必死に堪えているしかできないから。
「王母様」
部屋の出口まで歩みを進めた紳は一言、頼みましたよ、と残して元の姿に戻った睚眦に跨って去っていく。残された部屋にはいつのまにか蛙達もいない。身体を伏せて声を押し殺しながら肩を震わせている忋抖に焦がれて止まない声が降る。
「……忋抖……」
そっと、壊れ物にでも触れるように頬に触れられて忋抖はゆっくりと顔を上げた。涙で滲む視界に今まで見たこともない微笑みが映る。
「おいで」
腕を開かれて忋抖もその胸に飛び込んだ。
「……どうしよう、母様……。俺……」
取り返しのつかないことをしてしまった。
自分の欲だけで1人のヒトの子の生を奪ってしまった。
自分の心が弱いばかりに。
うん、と頷きながら悧羅は震え続ける忋抖を強く抱きしめる。
「堪えることはない。何も。今だけは」
悧羅の言葉に導かれるように抱きつかれる力が強くなる。それを抱き返しながらもう一度名を呼ぶと同時に忋抖がその口を自らの唇で塞いだ。
瞼を閉じた悧羅が最後に見たのは王母が軽く手を振る姿だった。
お楽しみいただけましたか?
読んでいただきありがとうございます。