遭う《アウ》肆《シ》
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突如砕かれた壁に目を向けたのは藍琳だけではなかった。藍琳の上に乗って身体の自由を奪っていた男も崩れおちていく邸の壁に目を見開いている。壁が砕ける轟音が轟いたためか邸の彼方此方から駆け廻る足音も聞こえているが、男と藍琳は立ち込めている土煙から目が離せない。
「な、なんだ!!何が起こった!?」
未だ姿を捉えることが出来ない場でも藍琳の上から身体を起こさずに男が叫んだが、その声に被さるように藍琳が待ち望んでいた声がその場に響いた。
「哀玥!!!」
響いた声と同時に土煙の中から何かが飛び出して息を呑む間に藍琳の上から男が引き剥がされた。
何がおきているのかは藍琳にも分からない。
分かるはずもないのだが、身体に重く乗しかかり自由を奪っていたものが取り払われたことだけは確かな感覚だった。
この隙に起き上がって逃げなければならない。
そうは思うのだが、与えられた恐怖が強く残り過ぎて指先ひとつ動かすことができない。ともすれば呼吸の仕方さえ忘れてしまったように息をすることさえ苦しくて視界が霞み始めてしまう。
ああ、駄目だ……。
遠くなっていく意識を留めたのは身体に触れた温かい手の感触だった。
「藍琳!」
倒れたまま動かない藍琳に駆け寄った忋抖はその姿に目を見開き声を失ってしまった。無惨に引き裂かれた衣から露わにされた細い肢体も映ったけれど、そこには無数に殴打された跡があった。青褪めて全身を震わせながら大粒の涙を流している顔でさえ、赤黒く腫れあがってしまっている。そこにあの夜忋抖の目を奪った女の面影は無い。
いったいどれだけ殴ったというのか。
抗うことさえ出来ない女を男ともあろうものが。
苦虫を噛む思いを抑え込みながら上衣を脱いで藍琳を包むと、そっと抱え起こす。触れた手から激しい震えが伝わってきて堪らずに忋抖は藍琳を強く抱きしめた。本当ならまだ触れないほうが藍琳のために良いことは分かっている。無体を働いた者とは違うとはいえ藍琳にとれば忋抖も同じ男でしかない。せめて震えが収まるまでは見守るだけのほうが良いことも分かっている。それでも目の前の哀れな女を恐怖に支配されたまま捨て置くことなど忋抖にはできなかった。
「ごめんな、もっと早く探すべきだった」
震え続けている背中をゆっくりと摩りながら藍琳を抱いたまま立ち上がると哀玥もとことこと寄ってきた。薙ぎ払われた男は壁に激しく打ちつけられたらしく低い呻めきをあげている。腕の中の藍琳の身体が強張ってより一層震え上がったのが伝わって忋抖も抱き上げている腕に力を込めた。寸前まで倒れている男に組み敷かれそうになっていた上に、見たこともないだろう異形の姿である哀玥が現れたのだ。恐怖が限界を超えたとしても致し方ないだろう。
「……お前……っ!このバケモノ達を呼びだしたのはお前か!!」
やれやれ、と考えていると男の低い声がした。視線を返すとまだ起き上がれはしないようだが顔だけを動かして忋抖たちを睨みつけている姿が目に入った。忋抖と哀玥を、というよりもその怒りの矛先は腕の中で震えている藍琳に向けられているようだ。ますます身体を強張らせている藍琳をほんの少しだけ自分に引き寄せて顔を隠してやりながらも男を黙って見ていると哀玥が向きを変えて低く唸り始めた。
「やはり厄災を呼びこむというのは真であったか!厄介者のお前を買ってやった恩も返さずこのような……っ!!」
買った、という言葉に忋抖は無意識に眉根を顰めてしまう。
「このバケモノたちを使ってこの世を滅ぼすつもりなのか?ここから出て行ったとしてお前のような厄介者を誰が受け入れると思う?行く当てもなく野に紛れたとしてもお前がいるだけで災厄は降りかかり続ける!お前が死なない限り逃げる場などないというのに!!」
嘲笑を含んだ罵声に藍琳の手が動いて忋抖の衣を掴んだ。
「そうだ!どうせ誰の役にもたつことのない身なんだ。これまで通りここで養われていればいい!……まあ、時には俺の慰みモノとして身を差しだすならこれまでよりも良い暮らしをさせてやってもいいんだぞ!?」
あまりに程度の低い言葉に、忋抖も嘆息するよりない。ねえ、と発すると退く場などないのに男の身体が後ろに退かれて壁にぶつかった。
「なんで藍琳が厄災を呼ぶと思ってるんだ?」
「……そんなもの……っ!お前たちが此処にいることが何よりの証だろうが!そいつに呼びだされたから現れたのだろうに!!」
「呼ばれて来たわけじゃないんだけどなあ」
はあ、と大きく嘆息して忋抖は腕の中の藍琳に視線を落とした。震えながらも忋抖の衣を掴む手に力が込められていくが傷ましい顔からは表情が消え流れ落ちる涙も留まることをしらないように溢れ続けている。
「藍琳」
呼びかけてみるとぎこちないながらに藍琳が忋抖を見上げてきた。その姿に微笑んで出来るだけ怖がらせないような言葉を選ぶ。
「ここにいたい?」
尋ねたのはそのたった一言だったのだが藍琳の目が見開かれて僅かに、だがしっかりと首を振る姿が見えた。それに、うん、と頷いて忋抖は踵を返す。
「おい!待て!!」
背後から掛けられる声を気に掛けることもせず外に向かう忋抖にますます男の引き止めるような声が届くが関わりのないことだ。さっさと外に出て地を蹴り翔け始めると忋抖の耳にしか聞こえない程度の男の断末魔が聞こえたが構うことなく翔ける。遠くなっていく邸に向かって藍琳が何か小さく呟いたように思ったけれど、視線を落としてみてもただ震えつづけている姿が見えるだけだ。何か残したものでもあるのだろうか、とも思うがそれなら後で忋抖か哀玥が取りに行けばいい。しばらく翔けると藍琳と最初に遭った湯処が見えて忋抖も地に降りたつ。近場の岩に藍琳を座らせてから忋抖はもう一度藍琳に羽織らせていた衣を整えてやる。一瞬藍琳の身体が余計に強張ったけれど忋抖が触れることに抗う様子はないようで少し安堵した。藍琳の前に膝を着いて視線を合わせるとまた傷ましい姿が目に飛び込んできて忋抖の胸も鈍く軋んでしまう。小さく息を吐いてから藍琳の身体を癒すために手を翳して術を行使し始めると、仄かに光る掌の先で付けられていた傷がゆっくりと薄くなっていく。
「……癒しの術はあんまり得意じゃないから、見た目は治るけど痛みはしばらく続くと思う……」
身動きひとつ取らない藍琳に詫びるように伝えると微かに頭が振られた。
「……ほんと、ごめんな。もう少し早く俺が行ってたら痛い思いをさせることなんてなかったのに」
「…………、妖様の責ではございません…………」
絞りだすような弱々しい声にますます忋抖の胸が軋んだ。
「いや、俺の責だよ。悠長に待ってるだけじゃなくて藍琳を探せば良かったんだ。ほんとうに申し訳なかった。怖い思いをさせたよね?」
「……ですが、来てくださいました……」
「でも間に合ったとは言えない」
癒しの術を顔から身体へ移しながら顔を顰める忋抖に藍琳が力無く首を振ってくれる。
「……助けて頂ける間柄でもないといいますのに……。誰も手を差し伸べてくれる筈などなかったのに、妖様は……」
先程までのことを思い出してしまったのか藍琳の言葉はそこで途切れた。代わりに収まっていた震えと涙が堰を切るように溢れ始める。本来なら声を上げて泣き叫びたいはずだろうに声も立てずに涙を溢す藍琳の手に忋抖は空いている手を重ねた。恐怖を感じさせないようにゆっくりと重ねた手を叩いてみると堪え切れなくなったのか下を向いた藍琳から咽びが聞こえ始めて、ますます忋抖の胸は締めつけられてしまう。癒しを終えた手も重ねて労わるように藍琳の両手を包んでみたが、それでも泣き叫ぶ声は響かない。
「……堪えなくてもいいんだよ?」
そう伝えてみたが俯いたままで藍琳は首を振るばかりだ。うん、と小さく頷いてから忋抖は藍琳の横に座り直す。
「ちょっとごめんな」
一言詫びてから忋抖はそっと藍琳を引き寄せて抱きしめた。細い身体が壊れないように背中をさすってやると引き寄せられたことで余計に強張ってしまった藍琳の力が抜けて、ぽすりと顔が胸に預けられる。
「我慢しなくていいんだ」
ぽんぽんと叩く手に合わせて次第に藍琳から嗚咽が漏れだした。
「大丈夫だ。ここには藍琳を傷つける奴はいないよ」
抱き締める腕にほんの少しだけ力を込めると衣がぎゅうっと掴まれて、僅かに漏れだす嗚咽が大きくなった。どうせならしっかりと甘えてくれればもう少し安らげさせる術もあるのだが、今の藍琳にはこれが精一杯の甘えの行動なのだろう。きっと今まで甘えるということが出来なかったのが咽び泣く姿から容易く思い描けて忋抖は何ともしれない気持ちになってしまう。幼子をあやすようにしばらくの刻をそうして過ごしていると、とん、と哀玥が戻ってきた音がした。
「おかえり、哀玥」
顔を向けて迎えると静かに頷いて側まで歩いてくるが三寸程のところで歩みを止めている。その口に以前忋抖が藍琳に渡した衣が咥えられているのも見えた。
「どうしたの?こっち来ないの?」
いつもなら忋抖の側に来るとすぐに擦り寄ってくれるのに近づこうとしない哀玥の姿に少しの淋しさを感じてしまう。衣を咥えたままなのだから話せないのは仕方ないとしても傍らにこられないのは初めてのことだ。だが哀玥は少し困ったように首を傾げて、ちらりと忋抖の腕の中に視線を向けた。なるほど、と忋抖も苦笑するしかない。ようするにまだしっかりと哀玥に見えたことのない藍琳が自分の姿を見て余計に恐れてしまうのではないかと案じているのだろう。腕の中の藍琳は先程よりも落ち着いてきたのか嗚咽も小さくなっている。それを確かめてからもう一度背中を叩いて忋抖は、藍琳、と名を呼んだ。ゆっくりと胸から顔を離して見上げてくる藍琳に微笑んでまだ残ったままの涙を拭きとってから、そのまま頰を撫でてやると戸惑いながらも手に擦り寄っている。
「ちょっと見えてもらいたいのがいるんだけど良い?」
擦りよられた手で哀玥の方を指し示すと藍琳の顔が動いた。そこに座る哀玥を見つけて一瞬また身体が強張ったが、心配いらない、と忋抖も腕に力を込め直した。
「俺の大事な家族なんだ。哀玥っていう。さっきも一緒に藍琳を助けてくれたんだよ」
藍琳の驚いたような視線に居所の悪そうな哀玥の小さく鳴く声がして忋抖も肩を竦めるしかない。忋抖にとっては当たり前の哀玥の姿も初めて見えるものからすれば異形でしかないのは、里においても変わりはない。常に忋抖と共に動いているのだから害するモノではないことは理解していても、本来の主が悧羅だと分かっていても戸惑う心だけは無理矢理に御することはできないのだ。何より哀玥がそれを望んでいない。
『主様や若君方が小生を尊んでくださっておられるだけで小生は充分に満たされておりますれば』
哀玥はそうも言ってくれるがそれでも奇妙なモノでも見られるような視線を受け止めることは倖なはずがない。何よりも大切な哀玥が不快に感じることは減らしたいのだが忋抖に出来ることといえば何となく背中が淋しげに見えるときに戯れる振りをして哀玥に触れることくらいだ。長く里で暮らしていても同じ鬼や妖でさえも畏怖するものもいるのだから、ましてヒトである藍琳が恐れるのは仕方がないことかもしれない。哀玥を見つめたままで動かない藍琳を見ながら、駄目か、と半ば諦めかけたときだった。
「……それ……」
腕の中から身を起こして藍琳がおずおずと哀玥に向かって手を伸ばした。伸ばされた手に迷ったようだが哀玥も小さく嘆息してから近寄って、藍琳の手に咥えていた衣を落とす。
『……大切なものなのでございましょう?』
ふわりと預けられた衣の感触を確かめるように掴んで推し抱く藍琳に哀玥は柔らかく目を細めた。
「……ありがとうございます……」
言葉とともに藍琳は忋抖の腕から抜け出して哀玥の前に座ると深々と頭を下げた。
「……ほんとうにありがとうございます、哀玥様」
地に額をつけて伏して礼を伝えられて哀玥は目を丸くするしかない。
『およしくださいませ。そのようなこと小生にしていただかなくとも良いのです』
慌てた哀玥が藍琳に顔を上げるように伝えているが藍琳も一向に頭をあげようとせず礼を述べ続けるばかりだ。あまりに流れるような素早い動きに忋抖も呆気にとられていたが、その間も二人の話はまとまらない。どうにか顔を上げさせたい哀玥が、御容赦を、と言いながら顔を寄せて力づくで藍琳の顔を上げさせた。そこでほんの僅かに哀玥の動きが止まったように見えて忋抖が声をかけようとしたが、若君、と先に声をかけられて阻まれてしまった。
『いつまで呆けておられるおつもりでございますか?女子殿をこのような場に座させたままでおるなど……。小生の若君はこのようなことを善とされる御方ではございませんでしょう?』
「あ、ごめんなさい」
大きな嘆息とともに責められては忋抖も詫びるしかない。お早く、と急かされて忋抖も藍琳の腕を掴むと、よいしょ、と立ち上げてやるのだが腕を離すとまた哀玥の前に座りこんでしまう。まるで哀玥から離れたくないとでも言われているようだが、このままでは再び忋抖が叱責を受けることになるだろう。幾度も立ち上げることを繰り返したがいっかな進まずに結局最後には抱き上げて先刻まで腰を降ろしていた岩場に運ぶことになってしまった。それでも哀玥の側に行きたいのだろう。立ちあがろうとする藍琳の様子に根負けした哀玥がすぐ目の前に座してくれたことでようやく落ち着くことができた。
『ではまずは御挨拶を。御初に見えさせていただきます。哀玥と名を賜っておりますれば藍琳殿もそのようにお呼びください』
穏やかな低い声で哀玥が名乗るのを藍琳は不思議そうに見つめている。
「いえ、私のほうこそ助けていただいたばかりか、御心を砕いてくださいましたこと、御礼を申しあげます。……哀玥様は私の名を知っておられるのですね」
もう一度礼をとった藍琳に哀玥は静かに、是、と応えた。
『姿を現しますことはございませんでしたが藍琳殿と若君が初めてお遭いになられたときも側に控えておりました故』
言われて藍琳もあの夜のことを思い返した。精気をとって欲しいと懇願した藍琳と拒む忋抖の間をとりもってくれたのは闇の中から聞こえた声だった。その時の声と今目の前にいる哀玥の声は聞き違う余地もないほどに同じものだ。そして翔け上がって見えなくなる背中の横に垣間見えた白いものは哀玥の尾だったのだろう。だが、尾、と呼んでいいものかは蛇の形をとっているので定かではなかった。つい手を伸ばして哀玥の頭を撫でようとして止まった藍琳に哀玥も触れやすいように一歩近づく。ふかりとした毛並に藍琳が安堵の息を吐くのを見やってから哀玥は、ちらりと忋抖を見た。
『して若君。これよりどう動かれるおつもりでしょうや』
「それなんだよねえ」
痛いところを突かれて忋抖も大きく嘆息した。助けだしたは良いが別段考えがあった訳ではなかったのだ。勢いに任せてしまったことは否めないし、あの場で残りたいかと尋ねてしまったのも藍琳を貶め続けるヒトの子から離したかっただけ。だが行く当てもない藍琳をこのままにしてはおけないこともまた分かりきっていることだ。
とはいえ例え忋抖といえども里にヒトを招き入れることは出来ることではないし、よしんば出来たとしてもそれを是とすることも出来ない。鬼の里は西王母の治める場であり、守護しているのは忋抖が愛しく想っている悧羅だ。忋抖が気紛れに藍琳を招き入れてしまえば忋抖の独断で行ったことだとしても責を負うのは悧羅になってしまう。
それだけはあってはならないしさせてもならない。
考えに耽る忋抖に、やれやれ、と哀玥が肩を落とした。
『よもや、とは思うておりましたがほんに何の策も講じておられなんだとは……』
「やっちゃったんだから仕方ないじゃない。そんなに呆れずにさ、なんか良い考えない?」
悪戯に拝んで助けを求めてみたのだが哀玥には効かなかったようだ。ほんにもう、と嘆息をつきながら項垂れてしまっている。だがそれも仕方ないことだろう。何とか熟考してくれようとしているだけでも有難いと感謝しなければ哀玥に見限られてしまっては忋抖に打つ手など思いつかないのだから。
『妲己殿ならば良き案も浮かびましょうが……』
「そうだねえ……。だけど怒られるのが先か強めに尾で叩かれるのが先だろうけどねえ」
『そこまで分かっておられて何故その場の感情で動かれておしまいになるのか……。ほんにどうして時に童のようなことを為されてしまわれるのでしょうね』
「まあそう怒んないでよ。説教ならあとでどれだけでも受けるってば」
言い合いが終わらずこのままでは夜が明けるまで小言を聞く羽目になりそうになって忋抖は哀玥に抱きついた。忋抖が何かを願いながら甘えるのは哀玥にだけ見せる姿なので、そうされると哀玥も呆れるよりもどうにかしたほうが早いと思ってくれるのはこれまで共に過ごしてきたからこそ知っている。その光景を見るたびに妲己から、甘い、と笑われてしまうのだが忋抖と哀玥からみれば妲己も相当に自分たちを甘やかしていると思う。
戯れあっているとふいに、あの、と藍琳が口を開いた。
「私のことであればあの場所から連れだしていただいただけで充分なのです。後のことはゆっくりと考えますのでお二方が気に病まれずとも大丈夫ですから」
おずおずとした言葉と共に小さく微笑まれて忋抖も哀玥も、は?、と目を丸くした。
『何を仰せになられますか……。このような場に藍琳殿のみ残すなど……』
「そうだよ?手を差し出したのは俺たちなんだから、ちゃんと安らげる処まで送り届けさせてよ。じゃないと戻るなんてできないんだから」
『……先んじられましたのは若君だけでございましょう』
「哀玥ってば!!」
嘆息する哀玥と、どうにか機嫌を戻してもらおうと焦る忋抖の様が余程可笑しかったのだろう。くすくすと藍琳が笑いだして忋抖も哀玥もようやく肩の力を抜いた。
女の身では抱えきれないほどの恐怖を与えられていたのだ。笑えたということは素直に僥倖と言えるだろう。して、と笑い続けている藍琳に哀玥が向き直る。
『藍琳殿におかれましては妖の類の中に身を置かれることを善と為されましょうか?』
尋ねられたことに藍琳もきょとりとして首を傾げた。それと同じくして忋抖もぎょっとして駄目だって!、と哀玥から離れたが、哀玥は忋抖の焦りように落ち着いたまま大きく頷いて見せている。
『小生とて里に招こうなどとは思うておりませぬよ。なれどこのままにするはなりませぬ故、蛙の翁にしばし頼めればと思うただけのこと』
「……なるほどね……。でも俺がそんなお願いして大丈夫なのかな?」
悧羅や紳と縁故である翁なら無理をしてでも頼まれてはくれるだろう。だがそれは悧羅や紳が願い出てくれればの話だ。忋抖も深い恩がある蛙の妖だということは聞かされて知ってはいるけれど見えたことはない。時折、父母が息災かどうか会いに行っているようだが共に行ったこともはなかった。二人を乗せて一足の内に翔けることが出来るのは妲己か哀玥だけなのだから仕方がないことでもあるのだ。門を近くに出せば難しいことではないが、余り近くで出入りすればよからぬモノに気取られる、と翁が辞しているとも紳は言っていた。
離れた場所に門を開いても悧羅であれば瞬きの間に着いてしまうだろうが一本角とはいえ忋抖も一介の鬼でしかない。紳にも未だ遠く及ばないし、ましてや邸の場所さえ知らないのでは幾つ夜を明かしてから里に戻るのかも分らない。
『他の妖ならば小生も任せようなどとは思いませぬよ。翁であられれば、と』
哀玥は悧羅や紳と共に幾度が蛙と見えている。忋抖が幼い頃縁続きになった安倍晴明がまだ世に居た時期からなのでそれなりに翁の内面は知っているつもりだ。永く世で過ごす妖の中でもヒトと妖の隔たりなく接することができる稀有な存在、それが翁だ。もちろんそれ以上に翁の悧羅と紳、付き添っていく哀玥に対する裏表の無い姿からも信に足ると思っている。
『妲己殿には遠く及びませぬが小生の脚であれば門を使わずとも夜明けまでには戻れましょう。藍琳殿が善とされれば、ではございますが』
言うと哀玥は、とん、と尾で忋抖を叩いた。後は任せるということなのだろう。
「哀玥がそこまで言ってくれてるんだ。俺も信じることにするよ。というわけで藍琳、もう少し俺の我儘に付き合ってくれる?悪いようにはしないからさ」
「妖様と哀玥様が良いのだとお考えでしたら甘えさせていただきます」
話の中身は理解できていないだろうに藍琳は戸惑うこともせずに、お願いいたします、と頭を下げた。
「うん、じゃあ決まりだね。哀玥」
頼めるか、と忋抖が言うより先に哀玥は立ち上がって体躯を大きくし始めている。目の前でぐぐっと大きくなる哀玥に藍琳から、まあ、と感嘆の声が漏れた。
「哀玥様はどんなことでもお出来になられるのですね」
嬉々とした藍琳の様子に哀玥も小さく笑っている。
「なんだか仲間から外されてるみたいだなあ」
目の前の光景に苦笑しながら忋抖は藍琳を抱き上げると哀玥の背に飛び乗った。
『振り落とされませぬよう』
言いながら翔け出した哀玥の速さは藍琳が忋抖とともに過ごした夜とは全く異なっていた。あの夜は景色を眺めてその世の広さに心を奪われたが、今は周りの景色が一瞬で流れて輝く星もまるで一本の線に見えた。
「……すごい……」
思わず出た言葉に哀玥も苦笑した。
『小生など遅いくらいでございます。若君には届きませぬ故』
「妖様はまだ速いのですか?」
『無論。小生の自慢の若君でございますから』
揶揄うような哀玥に、意地悪言わないで、と忋抖がその頭をくしゃりと撫でた。
「俺が哀玥に敵うわけないでしょ?哀玥は里で3番目に速いじゃないか」
『おや、3番目でございますか。睚眦もおりますよ?』
「あれは別格だよ翔けてるわけじゃないんだから」
もう、と肩を竦めてみせたが忋抖が哀玥の速さに追いつけないのは事実だ。どうにも哀玥は忋抖のことを他者が思うよりも大きく見ている節があるから困ってしまう。
ほんとうに甘いんだよねえ。
やれやれ、とは思うが他愛もない会話が出来る程には藍琳も空の旅を楽しんでくれているようで忋抖も胸を撫で降ろした。流れていく景色に夢中になりすぎて時折哀玥の背から滑り落ちそうになる藍琳の世話を焼きながら翔けること一刻半。倭の国の半ばに差し掛かると樹々の生い茂る中に建つ邸が見えた。空の上からでも数多の妖の気配がしたが哀玥は構うことなく高度を下げて中庭に降り立った。
庭の中では妖達が宴を催していたようだが、突如現れたにも関わらず妖達は忋抖に向かって軽く頭を下げただけで何もないかのように宴を続けている。その様には忋抖もあんぐりと口を開けるしかない。並の妖ならば鬼を見ただけで隠れるか平伏すかのどちらかだ。だが、ここの妖達は鬼が来るのは当然だとでも言っているようにも見えた。そう哀玥に聞きながら背から降りて藍琳に手を貸していると、おやおや、と柔らかな声が聞こえて振り返る。そこにヒトのように衣を身につけた背丈四尺ほどのずんぐりとした蛙の妖が立っていた。
この蛙がそうなのだ、と忋抖が思うよりも先に、少し跳ねるように蛙が忋抖たちに近づいてきた。側まで来た蛙に軽く哀玥が頭を下げると、お久しゅうございますなあ、と目を細めて持っていた煙管を吹かしている。
「哀玥殿、おかわりなきようでよろしゅうござった」
『翁殿も。何かお困りのことなどございませぬか?』
「なんの。ご覧のとおりゆらりゆらりとしておりますれば」
ふぉっふぉっ、と笑うと蛙は忋抖に向き直った。
「これはこれは。旦那様かと見間違うところでございましたぞ。忋抖若君であらせられますな」
忋抖が頷くと細めた目をますます細めながら蛙は、うんうん、と大きな頭を揺らしている。
「ほんによう似ておられる。旦那様が胸を張られるわけですなあ」
「父様が?」
「それはもう。おいでになられる度に若君のお話を愉しそうにされておいででございまして。こうして生きておる内に見えることができ申すなど。ほんに長生きはするものです」
優しい声音と共に蛙は何度もまるで自分に言い聞かせるように頷き続けている。立ち話もなんでございましょう、と縁側に案内されて促がされるままに座ると蛙は、ぴょん、と部屋に入って近くの箱を抱えて戻ってきた。
「しかしまた珍しきお方をお連れになられたものよ」
忋抖の横に座って妖達の宴に目を輝やかせている藍琳をちらりと見やって蛙は持ってきた箱の蓋を取ってから忋抖に渡してきた。中を確かめると3枚の人型が入っている。
「ここの妖は夜の間にだけ集い宴を楽しむモノ。女人の世話が行き届くとは言えませぬ。とはいえ随分と朽ちてきてはおりますが邸には晴明の結界も残っております故、身の危うさはございませんよ」
何か言った訳でもないのに蛙は全てを分かったように語りながら煙管を床に軽く叩きつけて灰を捨てると新しい煙草草を詰めてまた燻らせ始めた。驚いている忋抖とは裏腹に、敵いませぬ、と哀玥は苦笑しながら尾を振っている。哀玥の態度からこれがいつもの蛙なのだろうが、それでも何故という気持ちは残ってしまう。
「なんで何も言ってないのにわかってくれたの?」
忋抖が嘆息すると蛙は、爺でよろしゅうございます、とまた、ふぉっふぉっ、と笑ってみせた。
「長様にも同じようなことを尋ねられたことがございましたなあ。その時にも申し上げたことが懐かしゅうございます。爺のような小物が長生きするには悪知恵を使わねばならぬのですよ。御案じなされずとも置いておかれてよろしい。ほれ、それに若君の御能力をほんの少し流しなされ」
「でも、それじゃ爺が……」
危うくならないか、と聞きたかったのだが蛙は、なんのことはない、と笑うばかりだ。大したことではないと言ってくれてはいるが妖がヒトを匿うのことは殆どない。頼みにきた身ではあるがこれほどすんなりと受け入れて貰えるとは思っていなかったから戸惑ってしまう。けれど蛙は変わらない笑顔で藍琳に声をかけ、名を尋ねて暫く此処で暮らすように話し始めている。藍琳も遠慮しようとしたようだが、当てもないなら此処でよろしい、と押しきられていた。
「ではしばらくの間だけ」
藍琳が礼を言っていると、決まりですな、とますます蛙は笑っている。諦めて忋抖も箱の中から人型を取り出して能力を流す。流したのはほんの僅かであったのに瞬きの間に人型が3人の女官の姿に転じた。
「数百年ぶりではございましたが流石は晴明の残した式ですな。これであれば藍琳殿に不便はかけますまいよ。しかしながら晴明の造ったものとはいえこれほど僅かな御能力でここまでの式に為すことができられるとは。旦那様の話は欲目ではないようですなあ」
紳が此処で蛙にどんな話をしているか気にはなったけれど、今は藍琳のことが先決だ。話の中身は今度尋ねたほうが良いだろう、と忋抖は気持ちを切り変えることにする。
「爺、ほんとうにありがとう。だけどこれで爺に何かあったら母様に合わせる顔がないんだけど。俺に何か出来ることない?」
深々と頭を下げた忋抖の肩に、なんの、と蛙は触れた。
「若君から礼を賜るなど勿体無いこと。それに爺の身には余りあるほどの褒美はもう頂いておるのですよ」
言うと蛙は小さな水掻きの付いた手に持っていた煙管をくるりと廻して忋抖に見せた。漆塗りのどうということのない煙管だと思っていたそれには薄紫の蓮の華が彫られている。それだけでその煙管を贈ったのが悧羅だということが分かる。
「これだけでも有難いことだというのに、長様も旦那様も折を見ては変わりはないかと尋ねにきてくださる。長々と酒も酌み交わすことも多なりました。集うモノたちにもあまりに気安くなさるので妖達も鬼神様を畏ぬようになってしもうてのう。……それもまた爺にとれば夢のような褒美でございましょうや」
蛙の言葉で降りたった時の違和感が、そういうことか、とすとんと胸に落ちた。大恩ある蛙の安らげる場が、悧羅と紳が度々訪れることで乱されないよう二人が心を砕いてきたのだろう。なんとも父母らしくて自然と笑みが零れてしまう。
「でもそれは母様と父様からの礼でしょ?俺だって世話になるんだから何かさせてもらわないと申し訳ないんだけどなあ」
食い下がる忋抖に困ったのか蛙が哀玥を見るが、頑なであられます故、と尾を振られているだけだ。
「若君に見えさせていただけたことだけで爺にとれば褒美でありますからなあ」
少しばかり考えるように蛙は言ってくれるが、無理とも思えたことを快く受け入れてくれたのだ。何か蛙が喜ぶことを叶えなければ忋抖の気持ちも落ち着かない。しばらく考えていた蛙は変わらずに煙管をふかしながら忋抖の目の前で水掻きのついた短い指を立ててみせた。
「ではこう致すとしましょう。少しばかり前に旦那様が持ってきてくださった酒が大変美味うございましてな。旦那様のお気に入りのようであれをもう一度と願うておるのですが、とんと持ってきてくださらん。それで爺と呑んでくださいますかな?……それに長様のお好きな揚饅頭もあれば尚よろしい」
「そんなんでいいなら山程持ってくるけど」
「それで充分。若君とまで酒を酌み交わせるなど誉の至りですのでな。……さあ、そろそろお戻りにならねば長様が淋しゅうなられますぞ?」
揶揄いながらも忋抖の身を案じてくれているのが背中を叩いた小さな手から充分に伝わって、忋抖も哀玥もそれに従うことにする。体躯を大きくし始めた哀玥を見て、既に女官達に腕を掴まれて部屋の奥に連れていかれようとしていた藍琳が、妖様、と声をあげた。
「すぐにまた来るから。少しの間ゆっくりしてて」
縁側まで小走りで近づいてきた藍琳が心細そうに頷いた。
「それとまだ無理しちゃ駄目だからね?先刻も言ったけど癒しの術は得意じゃないから、痛みがあるだろう?しばらくはゆっくり休むんだよ」
くしゃりと頭を撫でてやると、はい、と藍琳が応えた。
「ほんとうにありがとうございました。妖様、哀玥様。どうかお気をつけて」
祈るように手を合わせた藍琳の頭をぽんぽんと優しく叩いてから、忋抖だ、と伝えてみる。きょとりとした藍琳に忋抖も知らず内に笑顔になってしまう。
「だから名だよ。妖様じゃあなくて忋抖」
「……忋抖……様……?」
「うん。哀玥だけ名を呼んでもらえてるのもなんだかね。ちゃんと俺の名も呼んでくれると嬉しいんだけどな」
もう一度頭を撫でながら忋抖は何の気なしに願ってみたのだが、目の前の藍琳は突如顔を朱に染めて俯いてしまった。あれ?、と忋抖が顔を覗きこもうとしたが、見える前に藍琳が両手で顔を隠してしまう。
「藍琳、どうしたの?」
「いえ……、その……、なんでもございませんので……。……どうかお気をつけてお戻りくださいませ……、忋抖様……」
顔を隠したままの藍琳の手を外そうと手を伸ばしたが、背後から衣を引かれて動きを阻まれた。顔だけで振り向くと哀玥が衣を咥えている。
「なに?哀玥?どうしたの?」
きょとんとした忋抖に哀玥は大きな嘆息を投げた。
『……ほんに若君は……。まずは戻らねばなりませぬ故、とにかく今は背にお乗りを』
一度離した衣をもう一度咥えて急かす哀玥と、何が何やら分からないでいる忋抖に蛙も堪えきれずに笑い出す。お早く、と更に急かされて渋々背に乗った忋抖を確かめて、では、と翔けだした哀玥に蛙の声が届いた。
「哀玥殿、長様によろしゅうお伝えくだされ」
ともすれば只の口上にとれるその意味は哀玥には正しく捉えることができる。
それは哀玥も気づいたことだったから。
だが、それをどのようにして悧羅に伝えるべきかが悩ましいだけであって。
「ねえ、なんで今更そんなに急くんだよ?ねえ、哀玥ってば」
どうやら哀玥が考える刻は今この刻にはないようだ。背の上から、どうかしたの?、と幾度も尋ねられては考えることもできない。何より今は時に無垢になる大切な鬼神を宥める方が先にしなければならないことのようだった。
『若君、約定の一刻がとうに過ぎておられることをお忘れではございませんか?』
「ええ?ほんとうにそんな今更なことなの?」
もう、と嘆息した忋抖の顔は見えなくとも童のように頬を膨らませている姿が思い描けて哀玥はつい可笑しくなってしまった。
『そのようなことではございませんよ?小生との約定を違えられることを若君は善と為さいましょうか?』
「それは駄目だし嫌だよ。哀玥が哀しんじゃう」
『そうでございましょう。であればしっかと背に乗っておいでになられますよう。門を潜って戻りましょうや』
くすくすと笑い続けている哀玥に上手く言いくるめられたようにも思えたが、分かった、と忋抖も頷いた。
「じゃあ宮についたらいつものように一緒に寝ようよ。哀玥にも無理させちゃったから疲れたろう?ごめんな」
ぽんぽんと体躯を叩いて忋抖から労られて、ますます哀玥は笑えてしまった。
『若君がお望みになられるのでしたら、そうでございますね。いつものように休むことと致しましょう』
開けた門を潜りながら哀玥が是を示すと、やったね、と忋抖の嬉しそうな声がした。その声を聞きながら、どうか、と哀玥は願わずにはいられなかった。
どうか自分の上で無邪気に笑っている忋抖が哀しむことのないように。
どうか涙で笑顔が曇ることのないように。
どうか、と哀玥は届くとも知れない願いを繰り返した。
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