遭う《アウ》伍《ゴ》
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陽の沈んだ縁側で妲己と共に庭を眺めていた悧羅は、さらりとした衣擦れの音と空気の揺らぐ気配に小さく嘆息した。そろそろ頃合いかと思っていたのだが考えていたよりも長い空白だった。やれやれ、ともう一度息を吐いて視線だけを横に流すとゆったりと腰を降ろして妲己に楽にするように伝えている王母がいた。里を移して間もない頃は霊峰で起こる諍いを治めよなどの命を出す時か、気紛れに悧羅に手を差し伸べる時のいずれかにしか姿を現さなかったのに。東王父の件が片付いた頃を境に何事が無くても訪れるようになっている。唐突に来て好きなだけ寛いでいるだけなのだが悧羅以外の者からすれば居座られている間気が抜けないのだ。幾度か嗜めてみたがそれを気に留めるような王母ではない。
「私は只、娘の顔が見たいだけだ」
そう言って笑うばかりなのだから宮に出入りする者たちの気苦労など考えてもいないのだろう。……もしかしたらその姿さえも愉んでいるのかもしれない。悧羅に会うだけなら呼び出せばいいのだが、これもまた気紛れに行われるので突如悧羅が姿を消してしまうと紳の心が休まらない。悧羅が消えて戻るまで何刻でも同じ場所で待ち続けるのだ。最愛の伴侶に心労をかけるのは悧羅も望むことではない。仕方なく王母が宮を訪うことは受け入れる代わりに皆に仰々しい礼をとらせないことを認させた。
とはいえ元々礼に拘るような柄ではないのだろうが、その程度のこと、と笑って受け入れたのは王母の器があってのことだというのは悧羅でなくとも分かることだ。荊軻など、王母様に対してなんということを、と言葉を詰まらせてしまったのだから。悧羅にしてみればいつ現れるとも知らない王母よりも支えてくれる者たちの安寧のほうが大事だというだけのことだ。
「……して、只顔を見に来ただけではないのだろう?」
いつもならそれだけだと言われれば飲み込んだだろう。
けれど、こと今回の訪いはそうでないことは分かっている。
「何故そう思う?私はお前に会いにきただけだが?」
穏やかな笑いを湛えたままで王母は妲己を愛でている。試すような物言いもいつものことだ。ほんにもう、と今度は大きく嘆息して悧羅は王母に向き直った。
「今回ばかりはそうではなかろう?……それとも皆まで言わねばならぬのかえ?」
僅かばかり嫌味も込めたのだが王母は気にした様子もない。ほほほ、と笑うばかりで話の核心に迫るつもりもなさそうだ。
「そう怒るな。だがそうだな、私の思うところではなかった、とは言っておこうか」
「そのようなことを案じておるとでも思うてか?妾にとりてはあれが泣くことのほうが大事じゃ」
肩を落とした悧羅に妲己が擦り寄ろうとしたが王母に阻まれている。立ち上がったものの王母の引き留めには妲己といえども逆らえない。それでもまた体躯を伏せることはせずにその場に座した。
「お前にとってはそれが何よりも大切だとは分かっているさ。だが私とて思いもよらぬこともある。全てが手の上で行われているわけでもないのでな。……これもそのひとつというだけだ」
その言葉に悧羅は又大きく嘆息してしまう。側に置いてあった茶器から茶を注いで王母に渡すと美味そうに啜っている。確かにこの場で王母を諌めたとして何が変わる訳でもない。すでに賽は振られてしまっているのだし、今は流れに身を任せるしかないことも分かってはいるのだ。それでもどうにか、とは考えてしまうがどうしようもないことはある。今回のこともそうであることも分かっている。分かってはいるがだが何故に、と燻る思いは容易く抑え込めるもので歯ない。己の無力さに苛立ちさえ覚えて悧羅は無意識に拳を握った。
「そういえば哀玥は何処に行っている?久方ぶりだというのに姿も見せぬとは薄情になったものだ」
ここで哀玥の話を出すところも王母らしい。何でも廻りくどく話して鬱々とする姿を見るのも愉しみのひとつということなのだろう。
「知らぬ筈もなかろうに……。忋抖についておる」
「まあそうだな。あれはようと忋抖坊を好いているようだからな。それでその忋抖坊は?」
「夕餉を済ませて出て行ってしもうたよ」
存じておるだろうに、と悧羅はほんの少し目を細めるしかない。忋抖が出掛けること自体は珍しいことではない。今回のことの前にもよく出掛けていたし別段それを咎めようと思ったこともない。愛しい我が子とはいえ忋抖も齢300を超える立派な鬼神だ。幾つになろうと案じはするが忋抖には忋抖の生がある。親であるからと縛るようなことも、ましてや押し付けるようなこともしたくないし、してはならないと思っている。けれど忋抖は悧羅が案じるようなことをするような子ではないのだ。出掛けることはあっても朝になれば必ず宮に戻っていたし、食餌も共にとってくれていた。
1年と少し前までは。
最初の頃は数ヶ月に一度ほど戻ってこない日が出来ただけだった。それが月日が経つにつれ多くなって、近頃では食餌刻くらいしか顔を見ることができなくなっている。好いた者でもできたのか、と何も言わずにいたけれどそれが間違いだと気付くまでにそう刻は要しなかった。戻ってくる忋抖に付いた匂いが誰が何を語らずとも教えてくれていたようなものなのだから。それが何を意味するのか分からない悧羅ではないし、このまま行けば忋抖が哀しむことになることも理解していた。それでも伝えることを躊躇らってしまったのは忋抖がその胸の内に秘めている想いを知ってしまっているからだ。
「哀玥は何かお前に言ったか?」
「なにも。妾が言わずともよいと申したでな。……分かっておるとだけ伝えてはおるが。……ほんに哀玥には辛い役回りであろうに」
忋抖の行動が不可思議になった頃、僅かな刻にひとりで戻ってくる哀玥が何某かを伝えようと思案していたのは知っている。悧羅が心を砕かないような言葉を選ぼうと何かを言い淀んでいたことも。眷属とはいえ悧羅に哀玥の心内まで知ることは出来ない。逆を言えば哀玥も悧羅の心内を読むことは出来ないのだ。言い難いことを苦痛を伴わせてまで言葉にさせなくともよい。慮ってくれているだけで有難いのだし、言わずとも分かっていたことだったから、良い、とだけ伝えておいた。その一言で悧羅が全て知っている、と哀玥には伝わったようだ。
「今は忋抖の側にいてやってたも」
体躯を撫でてやると安堵したのか珍しく甘えてもいた。
「ではお前の伴侶はどう思っているのだ?」
「紳とて妾と同じだと言うてくれておる。あれが哀しみにくれたときにどうすれば良いか、とそればかり案じておるの」
「そうか……、そうだな。お前の伴侶であればそうだろう」
紳もこれからくる忋抖の哀しみに近頃は特に思いを馳せている。案じている気持ちを気取らせないようにいつも通りに振舞ってはいるようだが、心中穏やかでない、と2人の時にだけぽつりと呟いている。けれどその時が来てしまったら紳の方が泣き崩れてしまうのではないだろうか、とも悧羅は案じてしまう。大事な子たちが傷つくのを自分のことのように慮ることができる優しい鬼だから。
それももう遠い日ではないと早めに伝えてはいたが何もしてやれない自分が情けないと肩を落としているのだ。けれどその気持ちは悧羅も同じだ。
長だなんだと崇め立てられていてもこの身ひとつとこの手で護ることができているのはほんの僅かな事柄でしかない。掌から溢れ落ちていくものは、どんなに足掻いても掴むことも引き留めることも出来ない。
それが如何に己にとって大切だと思っていても世の理から外れることも出来ないのだ。
悧羅達は大きな流れの中で生かされているだけにすぎないのだから。
ならば悧羅に出来ることなど限られている。王母、と呼んだだけなのだが何を言うでもなく、お前の良きように、と返ってきた。
「良いのか?」
「良いも何も。そうであるべきだ」
そうか、と悧羅も頷く。
「今はまだならぬというだけのこと。こればかりは如何に散り流れたものとはいえまかりならぬ。これまでであればこの様なこともなく捨ておいていたような事柄だよ。多くあったことはないのだがね」
すまないな、と王母は悧羅の頬に触れた。
「色濃く出るのは違いない。すまないが留めておいておくれ」
ふっくらとした手で頬を撫でてはいるが先刻までの穏やかさとは違う憂いを含んだ眼差しに悧羅も頷いた。
「……妾が2人おればよかったのやもしれぬな……」
やるせない思いを吐露してしまったのだが、何言ってんの、と背後から嗜められてしまった。振り向くと呆れたように嘆息する紳が立っている。務めから戻って湯を使いに行っていた筈だったのだが、いつのまにか戻ってきて話を聞いていたようだ。ほんとにもう、と言いながら王母に軽く礼をすると悧羅を背中から抱きしめた。妲己もようやく王母の手が離れて、とことこと側に寄って来て悧羅の膝に頭を乗せる。
「悧羅が2人いたって何も変わらないんだよ?2人とも俺のものなんだから」
「そこは1人譲っても良いのではないか?」
当たり前のように言う紳に尋ねてみたが紳は、無理!、の一点張りだ。
「2人いようが3人いようが悧羅は全部俺のなの。他の奴に譲るなんてこと出来るわけないでしょ?忋抖だから特別に許してるんだからね」
もう!、と頰を膨らます紳に王母も、そうだな、といつもの穏やかさを取り戻した。
「お前がどれほどの数居ようとも、それらを取り溢す伴侶ではないだろうよ。だがお前は1人しかいない。私が意図して降ろしたのはお前だけなのだし、これはナニモノにも覆すことなどできぬことだ。そしてお前と伴侶が互いに唯一無二であることも変えることなどできない事実だな」
「せんないこととは分かっておるよ?少しばかり思うただけじゃ」
それはそうだろう、と悧羅も肩を落とすしかない。
思っても仕方のないことは分かっている。例え悧羅が2人居たとしてもそれは求められている者ではないことも。今在る悧羅でなければ例え幾人同じようなものがあっても意味のない身代わり人形にすぎないのだろう。ただそうであったならば如何許りかの安らぎになりえたかもしれないと淡い希みを得たかったに過ぎないだけだ。
「だから駄目だってば。悧羅が何人も居ちゃったら俺の身が保たなくなっちゃうよ?」
“ほんに、主が幾人もなどと……。我はどの主の御側近くに侍らせていただければよろしいのでしょうな?”
呆れたような紳と妲己に責めるように言われて悧羅も、分かっておる、と苦笑したのだが、
【俺ならば主が幾人居ろうが賄えるぞ?そんなことに気を揉むな】
ひょっこりと悧羅の懐から蜥蜴程の大きさになった睚眦が、ふふん、と鼻を鳴らして顔を出したことでどうにか納得してもらえそうだった2人が再び、もう!、と大きく嘆息した。
“ヌシは何故事を混ぜ返すようなことしか言わんのだ”
「っていうか睚眦!また何てところに入ってんだよ!そこは俺だけのだって何度も言ってるじゃないか!!」
妲己からは噛みつかれそうになり、紳からは握り潰されそうになっているが睚眦は、するりとまた懐の中に潜ってしまう。
【この姿だと冷えるのだ。暖を取るにはここが1番良い】
「だぁからあ、出てこいって!」
睚眦を掴もうと紳が悧羅の衣の中に手を突っ込んだが小さな体躯を容易く捕えることは出来ない。するすると衣の中を好きに動いて今度は袖口からひょっこりと顔を出して揶揄うように笑っている。
【まあそう怒るな。主は良いと言うてくれておるぞ?】
「俺が嫌なんだって!」
【小さきことばかり言うなあ、お前は】
紳の剣幕を横目で見やりながら睚眦は悧羅の袖口から出ると、やれやれ、と妲己の頭に飛び乗った。
【そんなことよりもだ、あまり悠長に構えておれる猶予はないと思うぞ?】
小さな頭を傾げて睚眦はその場の誰も口に出せなかったことを飄々と言ってのけた。
“ヌシはもう少し含むということが出来ぬのか”
呆れたように妲己が諌めるのだが睚眦は、ますます首を傾げている。
【何故そのような意味のないことをせねばならん?猶予がないことを皆が分かっているだろう?意味のないことをぐだぐたと話しおってからに馬鹿馬鹿しいにも程があるな。それこそ無駄というものだ。そんなことよりも今しなければならないことを考えるべきだ。違うのか?】
睚眦の真っ直ぐに紡れる言葉に誰もが大きく嘆息した。至極真っ過ぎて返す言葉もないとはこういうことだろう。
もしもやこうあれば良かったなどと言い合った所で不甲斐無い自分たちを慰め合っているに過ぎない。誰もが見たくないことを先送りにして目を背けようとしていただけなのだ。
【そもそも、だ。そもそもだぞ?今になって王母が来ていることがおかしいと思わんのか?】
まったく、と嘆息されて三人が息を呑んだ。まさか、と言う声は悧羅から、嘘だろ、と言う声は紳から。妲己は目を大きく見開いてしまう。
【そういうことなのだろう?王母?】
問いかけた睚眦と集まる3つの視線の先で王母は深く頷いた。
「今宵だ」
その顔にいつもの笑みを見ることはできなかった。
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蛙に預けた藍琳の様子を見にいくため忋抖が倭の国へ降りることは必然的に増えていた。倭の国の近くで門を開くことは蛙に強く制されたので、少し離れた海の上がいつもの出入りの場だった。そこから哀玥の脚で四半刻も翔ければ邸が見えてくる。邸に向かうのは務めを終えてからになるのでいつも通り中庭では妖達の宴が始まっている。賑やかな場に降り立つと縁側で妖達と楽しそうに話している藍琳が立ち上がって二人を迎えてくれた。
「今日も御無事で何よりです、忋抖様、哀玥様」
「うん、ただいま。変わりはなかった?」
立ったままの藍琳を腰掛けさせながら尋ねると、はい、と笑いながら忋抖に盃を手渡した。空の盃に酒を注いでくれる手はいつかのように荒れ果ててはいない。
蛙の邸で過ごし始めた藍凛はこれまで酷使していた身体をゆっくりと休めることができたようだ。けれど当たり前に三度の食事が出され、温かい湯もふかりとした衣や布団も与えてもらえることに最初はかなり戸惑って恐縮していたらしい。
「置いてもらえているだけで有難いのに何もしない訳にはまいりません」
蛙も夜な夜な迫られ続けたらしいが、これまでの分を休むことが今藍琳のすべきことだ、と説いて聞かせた、といつものように笑っていた。ただ手持ち無沙汰では藍琳が刻を持て余す、とも言って薬草の知識や煎じ方などを教授していたようだ。
「藍琳殿がヒトの子の中で暮らしていくときにも重宝することはあれど邪魔にはなりますまいて」
博識な蛙の教えは忋抖が聞いていても感服してしまうほどだ。ヒトの子の中を探してもここまでの知識を持っているものはいないだろう。藍琳もこれまで学ぶ機会を与えられなかっただけのようで、薬学だけでなく文字の読み書きも水を得た魚のように吸いこんでいったようだ。学びを深め蛙の庇護下で充分に身体を休めることができたのだろう。連れてきた時の面影が薄れる程度には藍琳の姿も見れるようになっている。痩せ過ぎていた身体も少しばかりふっくらとしてきたし、女官達の手当で肌艶も出た。ようやく普通のヒトの子なりの姿になれたのだ。
「ついこの間連れ出したと思ってたんだけどなあ」
哀玥の言う通り蛙に預けて良かった、と忋抖は藍琳の頰を撫でた。初めの内は一月に一度か二度、様子を見に来ていただけだった。預けてそれまで、では義理を欠いてしまうし連れ出した責もある。ヒトの世に返すまでの間は忋抖が護ってやらなければ、と会いにくるのも只自分のしたことへの後始末程度のことだった。会いにくるたびに顔を朱に染める藍琳も面白かったが、それが当然なのだと何処か安心もしていた。元々ヒトの子を惑わすのが鬼なのだし、最初に会ったときに惑わされなかった方がおかしいことだったから。近付けば照れて狼狽するのが可愛らしくもあって揶揄い過ぎてもいたのだろう。哀玥から、あまり虐めてやるな、と嗜められたのも一度や二度ではない。それをきちんと聞いておけば良かった、と後悔したときには遅かった。
顔を見にいく機会が少しずつ増えていったのもそうせざるを得なくなったからだ。
「お慕いしております」
伝えられたのは蛙の下に預けて六月が経った頃だったろうか。
告げられた言葉も忋抖にしてみれば、いつか言われるだろうと思っていた程度のことだった。ヒトの子の儚い灯火のような短い一生の内で鬼に見えることなど幻のようなもの。ヒトの子とは異りながらも膝を折ってしまうようなものが手を伸ばせば触れられるところに常に居たのだから、よく己を律し続けたものだ、と感嘆もした。
「お心を下さいなどとは申しません。ですが、忋抖様がもしも善としてくださるのならば、御側に居らせていただけている間だけでも情けをかけていただけませんか?」
両手が白くなる程に強く握って小さく震えている藍琳を拒むことなど忋抖にできる筈もなかった。震える手を取った忋抖を潤んだ目で見つめてくる藍琳に対しての恋慕の情など微塵もない。
あったのは打算と自身の叶わぬ想いをぶつけたいという思いだけ。
身体の具合が良くなるのと同じくしてより悧羅に似てきた藍琳とそうなれば、自分の中に燻り続けて今にも溢れてしまいそうな恋情も少しは軽くなるかもしれないと浅ましい考えだけで藍琳を利用してみようと考えただけだ。
それでも情を交わせば藍琳のことも大切に思えるかもしれないとも思っていた。けれど、悧羅に似た藍琳を欲のまま幾度組み敷いても、その姿の奥に悧羅をみてしまう。腕の中で忋抖の名を呼び求め応えてくれているのが本当の悧羅ならどれほど満たされたのだろうか。悧羅であればと願い交わす情なのだから本当の意味で忋抖が藍琳を慈しんでいることにもならない。
我ながら酷いことをしている。
そう思っても藍琳を組み敷いている時だけは、悧羅が自分のものになったように感じて止めることはできず、日を追う毎に組み敷く為だけに降る頻度も多くなってしまった。
藍琳の想いに応えるつもりもないのに、こういうところがヒトと妖の根本からの違いなのだろう。
「ほんっと俺って最低かも」
酒を煽りながら呟いた言葉は宴の喧騒に紛れて聞き取ったのは哀玥だけだったようだ。少し離れた場所で寝そべっていたのに、わざわざ隣に侍ってくれた。忋抖の肩に頭を置いて顔に擦り寄ってくる。
『小生の若君が何ですと?』
「いや、最低なことしてるなあって」
『はて?何のことでございましょう? 小生には若君が慈悲を施しておるように見えておりますよ』
くすくすと笑いながら慰めてくれる哀玥に忋抖も、ありがとう、と顔を埋める。二人にしか分からないことで小さく笑い合っていると、お酒をとってきますね、と藍琳が立ち上がった。と、ぐらりと身体が傾むいてその場に座り込んでいる。
「藍琳?」
「大したことではございません。急に立ち上がってしまったので、少し血の気が引いてしまったようです」
振り向いて微笑む藍琳の顔は確かに少し青白く見えたが、見ているうちに頬の紅みは戻っていく。どうやら藍琳の言う通り一時的に血の気が退いただけのようだ。
「もう大丈夫です。すぐに持ってきますね」
「急がなくてもいいよ?爺のも残ってるみたいだし」
ちらりと蛙を見ると、おやおや、と酒瓶から酒を注いでくれた。
「爺様のものもすぐになくなるでしょう。持ってきておいた方がよろしいでしょうから」
ふふっと笑った藍琳は今度はふらつくことなく立ち上がって廊下の先に消えていく。
「確かに2人で呑んでたらすぐになくなるか。あんまり爺が呑み過ぎると体躯を壊すんじゃないかって心配なんだけどね」
盃で酒を煽る忋抖と異なり、蛙は瓶ごと煽っている。望まれて持ってきた酒は少なくはなかったはずなのだが、どれだけ持ってきても半月もあれば全て呑み干してしまう。幾ら妖が酒に強いとはいえかなりの歳であろう蛙には多すぎるのではないだろうか。
「ほんとに呑みすぎないでよ?」
心配してみるが蛙は酒瓶を揺らして見せている。
「おやおや若君。爺から酒を取り上げ申したら愉しみがなくなりましょう。まだまだ生きるつもりでおりますから御案じなさいますな」
ふぉっふぉっ、といつものように笑っていた蛙が次には、若君、と忋抖に向き直った。
「宜しいか?よおくお聞きなされ。これから若君の心を揺らす喜ばしくないことが起きましょう。ですがじゃ、お心を強くもちなされ」
珍らしい蛙の物言いに、どういうこと?、と聞き返したが応えは返ってこない。代わりに邸の奥から女官が一人走ってきて忋抖の腕を引っ張った。女官の姿をしていても元は古い人型の式なので話せないのだが、必死に何かを訴えるように呻いている。
「なあに?俺が一緒に行けば良いの?」
式の頭を撫でてから立ち上がると引きずられるように忋抖が連れ去られていく。その背中に蛙と哀玥は深く嘆息するしかない。
『……来てしまったのですね……』
「長く保った方と思うべきでしょうや」
『然様でございますね』
肩を落とした哀玥の耳に忋抖が己を呼ぶ声が届く。翔けだした哀玥を見送りながら蛙は2匹の孫娘に手招きをした。
「爺様どうしたの?」
「何か御用?」
小さな体躯に悧羅から贈られた衣を纏っている2匹に、頼みじゃな、と蛙は笑ってみせた。
「いいよ、何でも言って」
「たくさんお手伝いできるよ」
蛙の膝にそれぞれの小さな手を置いて喜々と飛び跳ねる2匹を見ているだけで和んでしまうが、今はそれどころではない。
「邸の奥に藍琳殿の寝床を作ってくれるかの?」
「いつものお部屋じゃなくていいの?」
「藍琳ちゃん、ご気分悪いの?」
丸い目を更に丸くさせて思い思いに尋ねてくる孫娘達の肩を叩きながら蛙は悟すように言って聞かせた。
「藍琳殿はヒトの子じゃ。爺達とは異なるのだよ。解るじゃろ?」
蛙の言葉に2匹の動きが止まる。
「解るよ、爺様」
「静かなところが良いよね」
頷いた2匹を抱き寄せてやると、体躯が強張ってしまっていた。孫娘達は藍琳に大層懐いている。その2匹に支度を願うのは蛙なりの考えあってのことだが2匹はそれ以上頼まれたことについて聞こうとはしない。代わりに、長様は、と呟いた。
「長様も来てくれるよね?」
「旦那様も一緒に来てくれるよね?」
「勿論、来てくださるとも」
聡い子らだ、と目を細めて2匹を見ながら蛙は孫娘達の背中を押した。うん、と頷いて支度に走っていく背に、これも世の流れ、と呟いて蛙はひとり残った酒を呑み干した。
お楽しみいただけましたか?
読んでくださってありがとうございました。