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遭う《アウ》肆《シ》

更新いたします。

突如(トツジョ)(クダ)かれた(カベ)に目を向けたのは藍琳(リンリー)だけではなかった。藍琳(リンリー)の上に乗って身体(カラダ)自由(ジユウ)(ウバ)っていた(オノコ)(クズ)れおちていく(ヤシキ)(カベ)に目を見開(ミヒラ)いている。(カベ)(クダ)ける轟音(ゴウオン)(トドロ)いたためか(ヤシキ)彼方此方(アチラコチラ)から()(マワ)足音(アシオト)も聞こえているが、(オノコ)藍琳(リンリー)は立ち込めている土煙(ツチケムリ)から目が(ハナ)せない。


「な、なんだ!!何が起こった!?」


(イマ)姿(スガタ)(トラ)えることが出来ない()でも藍琳(リンリー)の上から身体(カラダ)を起こさずに(オノコ)(サケ)んだが、その声に(カブ)さるように藍琳(リンリー)が待ち(ノゾ)んでいた声がその場に(ヒビ)いた。


哀玥(アイゲツ)!!!」


(ヒビ)いた声と同時(ドウジ)土煙(ツチケムリ)の中から何かが飛び出して(イキ)()()藍琳(リンリー)の上から(オノコ)()()がされた。


何がおきているのかは藍琳(リンリー)にも分からない。


分かるはずもないのだが、身体(カラダ)(オモ)()しかかり自由を(ウバ)っていたものが取り(ハラ)われたことだけは(タシ)かな感覚(カンカク)だった。


この(スキ)に起き上がって()げなければならない。


そうは思うのだが、(アタ)えられた恐怖(キョウフ)が強く残り()ぎて指先(ユビサキ)ひとつ(ウゴ)かすことができない。ともすれば呼吸(コキュウ)仕方(シカタ)さえ(ワス)れてしまったように(イキ)をすることさえ(クル)しくて視界(シカイ)(カス)み始めてしまう。


ああ、駄目(ダメ)だ……。


遠くなっていく意識(イシキ)(トド)めたのは身体(カラダ)()れた(アタタ)かい手の感触(カンショク)だった。


藍琳(リンリー)!」


(タオ)れたまま動かない藍琳(リンリー)()()った忋抖(カイト)はその姿(スガタ)に目を見開(ミヒラ)き声を(ウシナ)ってしまった。無惨(ムザン)()()かれた(コロモ)から(アラ)わにされた細い肢体(シタイ)(ウツ)ったけれど、()()には無数(ムスウ)殴打(オウダ)された(アト)があった。青褪(アオザ)めて全身(ゼンシン)(フル)わせながら大粒(オオツブ)(ナミダ)を流している顔でさえ、赤黒(アカグロ)()れあがってしまっている。そこにあの夜忋抖(カイト)の目を(ウバ)った(ヒト)面影(オモカゲ)は無い。


いったいどれだけ(ナグ)ったというのか。

(アラガ)うことさえ出来ない女を(オノコ)ともあろうものが。


苦虫(ニガムシ)()む思いを(オサ)()みながら上衣(ウワゴロモ)()いで藍琳(リンリー)(ツツ)むと、そっと(カカ)え起こす。()れた手から(ハゲ)しい(フル)えが(ツタ)わってきて(タマ)らずに忋抖(カイト)藍琳(リンリー)を強く()きしめた。本当ならまだ()れないほうが藍琳(リンリー)のために良いことは分かっている。無体(ムタイ)(ハタラ)いた(モノ)とは(チガ)うとはいえ藍琳(リンリー)にとれば忋抖(カイト)も同じ(オノコ)でしかない。せめて(フル)えが(オサ)まるまでは見守(ミマモ)るだけのほうが良いことも分かっている。それでも目の前の(アワ)れな(オンナ)恐怖(キョウフ)支配(シハイ)されたまま()て置くことなど忋抖(カイト)にはできなかった。


「ごめんな、もっと早く(サガ)すべきだった」


(フル)え続けている背中(セナカ)をゆっくりと(サス)りながら藍琳(リンリー)()いたまま立ち上がると哀玥(アイゲツ)もとことこと()ってきた。()(ハラ)われた(オノコ)(カベ)(ハゲ)しく()ちつけられたらしく低い()めきをあげている。(ウデ)の中の藍琳(リンリー)身体(カラダ)強張(コワバ)ってより一層(イッソウ)(フル)え上がったのが(ツタ)わって忋抖(カイト)()()げている(ウデ)に力を()めた。寸前(スンゼン)まで(タオ)れている(オノコ)()()かれそうになっていた上に、見たこともないだろう異形(イギョウ)姿(スガタ)である哀玥(アイゲツ)(アラワ)れたのだ。恐怖(キョウフ)限界(ゲンカイ)()えたとしても(イタ)(カタ)ないだろう。


「……お前……っ!()()()()()()()()びだしたのはお前か!!」


やれやれ、と考えていると(オノコ)の低い声がした。視線(シセン)(カエ)すとまだ起き上がれはしないようだが顔だけを(ウゴ)かして忋抖(カイト)たちを(ニラ)みつけている姿(スガタ)が目に入った。忋抖(カイト)哀玥(アイゲツ)を、というよりもその(イカ)りの矛先(ホコサキ)(ウデ)の中で(フル)えている藍琳(リンリー)に向けられているようだ。ますます身体(カラダ)強張(コワバ)らせている藍琳(リンリー)をほんの少しだけ自分に()()せて顔を(カク)してやりながらも(オノコ)(ダマ)って見ていると哀玥(アイゲツ)が向きを変えて低く(ウナ)り始めた。


「やはり厄災(ヤクサイ)()びこむというのは(マコト)であったか!厄介者(ヤッカイモノ)のお前を買ってやった(オン)も返さずこのような……っ!!」


買った、という言葉(コトバ)忋抖(カイト)無意識(ムイシキ)眉根(マユネ)(ヒソ)めてしまう。


()()()()()()()()使(ツカ)ってこの()(ホロ)ぼすつもりなのか?ここから()て行ったとしてお前のような厄介者(ヤッカイモノ)(ダレ)が受け入れると思う?行く()てもなく()(マギ)れたとしてもお前がいるだけで災厄(サイヤク)()りかかり続ける!お前が()なない(カギ)()げる()などないというのに!!」


嘲笑(チョウショウ)(フク)んだ罵声(バセイ)藍琳(リンリー)の手が動いて忋抖(カイト)(コロモ)(ツカ)んだ。


「そうだ!どうせ(ダレ)(ヤク)にもたつことのない()なんだ。これまで(ドオ)()()(ヤシナ)われていればいい!……まあ、(トキ)には(オレ)(ナグサ)みモノとして()()しだすならこれまでよりも()()らしをさせてやってもいいんだぞ!?」


あまりに程度(テイド)の低い言葉(コトバ)に、忋抖(カイト)嘆息(タンソク)するよりない。ねえ、と(ハッ)すると退()()などないのに(オノコ)身体(カラダ)が後ろに退()かれて(カベ)にぶつかった。


「なんで藍琳(リンリー)厄災(ヤクサイ)()ぶと思ってるんだ?」


「……そんなもの……っ!()()()()此処(ココ)にいることが何よりの(アカシ)だろうが!()()()()びだされたから(アラワ)れたのだろうに!!」


()ばれて来たわけじゃないんだけどなあ」


はあ、と大きく嘆息(タンソク)して忋抖(カイト)(ウデ)の中の藍琳(リンリー)視線(シセン)を落とした。(フル)えながらも忋抖(カイト)(コロモ)(ツカ)む手に力が()められていくが(イタ)ましい顔からは表情(ヒョウジョウ)が消え(ナガ)れ落ちる(ナミダ)(トド)まることをしらないように(アフ)れ続けている。


藍琳(リンリー)


()びかけてみるとぎこちないながらに藍琳(リンリー)忋抖(カイト)見上(ミア)げてきた。その姿に微笑(ホホエ)んで出来るだけ(コワ)がらせないような言葉を選ぶ。


「ここにいたい?」


(タズ)ねたのはそのたった一言(ヒトコト)だったのだが藍琳(リンリー)の目が見開(ミヒラ)かれて(ワズ)かに、だがしっかりと首を()る姿が見えた。それに、うん、と(ウナズ)いて忋抖(カイト)(キビス)(カエ)す。


「おい!待て!!」


背後(ハイゴ)から()けられる声を()()けることもせず外に向かう忋抖(カイト)にますます(オノコ)の引き止めるような声が(トド)くが(カカ)わりのないことだ。さっさと外に出て()()()け始めると忋抖(カイト)の耳にしか聞こえない程度(テイド)(オノコ)断末魔(ダンマツマ)が聞こえたが(カマ)うことなく()ける。遠くなっていく(ヤシキ)に向かって藍琳(リンリー)が何か小さく(ツブヤ)いたように思ったけれど、視線(シセン)を落としてみてもただ(フル)えつづけている姿(スガタ)が見えるだけだ。何か残したものでもあるのだろうか、とも思うがそれなら後で忋抖(カイト)哀玥(アイゲツ)が取りに行けばいい。しばらく()けると藍琳(リンリー)と最初に()った湯処(ユドコロ)が見えて忋抖(カイト)も地に()りたつ。近場(チカバ)(イワ)藍琳(リンリー)(スワ)らせてから忋抖(カイト)はもう一度藍琳(リンリー)羽織(ハオ)らせていた(コロモ)(トトノ)えてやる。一瞬(イッシュン)藍琳(リンリー)身体(カラダ)余計(ヨケイ)強張(コワバ)ったけれど忋抖(カイト)()れることに(アラガ)様子(ヨウス)はないようで少し安堵(アンド)した。藍琳(リンリー)の前に(ヒザ)を着いて視線(シセン)を合わせるとまた(イタ)ましい姿が目に飛び込んできて忋抖(カイト)(ムネ)(ニブ)(キシ)んでしまう。小さく(イキ)()いてから藍琳(リンリー)身体(カラダ)(イヤ)すために手を(カザ)して(ジュツ)行使(コウシ)し始めると、(ホノ)かに光る(テノヒラ)(サキ)で付けられていた(キズ)がゆっくりと(ウス)くなっていく。


「……(イヤ)しの(ジュツ)はあんまり得意(トクイ)じゃないから、見た目は(ナオ)るけど(イタ)みはしばらく続くと思う……」


身動(ミウゴ)きひとつ取らない藍琳(リンリー)()びるように伝えると(カス)かに(コウベ)()られた。


「……ほんと、ごめんな。もう少し早く(オレ)が行ってたら痛い思いをさせることなんてなかったのに」


「…………、妖様(アヤカシサマ)(セキ)ではございません…………」


(シボ)りだすような弱々(ヨワヨワ)しい声にますます忋抖(カイト)(ムネ)(キシ)んだ。


「いや、(オレ)(セキ)だよ。悠長(ユウチョウ)()ってるだけじゃなくて藍琳(リンリー)(サガ)せば良かったんだ。ほんとうに(モウ)(ワケ)なかった。(コワ)い思いをさせたよね?」


「……ですが、来てくださいました……」


「でも()()ったとは言えない」


(イヤ)しの(ジュツ)を顔から身体(カラダ)(ウツ)しながら顔を(シカ)める忋抖(カイト)藍琳(リンリー)が力無く首を()ってくれる。


「……(タス)けて(イタダ)ける間柄(アイダガラ)でもないといいますのに……。(ダレ)も手を()()べてくれる(ハズ)などなかったのに、妖様(アヤカシサマ)は……」


先程(サキホド)までのことを思い出してしまったのか藍琳(リンリー)の言葉はそこで途切(トギ)れた。()わりに(オサ)まっていた(フル)えと(ナミダ)(セキ)を切るように(アフ)れ始める。本来(ホンライ)なら声を上げて泣き(サケ)びたいはずだろうに声も立てずに(ナミダ)(コボ)藍琳(リンリー)の手に忋抖(カイト)()いている手を(カサ)ねた。恐怖(キョウフ)を感じさせないようにゆっくりと(カサ)ねた手を(タタ)いてみると(コラ)え切れなくなったのか下を向いた藍琳(リンリー)から(ムセ)びが聞こえ始めて、ますます忋抖(カイト)(ムネ)()めつけられてしまう。(イヤ)しを()えた手も(カサ)ねて(イタ)わるように藍琳(リンリー)両手(リョウテ)(ツツ)んでみたが、それでも泣き(サケ)ぶ声は(ヒビ)かない。


「……(コラ)えなくてもいいんだよ?」


そう(ツタ)えてみたが(ウツム)いたままで藍琳(リンリー)は首を()るばかりだ。うん、と小さく(ウナズ)いてから忋抖(カイト)藍琳(リンリー)の横に(スワ)(ナオ)す。


「ちょっとごめんな」


一言(ヒトコト)()びてから忋抖(カイト)はそっと藍琳(リンリー)を引き寄せて抱きしめた。(ホソ)身体(カラダ)(コワ)れないように背中をさすってやると引き寄せられたことで余計(ヨケイ)強張(コワバ)ってしまった藍琳(リンリー)の力が()けて、ぽすりと顔が胸に預(アズ)けられる。


我慢(ガマン)しなくていいんだ」


ぽんぽんと(タタ)く手に合わせて次第(シダイ)藍琳(リンリー)から嗚咽(オエツ)()れだした。


大丈夫(ダイジョウブ)だ。ここには藍琳(リンリー)(キズ)つける(ヤツ)はいないよ」


()()める(ウデ)にほんの少しだけ力を()めると(コロモ)がぎゅうっと(ツカ)まれて、(ワズ)かに()れだす嗚咽(オエツ)が大きくなった。どうせならしっかりと甘えてくれればもう少し(ヤス)らげさせる(スベ)もあるのだが、今の藍琳(リンリー)には()()精一杯(セイイッパイ)(アマ)えの行動(コウドウ)なのだろう。きっと今まで()()()ということが出来なかったのが(ムセ)び泣く姿(スガタ)から容易(タヤス)く思い(エガ)けて忋抖(カイト)は何ともしれない気持ちになってしまう。幼子(オサナゴ)をあやすようにしばらくの(ジカン)()()()()()ごしていると、とん、と哀玥(アイゲツ)(モド)ってきた音がした。


「おかえり、哀玥(アイゲツ)


顔を向けて(ムカ)えると静かに(ウナズ)いて(ソバ)まで歩いてくるが三寸(サンスン)(ホド)のところで(アユ)みを止めている。その口に以前(イゼン)忋抖(カイト)藍琳(リンリー)(ワタ)した(コロモ)(クワ)えられているのも見えた。


「どうしたの?こっち来ないの?」


いつもなら忋抖(カイト)(ソバ)に来るとすぐに()()ってくれるのに(チカ)づこうとしない哀玥(アイゲツ)の姿に少しの(サミ)しさを感じてしまう。(コロモ)(クワ)えたままなのだから(ハナ)せないのは仕方(シカタ)ないとしても(カタワ)らにこられないのは初めてのことだ。だが哀玥(アイゲツ)は少し(コマ)ったように首を(カシ)げて、ちらりと忋抖(カイト)(ウデ)の中に視線(シセン)を向けた。なるほど、と忋抖(カイト)苦笑(クショウ)するしかない。ようするにまだしっかりと哀玥(アイゲツ)(マミ)えたことのない藍琳(リンリー)が自分の姿を見て余計(ヨケイ)(オソ)れてしまうのではないかと(アン)じているのだろう。(ウデ)の中の藍琳(リンリー)先程(サキホド)よりも落ち着いてきたのか嗚咽(オエツ)も小さくなっている。それを(タシ)かめてからもう一度背中を叩いて忋抖(カイト)は、藍琳(リンリー)、と名を()んだ。ゆっくりと(ムネ)から顔を(ハナ)して見上(ミア)げてくる藍琳(リンリー)微笑(ホホエ)んでまだ残ったままの(ナミダ)()きとってから、そのまま(ホオ)()でてやると戸惑(トマド)いながらも手に()り寄っている。


「ちょっと(マミ)えてもらいたいのがいるんだけど良い?」


()りよられた手で哀玥(アイゲツ)(ホウ)()(シメ)すと藍琳(リンリー)の顔が動いた。そこに(スワ)哀玥(アイゲツ)を見つけて一瞬(イッシュン)また身体(カラダ)強張(コワバ)ったが、心配(シンパイ)いらない、と忋抖(カイト)(ウデ)に力を()め直した。


(オレ)大事(ダイジ)家族(カゾク)なんだ。哀玥(アイゲツ)っていう。さっきも一緒(イッショ)藍琳(リンリー)を助けてくれたんだよ」


藍琳(リンリー)(オドロ)いたような視線(シセン)居所(イドコロ)の悪そうな哀玥(アイゲツ)の小さく()く声がして忋抖(カイト)(カタ)(スク)めるしかない。忋抖(カイト)にとっては当たり前の哀玥(アイゲツ)姿(スガタ)も初めて(マミ)えるものからすれば異形(イギョウ)でしかないのは、里においても変わりはない。(ツネ)忋抖(カイト)(トモ)に動いているのだから(ガイ)するモノではないことは理解(リカイ)していても、本来(ホンライ)(アルジ)悧羅(リラ)だと分かっていても戸惑(トマド)う心だけは無理矢理(ムリヤリ)(ギョ)することはできないのだ。何より哀玥(アイゲツ)()()(ノゾ)んでいない。


主様(アルジサマ)若君方(ワカギミガタ)小生(ショウセイ)(タツト)んでくださっておられるだけで小生(ショウセイ)充分(ジュウブン)()たされておりますれば』


哀玥(アイゲツ)()()()()()()()()()がそれでも奇妙(キミョウ)なモノでも見られるような視線(シセン)を受け止めることは(サイワイ)なはずがない。何よりも大切な哀玥(アイゲツ)不快(フカイ)(カン)じることは()らしたいのだが忋抖(カイト)に出来ることといえば何となく背中(セナカ)(サミ)しげに見えるときに(タワム)れる()りをして哀玥(アイゲツ)に触れることくらいだ。長く里で()らしていても同じ(オニ)(アヤカシ)でさえも畏怖(イフ)するものもいるのだから、ましてヒトである藍琳(リンリー)(オソ)れるのは仕方(シカタ)がないことかもしれない。哀玥(アイゲツ)を見つめたままで動かない藍琳(リンリー)を見ながら、駄目(ダメ)か、と(ナカ)(アキラ)めかけたときだった。


「……それ……」


(ウデ)の中から()()こして藍琳(リンリー)がおずおずと哀玥(アイゲツ)に向かって手を()ばした。()ばされた手に(マヨ)ったようだが哀玥(アイゲツ)も小さく嘆息(タンソク)してから近寄って、藍琳(リンリー)の手に(クワ)えていた(コロモ)を落とす。


『……大切(タイセツ)なものなのでございましょう?』


ふわりと(アズ)けられた(コロモ)感触(カンショク)(タシ)かめるように(ツカ)んで()(イダ)藍琳(リンリー)哀玥(アイゲツ)(ヤワ)らかく目を(ホソ)めた。


「……ありがとうございます……」


言葉(コトバ)とともに藍琳(リンリー)忋抖(カイト)(ウデ)から抜け出して哀玥(アイゲツ)の前に(スワ)ると深々(フカブカ)(コウベ)()げた。


「……ほんとうにありがとうございます、哀玥様(アイゲツサマ)


地に(ヒタイ)をつけて()して(レイ)(ツタ)えられて哀玥(アイゲツ)は目を丸くするしかない。


『およしくださいませ。そのようなこと小生(ショウセイ)にしていただかなくとも良いのです』


(アワ)てた哀玥(アイゲツ)藍琳(リンリー)に顔を上げるように(ツタ)えているが藍琳(リンリー)一向(イッコウ)(コウベ)をあげようとせず礼を()べ続けるばかりだ。あまりに(ナガ)れるような素早(スバヤ)い動きに忋抖(カイト)呆気(アッケ)にとられていたが、その間も二人の話はまとまらない。どうにか顔を上げさせたい哀玥(アイゲツ)が、御容赦(ゴヨウシャ)を、と言いながら顔を寄せて力づくで藍琳(リンリー)の顔を上げさせた。そこでほんの(ワズ)かに哀玥(アイゲツ)の動きが止まったように見えて忋抖(カイト)が声をかけようとしたが、若君(ワカギミ)、と先に声をかけられて(ハバ)まれてしまった。


『いつまで(ホウ)けておられるおつもりでございますか?女子殿(オナゴドノ)をこのような場に()させたままでおるなど……。小生(ショウセイ)若君(ワカギミ)はこのようなことを(ヨシ)とされる御方(オカタ)ではございませんでしょう?』


「あ、ごめんなさい」


大きな嘆息(タンソク)とともに()められては忋抖(カイト)()びるしかない。お早く、と()かされて忋抖(カイト)藍琳(リンリー)(ウデ)(ツカ)むと、よいしょ、と立ち上げてやるのだが(ウデ)(ハナ)すとまた哀玥(アイゲツ)の前に(スワ)りこんでしまう。まるで哀玥(アイゲツ)から(ハナ)れたくないとでも言われているようだが、このままでは(フタタ)忋抖(カイト)叱責(シッセキ)を受けることになるだろう。幾度(イクド)も立ち上げることを繰り返したがいっかな(スス)まずに結局(ケッキョク)最後には()き上げて先刻(センコク)まで(コシ)()ろしていた岩場(イワバ)(ハコ)ぶことになってしまった。それでも哀玥(アイゲツ)(ソバ)に行きたいのだろう。立ちあがろうとする藍琳(リンリー)様子(ヨウス)根負(コンマ)けした哀玥(アイゲツ)がすぐ目の前に()してくれたことでようやく落ち着くことができた。


『ではまずは御挨拶(ゴアイサツ)を。御初(オハツ)(マミ)えさせていただきます。哀玥(アイゲツ)と名を(タマワ)っておりますれば藍琳殿(リンリードノ)もそのようにお呼びください』


(オダ)やかな低い声で哀玥(アイゲツ)名乗(ナノ)るのを藍琳(リンリー)不思議(フシギ)そうに見つめている。


「いえ、(ワタシ)のほうこそ(タス)けていただいたばかりか、御心(オココロ)(クダ)いてくださいましたこと、御礼(オレイ)(モウ)しあげます。……哀玥様(アイゲツサマ)(ワタシ)()を知っておられるのですね」


もう一度(レイ)をとった藍琳(リンリー)哀玥(アイゲツ)は静かに、()、と(コタ)えた。


姿(スガタ)(アラワ)しますことはございませんでしたが藍琳殿(リンリードノ)若君(ワカギミ)が初めてお遭いになられたときも(ソバ)(ヒカ)えておりました(ユエ)


言われて藍琳(リンリー)()()(ヨル)のことを思い返した。精気(セイキ)をとって()しいと懇願(コンガン)した藍琳(リンリー)(コバ)忋抖(カイト)(アイダ)をとりもってくれたのは(ヤミ)の中から聞こえた声だった。その時の声と今目の前にいる哀玥(アイゲツ)の声は聞き(チガ)余地(ヨチ)もないほどに同じものだ。そして()け上がって見えなくなる背中の横に垣間(カイマ)見えた白いものは哀玥(アイゲツ)()だったのだろう。だが、()、と呼んでいいものかは(ヘビ)の形をとっているので(サダ)かではなかった。つい手を伸ばして哀玥(アイゲツ)(コウベ)()でようとして止まった藍琳(リンリー)哀玥(アイゲツ)()れやすいように一歩近づく。ふかりとした毛並(ケナミ)藍琳(リンリー)安堵(アンド)の息を()くのを見やってから哀玥(アイゲツ)は、ちらりと忋抖(カイト)を見た。


『して若君(ワカギミ)。これよりどう動かれるおつもりでしょうや』


「それなんだよねえ」


痛いところを()かれて忋抖(カイト)も大きく嘆息(タンソク)した。助けだしたは()いが別段(ベツダン)考えがあった(ワケ)ではなかったのだ。(イキオ)いに(マカ)せてしまったことは(イナ)めないし、()()()で残りたいかと(タズ)ねてしまったのも藍琳(リンリー)(オトシ)め続けるヒトの子から(ハナ)したかっただけ。だが行く当てもない藍琳(リンリー)をこのままにしてはおけないこともまた分かりきっていることだ。


とはいえ(タト)忋抖(カイト)といえども里にヒトを(マネ)き入れることは出来ることではないし、よしんば出来たとしても()()()とすることも出来ない。(オニ)の里は西王母(セイオウボ)(オサ)める場であり、守護(シュゴ)しているのは忋抖(カイト)(イト)しく(オモ)っている悧羅(リラ)だ。忋抖(カイト)気紛(キマグ)れに藍琳(リンリー)(マネ)き入れてしまえば忋抖(カイト)独断(ドクダン)で行ったことだとしても(セキ)()うのは悧羅(リラ)になってしまう。

それだけは()()()()()()()()()()()()()()()()()


考えに(フケ)忋抖(カイト)に、やれやれ、と哀玥(アイゲツ)(カタ)を落とした。


『よもや、とは思うておりましたがほんに何の(サク)(コウ)じておられなんだとは……』


「やっちゃったんだから仕方(シカタ)ないじゃない。そんなに(アキ)れずにさ、なんか良い考えない?」


悪戯(イタズラ)(オガ)んで助けを(モト)めてみたのだが哀玥(アイゲツ)には()かなかったようだ。ほんにもう、と嘆息(タンソク)をつきながら項垂(ウナダ)れてしまっている。だがそれも仕方(シカタ)ないことだろう。何とか熟考(ジュクコウ)してくれようとしているだけでも有難(アリガタ)いと感謝(カンシャ)しなければ哀玥(アイゲツ)見限(ミカギ)られてしまっては忋抖(カイト)に打つ手など思いつかないのだから。


妲己殿(ダッキドノ)ならば良き(アン)()かびましょうが……』


「そうだねえ……。だけど(オコ)られるのが(サキ)か強めに()(ハタ)かれるのが(サキ)だろうけどねえ」


『そこまで分かっておられて何故(ナニユエ)その場の感情(カンジョウ)(ウゴ)かれておしまいになるのか……。ほんにどうして(トキ)(ワラベ)のようなことを()されてしまわれるのでしょうね』


「まあそう(オコ)んないでよ。説教(セッキョウ)なら()()()()()()()()()受けるってば」


言い合いが終わらずこのままでは()が明けるまで小言(コゴト)を聞く羽目(ハメ)になりそうになって忋抖(カイト)哀玥(アイゲツ)()きついた。忋抖(カイト)が何かを(ネガ)いながら(アマ)えるのは哀玥(アイゲツ)にだけ見せる姿なので、そうされると哀玥(アイゲツ)(アキ)れるよりも()()()()()()()()()()()と思ってくれるのはこれまで(トモ)()ごしてきたからこそ知っている。その光景(コウケイ)を見るたびに妲己(ダッキ)から、甘い、と(ワラ)われてしまうのだが忋抖(カイト)哀玥(アイゲツ)からみれば妲己(ダッキ)相当(ソウトウ)に自分たちを甘やかしていると思う。


(タワム)れあっているとふいに、あの、と藍琳(リンリー)が口を開いた。


(ワタシ)のことであれば()()()()()()()れだしていただいただけで充分(ジュウブン)なのです。(アト)のことはゆっくりと(カンガ)えますのでお二方(フタカタ)()()まれずとも大丈夫(ダイジョウブ)ですから」


おずおずとした言葉と(トモ)に小さく微笑(ホホエ)まれて忋抖(カイト)哀玥(アイゲツ)も、は?、と目を丸くした。


『何を(オオ)せになられますか……。このような場に藍琳殿(リンリードノ)のみ残すなど……』


「そうだよ?手を()し出したのは(オレ)たちなんだから、ちゃんと(ヤス)らげる(トコロ)まで(オク)(トド)けさせてよ。じゃないと(モド)るなんてできないんだから」


『……(サキ)んじられましたのは若君(ワカギミ)だけでございましょう』


哀玥(アイゲツ)ってば!!」


嘆息(タンソク)する哀玥(アイゲツ)と、どうにか機嫌(キゲン)(モド)してもらおうと(アセ)忋抖(カイト)(サマ)余程(ヨホド)可笑(オカ)しかったのだろう。くすくすと藍琳(リンリー)(ワラ)いだして忋抖(カイト)哀玥(アイゲツ)もようやく(カタ)の力を()いた。


(オナゴ)()では(カカ)えきれないほどの恐怖(キョウフ)(アタ)えられていたのだ。(ワラ)えたということは素直(スナオ)僥倖(ギョウコウ)と言えるだろう。して、と(ワラ)い続けている藍琳(リンリー)哀玥(アイゲツ)が向き(ナオ)る。


藍琳殿(リンリードノ)におかれましては(アヤカシ)(タグイ)の中に()を置かれることを(ヨシ)()されましょうか?』


(タズ)ねられたことに藍琳(リンリー)もきょとりとして首を(カシ)げた。それと同じくして忋抖(カイト)もぎょっとして駄目(ダメ)だって!、と哀玥(アイゲツ)から(ハナ)れたが、哀玥(アイゲツ)忋抖(カイト)(アセ)りように落ち着いたまま大きく(ウナズ)いて見せている。


小生(ショウセイ)とて里に(マネ)こうなどとは(オモ)うておりませぬよ。なれどこのままにするはなりませぬ(ユエ)(カエル)(オキナ)にしばし(タノ)めればと思うただけのこと』


「……なるほどね……。でも(オレ)がそんなお(ネガ)いして大丈夫(ダイジョウブ)なのかな?」


悧羅(リラ)(シン)縁故(エンコ)である(オキナ)なら無理(ムリ)をしてでも(タノ)まれてはくれるだろう。だがそれは悧羅(リラ)(シン)(ネガ)い出てくれればの話だ。忋抖(カイト)も深い(オン)がある(カエル)(アヤカシ)だということは聞かされて知ってはいるけれど(マミ)えたことはない。時折(トキオリ)父母(フボ)息災(ソクサイ)かどうか会いに行っているようだが(トモ)に行ったこともはなかった。二人(フタリ)を乗せて一足(イッソク)の内に()けることが出来るのは妲己(ダッキ)哀玥(アイゲツ)だけなのだから仕方(シカタ)がないことでもあるのだ。(モン)を近くに出せば(ムズカ)しいことではないが、(アマ)り近くで出入りすれば()()()()()()気取(ケド)られる、と(オキナ)()しているとも(シン)は言っていた。


(ハナ)れた場所(バショ)(モン)を開いても悧羅(リラ)であれば(マタタ)きの間に着いてしまうだろうが一本角(イッポンヅノ)とはいえ忋抖(カイト)一介(イッカイ)(オニ)でしかない。(シン)にも(イマ)だ遠く(オヨ)ばないし、ましてや(ヤシキ)場所(バショ)さえ知らないのでは(イク)()()かしてから里に(モド)るのかも分らない。


()(アヤカシ)ならば小生(ショウセイ)(マカ)せようなどとは思いませぬよ。(オキナ)であられれば、と』


哀玥(アイゲツ)悧羅(リラ)(シン)(トモ)幾度(イクド)(カエル)(マミ)えている。忋抖(カイト)(オサナ)(コロ)縁続(エンツヅ)きになった安倍晴明(アベノセイメイ)がまだ()()時期(トキ)からなのでそれなりに(オキナ)内面(ナイメン)は知っているつもりだ。(ナガ)()()ごす(アヤカシ)の中でもヒトと(アヤカシ)(ヘダ)たりなく(セッ)することができる稀有(ケウ)存在(ソンザイ)、それが(オキナ)だ。もちろんそれ以上に(オキナ)悧羅(リラ)(シン)、付き添っていく哀玥(アイゲツ)に対する裏表(ウラオモテ)の無い姿からも(シン)()ると思っている。


妲己殿(ダッキドノ)には(トオ)(オヨ)びませぬが小生(ショウセイ)(アシ)であれば(モン)使(ツカ)わずとも夜明(ヨア)けまでには(モド)れましょう。藍琳殿(リンリードノ)(ヨシ)とされれば、ではございますが』


言うと哀玥(アイゲツ)は、とん、と()忋抖(カイト)(タタ)いた。(アト)(マカ)せるということなのだろう。


哀玥(アイゲツ)がそこまで言ってくれてるんだ。(オレ)(シン)じることにするよ。というわけで藍琳(リンリー)、もう少し(オレ)我儘(ワガママ)に付き合ってくれる?悪いようにはしないからさ」


妖様(アヤカシサマ)哀玥様(アイゲツサマ)が良いのだとお考えでしたら(アマ)えさせていただきます」


話の中身(ナカミ)理解(リカイ)できていないだろうに藍琳(リンリー)戸惑(トマド)うこともせずに、お願いいたします、と(コウベ)()げた。


「うん、じゃあ決まりだね。哀玥(アイゲツ)


(タノ)めるか、と忋抖(カイト)が言うより(サキ)哀玥(アイゲツ)は立ち上がって体躯(カラダ)を大きくし始めている。目の前でぐぐっと大きくなる哀玥(アイゲツ)藍琳(リンリー)から、まあ、と感嘆(カンタン)の声が()れた。


哀玥様(アイゲツサマ)はどんなことでもお出来になられるのですね」


嬉々(キキ)とした藍琳(リンリー)様子(ヨウス)哀玥(アイゲツ)も小さく(ワラ)っている。


「なんだか仲間(ナカマ)から(ハズ)されてるみたいだなあ」


目の前の光景(コウケイ)苦笑(クショウ)しながら忋抖(カイト)藍琳(リンリー)()き上げると哀玥(アイゲツ)の背に飛び乗った。


()り落とされませぬよう』


言いながら()け出した哀玥(アイゲツ)の速さは藍琳(リンリー)忋抖(カイト)とともに過ごした夜とは(マッタ)(コト)なっていた。()()()景色(ケシキ)(ナガ)めてその()の広さに心を(ウバ)われたが、今は周りの景色(ケシキ)一瞬(イッシュン)で流れて(カガヤ)く星もまるで一本の線に見えた。


「……すごい……」


思わず出た言葉に哀玥(アイゲツ)苦笑(クショウ)した。


小生(ショウセイ)など(オソ)いくらいでございます。若君(ワカギミ)には(トド)きませぬ(ユエ)


妖様(アヤカシサマ)はまだ(ハヤ)いのですか?」


無論(ムロン)小生(ショウセイ)自慢(ジマン)若君(ワカギミ)でございますから』


揶揄(カラカ)うような哀玥(アイゲツ)に、意地悪(イジワル)言わないで、と忋抖(カイト)がその(コウベ)をくしゃりと()でた。


(オレ)哀玥(アイゲツ)(カナ)うわけないでしょ?哀玥(アイゲツ)は里で3番目に(ハヤ)いじゃないか」


『おや、3番目でございますか。睚眦(ガイシ)もおりますよ?』


「あれは別格(ベッカク)だよ()けてるわけじゃないんだから」


もう、と(カタ)(スク)めてみせたが忋抖(カイト)哀玥(アイゲツ)の速さに追いつけないのは事実(ジジツ)だ。どうにも哀玥(アイゲツ)忋抖(カイト)のことを他者(タシャ)が思うよりも(オオ)きく見ている(フシ)があるから(コマ)ってしまう。


ほんとうに(アマ)いんだよねえ。


やれやれ、とは思うが他愛(タアイ)もない会話が出来る(ホド)には藍琳(リンリー)も空の(タビ)を楽しんでくれているようで忋抖(カイト)も胸を()()ろした。流れていく景色(ケシキ)夢中(ムチュウ)になりすぎて時折(トキオリ)哀玥(アイゲツ)の背から(スベ)り落ちそうになる藍琳(リンリー)世話(セワ)()きながら()けること一刻半(イッコクハン)()の国の(ナカ)ばに()()かると樹々(キギ)()(シゲ)る中に建つ(ヤシキ)が見えた。空の上からでも数多(アマタ)(アヤカシ)気配(ケハイ)がしたが哀玥(アイゲツ)(カマ)うことなく高度(コウド)を下げて中庭(ナカニワ)()り立った。


庭の中では妖達(アヤカシタチ)(ウタゲ)(モヨオ)していたようだが、突如(トツジョ)(アラワ)れたにも(カカ)わらず妖達(アヤカシタチ)忋抖(カイト)に向かって軽く(コウベ)を下げただけで何もないかのように(ウタゲ)を続けている。その(サマ)には忋抖(カイト)もあんぐりと口を開けるしかない。(ナミ)(アヤカシ)ならば(オニ)を見ただけで(カク)れるか平伏(ヒレフ)すかのどちらかだ。だが、ここの妖達(アヤカシタチ)(オニ)が来るのは当然(トウゼン)だとでも言っているようにも見えた。そう哀玥(アイゲツ)に聞きながら背から()りて藍琳(リンリー)に手を()していると、おやおや、と(ヤワ)らかな声が聞こえて()(カエ)る。そこにヒトのように(コロモ)を身につけた背丈(セタケ)四尺(ヨンシャク)ほどのずんぐりとした(カエル)(アヤカシ)が立っていた。


この(カエル)()()()()()、と忋抖(カイト)が思うよりも先に、少し()ねるように(カエル)忋抖(カイト)たちに近づいてきた。(ソバ)まで来た(カエル)に軽く哀玥(アイゲツ)(コウベ)を下げると、お(ヒサ)しゅうございますなあ、と目を細めて持っていた煙管(キセル)()かしている。


哀玥殿(アイゲツドノ)、おかわりなきようでよろしゅうござった」


翁殿(オキナドノ)も。何かお(コマ)りのことなどございませぬか?』


「なんの。ご(ラン)のとおりゆらりゆらりとしておりますれば」


ふぉっふぉっ、と(ワラ)うと(カエル)忋抖(カイト)に向き直った。


「これはこれは。旦那様(ダンナサマ)かと見間違(ミマチガ)うところでございましたぞ。忋抖若君(カイトワカギミ)であらせられますな」


忋抖(カイト)(ウナズ)くと細めた目をますます細めながら(カエル)は、うんうん、と大きな(コウベ)()らしている。


「ほんによう()ておられる。旦那様(ダンナサマ)(ムネ)()られるわけですなあ」


父様(トウサマ)が?」


「それはもう。おいでになられる(タビ)若君(ワカギミ)のお話を(タノ)しそうにされておいででございまして。こうして生きておる内に(マミ)えることができ(モウ)すなど。ほんに長生(ナガイ)きはするものです」


(ヤサ)しい声音(コワネ)と共に(カエル)は何度もまるで自分に言い聞かせるように(ウナズ)き続けている。立ち(バナシ)もなんでございましょう、と縁側(エンガワ)案内(アンナイ)されて(ウナ)がされるままに(スワ)ると(カエル)は、ぴょん、と部屋に入って近くの箱を(カカ)えて(モド)ってきた。


「しかしまた(メズラ)しきお(カタ)をお()れになられたものよ」


忋抖(カイト)の横に(スワ)って妖達(アヤカシタチ)(ウタゲ)に目を(カガ)やかせている藍琳(リンリー)をちらりと見やって(カエル)は持ってきた箱の(フタ)を取ってから忋抖(カイト)(ワタ)してきた。中を確かめると3枚の人型(ヒトガタ)が入っている。


「ここの(アヤカシ)(ヨル)の間にだけ(ツド)(ウタゲ)を楽しむモノ。女人(ニョニン)世話(セワ)()(トド)くとは言えませぬ。とはいえ随分(ズイブン)()ちてきてはおりますが(ヤシキ)には晴明(セイメイ)結界(ケッカイ)も残っております(ユエ)、身の(アヤ)うさはございませんよ」


何か言った(ワケ)でもないのに(カエル)(スベ)てを分かったように(カタ)りながら煙管(キセル)(ユカ)(カル)(タタ)きつけて(ハイ)を捨てると新しい煙草草(タバコグサ)()めてまた(クユ)らせ始めた。(オドロ)いている忋抖(カイト)とは裏腹(ウラハラ)に、(カナ)いませぬ、と哀玥(アイゲツ)苦笑(クショウ)しながら()()っている。哀玥(アイゲツ)態度(タイド)からこれがいつもの(カエル)なのだろうが、それでも何故(ナゼ)という気持ちは残ってしまう。


「なんで何も言ってないのにわかってくれたの?」


忋抖(カイト)嘆息(タンソク)すると(カエル)は、(ジイ)でよろしゅうございます、とまた、ふぉっふぉっ、と(ワラ)ってみせた。


長様(オササマ)にも同じようなことを(タズ)ねられたことがございましたなあ。その時にも(モウ)()げたことが(ナツ)かしゅうございます。(ジイ)のような小物(コモノ)長生(ナガイ)きするには悪知恵(ワルヂエ)を使わねばならぬのですよ。御案(ゴアン)じなされずとも()いておかれてよろしい。ほれ、()()若君(ワカギミ)御能力(オチカラ)をほんの少し流しなされ」


「でも、それじゃ(ジイ)が……」


(アヤ)うくならないか、と聞きたかったのだが(カエル)は、なんのことはない、と(ワラ)うばかりだ。(タイ)したことではないと言ってくれてはいるが(アヤカシ)がヒトを(カクマ)うのことは(ホトン)どない。(タノ)みにきた()ではあるがこれほどすんなりと受け入れて(モラ)えるとは思っていなかったから戸惑(トマド)ってしまう。けれど(カエル)は変わらない笑顔(エガオ)藍琳(リンリー)に声をかけ、名を(タズ)ねて(シバラ)此処(ココ)()らすように(ハナ)し始めている。藍琳(リンリー)遠慮(エンリョ)しようとしたようだが、当てもないなら此処(ココ)でよろしい、と押しきられていた。


「ではしばらくの間だけ」


藍琳(リンリー)(レイ)を言っていると、決まりですな、とますます(カエル)(ワラ)っている。(アキラ)めて忋抖(カイト)も箱の中から人型(ヒトガタ)を取り出して能力(チカラ)を流す。流したのはほんの(ワズ)かであったのに(マタタ)きの間に人型(ヒトガタ)が3人の女官(ニョカン)の姿に(テン)じた。


「数百年ぶりではございましたが流石(サスガ)晴明(セイメイ)の残した(シキ)ですな。()()であれば藍琳殿(リンリードノ)不便(フベン)はかけますまいよ。しかしながら晴明(セイメイ)(ツク)ったものとはいえこれほど(ワズ)かな御能力(オチカラ)()()()()()(シキ)()すことができられるとは。旦那様(ダンナサマ)の話は欲目(ヨクメ)ではないようですなあ」


(シン)此処(ココ)(カエル)にどんな話をしているか気にはなったけれど、今は藍琳(リンリー)のことが先決(センケツ)だ。話の中身(ナカミ)今度(コンド)(タズ)ねたほうが良いだろう、と忋抖(カイト)は気持ちを()()えることにする。


(ジイ)、ほんとうにありがとう。だけどこれで(ジイ)に何かあったら母様(カアサマ)に合わせる顔がないんだけど。(オレ)に何か出来ることない?」


深々(フカブカ)(コウベ)()げた忋抖(カイト)の肩に、なんの、と(カエル)()れた。


若君(ワカギミ)から(レイ)(タマワ)るなど勿体無(モッタイナ)いこと。それに(ジイ)の身には(アマ)りあるほどの褒美(ホウビ)はもう(イタダ)いておるのですよ」


言うと(カエル)は小さな水掻(ミズカ)きの付いた手に持っていた煙管(キセル)をくるりと(マワ)して忋抖(カイト)に見せた。漆塗(ウルシヌ)りのどうということのない煙管(キセル)だと思っていた()()には薄紫(ウスムラサキ)(ハス)(ハナ)()られている。それだけでその煙管(キセル)(オク)ったのが悧羅(リラ)だということが分かる。


「これだけでも有難(アリガタ)いことだというのに、長様(オササマ)旦那様(ダンナサマ)(オリ)を見ては変わりはないかと(タズ)ねにきてくださる。長々(ナガナガ)(サケ)()()わすことも(オオ)なりました。(ツド)うモノたちにもあまりに気安(キヤス)くなさるので妖達(アヤカシタチ)鬼神様(キジンサマ)(オソレ)ぬようになってしもうてのう。……それもまた(ジイ)にとれば(ユメ)のような褒美(ホウビ)でございましょうや」


(カエル)の言葉で()りたった時の違和感(イワカン)が、そういうことか、とすとんと(ムネ)に落ちた。大恩(タイオン)ある(カエル)(ヤス)らげる場が、悧羅(リラ)(シン)度々(タビタビ)(オトズ)れることで(ミダ)されないよう二人(フタリ)(ココロ)(クダ)いてきたのだろう。なんとも父母(フボ)らしくて自然(シゼン)()みが(コボ)れてしまう。


「でもそれは母様(カアサマ)父様(トウサマ)からの(レイ)でしょ?(オレ)だって世話(セワ)になるんだから何かさせてもらわないと(モウ)(ワケ)ないんだけどなあ」


()い下がる忋抖(カイト)(コマ)ったのか(カエル)哀玥(アイゲツ)を見るが、(カタク)なであられます(ユエ)、と()()られているだけだ。


若君(ワカギミ)(マミ)えさせていただけたことだけで(ジイ)にとれば褒美(ホウビ)でありますからなあ」


少しばかり考えるように(カエル)は言ってくれるが、無理(ムリ)とも思えたことを(ココロヨ)く受け入れてくれたのだ。何か(カエル)が喜ぶことを(カナ)えなければ忋抖(カイト)の気持ちも落ち着かない。しばらく考えていた(カエル)は変わらずに煙管(キセル)をふかしながら忋抖(カイト)の目の前で水掻(ミズカ)きのついた短い指を立ててみせた。


「ではこう(イタ)すとしましょう。少しばかり前に旦那様(ダンナサマ)が持ってきてくださった(サケ)大変(タイヘン)美味(ウモ)うございましてな。旦那様(ダンナサマ)のお気に入りのようで()()をもう一度と(ネゴ)うておるのですが、とんと()ってきてくださらん。()()(ジイ)()んでくださいますかな?……それに長様(オササマ)のお好きな揚饅頭(アゲマンジュウ)もあれば(ナオ)よろしい」


「そんなんでいいなら山程(ヤマホド)持ってくるけど」


「それで充分(ジュウブン)若君(ワカギミ)とまで(サケ)()()わせるなど(ホマレ)(イタ)りですのでな。……さあ、そろそろお戻りにならねば長様(オササマ)(サミ)しゅうなられますぞ?」


揶揄(カラカ)いながらも忋抖(カイト)の身を(アン)じてくれているのが背中を(タタ)いた小さな手から充分(ジュウブン)に伝わって、忋抖(カイト)哀玥(アイゲツ)もそれに(シタガ)うことにする。体躯(カラダ)を大きくし始めた哀玥(アイゲツ)を見て、(スデ)女官達(ニョカンタチ)(ウデ)(ツカ)まれて部屋の(オク)()れていかれようとしていた藍琳(リンリー)が、妖様(アヤカシサマ)、と声をあげた。


「すぐにまた来るから。少しの(アイダ)ゆっくりしてて」


縁側(エンガワ)まで小走(コバシ)りで近づいてきた藍琳(リンリー)心細(ココロボソ)そうに(ウナズ)いた。


「それとまだ無理(ムリ)しちゃ駄目(ダメ)だからね?先刻(サッキ)も言ったけど(イヤ)しの(ジュツ)得意(トクイ)じゃないから、(イタ)みがあるだろう?しばらくはゆっくり休むんだよ」


くしゃりと(コウベ)()でてやると、はい、と藍琳(リンリー)(コタ)えた。


「ほんとうにありがとうございました。妖様(アヤカシサマ)哀玥様(アイゲツサマ)。どうかお気をつけて」


(イノ)るように手を合わせた藍琳(リンリー)(コウベ)をぽんぽんと優しく(タタ)いてから、忋抖(カイト)だ、と伝えてみる。きょとりとした藍琳(リンリー)忋抖(カイト)も知らず内に笑顔(エガオ)になってしまう。


「だから()だよ。妖様(アヤカシサマ)じゃあなくて忋抖(カイト)


「……忋抖(カイト)……(サマ)……?」


「うん。哀玥(アイゲツ)だけ()()んでもらえてるのもなんだかね。ちゃんと(オレ)()()んでくれると(ウレ)しいんだけどな」


もう一度(コウベ)()でながら忋抖(カイト)は何の()なしに(ネガ)ってみたのだが、目の前の藍琳(リンリー)突如(トツジョ)顔を(シュ)()めて(ウツム)いてしまった。あれ?、と忋抖(カイト)(カオ)(ノゾ)きこもうとしたが、見える前に藍琳(リンリー)が両手で顔を(カク)してしまう。


藍琳(リンリー)、どうしたの?」


「いえ……、その……、なんでもございませんので……。……どうかお気をつけてお(モド)りくださいませ……、忋抖様(カイトサマ)……」


顔を(カク)したままの藍琳(リンリー)の手を(ハズ)そうと手を()ばしたが、背後(ハイゴ)から(コロモ)()かれて動きを(ハバ)まれた。顔だけで()()くと哀玥(アイゲツ)(コロモ)(クワ)えている。


「なに?哀玥(アイゲツ)?どうしたの?」


きょとんとした忋抖(カイト)哀玥(アイゲツ)は大きな嘆息(タンソク)を投げた。


『……ほんに若君(ワカギミ)は……。まずは(モド)らねばなりませぬ(ユエ)、とにかく今は()にお乗りを』


一度(ハナ)した(コロモ)をもう一度(クワ)えて()かす哀玥(アイゲツ)と、何が何やら分からないでいる忋抖(カイト)(カエル)(コラ)えきれずに(ワラ)い出す。お早く、と(サラ)()かされて渋々(シブシブ)()に乗った忋抖(カイト)を確かめて、では、と()けだした哀玥(アイゲツ)(カエル)の声が(トド)いた。


哀玥殿(アイゲツドノ)長様(オササマ)()()()()()お伝えくだされ」


ともすれば(タダ)口上(コウジョウ)にとれる()()()()哀玥(アイゲツ)には(タダ)しく(トラ)えることができる。


()()哀玥(アイゲツ)()()()()()()()()()()()


だが、それをどのようにして悧羅(リラ)に伝えるべきかが(ナヤ)ましいだけであって。


「ねえ、なんで今更(イマサラ)そんなに()くんだよ?ねえ、哀玥(アイゲツ)ってば」


どうやら哀玥(アイゲツ)が考える(ジカン)は今この(トキ)にはないようだ。()の上から、どうかしたの?、と幾度(イクド)(タズ)ねられては考えることもできない。何より今は(トキ)無垢(ムク)になる大切(タイセツ)鬼神(キジン)(ナダ)める(ホウ)(サキ)にしなければならないことのようだった。


若君(ワカギミ)約定(ヤクジョウ)一刻(イッコク)がとうに()ぎておられることをお(ワス)れではございませんか?』


「ええ?ほんとうにそんな今更(イマサラ)なことなの?」


もう、と嘆息(タンソク)した忋抖(カイト)の顔は見えなくとも(ワラベ)のように(ホオ)(フク)らませている姿(スガタ)が思い(エガ)けて哀玥(アイゲツ)はつい可笑(オカ)しくなってしまった。


『そのようなことではございませんよ?小生(ショウセイ)との約定(ヤクジョウ)(タガ)えられることを若君(ワカギミ)(ヨシ)()さいましょうか?』


「それは駄目(ダメ)だし(イヤ)だよ。哀玥(アイゲツ)(カナ)しんじゃう」


『そうでございましょう。であればしっかと()に乗っておいでになられますよう。(モン)(クグ)って(モド)りましょうや』


くすくすと(ワラ)い続けている哀玥(アイゲツ)上手(ウマ)く言いくるめられたようにも思えたが、分かった、と忋抖(カイト)(ウナズ)いた。


「じゃあ(ミヤ)についたらいつものように一緒(イッショ)()ようよ。哀玥(アイゲツ)にも無理(ムリ)させちゃったから(ツカ)れたろう?ごめんな」


ぽんぽんと体躯(カラダ)(タタ)いて忋抖(カイト)から(イタワ)られて、ますます哀玥(アイゲツ)(ワラ)えてしまった。


若君(ワカギミ)がお(ノゾ)みになられるのでしたら、そうでございますね。()()()()()()()(ヤス)むことと(イタ)しましょう』


()けた(モン)(クグ)りながら哀玥(アイゲツ)()(シメ)すと、やったね、と忋抖(カイト)(ウレ)しそうな声がした。その声を聞きながら、どうか、と哀玥(アイゲツ)(ネガ)わずにはいられなかった。


どうか自分の上で無邪気(ムジャキ)(ワラ)っている忋抖(カイト)(カナ)しむことのないように。


どうか(ナミダ)笑顔(エガオ)(クモ)ることのないように。


どうか、と哀玥(アイゲツ)(トド)くとも知れない(ネガ)いを()(カエ)した。

読んでいただいてありがとうございました。

お楽しみいただけてなら嬉しいです。

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